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最近の記事
04/11 第五のがん治療「光免疫療法」
03/28 喜寿を迎えて
03/17 北部圏域ネットワーク(医療・介護連携)会議に出席して
02/23 「遺憾」って何?
02/12 最近の出来事
外部グログ

大先生(元院長)のブログ

第五のがん治療「光免疫療法」

 私が毎月購読している月刊「致知」5月号のテーマは「倦(う)まず弛(たゆ)まず」でトップ記事にアメリカ国立衛生研究所主任研究員小林久骼≠ニSBIホールディングス会長兼社長の北尾吉孝氏の「人類の未来を拓くがん治療への挑戦」と題した対談記事が掲載されていた。
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 恥ずかしいことであるが私は医療従事者にもかかわらずこの「光免疫療法」は全く知らなかった。がんの治療と言えば「外科手術」、「抗がん剤」、「放射線治療」の三大治療が有ることは大学でも習った。しかし最近はノーベル・生理学賞を受賞された本庶佑先生の開発されたがん治療の新薬「オプジーボ」を始めとする第四の治療として「免疫療法」が行われてきている事までは理解していた。しかし「光免疫療法」は知らなかった。
 小林久隆氏の説明を引用すると
『従来のがん治療は外科手術、抗がん剤、放射線の三大治療と呼ばれるものですが、これらはがんだけでなく、正常な細胞や臓器にもダメージを受けてしまうデメリットが有りました。それに対して光免疫療法は正常な部分をほとんど傷つけず、光を使ってがん細胞だけを壊します。
 それがどうして可能になるかと言うと、先ほど北尾社長がおっしゃった通り、鍵を握るのはIR700という化学物質と近赤外線です。近赤外線は身近なところではテレビのリモコンにも使われているような無害安全な種類の光。IR700は道路標識や東海道新幹線の車体の青色に使われているフタロシアニンという色素を水溶性にしたもの。
 がん細胞の表面には他の正常細胞にはない特有のタンパク質(がん抗原)が数多く存在していて、そのがん抗原と結合するタンパク質(抗体)にIR700をくっつけます。この複合体をナノ・ダイナマイトと呼んでいるのですが、それを薬剤として点滴投与します。体内のがん細胞と結合した後、直径1ミリの光ファイバーを患部に刺し込み、近赤外線を数分間照射するとIR700が化学反応を起こし、結合している抗体の形状を物理的に変化させることでがん細胞の細胞膜に無数の穴が開きがん細胞が内部破裂していく。
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 がん細胞だけを破壊するというのは実は前段階の働きです。次の段階として、がん細胞が死んだという情報が免疫システムに伝わり、周辺の免疫細胞が活性化し、がん細胞に対してさらなる攻撃を開始します。
 先ほど近赤外線を照射することで細胞膜に穴が開くと言いましたが、これがすごく重要なんです。細胞膜が壊れるだけで核や細胞質といった中身は綺麗に残っている。その中身が一斉に放出されると、何が起きるか。周辺にいる免疫細胞が壊れたがん細胞の中身をパクパク食べるように消化・分解し始め、がん細胞の情報を取り込むんです。それによって、とらえ損ねた微少ながん細胞や転移がん、今後新たに生まれてくるがん細胞を攻撃することができます。
 分かりやすく言えばがん治療は戦争と同じで、敵(がん細胞)を減らして味方(免疫細胞)を増やせば勝つ。従来の三大治療は敵を減らすことはできるけど、同時に味方も減らしてしまう。オプジーボをはじめ「第四の治療」である免疫療法は、味方を増やせても敵を減らすことはできない。
 それに対して「第五の治療」と呼ばれる光免疫療法は敵を減らして味方を増やすことができる、従来とは全く一線を画す治療法だとご理解いただけると嬉しいです。』引用ここまで。
 現在この療法は2020年9月に光免疫療法に使われる新薬『アキャルックス点滴静注』の製造販売及びレーザー光照射による治療が、世界に先駆けて日本の厚労省で承認され2021年1月に保険適用が始まった。ただし頭頸部がんが再発し従来の治療が効かなくなった患者さんが対象という条件付きである。今後さらに研究が進展し、保険適応拡大が進めば8〜9割の固形がんは治るのでは無いかと考えられている。ノーベル賞級の世紀の大発見である。
 ところでこの開発にはまさに今月号のテーマである「倦まず弛まず」がピッタリのような小林先生の生き方が載っていた。「倦まず」は「飽きない」、「弛まず」は「心を緩めない」と言うことであり、一つのことを始めたら途中でいやになって投げ出したりしない。孜々(しし)として努力を続ける。その大事さを表した言葉である。
寝る時間以外は仕事を続け、並々ならぬ努力と覚悟があったこと、信念を持って突き進んだ経緯が語られていた。とても私には真似できないことである。昨今の「働き方改革」などと騒いでいたらこの偉業は達成されなかったとおもう。大いに感動した。

