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大先生(元院長)のブログ

初めての「エスコンフィールド北海道」

 先月15〜17日に4年振りの北海道に出かけた。そして7月29日には札幌ロイトンホテルで北海道医療大学歯学部同窓会理事会が開催されそれに出席した。宿泊は同じロイトンにした。ちなみに私は副会長を拝命している。今回はJALで出かけたので広島空港を10:35発で行くことになっていたが40分ほど遅れて出発となった。聞くところによれば翌30日に千歳航空自衛隊の航空祭の予行演習のため滑走路の使用制限があったようだ。
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 夕方から理事会が始まったが、考えてみれば2020年8月に今の理事会が発足して初めて対面での理事会になる。コロナのために3年間はZoomでの理事会であつた。しかもこのメンバーでの理事会はこれが最初で最後の対面理事会とは思いもつかなかった。事業報告、決算、次期の事業計画などについて話し合う。来年は同窓会ができて丁度40周年になるため、祝賀会などについても少し話し合う。会議終了後懇親会あり。4年振りゆえ大いに花が咲く。
 翌日飛行機は14:55であり少し時間的余裕がある。今までも千歳で開業している同級生のU先生とたびたび会っていたがここ4年会っていなかったので会おうと前もって予約を入れておいた。大抵は色々のところにドライブをしながら1年分のお話をするのだが今回は4年分である。前回2019年には支笏湖の丸駒温泉に連れて行って貰い1時間ほど湯につかりながら話をしたことを思い出した。今回会う約束をした際、北広島の日本ハムファイターズの球場「エスコンフィールド」が観てみたいと言っておいた。
 朝九時にホテルに迎えに来てくれて、北広島に向かう。途中近況などを話すが彼も65歳を超えて高齢者になったとか。
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 「エスコンフィールド」には駐車場があるが、もし駐車出来なかったらまずいので、あらかじめ北広島駅前で開業している同級生のN歯科医院駐車場を借りていてくれた。そこに止め駅から球場まではタクシーで行く、タクシー乗り場で並んでいると私たちの一つ前に並んでいた若い女性(大学生風)が「タクシーをシェアーしませんか?料金は半額払います」と話しかけてきた。シェアーすることには同意したが料金はいらないと話す。最も払うのはU先生なのだが。後期高齢者の私など孫娘ほどの若い女性に声を掛けられるとどぎまぎする。向こうも老人なので大丈夫と思ったのかも知れない?
 タクシーに乗り込んでから話をすると野球観戦ではなく、球場内でビール売り歩くアルバイトをしているとのこと。
 当日は13:00から日ハムとオリックスの試合がある日で、U先生が前もって観戦チケットを手にいれていてくれた。最も飛行機の関係で試合を観ることは出来ないが10時過ぎに会場に着きチケットのQRコードをかざして手荷物検査を受けて入場、すると色々なグッヅを手渡してくれた。その中にグルメガイドの本があり球場内の食べ物屋さんの案内が載っていた。スマホで注文すると観戦席までデリバーしてくれるサービスもあるようだ。また選手のおすすめ料理や食べ物、飲み物なども記載されていた。また野球の試合がない日でも来場できてグルメを堪能できるとのこと。
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 入ったすぐそこは2階席で目の前にグランドが見下ろせた、当日は少し雨が降っていたため屋根付きとなっていた。チケットは4階席である。
球場の中を歩いて見学。ファイターズガールがいて目が合うとにっこり笑ってくれた。中々笑顔が素敵であった。
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また壁にはダルビッシュ有選手と大谷翔平選手の二人が描かれたウオールアートがあり記念撮影をしている家族もいた。
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またクラフトビール醸造レストランもあったし、天然温泉もありびっくり。至る所に案内の人が立っていてすぐ色々なことを教えてくれたりしてありがたい。
 せっかく観戦チケットがあるので3塁側の4階の指定席に座りに行く。しばらく座って日ハムの選手の練習風景を観た。
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 帰りがけにU先生がお孫さんへと「狐ダンスのカチューシャ」を買ってくれた。そこで初めて知ったのだが、球場内では現金が使えず、スマホ決済またはカード決済とのこと驚く。
狐ダンスは流行っているとのこと。そういえば観戦に来ている子供や大人も狐ダンスのカチューシャをつけている人が多くいた。カープファンなので日ハムのことを知らずに申し訳ない。広島マツダスタジアムしか知らないのだが、とても進化した素敵な球場だと思った。
 12時前にエスコンフィールドを後にして新千歳空港に向かう。途中ブルーインパルスが空を飛んでいるのを道路脇に車を止めて観たが、スピードが速く中々スマホで撮影するのが大変であった。何回もUターンしながら千歳の上を飛んでくれたので撮影できた。また航空自衛隊の基地には政府専用機も駐機しているのが見えた。
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 空港でU先生と別れたが、「時間と体とお金を使わせU先生には申し訳なかった」と感謝でいっぱいである。

2023年08月07日

4年振りの北海道 (3)

