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大先生(元院長)のブログ

初めてのエジプト旅行 PART3

 モーニングコールは6:00am、朝食はバイキングスタイルであったが、味噌汁が用意されていた。今日はナイル川の西岸観光である。王家の谷にあるツタンカーメン王墓、王妃の谷のネフェルタリ王妃の墓などの見学をすることになっている。7:30出発し小舟でナイル川を渡りバスにて王家の谷に向かう。途中メムノンの巨像を見学する。2世紀の地震でアメンホテップ3世神殿が倒壊しその神殿の前に立っていた像で唯一現存する遺跡である。
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 王家の谷ではまずラムセス4世の墓を観て、その後ラムセス9世の墓を観る。
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 その後ツタンカーメンの墓の内部に入る。この墓は10分以上滞在することは許されておらず、入り口で入場制限を行っていた。ツタンカーメンの墓はちょうど100年前の1922年にイギリスのカーター氏により発見された。全く盗掘にあっておらず完全な形で発見され、考古学上重要な発見であった。
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 まだ近くでは手掘りで発掘調査がなされていた。
見学後、発掘者のカーター氏の住居が博物館となっており、彼が発掘の際使用した道具やその時の写真などが展示されていた。
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 それからハトシェプスト女王葬祭殿を観に行く。実はこの場所は1997年11月17日午前9時(現地時間)頃外国人観光客ら200名に向けて待ち伏せていた少なくとも6名のテロリストが無差別に火器を乱射し日本人10名(観光客9名と添乗員1名)を含む観光客62名が殺害された事件現場でもある。当時TVや新聞報道で大々的に報道されていた。
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この建物は貴重な文化遺産でありとても整った感じがある。ハトシェプストは息子の後見人として20年間、男装しファラオの象徴であるつけ髭をした姿で国政を行う。そのため石像は男性のように作ってあるが顔立ちは女性そのものである。
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 その後王妃の谷に移動し、2016年から公開始まって1日150人しか入れないラムセス2世の妃、ネフェルタリ王妃の墓を見学。墓の規模こそ小さいが墓の構造はファラオと同じ立派なもので中の壁に描かれている壁画は色鮮やかで綺麗で素晴らしいものであった。
 それからクルーズ船に戻り昼食を食べる。ほとんど昨日と同じメニューウである。ハイネケンビール2本を飲んだ。部屋に帰るとベットメーキングの人がタオルと掛け布でベットの上にアートをつくっていてくれた。このような経験は初めてであった。
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 15:05クルーズ船がエドフに向けて出港。いよいよクルーズの開始である。海と違って川なので全く船の揺れは無い。両岸はバナナや椰子の木があり、サトウキビ畑もある、時折牛や山羊などを観るのんびりした田舎風景が続く。その少し奥の方は砂漠が続いている。
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 途中現地人が小舟でやってきてロープをクルーズ船に引っかけて一緒に移動しながら色々のものを売ろうとビニール袋に品物を入れて勝手にデッキに投げ入れてくる。気に入ればそれを受け取りお金を投げ返す。私は必要で無いので品物を丸めて小舟に投げ返したら、船ではなく川に落ちた。早々に顔を引っ込める。
 ナイル川の川岸に沈む太陽も中々のもので雄大さを感じた。
その後20:00頃エスナ水門前に到達。ここは川に段差があり船がそのまま通過できないので、クルーズ船2隻が来ると後ろ側の水門を閉めて前方の水位まで水を注入し同じ水位になったところで前方の水門を開けて通過させる。まさにパナマ運河方式である。
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このため順番待ちにおよそ1時間半をついやす。たぶん上流に向かう船と、下流に向かう船とでは利用時間帯が違うのであろう。水門内に入って船がどんどん上昇していくのを観ていた。30分くらいで無事通過。
続きはPART Wへ