2024年04月11日

喜寿を迎えて

 3月25日に私は喜寿を迎えた。同級生の家内も今月少し前に喜寿を迎えた。2年前から高等学校の同窓会で喜寿のお祝い会が2回も行われたが、全く現実味が無かった。しかし実際に喜寿を迎えてやっとそうなのだと思った。
 誕生日の前の日に次男一家が食事会をしてくれた。昨年は広島の「なかしま」だったが今年は長江通りにある「鮨 やくしどう』であった。ここは昔『由良や』というふぐ料理のお店屋さんだったが閉店されしばらく空き家となっていた。大将に伺うと一昨年4月に開業したが昨年2月1日から4月28日間で一時休業して昨年4月29日から再オープンしたとのこと、また大将は東京の人でスカウトされ東京から移住をしてきたとのお話であった。尾道の活性化に一役買っていただいている。有難いことである。
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 私にとって料理はすごく洗練されており、使用するお酢は尾道造酢製だとのこと。寿司飯の量は普通のにぎり寿司の1/4程度でほんとに一口サイズのようで有った。ネタには近海の魚(尾道産のたこ、鯛)も有るし函館のウニや宮城のホタテなど厳選してあった。
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一晩8人までの限定で18時からスタートした。当日は我々家族5人ともう一組2人の計7名であった。
私は美味しいお寿司にビールを2杯と日本酒1合を飲んで大満足であった。
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 食事会が終わりに近づいたとき次男一家から喜寿のお祝いだと言って孫娘が代表で私にネクタイ、家内に帽子のプレゼントを渡してくれた。突然のことで私も家内もおお喜び。
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 沖縄の長男一家からは家内の誕生日と私の誕生日にそれぞれお手紙とお花が届いた。そして誕生日には孫たちも含めて電話で話が出来た。
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 ところで77歳の喜寿という節目のため尾道市歯科医師会からお祝いの金一封3万円を頂いた。これは歯科医師会の共済規程のお祝いの項に記されているのだが、それによると60歳の還暦、77歳の喜寿、88歳の米寿、99歳の白寿に祝意を表し、慶祝金を贈ると書かれている。99歳以上のお祝いの規定は無いのだが、もしも私が長生きしたら何か頂けるのかな。私の両親はどちらも満88歳であの世に旅立ったが、両親の遺伝子を受け継いで丈夫に育ててもらった以上、88歳は優に超えないと両親に申し訳ないと思っている。
 なお私が尾道市歯科医師会に入会して以来100歳を超えられた先生方はいらっしゃらない。記録を打ち立てたいものだ。
頂いたお金は家内と分け合った。

2024年03月28日

北部圏域ネットワーク(医療・介護連携)会議に出席して

 先日コロナ禍で休会になっていた会議が3年振りに再開され出席した。尾道市には7圏域ネットワークがあり、北部は尾道市美ノ郷町・原田町・御調町が対象区域である。今回は42名の出席があり、メンバーは医師・歯科医師・薬剤師・民生委員・居宅介護支援事業所・老健施設・訪問看護ステーション・グループホーム・デイサービス事業所等の方々であった。
 まず本多会長の挨拶に続き尾道市健康推進課より保険事業と介護予防の一体的事業と言うことで「尾道市服薬情報通知事業」について報告があった。
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これは後期高齢者(75歳以上)の薬剤レセプト等4ヶ月分を調べ、重複投薬者(同じ薬効の薬が重複処方されている人)や多剤投薬者(6剤以上の薬を処方されている人)を抽出し、服薬指導・服薬支援につなげることで、残薬を減らすとともに、転倒などの薬物有害事象を防止すること目的に行ったとのこと。そして抽出された方には健康推進課から通知書を発送し、その通知書とお薬手帳をもって早めに「かかりつけの薬局」などで相談する様に促した。その結果令和4年度では重複投薬者527人中335人(63.6%)に、また多剤投薬者2650人中740人(27.9%)に改善が見られたとのこと。
私も日頃、抜歯をするとき必ずお薬手帳を見せて貰うようにしているが、多剤投薬者は結構いらっしゃるのでこういう取り組みが行われていることに安堵した。
 次にフレイル予防について6グループに分かれ各グループで事例検討会を行った。
事例は以下に示すようなものである。
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@ この事例の中で気になるのはないかということについて話し合う。
家族の関わりの程度がどうなのか、右肩骨折で右の腕の機能はどうなのか?3食を誰が用意をするのか? タクシーでの通院(家族の付き添いはないのか?) やせたような感じ→食べる能力の低下? 右肩骨折で足ではないのに出かけることが少なくなっているのは何故なのか、今まで地域のサロンなどにも参加されていたが、誘ってくれる友達はいないのか?等、多くの意見が出た。
そしてこの事例はまさにフレイル(虚弱)に進む1歩手前であると思った。
 一般的にフレイルドミノの入り口は、外出しなくなったり、人付き合いが無くなり社会性が失われる社会的フレイルからスタートし、次に歯を失ったり、入れ歯が合わなくなって、食べこぼし、わずかなむせ、噛めない食品の増加、口の乾燥、滑舌低下と言った口腔機能の低下が現れ食事が取りづらくなりオーラルフレイルに進む。そして食事が取れないと低栄養となり筋力低下を来たし、運動能力低下へと進み身体的フレイルとなる。これがフレイルサイクルを形成し要介護状態に移行し寝たきりになる。
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歯科医師の立場からいえばオーラルフレイルになることをいかに阻止するかその進行をいかに遅くするかが重要な仕事だと感じている。
次にこの事例で  
A もし提案できるとしたらどの様なものがありますかについても話し合う。
ご家族のお話を聞く、民生委員に相談する。サロンに通っていたのでその時親しかった人等に声がけをして外出する様にうながして貰う。等、等多くの意見が出された。
ところでこの話し合いの中でふと自分もいい年なのでこのような事態に何時なるとも限らない。今は妻と二人で生活が出来ているが仮に妻が倒れたらたちまち食事はどうすれば良いのか考えてしまう。食後の茶碗洗いはするが、食事の作り方は全く知らない。少し料理が出来るように練習しないといけないのかな。
 その後、尾道市地域包括ケア連絡協議会 地域包括ケア推進部会の沖田部会長より、この事例のまとめをしていただき、尾道市が進めている「でたもん勝ち」というキャッチフレーズの「シルバーリハビリ体操」についての紹介があった。
包括支援センターが作成した「おのみち元気づくりマップ北部圏域」と言うパンフレットが配布されたがこの裏にフレイル予防のポイントが記されている。
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最後にこの会の副会長をしている私が閉会の挨拶をして無事終わった。