 いよいよ最終日、起床して外を見ると深い霧に覆われて何にも見えなかったが、9時頃には少し霧が晴れて洞爺湖の中島が見えてきた。旅行会社の予定表ではタクシーが11時にホテルに迎えに来ることになっていた。出発時間までゆったり過ごす。
タクシーに乗って運転手さんと話したところ、予定表では昭和新山見学と有珠山のロープウエイに乗るとなっていた。
有珠山のロープウエイに乗るのは気乗りせず断る。代わりに「洞爺湖サミット記念資料館」をみたいと提案した。山の上のホテルから下りていくとき霧がなければ羊蹄山が綺麗に見えるスポットと言われたが何も見えず。
運転手さんは有珠山ロープウエイ観光がなくなり1時間の空き時間をどのようにしたら良いのか困られたようだ。とりあえず昭和新山に向かい、途中「洞爺湖サミット記念資料館」を観た。当時使用したテーブルと椅子が展示されていた。またどのような食事が提供されたか、そしてどんなことが討議されたのかがパネルで展示されていた。
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 その後昭和新山に向かう。当別に住んでいた時、家族4人できたことを思い出した。その時、足元の石を拾ったが今も持っており、その石には1981年5月3日と書かれていた。
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昭和新山については小学生のとき国語の教科書に記述があった気がする。
運転手さんは地元人なので色々考えて昭和新山と有珠山がよく見える所に連れて行ってくれた。
 そしてあじさいが咲いていて綺麗なお寺が有るからと案内された。「有珠善光寺」である。このお寺はホームページによれば826年に天台宗僧侶慈覚大師円仁が有珠を訪れ小宇を造り阿弥陀如来像を安置したことが寺の開基とされている。その後1613年に松前藩主の松前慶弘が有珠を訪れ如来堂を再興し阿弥陀如来を安置して善光寺と称した。
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 さらに1804年江戸幕府が蝦夷地を直轄するにあたり設置された「蝦夷三官寺」の一つとなり本堂や客殿が再興されたと記載されている。お寺の線香を立てる器に徳川家の家紋が入っていた。
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 あじさいは花の形も色もいろいろの種類が有り綺麗であった。私たちが訪れたときは丁度「アジサイマルシェ キッチンカーフェスin有珠善光寺」が開催されておりかなりの人が集まっていた。かき氷をここで食べた。
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 次に入江貝塚に連れて行ってもらう。ここは今から4000年以上昔の縄文人が住んでいた所である。尾道にも高須に太田貝塚が有ったが保存がいきとどかず、今は石碑のみが建っており、出土品も多くは逸散し一部保存されているようだが公開はされていない。残念である。入江貝塚の入り口には貝塚の層が分かる様に垂直の壁が切り出されて展示されていた。縦穴住居跡もある。人骨が出土した写真などもあった。
その後近くの「入江・高砂貝塚館」に案内してもらい出土品などをみた。動物の骨かなんかで作った釣り針には現代と同じようにフックがついており、掛かった魚が逃げられない構造になっていた。4000年以上前のその時代にそのようなアイデアがあったことに驚く。
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そして「世界遺産 北海道・北東北の縄文遺跡群」というポスターが貼ってあった。以前何かでアイヌの人たちは先住民族だと書いてあったのを読んだことがあった。しかし今回の貝怩みたりすると少なくとも北海道の先住民族は縄文人でありアイヌの人たちは縄文人が寒冷化に伴い本州方面に移動した後、オホーツク方面からやってきて住み着いた人ではないのかと思う。もちろん今は日本人ではあるが、先住民だったと言う表現は違うのではないだろうか? 多分すでに分析はされていると思うが、アイヌ人のDNAと縄文人のDNAを比較すれば良いのでは。
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 その後、2000年に有珠山で噴火が起きて土地が隆起したところに案内された。ここの案内板の写真と見比べながら、1853年の爆発でできた大有珠、1977〜1978年の噴火でできた有珠新山、年代不明の西山を確認した。またその手前に、2000年の噴火で盛り上がった小さな山が見えている。2000年の噴火のときは既に定点観測がなされ噴火予知情報が発出されたため、全員が避難し命を失う人はいなかったとのこと。運転手さんの話では、有珠山は30年周期ぐらいで噴火しているとのこと、そろそろ噴火する時期が近づいているらしい。
洞爺駅まで送ってもらい15:30の「北斗13号」にて南千歳駅に行き、エアポート号に乗り換え新千歳空港に着く。18:55の飛行機に乗るつもりでいたが結局40分遅れでテイクオフ。おかげで家にたどりついたのは22時45分頃であった。

2023年07月28日

4年振りの北海道 (2)

 今日は12:09札幌発「北斗12号」で洞爺に向かうことになっている。朝食は「ビュッフェタイプ」でお腹いっぱい食べた。ホテルからは駅までは歩いて行ける距離で、近くに時計台、北海道庁が有るのでそこを観ながら駅に行くことにした。時計台にも多くの観光客がいた。また道庁に行くと改修工事が行われていた。建物全体が素屋根で覆われ外側に道庁の建物を写真撮影して印刷された幌で覆われていた。
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 一見それらしく見えるが、残念ながらいつもの赤煉瓦の建物をみることはできなかった。何年か前に時計台が改修工事をしていたときと同じように印刷された幌で覆われていたのを思い出した。改修工事は2025年2月までの予定とのこと。道庁の前の池には赤と白の睡蓮が咲いておりマガモがゆったり遊んでいた。
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 その後駅に行き、列車で洞爺へ向かう。洞爺湖は何回か観たことがあったが洞爺湖温泉には入浴したことがない。宿は旅行会社にお任せしていたところ2008年の洞爺湖サミットが開催された「ザ・ウィンザーホテル洞爺」とのこと。洞爺駅には当時のサミットの案内があった。よく見ると旗が9本立っていてG8であった。今年の広島サミットではG7であったが当時はロシアが参加していてG8だったのだと改めて思い出した。
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 ホテルまでの公共交通は無くお迎えバスにて40分ほど掛かった。ホテルは山の上でそこにはホテル以外に何も無い。だから警備がしやすくサミット会場に選ばれたのかも知れない。TVニュースなどでこのホテルの外観は何回も観たことがあった。
 今度は予約の部屋(ジュニアースイートルーム)があった。昨日の部屋より狭いがそれでも十分に大きい。ちなみに隣の909号室は当時のアメリカ合衆国大統領ブッシュ氏が宿泊した部屋で広さはおそらく私が泊まった部屋の倍以上だと思われた。
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 夕食までしばらく時間があったのでホテル内や外を散策してみた。すごく大きなホテルで散策するにもそこそこ時間を費やした。散策途中サミットを記念して植樹された木が大きくなっていた。また各国首脳が並んで記念撮影をしたところがあり、ちょうど福田康夫首相が立っていた同じ位置に立って写真を撮った。このホテルはゴルフ場やスキー場も併設していてリゾートホテルという感じがした。部屋の窓からは洞爺湖がよく見えた。
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 散策後温泉に入りそれから夕食となったがフランス料理、和食、中華料理の3タイプの内、チェックイン時に中華をお願いした。またチェックイン時にドリンク券が一人一枚ついていたので、それを出しビールを飲む。家内もビールを頼み少し飲んだと後、私にくれたのでそれを飲み他にアルコール類は注文しなかった。料理はなかなか美味しかったし、品数もあり十分にお腹が太った。そういえば、朝食をいっぱい食べたせいかお昼に腹が減らなくて昼食を食べていなかった。夕食後再度温泉に入り就寝。明日はこの近辺を観光し、帰路につくことにしてい