2023年02月12日

初めてのエジプト旅行 PART2

 今日はカイロからルクソールまで空路で行く。そのため朝のモーニングコールは4時であったが、家内の携帯目覚ましが2時に鳴る。びっくりして起こされる。朝の準備を考えて3時間半に起床。少し寝不足の感有り。
 朝が早いのでホテルでの朝食は無理で、前の晩に弁当を受け取る、500mlの水と大きなパンが2個、それにバナナが1本入っていた。ホテル、バスの中、空港で食べるように言われていたが荷物になるのでバナナとパン1個を食べ、残りは枕銭1ドルと一緒にベットの上に置いて出発。今回のツアーではスーツケースは全部ポータさんが運んでくれて日本に帰国して関空で荷物を受け取った時だけ運んだ。ずいぶん楽であった。
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 カイロ空港を7:30発。機内朝食としてパン1個とジュース、ペットボトルの250mlの水が出た。なお今回の旅行ではツアー会社から毎日一人1本500mlのペットボトルが配布された。また宿泊施設でも500mlのペットボトルが一人1本提供されたことより途中で水を購入することは無かった。
 8:40ルクソール到着。ルクソールにはナイル川を挟んで東岸と西岸に遺跡があるが今日は東岸の遺跡の観光である。現在のルクソールはかってエジプト帝国の首都として約1000年間に渡って繁栄を誇ったテーベの町があったところで、歴代ファラオが集めた富は膨大であった。
 この度の現地ツアーガイドさんは日本語がすごく達者で全然違和感が無かった。彼の経歴は大学の観光科で日本語を学ぶと同時に日本大使館の文化講座で3年間学ぶ。そしてその時の日本語教師(日本人)から日本への留学を勧められ東京に3年間留学していたとか。
 まずカルナック神殿を観る。3000年以上前にこれだけのものを作ったがいつの間にか砂に埋もれ忘れ去られていた。1870年頃から発掘が開始されたアメン大神殿は円柱式では世界最大の神殿で、大列柱室には高さ23mの円柱が134本林立している。この神殿は第19王朝時代に述べ8万人を動員して建てられたもの。
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 カルナック神殿に人を導く壮大なスフインクス参道は3本あるが写真はファラオを守護するアメン神の分身である牡羊のものである。またアメンホテップ3世が神に捧げた巨大なスカラベ(糞転がし)など観るべきものが多くあった。
よくもこのような物を建造したものだし、また砂に埋もれていたものをよくぞ発掘したものだと感心する。
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 見学の後クルーズ船にチェックインして昼食はクルーズ船のレストランでとる。
 その後またバスでルクソール神殿見学に出かける。ここは過去の繁栄を物語る唯一の遺跡は1883年に発掘されたアメン・ラー神殿で長さ260mに及ぶこの大神殿を建造したのはアメンホテップ3世とラムセス2世。
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 ルクソール大神殿の正面には本来2本のオベリスクが立っていたが、現在左側のみが残っている。右側のオベリスクは1830年代にフランスに渡り現在フランス・パリのコンコルド広場にたっているとか。5年ほど前にパリに出かけたとき観た。
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 その後ろにはラムセス2世の巨大座像がある。大きな石像を観ながら中を見て回った。ツタンカーメンとその后といわれる座像があった。現存するツタンカーメンの石像はこれだけだとか。この神殿の大きさや荘厳さに圧倒された。
この神殿はグレコ・ローマン時代キリスト級が入ってきた時、教会となったことがあり、最後の晩餐の絵が少し残っているとのこと。
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 その後神殿を出てスフインクス参道を歩いてみた。ここのスフインクスは人間の顔である。昨年まではこの参道の上に一般家屋が建てられていたが、すべての家屋をとりのぞき、発掘をして午前中観たカルナック神殿まで繋がる3.5kmの参道となった。
 神殿見学を終わりツアーの一つの行事である香水店に案内された。いろいろのものを紹介されたが何も買わず。
 クルーズ船に戻り夕食。お昼と同様、バイキング形式である。種類も豊富でスイーツもいろいろあって楽しませてくれた。2テーブルに分かれて食事をしたアルコールはその場で現金払いで330mlのハイネケンビール(3$)を飲む。今回のツアー客は全部で16人、夫婦が6組、娘さんと母親の組が2組、男性の一人旅が2名であった。娘さんと来られている母親さんは少し年代が若い気がしたが後はほぼ私と同じくらいであった。
 食後アトラクションとして豊満な胸の肉体美豊かな女性によるベリーダンスショウーあった。その後、若い男性によるベリーダンスもあった。
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 なおベリーダンスはエジプトが起源らしく起源500年前の壁画にベリーダンスを踊る半裸の女性ダンサー達が描かれているとか。
あすもルクソール観光なのでクルーズ船は停泊したままである。夜も更け床につく。
続きはPART Vへ