2024年03月17日

「遺憾」って何?

 いつも思っていたことだが、政治家や会社の経営者などが何か不祥事があると謝罪・説明の時に決まって「遺憾です」というのをよく聞いていた。聞くたびその言葉になにか違和感を持っていたが、毎月購読している「致知」3月号の風の便りという記事に占部賢志(中村学園大学客員教授)氏の「目立つ面妖な言葉と話法」いう記事をよんで合点がいった。
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転載させて貰うと
[ 口を開けば「遺憾」?
近年、政治家や各界のトップが記者会見などで、「遺憾」の語を多用するケースが目立ちます。しかし耳にするたびに、何に対してどんな思いを伝えようとしているのかがはっきりしないことが多い。
 たとえば自党や自社に不祥事があったときに、「この様な事態を招いて遺憾の意を表する」と陳謝するかと思えば、北朝鮮のミサイル発射や中国公船の領海侵犯に対しても「まことに遺憾だ」などと口にする。
このように、あるときはお詫び、またあるときは抗議にも用いる。何と都合の言い使い方でしょう。
 そもそも、遺憾は「残念」とか「心残り」という意味であって、お詫びの意味はない。ですから、会見でいくら遺憾の意を表明したところで、謝罪したことにはならないのです。 
語源を訪ねてみれば・・・
 では語源をみてみましょう。使われ始めたのは室町から江戸にかけての頃。織田信長の伝記『信長公記』を加筆修正した『信長記』(江戸時代初期)の中に用例が出てきます。その端書きに、前書には功績のあった人物が洩れていたので、「遺憾」に思って加筆した旨の記述が見える。「残念に思って」の意であることはあきらかです。
 ところが今日では、本来の意味や用法とは異なる物言いに重宝される。辞書編集者の神永暁氏によれば、敗戦後の国会の会議録に抗議の意味での使用例が散見されるそうです。そうだとすれば、この都合よく使える表現は政治家や答弁作成担当の官僚あたりがこしらえたものと断じていい。発言を曖昧にしておくにはうってつけ。なるほど彼らが頻用するはずです。]  引用ここまで。
 やっと胸のつかえが下りた感じがした。しかし北朝鮮のミサイル発射や中国公船の領海侵入対しては全くもって抗議になっていない。断固反対する強い表現をしないと彼らにとって日本政府が「遺憾」だといってもその意味が「残念である」ならば痛くもなければ痒くもない。だから毎日のように中国の公船が侵入してくる。外務省を始め政治家は日本の国や国民を本気で守ろうとしているのか疑いたくなる。
 外務省や政治家に強い反省を望むと思っていた矢先、2月21日に韓国がいわゆる元徴用工訴訟を巡り日立造船が韓国裁判所に預けた供託金が原告側に支給された件で厳重抗議したと林官房長官がTVのニュースで述べていたがその時も「極めて遺憾である」と発言した。
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 翌日の産経新聞には「日韓請求権協定に反する判決に基づき、日本企業に不当な利益を負わせるもので極めて遺憾だと外務省の岡野正敬事務次官が韓国の駐日大使を外務省に呼んで伝えた」と記事が載っていた。全く駄目であるなぜ本気度を示す言葉を使わないのか? 弱腰の日本外交であるから竹島も帰ってこないし、慰安婦問題も解決しないのである。反省しろと言いたくなる。
 