2023年07月24日

4年振りの北海道 (1)

 7月15日に「北海道医療大学父兄後援会全国支部長会議」が開催され4年振りに北海道に行った。コロナ前には年3〜4回色々の会議で行っていたが、コロナ以後会議が中止されたり、オンラインZOOMで行われたりしていた。5月に5類相当になりやっと対面での開催となった。今回は17日が海の記念日で連休になったことも有り、会議後小旅行をと思い家内と一緒に出かけることにした。
 広島空港を朝8:05のANAで出かけた。旅行の日程は旅行会社にお願いした。本来ならJALの10:35位の方が出かけやすかったのだが、夏でしかも連休と言うことでANAしか取れなかったとのこと。
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 途中窓から外を見ると分厚い雲が眼下に見え地上の景色はさっぱり、新潟、山形、秋田上空を飛んだがこの雲の下では線上降水帯発生していたのではないだろうか?
 新千歳に10時に着いたが会議は17:30からなので時間が十分有るため、家内とどこに行こうかと話しあい、札幌の隣町、当別へ行き元住んでいたところのお隣さんのTさん宅を訪ねることにした。新千歳から札幌経由札沼線で当別駅まで行く。途中あらたな駅が出来ていたりしてずいぶんと札沼線も様変わりである。お隣のTさんが在宅か不在か分からない。年賀状のやりとりはしているので住所は分かるが電話番号が分からない。まあ当別駅で降りて公衆電話ボックスで電話帳を見れば良いと思ったが、いざ着いてみると公衆電話が無く電話番号が調べられない。今や公衆電話は日本中で無くなってきているらしい。
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歩いても10数分なのだが雨が結構降っておりとリあえずタクシーで向かう。
 途中町もずいぶんと変わっている。到着してTさんの家のベルを押すと在宅であった。本当に良かった。
 私たちが住んでいた家はずいぶん前に取り壊され草が生え野原になっていた。当時この一角には14軒ほど家があったが今は3軒しか残っていないとのこと。
3時間ほど色々と話しをして当時を思い出しあっという間に時間が過ぎた。帰りはご夫妻が車で会議が開かれるホテルニュウオータニイン札幌まで送ってくれた。宿泊も同じホテルなのでチェックインをした。
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 予約していた部屋(プレミアムツイン)が満室ということで違う部屋に案内されたがどうやら1ランク上の部屋でドアに「エグゼクティブ スイート」と書いてあり中は広く、100uくらいあると思われびっくりした。ラッキーである。
 会議は大学から現状報告の説明を聞いたが昨今の少子高齢化で受験者数もかなり減少し、同時に入学者数もかなり減って定員割れの学部が多いとのこと。今年は歯学部が80人募集で入学者は67人とのこと。また付属衛生士学校では50人定員にたいし18人しか入学しなかったとのこと。この調子だと今後の歯科医療そのものに暗雲が立ちこめてきている。
 さらに昨今、東京方面の大学が北海道の高校に推薦枠を大幅に割り当てているようで、若い人は東京方面の大学を受験しているとのこと。その後各支部報告をした。
会議後懇親会が催され大いに盛り上がった。
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 同級のM先生(札幌在住)に「家内と一緒に来ている」と話すと懇親会終了後ちょっと出てみましょうと誘われ、家内と共に札幌の街に繰り出し居酒屋で1時間ほど飲んだ。このM先生、学生時代に当別の我が家に遊びに来ていて、家内の出した「カレーライスの味が忘れられない」と言っていた。明日は洞爺湖温泉に行くことにしている。