2023年02月11日

初めてのエジプト旅行 PART1

 2020年2月のインド旅行以来の旅行である。コロナの大流行で3年間行くことが出来なかった。高齢者の私にとっては年齢を重ねるほどに旅行に対する体力が無くなり残り時間を考えながらの行動である。昨年6月頃9月出発のトルコツアー旅行を申し込んだが、第7波の開始で旅行会社がツアーをキャンセル。その後落ち着いたので12月8日出発のエジプトツアーを申し込んだところ、ツアー客が集まらないので中止と旅行会社が言ってきた。ただし1月26日出発の「遙かなるエジプト ナイルの船旅と偉大なる王の夢10日間」ツアーは催行決定しているというのでそちらに変更した。ツアー参加の条件としてコロナワクチン3回摂取の証明書が必要であったので尾道市に申請し用意をした。出発までの間コロナに感染しないように気をつけていた。
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 このツアーには「スーツケースの宅配サービス」がついていて前もってヤマトに集荷に来て貰い当日関西空港で受け取った。大きなスーツケースを持たないでショルダーバック一一つで出かけられたのは良かった。ただ前日の25日には結構雪が降って関西空港に間に合うように行けるのか気をもんだ。
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 当日新大阪に向かう途中、相生付近では屋根や畑に雪がかなり積もっていた。特急はるかも20分ほど遅れて運行されていたが無事に関空に到着。コンビニでおにぎりを買って夕食とする。スーツケースも無事届いており受け取り、冬支度の服を少し脱いでスーツケースに収納。旅行会社の出張窓口で航空券や海外旅行保険被保険者証を受け取り、エミレーツ航空のカウンターで荷物を預けチェックイン、出国審査を終えて入場、時間が少しありラウンジにてビールを飲んで休憩。現在大阪万博のため工事が行われており空港内は迷路のようになっていた。22:40に搭乗口に集合し23:30ドバイに向けて離陸。
搭乗機はB777で古い機体であったのか、モニタースクリーンがうまく作動せず残念であった。およそ11時間超の飛行で雨降るドバイに到着。
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2時間半後にエジプトカイロに向け出発。この機体はA380−800の最新式でモニターもばっちり。日本映画「ONODA 一万夜を超えて」を鑑賞。これはフィリピン・ルバング島で上官の命令を忠実に実行し戦争終結後30年近く残って情報収集した小野田寛郎少尉の話で、1974年3月最後無事救出されるまでが描かれていた。言葉は日本語であるが字幕は英語であり、外国人 の人にも鑑賞できるようになっていた。
 現地時間午前10時半頃(日本との時差は7時間のため日本では夕方17:30)に無事カイロに到着。ついに子供の頃から行ってみたいとあこがれていたエジプトの大地を踏んだ。
バスに乗り込み2021年4月にオープンした「エジプト文明博物館」を見学した。
空港からバスで出発するにも警察や軍の警備が厳しく常に許可を貰いながら移動する感じであった。驚いたことに町中でも、博物館でも人々はほとんどマスクを着用しておらず、日本人観光客だけがつけている感じであった。私もそれ以後ほとんどノーマスクとした。
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 エジプト文明博物館は大きくて古代から古・中・新王国時代、ペルシャ、グレコローマン、イスラム王朝と続くいろいろのものが収納されていた。一番はファラオのミイラ20体が展示されていることである。ただし写真撮影は禁止。
 高校生の修学旅行と違って前もって予習をしていないのでほとんどエジプトについては判らないことだらけ。世界4大文明の一つと学校では習ったが、聞いたことがあるといえばピラミット、スフインクス、ミイラ程度である。また文字が書かれているパピルス紙なども展示してあった。
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 石器時代からの歴史はあるが今から5000年前(BC3000)年頃に第一王朝ができあがったようだ。日本でも縄文時代は13,000年以上前からあり世界遺産登録の三内丸山遺跡は5900〜4200年(BC3900~2200年)前の遺跡で決してエジプトには劣らないのだが、木と石の文化の違いで残念ながら実際に形が存在するエジプトの遺跡の方に目を奪われる。
見学を終えてカイロ市内の「ロイヤルマキシム パレスケンビスキー」にチェックイン。
飛行機で寝たといっても体は結構疲れておりほっとする。
続きはPART Uへ