2024年02月23日

最近の出来事

 先日、尾道在住の画家「わしおさむ」氏に「さいだ歯科医院」の絵を画いて貰った。12月に家内が市内で画伯の作品展をたまたま観たのがきっかけである。1月30日に完成した絵が届けられた。早速待合室の壁に飾った。
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ところが不思議なもので翌1月31日の尾道新聞一面の下段に「向島ドック株式会社」の広告が掲載されていたが、何とそれに「わしおさむ」氏の絵が使用されていてびっくりした。
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 ところで「わしおさむ」氏は彼が小学生の頃からの「さいだ歯科医院」の患者様であり彼の父親と私は高校生の時の同級生であり不思議なご縁で繋がっているなと思った。 
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 2月になりそろそろ春の農作業にとり掛からなくてはと思い、昨年9月の終わりから10月初めに種をまいた大根が4本ほど残っていたのでそれらを抜いたところ1本が面白い形をしていた。通常真っ直ぐな1本の大根が三っに分かれておりその格好が何ともエロチックで男性の下半身にそっくりで立派な一物には驚かされた。昨日枯れ枝・枯れ草などを片付けて農作業の準備が少し出来た。先ずはジャガイモの植えつけからかな?
 2月10日(土曜)に5年半振りに広島県歯科医師会主催の「第21回永在会」が広島で開催された。この会は満70歳以上の会員を対象にした先達の先生方の旧交を温めていただくことは勿論のこと、執行部あるいは地区歯科医師会に貴重なご意見やご要望を賜ることを目的に隔年の開催としている。ところが新型コロナウイルスの影響により止む無く中止が続いていたが、やっと今年度5年半振りに開催された。
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場所は広島市東区二葉の里にあるI羽根神社横の「料亭二葉」で開催された。新幹線の
都合で少し早めに着いたので神社にお参りをした。そう言えばこのI羽根神社は昔孫娘の百日のお詣りをしたことがあったのを思い出した。その後会場に向かう。今日の永在会
の出席者は87人であった。
 15時より開式となり県歯会長挨拶の後、この5年半の間に亡くなられた物故者に黙祷を献げる。物故者名簿が配布されていたので見ると懐かしい人達の名前も多くあり、最高齢は105歳で亡くなられていた。また若い人では70歳で永在会に入会されてすぐに亡くなられた先生もいらっしゃった。
70歳を超えた場合の寿命はどの位か気になって、物故者の平均寿命を計算したら84.09歳であった。女性の先生方5人含まれているが概ね男性の平均寿命を少し上回っている。私にとってはあと7年ちょっとという数字である。
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 その後、余興として落語の講演会があり前座を「桂 ひな太郎」師匠が勤めた。成年後見制度の話と太鼓持ちの話であった。つぎに「桂 文楽」師匠でお題は良く解らないが酔っ払った旦那と奥方の掛合いで非常に面白く、大いに笑わせて貰って楽しんだ。
そして16時15分頃より二人の師匠も参加されての会食となった。
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本当に久しぶりにお会いする先生方とお話が出来て楽しかった。無事18時に散会となった。

2024年02月12日

ささやかな社会貢献に気が付く

 2月になると税金の青色申告の準備が始まる。先日、尾道市市役所より収納済額についてのお知らせが届いた。開封してみると介護保険料と後期高齢者医療保険料の納付済み金額が記載されていた。介護保険は年金から天引きされ、後期高齢者医療保険料は銀行口座振替で引き落とされている。日頃気にしていなかったが、改めて見てみると介護保険料が150,200円、後期高齢者医療保険は660,000円であった。
 その後1週間ほどして広島県後期高齢者医療広域連合 業務課から医療費のお知らせが届いた。それには令和5年1月から令和5年10月までの医療費が記載されていた。
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私は日頃、内科と眼科と泌尿器科に掛かっている。内科は睡眠導入剤を貰うために行くが、その導入剤も1日分を4等分して飲んでいるので4ヶ月に一度の割合である。眼科は緑内障のため2〜3ヶ月に一回受診する。そして泌尿器科は前立腺の状態を観察して貰うため半年に1回診察をして貰っているが、これも先月の検診でPSAデーターが正常に戻り、1年に一回で良くなった。
 10月までの医療費合計は51,640円で、窓口負担は3割で15,492円であった。青色申告のため11月分と12月分の医療費を領収書から計算すると2ヶ月分で医療費が10,910円で窓口負担は3,270円であった。結局私は1年間に医療費として62,550円を使用し、そのうち自己負担として18,762円を払ったので差し引き43,788円を保険料から消費したことになる。
 保険料として支払った660,000円から43,788円を差し引くと616,212円の黒字となっている。この金額が他の人達の医療費として賄われ、お役に立っている。また介護保険は一度も利用したことが無いので、未使用分の医療保険と介護保険料合わせて766,412円がささやかな社会貢献料となった。今までこの様な見方、とらえ方をしていなかったので気が付かなかったが、私が元気で働いていることが社会の為になっている事を実感した。
歯科医師として日頃、地域の人々のお役に立っているだろうとは思っていたが、まさかこの様な形でお役に立てていたとはびっくりである。
 ただし今後私が病に倒れたり、介護が必要になった時は人様にご迷惑をかけることになる。最後までピンピンコロリで行けるように気をつけて生活をしていこうと改めて思った。