2023年07月20日

なんと人の命の儚さよ

 6月8日に2年振りに三原医師会病院でPET―CT検査を受けたがその結果が6月19日に郵送されてきた。大丈夫だったかなと思いながら開封した。所見を観たが異常なしでA判定であった。胸をなで下ろすと同時にほっとした自分がいた。
そして翌20日に尾道市歯科医師会から会員のN先生(68歳)が亡くなられたという訃報が届く。これもビックリである。死というものには、順番がない。私も尾道市歯科医師会では今や上から4番目の年齢に達しているが、死だけは年齢の順番では無いようである。
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 なんとか元気で長生きをしようと思っているが、今月6日の朝、ウォーキングをしていて丁度吉和漁業組合の前を歩いているとき、右足が縁石か何かに引っ掛かったのかクニャッとなった瞬間ふくらはぎに激痛が走りその場にうずくまる。丁度寝ていて足がつる「こむら返り」があるが、その痛みよりもさらに数倍も痛く感じた。ウォーキングを中止して右足を引きずりながら帰り、湿布薬を貼り、サポーターをして出勤。仕事中も足を引きずり、椅子から立ち上がるのもヤッコラサである、自己診断で「肉離れ」では無いかと考えた。とりあえず湿布薬と痛み止めを飲んで様子を見ることとして医者には掛からなかった。足そのものはかなり腫れたが、5日くらいすると痛みはかなり減少してきた。しかし腫れはあまり引かない。また足首に内出血があるのが確認できた。17日になると歩き方もほぼ元通りになったのでウォーキングを開始した。サポーターは今でも使っている。
 昨年11月には転倒して右の小指を脱臼し、手首も痛めたが今は何とか仕事に支障は出てない。
  IMG_3949-3.jpg   8c32fa75882e2cd19db735164136a83a-768x687-3.png
ところで「フレール」という言葉がある。これは身体的虚弱などを表す言葉だがその判定には「運動機能の低下・障害」が入っている。これがすすむと要介護状態になるのだが私もそろそろフレールになる手前まで来ているのかもしれない。介護状態になる原因は日本人では脳神経疾患が一番だが転倒などによる骨折は4番目に位置している。くわばらくわばら。「儚い人生」と雖もなんとか「花咲く人生」にしたいと思い気をつけてウォーキングをしている今日この頃である。

2023年06月22日

すわ新種か?

 4月23日に苗屋で「節成りキュウリキュウリ 『なるなる』」を6苗購入して植えた。今までに2本程収穫したのだが、一昨日6月9日に畑に行くと植えたキュウリに異変が見つかる。馬鹿でかい大きな黄色花が咲いており花の根元になんとカボチャの実がついていてビックリポンである。まちがつてカボチャの苗を購入したのかと思い、根元を見るとツルがいくつかに分かれていてそのうち一個のツルにカボチャがなっていた。
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 ほかのキュウリも見たところさらに一本同じようにカボチャがついているものがあった。キュウリの商品名札に「うどんこ耐病」と書いてあったが、今年はうどんこ病や、ベト病がひどくずいぶん葉っぱがだめになって枯れている。看板に偽りありと思った。初めてこのようなキュウリをみた。新種では無いかと思った。
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ちょうど家内が苗屋にサツマイモの苗を注文しに行って状況を話すと、あのキュウリの苗は「ナント種苗株式会社」の製品で、異なる2つの近交系(キュウリとカボチャ)を交配したもので、そのためキュウリの元気が無いときカボチャの性質が現れやすいとの説明であった。ただしできたカボチャの味は良くないのだとか。
おそらく、うどんこ病やベト病で葉っぱがやられ弱ったところに追肥などを私が怠ったためにこのような状況になったのでは無いだろうか?もう少しお世話をしなさいとの神様の啓示では無いのだろうか。それにしても茄子は接ぎ木苗だと知っていたが、キュウリにもこのような細工があると知って一つ賢くなった。
 キュウリと同じ日に植えた茄子、トマト、シシトウ、は順調に育っている。ただしピーマンは2株のうち一株は先端の新芽が何者かに食べられ成長が止まっているようだ。
 また実生のトマトも結構大きくなってしっかり実をつけだしている。楽しみだ。
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 ところで最近の農作業ついて書くと昨年9月20日に種蒔きして11月3日に苗を植えつけたタマネギを5月21日に収穫した。出来具合はまま良かった。そして今年3月12日に作付けしたジャガイモを6月4日に収穫。少し玉は小振りであったがまあまあであった。
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いずれも少しばかりではあるが従業員の皆さんにお裾分けができた。
そして6月9日診療が終わってからサツマイモ「紅はるか」を植え付けた。作業終了時あたは暗くなっていた。
 これから1週間から10日くらいサツマイモが根付くまで水やりをしなくてはならないな。秋の収穫が楽しみである・