2023年02月09日

映画「荒野に希望の灯りをともす」を観て

 先日3年ぶりに映画を観に行った。この映画はパンフレットによれば「アフガニスタンとパキスタンで35年に渡り、病や貧困に苦しむ人々に寄り添い続けた、医師・中村哲の21年間継続的に記録した映像から、これまでテレビで伝えてきた内容に未公開映像と現地最新映像を加え劇場版としてリメーク。混沌とする時代の中で、より輝きを増す中村哲の生き方を追ったドキュメンタリー。」とあった。
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 彼の活躍は何度かTVで観たことがあり、2019年12月4日に彼が何者かの凶弾で命を奪われたとニュースが流れたとき「えっ」と声が出て何でと思った記憶がよみがえる。
 私が毎月購読している「致知」2020年6月号に中村医師を応援していたペシャワール会会長の村上優医師(中村医師の2年後輩)へのインタビュー記事『「天、共にあり」中村哲医師の遺志を受け継がん』が掲載されていて中村哲医師の活動をある程度認識していた。
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 その記事の中に村上優医師と中村医師が1979年にパキスタンを訪れたが、ソ連のアフガニスタン侵攻で国境が封鎖され通行許可書が取れなかったり飛行機が欠航になったりして1ヶ月くらい山の中に閉じ込められた。そこで何もすることがないので毎日満天の星空を眺めながら夜な夜な、医療のことから人生のことまで語り明かした。その時、『中村医師は「命は不平等である」と言う言葉を発っせられた。僅か数十円の薬が買えずに亡くなって行く人たちを目の当たりにし、つくづく「命というのは不平等である」との思いを抱かれたのでしょう。それを何とか解決しなければいけないと強い口調で言われていた姿は、今も鮮明に覚えています。』と有った。これが中村医師の活動の原点であるようだ。
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 映画のパンフレットから引用させて貰うと「パキスタン、ペシャワールのハンセン病棟で始まった医療活動は、やがてアフガニスタンの山村無医地区に広がって行く。しかし2000年、アフガニスタンを大干ばつが襲った。農業は壊滅し、飢えと渇きで瀕死の人々が中村医師の元に押し寄せたが、医療で支えるのは限界であった。そして起こった9.11アメリ同時多発テロと、それに続くアフガニスタン空爆。その時、中村は誰も想像しなかった決断をする。用水路の建設だ。大河クナールから水を引き、乾いた大地を甦らせるというのだ。果たして、医師に用水路建設など出来るのか。無謀と言われた挑戦が始まった。
 専門家がいないまま始まった前代未聞の大工事は、苦難の連続だった。数々の技術トラブル、アフガン空爆、息子の死・・・。中村はそれらの困難を一つ一つ乗り越え、7年の歳月をかけ用水路は完成、用水路が運ぶ水で、荒野は広大な緑の大地へと変貌し、いま65万人の命が支 えられている。」
 今回の映画を観て深く心を打たれた。中村医師が語った言葉が朗読され画面に字幕として挿入され目で追っていくたびにすごいな、すごいなと思い時に目頭があつくなった。
パンフレットによれば「彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る」という言葉が出た画面では、空に戦闘ヘリが飛びかう中、地上では中村医師達が用水路の建設に励んでいた。中村医師の話では機銃照射もされたとか。
 彼の生き方・行動を観ながら自分がいかに小さく身勝手に生きてきたかと反省させられる。それと同時に江戸時代荒廃した600以上の村々を復興させた二宮尊徳翁と中村医師が重なった。世界中グローバリズムがはびこり「今だけ金だけ自分だけの世の中」では考えられないことであり、日本人として本当に誇れる人である。今日本では中村医師の生き方が中学や高等学校の教科書で取り上げられているとか。同じ日本人として中村医師のことを誇りに思うと同時に損得や打算も無くこのような平和活動をしている人であっても、最後殺されるというのはあまりにも理不尽である。
 多くの先進国が途上国を支援するときお金を出すだけのケースが多い。この場合は多くの資金援助は賄賂などで大半消え、現地に届かないことが多いと聞く。しかし中村医師達の場合はペシャワール会が集めた日本からの寄付金を直接中村先生達の現地組織に送金しているのですべてが現地に届くのでは無いだろうか。
ぜひこの映画は国会議員や政府のかたがたに観ていただきたいと思う。