2024年02月01日

寒波襲来

 数日前からTVの天気予報などで今年一番の寒波がやってくると報じられていた。1月23日はここ三成でも日中に少し雪が舞った。そして夕刻から冷えだし、夜のTVニュースでは安芸高田市、北広島町に大雪警報が出たと字幕スーパーで報道された。スマホの天気予報で尾道の気温を見ると24日の朝5時〜7時くらいはマイナス3℃と表示されていた。
翌24日朝いつものようにウオーキングのため5時前に起床するとスマホ画面がマイナス2℃となっていた。着替えて歩きに出たところ外にうっすらと雪が積もっており、歩くとさくさくとした音がした。8q程歩いたが、路面が凍り付いていて何度か足が滑りそうになった。海辺でこの程度の雪なら、9キロメートル北にある診療所ではかなり雪が降って積もっているのでは無いかと思いながら出勤したところ、三成はほとんど雪が降った形跡が無くがっかり。
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 ところで年末にも寒波が来たせいで、畑に植えていたキンカンの実が霜にやられて全部枯れて真っ白になっている。また山椒の葉っぱも全部枯れている。一方大根とタマネギは霜にもやられず元気に育っている。
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 そんな中でも南高梅の白い花が咲き出し気持ちを慰めてくれる。寒波襲来で確かに日頃より寒さがきつく、今日は背中にカイロを貼って仕事をしている。
夕方少し雪が舞ったが積もりはしなかった。
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 ふと北海道時代の事を思い出した。私は昭和53年4月からから59年11月まで北海道に住んでいた。というのも歯科医になろうと急に思い立ち、会社を退職し急遽大学受験をして東日本学園大学歯学部〔現在北海道医療大学〕に入学した。最初の2年は釧路の西40キロの白糠町に住んでいた。ここはあまり雪が降らないところであるが寒さは超一級で有る。マイナス20℃なんて当たり前、外に出ると顔が針でちくちく刺されるように痛かった。TVの天気予報を観ると釧路がマイナス20℃の時沖縄の那覇がプラス20℃で北と南の差が40℃もあることに驚いたことを思い出した。また歩いて2分ほどの所に銭湯があったが風呂から上がって家まで歩いて帰ると髪の毛がカチカチになっていた。小学校の校庭は屋外スケートリンクになる。我が子もそこで滑ったりしていた。
 2年後教養課程から歯学課程に移行するため札幌から東26キロにある当別町に引っ越しした。ここも寒いが釧路程では無く日本海側で雪が多く札沼線(現在は学園都市線)が時々大雪のため運休すると大学は臨時休校になる。そのようなときは夜でも屋根に上がり雪下ろしをしたりしていた。
 また北海道では冬、毎晩水道の水を落として水道管の中を空にしないと水道管が破裂して大変な事になる。たまたまテーブルの上に急須のお茶を入れたまま2日ほど家を空けた事があるが、帰宅するとお茶が凍って膨張し急須が割れていた事もあった。さらに面白い経験としては当時ほとんどの家は水洗便所では無く、所謂「ぼっとん便所」であった。冬大便をしてお尻を拭いてトイレットペーパーを便器に落とすとそれが凍る。次に同じ事をすると大便がその上に重なり、積もってタケノコの様に伸びてくる。60p位伸びるとお尻に当たりそうになるので、時々竹の棒で押し込んだりした事を思い出した。
 そんな経験をしたが北海道を離れて40年ほど経つと全くそのようなことは忘れて寒い寒いと言っている自分に驚く。体が楽な方になれてしまったのであろうがたまには過去を振り返ってみるのも面白いことに気がついた。

2024年01月25日

2023年から2024年へ

 12月29日の午後から年末年始の休暇に入り、やっと今年も無事仕事が終わったとほっとする。年末の大掃除をかねてまず自分の部屋を片付ける。多くのがらくたが山積みとなっており、確認しながら捨てていった。30日夜には家族ぐるみでお付合いをしているS様のお宅ですき焼きを食べながら忘年会をした。お互いなんとか元気で無事1年が過ごせたことに感謝した。
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 翌31日、昼前にお墓参りをする。墓所に行く途中、黄色い南天を見つけて写真を撮る。通常は赤い実だのにめずらしい。午後少し本を読み、夜は恒例のNHK紅白歌合戦を少し観る。23:30過ぎから外に出て除夜の鐘を聞く。ここ2〜3年はコロナのせいもあって、ほとんど鐘の音はしなかったが、今年は裏のお寺さんの鐘の他に、尾道駅方面からも鐘の音が聞こえて来た。音の響き、高さなどから耳を澄ませば4カ所くらいの鐘の音が聞こえた。零時半頃には床につく。
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 翌朝、元日は昨夜寝るのが遅かったので朝のウォーキングはしないで、毎年行く尾道西消防署前の岸壁で初日の出を観た。晴れて風も無く本当に穏やかな朝でこのような穏やかな日々が続くように手を合わせて拝んだ。まさか夕方に能登半島地震が発生するとは知るよしも無い。昼前に次男一家が新年の挨拶に来た。その後年賀状を確認し、出しそびれた方に印刷して本局まで歩いて出しに行く。朝のウオーキング分を少し取り戻した。
 帰って夕食まで少し本を読もうとしかけたところ急に携帯の緊急警報が鳴る。すぐNHKのTVをつけると石川県能登半島で地震発生、津波警報が出される。志賀町で震度7と報道していた。東日本大震災並と思った。NHKも民法も全部特別放送に切り替わり、お正月の特別番組は全部カットされた。いずれどこかで放送されるのだろうが。それにしても石川県は祖父の出身地で特別の思い入れがありTV画面に釘付けで観ていた。
ただ情報が少なくて被害程度が解らない。朝の穏やかさは何処に行ったのかと思った。
 2日もNHKは朝から一日中報道番組をしていた。民放は一部報道番組も放送をしていが多くは正月番組となっていた。私は箱根駅伝を観ながら時々NHKにチャンネルを変えたりしていた。往路は青山学院大学が優勝した。
 少し被害状況が見えてきた。そんな中、夕方突然、羽田空港で事故発生、JALの札幌発羽田行きのJAL―A350が海上保安庁の飛行機と滑走路場で衝突炎上した。JAL機が着陸してすぐさま海保機とぶつかり火だるまになりながら滑走路を走る様子が繰り返し放送されていたがすさまじかった。乗客乗員379人が奇跡的に脱出に成功、その間18分とのこと。乗務員による誘導は見事で海外メディアでも賞賛されていた。一方海保には6人が乗り込んでいたが、機長が重症ながら一人助かった。海保の飛行機は地震の被災地に物資を運ぶ途中だったとのこと。報道番組は地震とJALの事故の放送を代わる代わるやっていた。地震は天災だがJAL機の事故はおそらく人災であろう。翌3日の新聞には1面トップで載っていた。(2日は新聞休刊日)
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 この日もNHKは夜九時まで報道番組をしていたが民放はほぼ通常放送になっていた。私は昨日と同様箱根駅伝を観ながら時折NHKに替えてみた。駅伝は青山学院大学が新記録で総合優勝をしていた。青学の8区を走り区間賞を取った塩出翔太選手は尾道市出身(栗原北小・栗原中学〔私の母校〕)で世羅高校出身だったのでより応援をした。
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 4日は年末年始休暇の最終日だったが少しゆっくりした。能登半島地震の被害がだいぶ明らかになり、死者数も増えて84人(6日時点で死者126人、安否不明210人)まだ多くの行方不明者がいるとのこと、道路が寸断され孤立している地域もあるとか?これから復興するにしても人手が不足するし、お金も多く掛かるだろう。万博などやっている暇は無いだろうに、会場を造る人達を復興に回すべきでは無いだろうか、これからは人件費も資材費もどんどん高騰する。その分税金投入額も増えるのでは無いか、それならばその分を復興に回すのが妥当では無いだろうか? 