2023年06月12日

福澤桃介著「西洋文明の没落・東洋文明の勃興」を読んで

 先日、福澤桃介著『西洋文明の没落・東洋文明の勃興』(昭和7年2月11日発効ダイヤモンド社出版部刊)がダイレクト出版により復刻され(2022.11.20第一版)取り寄せて読んだ。この本はGHQによって焚書にされた本で帯封には「崩れ去るヨーロッパ文明への幻想 福澤諭吉を義父に持つ名実業家が暴露 戦後に欧州人が隠蔽した『西洋の黒歴史』と有る。
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 GHQは7000冊以上の本を焚書として日本人の目に触れないようにした。
なぜこの本が焚書にされたのか真意が知りたくて購入し読んだ。
 私は福澤桃介という著書の名前をこの本で初めて知った。本の中の著者紹介では、福澤桃介氏(1868−1938)の略歴は明治元年埼玉県に生まれ、旧姓岩崎桃介。慶應義塾在学中に福澤諭吉の養子となり渡米、帰国後諭吉の次女福沢房と結婚、その後実業家として活躍し、日清紡績、東亞合成、関西電力、中部電力、東邦ガス、大同特殊鋼、名古屋鉄道、帝国劇場など、今にも引き継がれている有名企業の設立や経営に携わる。こうした活躍から「日本の電力王」と呼ばれた。また衆議院議員も勤めたとある。
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 この本によると、当時第一次世界大戦が終わり戦死者だけでも600万人を越、さらにスペイン風邪でヨーロッパ全体では250〜300万人が死んだ。このことより西洋文明の没落を説く欧米人による著書が多数欧米で出版された。さらにヨーロッパ全体では4.5億人の人口がいるが、ヨーロッパだけで養えるのは3億人分の天然資源があるのみで、残り1.5億人はヨーロッパ以外の地方から食料及び必需品を供給することで養ってきたが、大戦で産業が破壊され養うのが困難になった。ヨーロッパ人をしてヨーロッパの前途を甚だしく悲観させたのは、ヨーロッパにおける精神生活が、世界大戦のために、非常なる頽廃状態に導かれ精神が荒んだという様な単純なもので無く、経済的疲弊が錯綜していると福澤は分析している。
 そもそも彼らはヨーロッパ人の欲望を満たすため、15世紀末からヨーロッパ以外すなわち東洋に進出してきた。日本でもキリスト教の布教ということでザビエルなど宣教師がやってきたが裏の顔には侵略し植民地にするという目的があったことは現在では周知の事実である。
 彼らは「有色人種は人間にあらず」との観念をもちアフリカ大陸・東洋にやってきた。さらにヨーロッパ人、アメリカ人たちがいかにして植民地化をはかり、世界大陸の9分の8がヨーロッパ人の支配下に入ったかを記している。
キリシタンが日本にやってきた際にも、彼らは日本から数万人規模で奴隷を「輸出」して
います。戦争捕虜や、誘拐されたり親に売られた子供が奴隷として南蛮商人によって東南アジアからポルトガル本国、さらには南米にまで売られていました。このことに気がついた豊臣秀吉は宣教師追放令を出している。
 ところが「有色人種は人間に有らず」という考えが持続しており、1776年米国フィラデルフィアにおいてアメリカ独立宣言が読み上げられた。このことについて福澤氏は皮肉を込めて次の様に書いている。
 引用すると「これは冒頭において『人間は生れながらにして平等である。平等に幸福を追求する権利がある』と書かれてある、こういうような意味が全文を一貫して、人間の平等を強調しているのである。そして、これが読み上げられた時に、フィラデルフィアの大会堂に居並んだ全アメリカの愛国者、人道論者は、満堂一斉に歓呼の声を揚げ、誠に世にも美わしい感激の情景を現出したのであった。
 しかるに、この大会堂の窓一つ隔てて外の光景を眺めると、当時フィラデルフィアの人口たるや、黒人が約三分の二近くで、町を見ると灰色に見えると言われておったほどであつた。しかし、その黒人達はことごとく皆な奴隷であったのである。
しかのみならず、そのフィラデルフィアの大通りを、数百数千の奴隷が鞭で殴られ、棍棒をもって打たれながら重い、荷物を挽(ひ)いて呻吟の声を上げ、悲鳴泣喚(ひめいきゅうかん)を継続して通っているという暗澹たる有り様であったのだ。』と記す。[p58]
奴隷というものは古代ローマ時代から存在していたが、ヨーロッパ人が再現した奴隷というものは、「人間をまるで牛や馬の代わりに酷使するにあったから、その労働においてもはたまたその待遇においても、これを牛馬同様のものとして、毫(ごう)もその間に人格を認めなかったのである。」とも書いている。
さらに奴隷をアジア・アフリカなどから運ぶ時の劣悪なる環境などについても詳細に記載している。
また日露戦争で日本が勝利したことは言い換えれば初めて有色人種が白色人種に勝ったことを意味し世界植民地化の流れを止めた、欧米以外の国で大いに喜ばれ、後の独立運動の遠因になる。
いかに白人たちが奴隷を虐待したかを暴露しており、まさに西洋人の黒歴史である。
GHQ占領軍は「こんな本を日本人が読んだら、自分たちが教えようとしている『民主主義』に疑いの目を向けてしまう」と思って焚書にしたのだと理解した。
 余談だが、この本が出版される前、第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、日本が国際連盟規約の中に「人種差別の撤廃」を明記するべきと言う提案をして11対5で賛成多数となったが、当時のアメリカ合衆国大統領だったウッドロウ・ウイルソンは委員会の議長を務めていたが、議長権限で全員一致でなければ可決されないと否決した。国際会議で人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界最初である。
このようなことは学校の歴史で習うことは決して無い。学校では日本人はアジアを侵略し悪いことをしたというように教えられる。そうでは無いことを知るためにこの本が歴史教科書の副読本で採用されると良いなと思った。