2023年01月14日

2022年から2023年へ

 今年の年越しは例年と少し違った。というのも11月21日の早朝ウオ−キング時に、つまずいて転倒した。その際右手小指の脱臼と手首の捻挫をしてしまった。小指の方は思い切り引っ張ったところなんとか元の位置に戻った。近くの整形外科に行きレントゲン写真を撮ってもらったが骨折は無いとのことであった。その日はそれほど右手は腫れなかったがその翌日になるとぱんぱんに腫れ上がり、私自身は「ふくよかな女性の手だ」と冗談ぽくいったら、従業員の衛生士さん達から「赤ん坊の手だ」と言われた。それから日々の仕事は大変で、歯を食いしばりながら年末まで仕事をした。今日1月4日現在でもまだかなり腫れていて、じゃんけんぽんの「ぐう」が思い切り握れないし、ペットボトルの蓋が開けられない。また箸を持って食事をするときも痛みをこらえながらしている。受傷後どれくらいで完治するのであろうか。
 それに加えて12月23日頃から鼻水と咳と発熱があり24〜25日と床に伏せっていた。幸い熱は下がったが咳・痰・鼻水が出て市販の「ベンザブロック」や「ストナー」などを購入して服用した。なんとか29日まで出勤し無事2022年の仕事を終えた。30〜31日はお正月に向けて家の掃除を少し手伝ったりした。家内は私の風邪がうったのか似たような症状が出ている。今回の風邪はどうやら5月以来毎朝5時からウオーキングすることによる睡眠不足が原因(平均6時間前後)と判断し疲労が溜まりにたまっているのでこのお正月は寝正月を決め込む。大晦日の紅白歌合戦も夜10時半には切り上げて寝てしまう。
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ただし初日の出は写真をとおもい、6時半に起床し例年のごとく近くの消防署前の海岸にて写真に収める。白鷺まで来て初日の出を観ている。穏やかな初日の出、日の光を浴びると今年も頑張ろうと気持ちが引き締まる。
   IMG_3409-1.jpg    IMG_3432-1.jpg                                                                                                                                                                                                                                                                                                                
 帰って毎年のように国旗「日の丸」をベランダに立てかける。昼前に次男一家が新年の挨拶に来た。彼らはこの後大阪の嫁の実家にいく。
その後年賀状を受け取り出しそびれていた方に返事を書いて本局まで持って行く。今年も女性の年賀状受け取り隊が出動していた。彼女のかごに投函。そういえば昭和37〜38年(高校1年生)と昭和38〜39年(高校2年生)の冬休み、この本局でアルバイトをして年賀状を配達したことを思い出す。ちょうど60年前のことである。配達区域は本局から西へ「桂馬のかまぼこ屋」までで、配達員の方が肩にかけて運ぶ「がま口」といわれる鞄3杯分があつたように思う。一つ配り終えると局まで帰り次を持って出て配るということをした。アルバイト賃は確か1日350円であったと思う。そのアルバイト賃で研究社の「英英辞典」を買った。今でも時折使用する。
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 2日は8時前に起きだし、8時からTVで「東京―箱根間往復大学駅伝」を観る。出場選手の出身高校の名前が出ていたが、広島世羅と出ているのを観ると頑張れと応援したくなる。往路は「駒澤大学」が優勝した。昨年の覇者青山学院は9位で驚いた。
 3日も朝のウオーキングは無く7時半までゆっくり寝て8時から駅伝の復路をTV観戦した。駒澤大学の総合優勝で幕を閉じた。青学は頑張って3位に順位を上げていた。さすがだ。
かなり体力が回復してきたので3時過ぎから久しぶりにいつものコースをウオーキングした。鼻水がかなり出てマスクがびしょびしょになった。
 本日4日は世間では仕事始めのところもあるが「さいだ歯科医院」は開業以来、年末の休みは30日から4日までと就業規則に決めている。今年は5日が木曜定休日なのでもう1日長い。6日からの仕事に体を慣らすため、本日より朝のウオーキングを開始した。
 TVや新聞などを読むとロシア・ウクライナ戦争、欧米のインフレ問題、エネルギー不足問題、円安、物価の高騰、増税、コロナなど今年の見通しはかなり厳しいようだ。なんとか今年を乗り切り最後に明るく笑いたいものである。

2023年01月04日

駐車場整備工事完了

 永年の懸案事項であった駐車場の整備を院長の息子が決めて、今年の4月頃から少しずつ準備をし、まず「さいだ歯科医院」のシンボルである「サイ」の石像を玄関口から国道沿いの駐車場入口に移動した。そして6月27日から本格的な工事が始まった。
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 今迄駐車場東側は法面になっていてそこに花桃、桜、イチジク、キンカンなどが植えてあったが、キンカンだけは裏の畑に移植した。しかし残りは伐採してそこに擁壁を立て、埋め立て駐車場を少し拡張した。多くの患者さんがあの綺麗な花桃の花が見れなくなるのは残念だとおっしゃっておられた。
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 ロシアとウクライナの戦争で材料がなかなか入手しずらくなり、途中擁壁用の鉄筋の入荷がストップして工事が出来なくなる。
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2週間以上工事が止まるというハプニングもあったが、なんとか12月1日に全ての工事が終わり引き渡しを受けた。予定より2ヶ月遅れであった。
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 駐車場は広くなり、患者様用として14台分を確保した。これだと業者さん特に運送業者さんの大型トラックも安心して駐車出来るであろう。また駐車する場所は西側と東側にあるがその間の間隔を広くとってあるので出入りは簡単であると思う。また今迄は駐車場の入り口は1箇所であったが、あらたに南側に1箇所設けたのですごく便利になったと患者様には好評である。
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 車いすの患者様用に屋根付きの駐車スペースと横に息子が車庫を作った。車いす駐車スペースから玄関までは直接行けるよう新たなスロープもつけた。