 
 ところで昨年10月にダイレクト出版社が発行する「ルネサンス vol.15号 2023.10.23発行」は「医療・環境・地震予知 嘘だらけの科学者たち」と題して特集記事が組まれていた。このルネサンスは定期刊行物ではないが年に2〜4回不定期に発行されており、毎回取り寄せて読んでいる。たまたまこの地震の前に記事を読んでいたので紹介する。
 武蔵野学院大学特任教授で地震学者の島村英紀先生が「利権化した『地震予知』国策がむしろ地震・津波被害を広げる」と題して書いておられる。購入してすぐ読んだとき日本の国は一体どうなっているのと思い憤慨したが、今改めて読むと怒りさえ覚える。
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 内容をかいつまんで書き出すと、日本で地震予知計画が1965年に立ち上がり研究が始まって半世紀を超えたが地震予知に一度も成功したことは無く、記録は日々更新されている。1978年に「地震予知が可能だ」という前提で作られた「大規模地震対策特別法」(大震法)は地震の予知が実際には現実的でないということから、数年前に「見直し」の声が高まったが結局、政府はいまだに変更も取り下げもしていない。
 地震学会という組織があり、任意団体ではあるが3000人近い会員がいる。多くは地震研究者やそのタマゴ、それに気象庁など地震関係のお役人でさすが地震国・日本、地震学者の数は多い。しかも研究予算のほとんどを国費に頼っている為、地震学者は「御用学者」になる宿命にあり、政府の意向に沿ったことしか言わない。地震予知研究が世界的に暗転していったときにも、地震予知研究について、学会として議論をしたことも意見を表明したことも一度も無い。学者の仲良しクラブに成り下がっている。
 2004年に著者(島村英紀先生)は『公認「地震予知」を疑う』で地震を巡る政・官・学のあきれる歴史を述べたところ学会より相手にされなくなり、さらに冤罪で逮捕され半年間拘置所で拘留されたとのこと。1999年に世界でもっとも権威がある英国の科学雑誌「ネイチャー」が「地震予知は可能か」ということについて公開討論会を実施した。しかし不可解なことに、世界でもっとも多くの研究予算を使っている、突出した「予知大国」日本からは誰も参加しなかった。日本は説明責任を放棄し「敵前逃亡」したのである。「ネイチャー」誌の結論は、「一般の人が期待するような地震予知はほとんど不可能で有り、本気で科学として研究するには値しない」と言う物であった。
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しかし日本政府の説明では、一般的には地震予知は実用段階ではないが、東海地震(南海トラフの一部)だけは予知が可能だということになっている。かくて「大震法」(大規模地震対策特別法)がつくられた。阪神淡路大震災、東日本大震災以後もこの説明は変わっていない。これは地震学者にとってかなり不思議なことだ。東海地震だけが他の地震と違う起こり方をしたり、東海地震だけが特別の前兆が出ることは、学問的には考えられないからだ。
 地震が起こると地震警戒警報が発令され携帯で知らせてくれるが、これは地震予知では無い。あくまで地震が発生して震源近くの地震計が揺れてからコンピューターが計算し各地の揺れを知らせてくれる。しかし震源地では警戒警報が出た頃にはすでに被害が発生している。今回の能登半島地震でも津波警報が出されたが、震源地近くではすでに津波は到達している模様と放送されていた。これらは予知にあらず。研究開始からすでに1兆円近くの予算がつぎ込まれているが、今回の能登半島地震を契機にそろそろどうするかを考えて貰いたいものである。再度この記事を読んで本当に情けなくなった。

 令和6年能登半島地震によりお亡くなりになられた方のご冥福をお祈りすると共に、被害を受けられた皆様に心よりお見舞い申し上げます。またインフラなどの復旧が早く進み、被災者の皆様が一刻も早く日常生活が取り戻せることをただただ願うばかりです。