2023年05月23日

今年のGWを振り返る

 新聞やTVではことしのGWは長いところで9連休と報道していたが、我が「さいだ歯科医院」は暦通りの飛び石連休であった。日記風に書くと4月29日は午前中、ジャガイモ畑の草取りをして午後は雨だったので読書。30日は曇り、尾道港祭りを観に家内と二人歩いて街に出てみた。U2のところには海上自衛隊水中処分母船「YDT-04」が停泊しており、乗船して中を見学している人も多くいたが私は外から写真に収めるだけであった。
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 その後駅前広場特設ステージでは小学生が「ええじゃんSANSA ・がり」の踊りを披露していた。私は審査委員席から東、通称「一円ポッポ」の福本汽船桟橋近くで見学、地元「三成小学校」・「美木原小学校」・「栗北小学校」などの踊りを見たりする。家内は「浦崎小学校」が神楽の衣装で踊っていたのに感動したと言っていた。
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 その後、公営渡船乗り場まで歩き本通りを通って帰途についた。日頃まばらな本通りに観光客を含めて人があふれかえっていてここ久しく見たことも無い光景であった。家内が疲れたというので家までは歩かず尾道駅前からバスに乗る。バスに乗るのも本当に何年振りかという感じであった。しかも後期高齢者になってから尾道市から「バス・船舶共通利用券」をもらっているが、いままで一度も使って無かったので初めて利用した。昼食はおうちでご飯。
 そして5月3日から5日までは、畑で草取りをした。ただ5日は三成地区では昔から浦島祭りがある。その昔、童話にでてくる浦島太郎がいたという伝説が残っており近所に浦島神社が建立されている。
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この日は子供たちが子供神輿を引きながら地区をねりあるくという行事である。開業以来私の医院の駐車場で休憩を取ることになっている。今年も子供たちが「はっぴ」を着てやってきたが一瞬目を疑った。と言うのも参加している子供が総勢13人である。昔、我が息子たちが参加していた頃は今の何倍もの子供がいた。付き添われているお母様方に聞くともう少しはいるのだが最近は子供会や町内会にも入らない人が多いのだとか。それにしても少子化という現実を突きつけられ、郷土の行事も廃れていくのでは無いかと感じた。7日GW最後の日は朝から雨でウオーキングもしないで朝から読書をした。まさにGWは晴耕雨読であった。
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GWまえから少し読み始めていた松浦光修(皇學館大学文学部教授)著 経営科学出版2022.12.25.発行の『いいかげんにしろ日教組  われ「亡国教育と、かく闘えり」』で、平成15年10月PHP出版から発行された本の復刻版である。三重県日教組と著者の平成10年から平成15年にいたる“闘”いの歴史である。著者は神道学を研究しており、日教組による「反日自虐教育」に我慢ができなかったのではないだろうか? 前書きから一部引用すると
『巨視的に見れば、日教組はGHQ支配下で作られた“戦後体制の生命維持装置”でありその体制が、今も続いているから、日教組支配はつづいているのである。“日本が自立した強い国にならないこと”、できれば目ざわりな“日本国を自滅させること”、それらの秘められたプログラムは占領中にセットされ、GHQが日本から去ったあとも、やっかいなウイルスのように、いまもなお作動し続けている。
 そう考えれば、なぜ日教組が、大東亜戦争について“すべて日本が悪かった”と教えたがるのか、なぜGHQが押しつけた「日本国憲法」をあれほど絶対視するのか、なぜエネルギー立国を目指す原発に反対するのか、なぜジェンダー・フリーの名のもとに「男らしさ、女らしさ」を破壊しようとするのか、なぜ「教育基本法」の改正に反対するのか、すべての謎は解ける。本人たちは無自覚なまま、彼らは今もGHQの走狗であり続けているのである。・・ 中略・・ 「その国の未来を見たければ、その国の若者の姿を見ればいい」といわれる。これは換言すれば、ある国の「未来」を奪いたければ、その国の若者を潰せばいいということである。この点「革命」を夢見て出発した集団が、まず日本の教育界を支配することに努めたのはやはり巧妙な作戦であったといえる。「革命は銃口から生まれる」のみではない。・・引用ここまで
 本には三重県での出来事がメインに書かれているが、中に広島県立世羅高校の石川敏浩校長が卒業式での国旗掲揚、国歌斉唱を拒否する広教祖との軋轢により卒業式前日の平成11年2月28日に自殺をされたことが書かれていた。このとき校長先生のお葬式には教職員誰一人として出席しなかったとのこと。本当に痛ましい事件で異常な事態であったことをよく覚えている。
 その後、平成11年8月9日に「国旗及び国歌に関する法律」が制定された。しかし当分の間、国歌斉唱の時、起立もしない、国歌も歌わない先生方が多くいたと報道されていた。今は良くなっているのだろうか。
その他、先生たちが職務中に組合活動をしても給料をもらっていたことが明らかになる。広教組でも同種のことが行われていたことが書かれていた。三重ではそれを返還するように交渉したが中々解決しなくて最後は寄付という形で決着したとか。あるいは歴史教科書の採択をめぐってGHQ史観(東京裁判史観)にもとずく教科書からそうでない「新しい教科書を作る会」扶桑社の教科書に切り替えることへの大抵抗などが書かれていた。
 私自身、東京裁判は違法な裁判と思っている。戦争が終わってから新たな法律を作って裁判を行うこと自体国際法違反で有り、米英中などの日本いじめである。当時のインドのパール判事が言うことが正しいと思う。
 この本を読み終えて感じたことは、あまりにも今の時代日本人は荒んでいる。最近のTV・新聞を見てもオレオレ詐欺、振り込み詐欺、先日の東京銀座で夕方人通りの多い時間帯に店に16歳から19歳の3人組が押し入り高級時計を盗む事件、刃物で通行人を襲う等とても昔では考えられないことが連日のように平気で起きている。これも著者が書いたようにGHQの置き土産なのだろうか? 心の教育というものが疎かにされているのだろう。

2023年05月11日

春の農作業 第2弾

 毎年のことであるがGWが近づくと夏野菜の植え付けをしなくてはと気持ちがはやる。今年も4月の早い時期に耕運機を使って「牛糞堆肥」、「こだわり健肥」、石灰を入れて耕し畝を作りマルチを貼って準備をした。
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そして4月23日に種屋(イケカク)に行き「なす」、「ししとう」、「ピーマン」、「ミニトマト」、「キュウリ」の苗を購入し、作付けを行った。トマトは例年4種類8株を購入していたが今年6株にした。と言うのも3月に作付けしたジャガイモの畑にトマトの実生の苗が生えてきたのでそれを移植することにして6株と少なめにした。ただ実生の苗はトマトの種類が何なのか、またちゃんと育つのかは分からない。何がなるのか楽しみである。
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そして27日にトマトとキュウリの支柱を立てた。後はキュウリのネット張りだけとなった。