 さらに車いす用駐車ペースの2階には研修室兼従業員の休憩室も作った。今迄のスタッフルームはあまりにも狭く、コロナ禍で食事も2組に分かれて時間差で食事をしていたが、これからはそれも解消できるであろう。
ともあれ私にとっても永年の懸案事項が解決してホットしている。

2022年12月08日

虫の知らせ

 辞書によると「虫の知らせ」とは『何の根拠もないが、何となくそのような気がすること。予感がすること』とある。
65年も前の話であるが、私が小学校4年生の昭和32年1月18日学校からの帰り道、急に祖父が死んだのでは無いかと思った。父方の祖父母は私が生まれる前になくなっており、母方の祖父母しか知らない。最も祖父に会ったのは生まれてすぐの頃、母親が里帰りをした時(もちろん記憶はない)と小学校1年生の夏休みに母親と一緒に石川県能美郡北市村に母親と一緒に遊びに行った時の2回だけ、この時の祖父の顔しか記憶には無かった。
当時祖父は胃癌のため一時金沢の国立病院に入院していたが退院して自宅療養をしていたようだ。親からは何も聞かされていなかったので祖父の容体を知るよしもなかった。
ただ「癌」と言う病気についてはどのような病気かわからず初めて知った名前であった。母親が言うには日本人のお医者さんか誰かがウサギの耳に毎日コールタールを塗っていたらウサギの耳に癌が発生したという話しをしてくれたのを鮮明に覚えている。
 日頃、祖父のことに想いを馳せた記憶は無い。ところがその日突然、急に「祖父が死んだのではないか」と思ったことが不思議であった。後年、このことが「虫の知らせ」だったと思った。
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 そして父の死後、遺品の中に昭和32年1月18日に我家に届いた2通の電報が残してあった。それによると1通は当日尾道電話局の受信がJAN 18 AM 11.55 「チチキトクスグ コイ」でもう1通は「チチシススグ コイ」で受信はJAN 18 PM 4.42と記されている。4時42分という時間から推測すると午後3時頃になくなったのかも知れない、丁度私が帰宅していた正にその時刻ではなかったのだろうか?
学校から家に帰ると母親がおじいちゃんが危篤なので今夜、夜行列車で北市まで行くと言ってあたふたとでかける用意をしていた。夕食前に電報が届き、「父死す」と書いてあった。急遽父・母・私・妹の4人で夜行列車に乗って出かけた。なお余談だが当日の夕食のおかずがワタリ蟹だったことをこれまた鮮明に覚えている。何故か私は色々のイベントがあったときの晩ご飯のおかずが何だったか覚えている。例えば父が通勤用の革鞄を買った日のおかずが鯖の煮付けであったとか、妹が生まれたとき私は4歳であったが、朝飯として父親と一緒に片栗粉を煮て食べたとか。
 ところで今回このことを思い出すきっかけは、家内の兄(私にとっての義兄)が亡くなったことである。10月の始め家内とその妹がコロナの為3年ほど東京の兄と会っていないので急遽会いに行こうと話がまとまり、10月7日から10月10日まで出かけた。兄は大喜びで「おまえら、わしがもうすぐ死ぬかと思って来たのだろう」と冗談を飛ばしていたとのこと。兄妹3人で4日間楽しく過ごせたと嬉しそうな顔で家内が帰宅した。
ところが今月7日の朝、昨夜(6日の23時過ぎ)義兄が亡くなったと義姉から電話が入る。一瞬耳を疑った。死因は心筋梗塞であった。1ヶ月前あれ程元気であったのに。まさに義兄が言った言葉通りになった。
今から思えば家内達が急に東京に行く気になったのもひょっとしたら「虫の知らせ」だったのかも知れない。
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 東京はこのところ死ぬ人が多く、なかなか火葬場の予約が取れなくて5日間待機させられ、11日通夜、12日葬儀となり家内と出かけ無事終わった。私も義兄がいなくなり淋しい気がしているが家内の気持ちはいかばかりかと思う。
今回のことも含めて私は「虫の知らせ」は存在すると信じている。