2024年01月07日

寿命中位数

 「寿命中位数」、聞き慣れない言葉である。私は来春には喜寿を迎えるが、最近新聞・TVで「人生百年時代」という言葉を良く見聞きする。そして毎日多くの人を診療しているが、私と同年齢もしくはそれ以上の年齢の人を見ると所作や歩き方などから年相応なのか若いのか等を想像してしまう。90歳を超えてまだはつらつとしている人には素晴らしいと思い、日頃どの様な生活リズムで過ごされているのか聴いてみたくなったりする。
 私の両親は二人とも88歳で身罷った。せめてその年までは元気で生きなくてはせっかく丈夫な体に生んでくれた両親に申し訳ないと思う。
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 ところで先日、毎月購読している「致知」12月号を読んでいたところ社会教育家の田中真澄氏が「人生百年時代を生きる心得」と題して連載を執筆しておられる。12月号は「オンリーワンの存在価値を目指して生きる」と題して書かれた記事の中にこの言葉があった。
引用させて貰うと、『厚生労働省は毎年7月に国民の「平均寿命」や「寿命中位数等生命表上の生存状況」を公表しています。前者は多くの人の知るところですが、後者はさほど知られていません。「寿命中位数」とは同じ年に生まれた出生者の生存数が半数となる年齢のことであり、「生存状況」とは、同年齢者が何歳まで生きるかを示す生存率値です。
直近で発表された2022年の数値は、同じ年の人が半数になるのは男性が83.93歳、女性は89.96歳でした。また90歳時点での生存率は男性25.5%、女性49.8%。同じく95歳では男性8.7%、女性25.0%となっています。つまり現時点で男性の約1割、女性の4人に1人は95歳以上まで生存しており、しかもその率は概ね上昇傾向にあるのです。「人生百年」の時代はもうとっくに始まっていると申せましょう。』引用ここまで。
なお2022年の平均寿命は男性で81.47歳女性で87.57歳である。
私が寿命中位数に達するのには後7年ちょっと、平均寿命までなら後4.8年ほどである。しかしこればっかりは判らない。最近小・中・高の同級生の訃報をよく耳にするようになった。せめて「寿命中位数」を超えるまでは生きていたいと思う。そのためにも生活リズムには注意を払っていこう。
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 ところでこの致知12月号には他に生・死に関する記事が2編掲載されていた。
一つは「人生を照らす言葉」と題して連載167回をほこる国際コミュニオン学会名誉会長で、もと聖心女子大学教授の鈴木秀子氏のコラムで河井酔茗の「ゆずり葉」という詩が紹介されていた。『私たちの命は親から子、子から孫へと受け継がれていきます。いまこの世に生を享けている私たちは、受け継いだものをいかに次の世代に渡していけばよいのでしょうか。河井酔茗の詩「ゆずり葉」にそのヒントを探ります。』とあった。
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正にその通りで、若い頃にはあたりまえの様に感じていたが、さすがこの歳になると自分の生きてきた道を振り返りながら親の偉大さ、ありがたさが身にしみてくる。それと同時に鈴木先生が言われるように「子供たちに素晴らしい宝をゆずり渡しその宝を生かしながらよき人生を送り、世の中の人々をも幸せにして欲しいとの親の切なる思いが込められている。」そしてまた子供たちが私の歳になったとき同じように感じて欲しいとも思う。本当に味わい深い詩である。
 もう一つ「禅語に学ぶ」と題して連載102回目の臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺氏の「空手(くうしゅ)にして来たり空手(くうしゅ)にして去る」と題したコラムが掲載されていた。なおこの言葉は「虚堂禅師語録」に有る言葉とのこと。
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これも私の心に強く響く言葉であった。我々は何も持たずにこの世に生を受け何も持たずにこの世を去って行く誠に真理である。しかし中々これに気づかないものである。私たちは生きている間お金や物に執着し、ときにはそれによって争いが生じることもある。いかに多くの物を手に入れたとしても何も持って行けない。
道元禅師の言葉が記載されていたが「己に随い行くは只是れ善悪業等のみなり」つまり「自分についてくるものは、ただ自分が作った善行や悪行のみなのだ」と。
それにしてもこの12月号に期せずして同じような内容が掲載されたのは私に対して何か天か、神様か、仏様が「そろそろ考えろと」いう暗示なのかな。