 ところで、ダイレクト出版株式会社2023年1月16日 発行の「Renaissance Vol. 13」は『食がもたらす“病”〜日本の食 安全神話崩壊〜』という特集で多方面からの取り組みが記載されていた。どの記事も興味をそそるものばかりであったが、その中で「国際派日本人養成講座」編集長の伊勢雅臣氏の書かれた記事『「家族農業」こそ日本再生への道―― 一石三鳥の農業で豊かに暮らす』が私の農作業に関連していて良い記事であった。
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内容を紹介すると
現在食料品の値上げラッシュが続いており主な原因はコロナ禍やウクライナ戦争などにより輸入される穀物などの原材料価格が高騰した。日本の食料自給率は38%しかなく円安と海外の生産・供給トラブルは国民の生活を直撃する。この上中国の台湾侵攻でシーレーンが封鎖されると国民生活そのものが成り立たなくなると書いてある。またこの食糧自給率の低さは異常であり先進国では最低である。その一方で国内の農地は耕作放棄と荒廃が進んでおり、農林水産省の統計によると2020年の耕作面積437万ヘクタールのうち、8.7%、38万ヘクタールが利用されていないとのこと。これは埼玉県より広い面積である。さらに農業の従事者の高齢化も進んでいて、2021年の自営農業に従事している人は約130万人でその平均年齢は約68歳とのこと。新規就農者数は年間5万人強いますがそれを含めてもここ7年間で45万5000人も減少している。このペースが続けばあと20年足らずで農業従事者はゼロになってしまうと警鐘を鳴らしている。
 日本政府は「国内の農産物は価格的に輸入品に敵わないので(対抗するために)農地の大規模化が必要」という論調だが、実は国際社会は全く逆の方向を目指している。2017年の国連総会では、2019年〜2028年を「国連・家族農業の10年(THE UN DECADE OF FAMILY FARMING )」とすることが全会一致で可決された。
「家族農業」とは、家族労働が中心の農業を指し、世界中に約5億7000万ある農場のうち5億以上を占めており、食料の80%以上を供給している。まず資源効率において、家族農業は大規模農業よりもはるかに優れており、家族農業は世界の農業資源(土地・水・化石燃料)の25%を利用するだけで世界の食料の80%以上を生産することができるとのこと。一方の大規模農業は、農業資源の75%を消費しながら20%以下の食料しか提供していません。しかも生産された食料の3分の1が、長距離長期間に及ぶ輸送流通過程で有効に利用されずに廃棄されているとのこと。
ちなみに国連の「家族農業の10年」には
@ 各国が家族農業に係わる施策を進めると共にその経過を他国と共有すること。
A FAOなどの国際機関は各国等による活動計画の策定・展開を先導すること、等を求めている。
このことについて私はマスコミ等の報道を聞いた記憶は無い。
 『さらにアメリカやカナダでは、大量生産での生産性向上のためグリホサート(ラウンドアップ)という農薬が使われています。これは発がん性を疑われており、アメリカでも使用禁止を求める訴訟が起こされている危険性の高い農薬です。我が国の学校給食パンでは輸入小麦を使用している14製品中12製品でグリホサートが検出されたが、国産小麦を使った製品では検出されなかった。』と残留農薬の怖さについて注意喚起をしている。
「家族農業こそ効率的」で国連の採択した「家族農業の10年」はまさに我が国の農業の再生への道を示している。そのお手本として「日本一小さい専業農家」を自称する西田栄喜さんの事例が示されている。
『耕地面積が0.3ヘクタールとサッカーコートの半分くらいの大きさです。平均的な野菜農家の耕地は3ヘクタール以上ですから西田さんの畑はその10分の1という大きさです。そこに小さなビニールハウスが4棟立っています。この小さな規模で、奥さんと二人で50種以上の野菜を無農薬栽培し、野菜セットや漬物などの店舗直売やネット販売により、年間売り上げ1200万円、利益600万円を計上している。「夫婦と子供二人の田舎暮らしなら、今ぐらいの所得があれば、心身ともに豊かになれると実感しています」』とのこと。
 また食料自給という面でいえば家族農業(家族単位で農業を生業とする)というカタチにこだわらず、都市住民による家庭菜園を増やすという道もあります。ここで一例として、農業を知らない都市住民に向けて体験農園を提供している「株式会社マイファーム」が紹介されている。
『同社では、サラリーマンなどの本業を持つ人に対して、15平米(4.5坪)の土地を貸し、インストラクターが土作りから収穫まで手取り足取り教えてくれるというサービスを展開しています。しかも本業が忙しい時には、農作業を代行してくれるのです。同社はこの事業を京都から始め、近畿2府4県、東京、愛知、静岡と広げてきました。体験農園では無農薬で野菜を育てているので、野菜を収穫する時などは、あえて「採ったその場で、洗わずに食べてください」と指導します。すると参加している都市市民たち、「これが本物の野菜だったんだ!」と感動します。
同社では「6万人の人が体験農園を利用すれば、食料自給率が1%上がり、耕作放棄地38万ヘクタールの内2万ヘクタールが耕作地として回復する」と予測しています。』
 さらに著者は『たとえば同社のようなサービスを提供する会社が全国各地に多数誕生して、この20倍の利用者が集まったらどうでしょう。耕作地が40万ヘクタール増え、耕作放棄地は解消します。自給率は20%上がりますから、60%近くにまで増えます。近い将来、少子化や人口の地方分散が進めば、都会では人口が減少し、あちこちに空き地が出来るでしょう。それらを活用すれば都会でも手軽に家庭菜園を楽しめます。もともと、「小さな家でも庭をもって緑と共に暮らす」というのが、自然との和を大切にしてきた日本人の生活感覚です。今後は空き家はどしどし取り壊して家庭菜園にすることで、都市住民も緑に親しむ生活を送ることができ、それが災害時の食料供給源にもなります。
農業は、子供に情操教育を、成年に癒やしを与えてくれるだけでなく、高齢者には体を動かすことで健康をもたらしてくれます。』
西田さんに代表される「スモール・メリット」の家族農業や家庭菜園などを通じて、国民の健康を増進し、国土の豊かさを守り、食料輸入のリスクを軽減するという、一石三鳥を得ることができるのです。』と結んである。
 まさに私がしていることは国連の家族農業であり、食料自給率UPに繋がり日本国のために良いことをしているのだと実感できた。
 しかし昨今、政治家達は食料安全保障における農業の大切さを軽視しているとしか思えない。国会でLGBTの議論をすることも必要かも知れないがそれよりも生きること、すなわち食べることの方が先ではないかと思う。是非日本の農業が復活するようにして貰いたいものだ。