2022年11月17日

秋の農作業を振り返って

 先日、9月21日に種をまいて苗を育てていた中生の玉ねぎ「まどか」を植え終わり、我が家庭菜園における秋の農作業はあらかた終わった。
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 この秋の農作業の中で一番の問題だったのは大根のお世話であった。昨年より1週間遅れの9月11日に種をまいた。9月14日には芽がではじめ、16日には全部発芽した。例年芽が出ると直ぐにチョウチョがやってきて卵を産み付けしばらくすると葉っぱが食い荒らされる。そこで今年は17日に大根の為にトンネルをつくって防御することにした。しかし9月18日には台風が来るというのでトンネルが風で飛ばされてはまずいと思い、ネット用の杭を購入して補強などをした。幸い被害もなくやれやれ良かったと思った。9月22日に1回目の間引きを行い2〜3本立てにした。その後何か様子がおかしいところが出てきた。
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9月28日は出てきたばかりの本葉を食べられ双葉だけ残っているとか、本葉がくるりと回っている。その葉を広げてみると中に7ミリ程度の白いウジ虫のような幼虫がいた。You Tubeで調べてみるとシンク虫のようである。この虫がどこから湧いてきたのか分からないが土の中にいたのではないだろうか。9月29日に2回目の間引きを行って、間引いた苗を、シンクイ虫にやられたところに移植してみたが10月2日には移植したものは全部枯れてしまっていた。結局植えた1/4が全滅で新たに種を買ってきてそこの所に植え直しをした。20日遅れとなる。その後はシンクイ虫被害もなく順調に生育し、10月30日にトンネルを外した。後から植えてものも小さいながらも順調に成長している。もう1週間もすれば最初に植えた大根は1〜2本収穫出来そうである。
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 10月15日には柿の収穫をしたが、今年は裏作なのか数が少なかった。しかし大きな柿であった。その日の午後はサツマイモ「紅はるか」を収穫したが今年は何故かゴボウのようなものが多く、お芋の形をしたものが少なかった、また芋の形をしているかと思えば1個だけ大きく育っていて後はゴボウのような形の芋が多かった。それでも息子達の家に届けることができた。
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 後はミニトマト畑の手じまいをおこなう。今年は未生の苗が8本ありかなりのトマトが収穫出来、大いに楽しませてくれた。その際まだ熟れてない実も収穫しこれは1〜2週間日向においとけば色づいて食べられるようになる。
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 生姜を11月3日に収穫した。初めてのことである。以前生姜を植えたことがあるが1個だけ芽が出たが2週間くらいで枯らしてしまった。全く生姜に対する知識が無く、多分浅く植えすぎたこと、水分蒸発を抑えるために稲わらや籾殻で覆っていなかったこと、水やりが不足いたことなどが挙げられる。6月2日に植え付けてから前回の反省を元に水やりを欠かさず、夏場はほぼ毎日水をやって育てた。1個のたね生姜から10本以上の芽が出ていた。10個植え付けたのだが一つの種生姜から10数個の新生姜が出来ていた。これが投資なら莫大の富を産むことになるのであろうと新生姜を見ながら思った。匂いが良くて味も良かった。
 後は、オクラ、モロヘイヤ、の種取りを行い、ナスビも手じまいである。冬の間は大根の収穫をして、春のジャガイモの植え付けまでゆっくり休めそうである。