2023年12月17日

初めてのスペイン旅行PART 9

 朝7時起床し、帰国の準備をする。11:15までにスーツケースをドアの外に出ように添乗員さんから言われた。お土産などもなんとか全部パッキングが出来た。
結局、旅行中一回も雨に遭わなかった。雨傘やウインドーブレイカーは無駄であったがその方が良かった。ホテルの部屋に飾ってあった土で出来た古そうな人形は、なんとなく日本の土偶に似ていて親しみが湧いた。
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 11:45バスにてホテルを出発、30分ほどでバルセロナ空港に着く。バルセロナ空港は明るく綺麗でテナントもしゃれていた。
 飛行機はエミレーツのB777-200で往路の関空からドバイまで乗ったB777とは違いドバイからマドリードまで乗ったA380と同じく座席は窓際に2列。中央に2列の計6列のためゆったりしている。15:30にドバイに向けて出発。機内食を食べ、いつもの様に映画を観る。
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 アメリカ映画「インディ・ジョーズと運命のダイアル」1本を観た。来るときと違って疲れていたので映画は1本観ただけである。7時間強のフライトで現地時間0時過ぎに到着。乗り継ぎのためラウンジでビールを飲んで過ごした。
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 ドバイをAM:3:00出発予定であったが中国が空路上空を飛行禁止にしていたので出発が50分遅れて飛び立つ。最初そうなんだと思ったが、ふと考えると関空に着いてから尾道に帰る新幹線が無くなるのではと心配した。ドバイからの飛行機は往路と同じB777で席が両脇2列で真ん中が3列の計7列ためバルセロナからの飛行機6列と違って1席多くなった分、1席あたりの横幅が狭くなり寝返りが出来なかった。
 現地時間の6時頃(日本時間11時)に食事が出たが、軽食でお寿司にした。また食事が日本時間で16時頃に出た。もう時間感覚が鈍ってしまいその食事が朝食なのかランチなのか、早い夕食か解らなくなった。食べたのは日本食の「幕の内」であった。
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 途中日本映画「アイスクリームフィーバー」を観たが良く解らなかった。
無事関空に18:20頃に到着。スーツケースを受け取り税関を通り、スーツケースの宅配をお願いする。17日午前中には届くようである。
 新大阪20:37のこだまに乗り22:21新尾道に到着。急いで改札を抜けタクシー乗り場にいくと運良く一台が停車していて無事乗れた。後から来た人はどうなったのかな。本当にタクシー不足だと思う。23時前に我が家に無事帰り着く。夕食を食べ風呂に入り、後は何もしないで16日午前1時過ぎに床に入る。今日から仕事だが午前中は休みを取っていた。
なお帰ってTVを観るとカープがCSでDeNAに連勝して阪神との決勝戦に行くことになっていた。また藤井聡太氏が将棋で八冠を達成したとか。すごいなと思った。

 
ところでスペイン旅行を終わって思ったことは、このツアーに1万数千年以上前の旧石器時代にクロマニヨン人によって描かれた壁画が残る「アルタミラ洞窟」の観光が無かったのが残念であった。 
 また各地ですばらし大聖堂などを見学したがこれらの「建設資金はどうしたのだろうかと?」とふと思った。 高校で習った世界史の記憶を基に考えてみた。
 1492年にコロンブスが新大陸を発見してから大航海時代が始まる。その時、当時のポルトガルとスペインは地球を2分割して支配しようとローマ教皇の許可の基、1494年6月7日に「トルデシャリス条約」締結した。これによりヨーロッパ以外の新領土の分割方式が取り決められ、西経46度37分の東側の新領土がポルトガルに西側がスペインに属することが定められた。当然日本人は知るよしも無い。
 これによりスペインは南米において植民地を形成し、ピサロがインカ帝国を滅ぼし、コルテスがアステカ王国を滅ぼし莫大な金・銀をスペインに持ち込んだ。この資金で多くの大聖堂などを建てたことを考えると少し見方が変わる。またマゼランが世界一周をしたことで地球が丸い事が証明された。それにより反対側にも境界線が必要だと言うことで、1529年4月22日に東経144度30分の子午線を第2の境界としてサラゴサ条約を結んだ。これにより北海道の一部(知床半島)を除く日本全土、言うなればアジア全部がポルトガルの支配可能地となった。
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  図はWikipediaから引用 〔トルデシャリス条約(紫)サラゴサ条約(緑)の境界線〕
 そして1543年ポルトガル商人より種子島に火縄式鉄砲がもたらされる。またスペイン人のフランシスコ・ザビエル(宣教師)がポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドゴアに派遣されその後1547年日本に初めてキリスト教を伝える。この後、多くの宣教師や商人がやってきた。彼らは布教や貿易だけで無く、その地域を植民地にするための情報収集をしたり、アジア・アフリカの人々を買って人身売買を行っていた。例外なく日本でも行われ、中でも寄港地の九州は悲惨な状況になっていた。彼らは日本人を買って船に積み込むと容赦なくヨーロッパに連行した。また日本人の中にはポルトガル人を真似て親、子、妻子を売り飛ばす輩まで出てきた。さらにキリスト教に改宗した人達に多くの神社仏閣を破壊させた。これらのことを豊臣秀吉は見聞きし、天正15年(1587年)に伴天連追放令をだした。しかし交易は許していたのでその後も問題は残った。そして徳川幕府は寛永16年(1639年)に長崎出島においてのみオランダ・清国との取引を認めそれ以外の国との取引並びに、日本人が海外に渡航するのも禁止する鎖国令を出した。
 そして幕末嘉永6年(1853年)ペリー艦隊がやってくるまで日本は平和に過ごせた。この間、アジアではシャム(現在のタイ国)と日本国以外はすべてが欧米列強の植民地となった。そして日本が大東亜戦争で欧米の国々を追い出したが、日本が敗戦を迎えた後、欧米諸国はいったん戻ってきたものの、植民地の人々が独立戦争に立ち上がり自由を獲得した。そういう意味で日本が植民地化されなかったことは本当に良かったと思った。豊臣秀吉の先見の明に今更ながら驚く。
スペインの立派な大聖堂を観てからの感想である。

2023年11月30日

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