2023年04月29日

金婚式

 4月8日はお釈迦様の誕生日「花まつり」だが、私たち夫婦は今年結婚50年を迎えた。いわゆる金婚式である。振り返ってみると家内と出会ったのは丁度70年前、昭和28年4月に向島町立向島中央小学校に入学し同じクラス(1年1組)になったことである。しかし父親が公務員で転勤したため、私は6月末に三原小学校に転校した。三ヶ月の間に家内と口をきいたかどうかも覚えていない。家内も記憶に無かったようで小学校に入学した時のクラス写真が唯一証拠となっている。そして私は父親の転勤で小学校4年生の時、再び尾道に引っ越してきて栗原小学校に転校となる。昭和37年に尾道北高校に入学、昭和38年今から丁度60年前4月、高校2年生の時再び同じクラスになり再開。この時母親から家内が小学校の時同じクラスに在籍していたことを聞いた。
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 修学旅行の列車の中で「小学校1年生の時同じクラスだったね」と会話をし、家内も初めて聞く話であったようだ。その後も普通にクラスメートとして過ごしていた。
 卒業後私は広島大学、家内は広島女子大学に進学したことで時折広島在住の尾道北高同窓会で顔をあわす程度であった。
大学4年生の時家内の友人とその男友達が三段峡にドライブに行くので一緒に行きませんかと誘いを受け昭和43年8月15日に4人で出かけた。彼女の男友達は学科は違えど同じ工学部で同じ授業を受けたことも有り顔は見知っていた。その後、彼・彼女らは交際を続け昭和45年3月に結婚をした。私も家内も披露宴に招待され一緒に出席した。5月に家内にお見合いの話が持ち上がったが、見合いをしたくないが為見合い当日広島の下宿に電話してきて尾道に私は出かけた。家内が家にいなかった為見合いはキャンセルとなる。これを機会に私たちは付き合いを始めた。ただ次の年日立製作所に就職が決まっており、新入社員の身で直ぐに結婚できないと考え3〜4年待ってくれるように話す。今思えば申し訳なかった。
そして昭和48年4月8日に無事結婚式を挙げた。丁度知り合って20年目の節目の年であった。今から振り返ると10年ごとの節目に何かと縁があったのだと思う。
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何人もの人から「ご結婚はお見合いですか?それとも恋愛結婚ですか?」と聞かれることがあったが、家内はいつも「知り合い結婚です」と答えている。
 結婚してからの50年を振り返ると結婚できて良かったと思う。私が途中で会社を退職し「歯科医師になる」と言ったときも家内は反対せずに私の後を押してくれ、「子供を背負って生命保険の勧誘でもして支えます」と言ってくれた。実際はその様な状態にはならなくて済んだ。おかげで無事歯科医になれたし、開業したものの、医者や歯医者に知った人はなく暗中模索の中二人で悪戦苦闘をしながら何とか二人三脚でやってこられた。確かに50年の間には喧嘩をすることもあったが何とか乗り越えられたと思う。
 先月25日は私の誕生日で、沖縄の長男一家がやってきて2年振りに家族全員がそろいみんなでハッピー・バースデイを歌ってくれた。翌26日に家族全員で記念写真を写真館で撮影。その写真はまだ出来上がってこないが、写真館の人が私のスマホで取ってくれた写真を見ると二人から始まった家族は今や11人となっており感無量である。
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 先日、尾道の次男が娘の中学入学祝いと私たち夫婦の誕生祝い(ちなみに二人とも3月産まれ)と少し早いが金婚式の祝いとをかねて広島市白島にある日本料理店「なかしま」に連れて行ってくれた。料理も器も素晴らしく息子達の気持ちに感謝一杯である。
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 これからひ孫が産まれたりすると家族は増えてくるが、家内と私いつまで生きれるか分からないが出来るだけ多くのひ孫の顔も見てみたい。
昔からの言葉に「お前百までわしゃ九十九まで共に白髪が生えるまで」と言うのがあるが私は結構真っ白になっているし、家内も最近少し白いのが目立ってきている。
同年齢であるので日本の平均寿命を考えると女性の方が男性より6年ほど長生きをする。おそらくこの言葉のようにならないであろうが、老年離婚とならないように、これからも仲良く元気で出来るだけ長生きをしたいと改めて思った。
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レストランでフランス料理のフルコースとはならなかったが、近くの小料理屋で金婚式の祝杯を二人であげた。

2023年04月10日

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