2022年11月06日

GHQ焚書

 先日ダイレクト出版社が発行する「ルネサンスvol.12号 2022.8.15発行」を読んだ。このルネサンスは定期刊行物ではないが年に2〜4回不定期に発行されており、毎回取り寄せて読んでいる。この12号は『GHQが隠した「本当の日本」』という特集であった。
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表紙の裏には次のような文章が書かれていた。
『1946年3月17日。日本を占領したGHQは、戦前まで刊行されていた大量の書物を、全国から“没収・廃棄”するように日本政府に命令。日本国民の目にふれないように「文部省」や各都道府県の「警察」を使って、秘密裏に書物を没収させました。その数、7,769冊。それらの中には、GHQが戦後の日本人に読ませたくなかった戦勝国にとって都合の悪い書物や、日本人としての生き方や叡智が凝縮された書物が多数ありました。先人が残してくれたこれらの「知の結集」を、誰かが「復刻」していかなければ、永遠に読まれずに国民の記憶から消えて行くことでしょう。私たちダイレクト出版社は、入手困難なぼろぼろの状態の「GHQ焚書図書を」発掘し、一流の専門家に読み解いて頂き、わかりやすい動画講義の形で後世に残すプロジェクトを開始しました。』
焚書という言葉は高校1年の世界史の授業で、秦の始皇帝が儒教の書物を焼き払い、儒者を穴埋めにして殺した蛮行を「焚書坑儒」だと習ったのが最初である。最近ネット上でも「GHQ焚書」という言葉を時々目にするようになり、購入したのは次の8冊である。
 「興亜の大業 松岡洋右」、「東亜全局の動揺 松岡洋右」、「政党を脱退して日本国民に訴う 松岡洋右」、「非常時と日本の国防 石原莞爾」、「日本戦時経済の進む途 岸信介」、「裏から見た支那人 笠井孝」、「真珠湾 ブレーク・クラーク著 (海軍大佐廣瀬彦太訳)」、「皇室と日本精神 辻善之助」。
現在の国際情勢を見たとき、これらの本は有用なヒントを与えてくれると思われる。
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いずれの本も復刻にあたり 1,歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに改める。2,「常用漢字表」掲げられている漢字は、原則として新字体に改める。3,難読と思われる表記には、ふり仮名をつける。4,原書の誤植を修正し、必要と思われる箇所に(注)として説明を加えられており、読みやすくそれほど抵抗無く読めた。最後の「皇室と日本精神」は丁度読み始めたところである。
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ところで何故、民主主義国家であるアメリカがこの様な暴挙にでたのか、焚書蒐集・研究者の澤龍氏と歴史学者の福地淳氏との対談の中に
 澤氏「理由の1つは、やはり日本の優れた伝統文化や精神をぶった斬るためでしょう。焚書にされた本は、もちろんアメリカをはじめとする連合国を批判したものが大半なのだけれど、その中に我が国の歴史、文化、伝統、皇統、国体、精神、民俗・・・・国の根幹に関わる内容が多く含まれています。国を亡ぼしてやろうと思ったら、その国の歴史と文化を国民から奪って、忘れさせてしまえばいいんだからね。」
 福地氏「うん、日本人の魂が書き込まれた本がたくさん選ばれている。」とある。正にこの部分ではないかと思う。 
 先日ネット上で平成25年2月12日の衆議院予算委員会で日本維新の会の石原慎太郎議員が当時の安倍晋三首相に質問をしている記録を見つけた。その中で次のように話している。 「昨年2月ごろ、靖国神社で聞いた90歳超のある戦争未亡人の歌だ。この方は20歳前後で結婚して子供をもうけたが、主人は戦死された。ひ孫もできたかもしれないが、その方は90歳を超して今の日本を眺めてこういう歌を作った。『かくまでも 醜き国になりたれば ささげし人の ただに惜しまる』。これは強い共感を持ってこの歌を聞いた」と述べている。
正鵠をえた歌で、正にこれこそGHQの為せる技でだと思う。あれから10年が経つが今の世の中はその時以上に世の中が荒み日本人の心が破壊され「今だけ、金だけ、自分だけ」の風潮が強くなっているように思う。先日の安倍元首相の国葬についても国民を二分したがTVのインタビューなどでは「国会で議論されてない」、「法的根拠がない」、「国民の税金を使う」などの意見を述べる人が多かった。しかし日本では生活保護という制度があるがこれは憲法25条の理念に基づき生活保護法が作られその第一条には国は生活に困窮する国民に対して、必要な保護を行うと規定しており、外国人に対しては、生活保護法は適用されない。さらに2014年7月18日、最高裁においても「外国人は生活保護法による保護の対象にはならない」という判決が下されている。しかし人道上の観点から現在も支給されている。この様に外国人に生活保護を支給するようにしたのは昭和29年5月8日の「各都道府県知事」に宛てた厚生労働省社会局長通知である。もちろん国会での討論、議決も経ていない。平成29年11月10日の加藤厚労大臣の記者会見で記者が外国人生活保護は1200億円と述べているが、医療費無料、交通費無料、水道代無料などを含めると恐らく5000億円を超えると思われる。この金額と国葬16億円とを対比したときどうなんだろうと思われる。この様な寛容こそが日本人の心ではないだろうか?
 さて私が読んだ中でアメリカ人の書いた「真珠湾」(著者の奥付では昭和17年1月23日とあり、底本は昭和18年6月1日三刷 鱒書房)という本が何故焚書になったのか考察すると、この本の巻末に訳者の海軍大佐廣瀬彦太によりハワイ敗戦真相調査委員会である「ロバーツ委員会報告書」が附してある。アメリカはこの真珠湾攻撃が日本の騙し討ちであり「リメンバー・パールハーバー」という合い言葉の基に第二次世界大戦に参戦する。しかし昭和16年11月26日にハル国務長官から野村・来栖両大使に受託不能の挑戦状「ハルノートが」手渡されこれにより日本は戦争へと舵を切る。そのことはアメリカ側も十分予測しており翌11月27日には陸軍参謀総長、海軍作戦部長からハワイの陸軍司令長官・太平洋艦隊司令長官宛に「この訓令は戦争の警告と考えるべし」と通達された。さらに12月7日まで縷々適切な処置を執るよう命令や警告を受取っていた。しかし現地では適切な対応がとられなかったことを報告書は記載している。つまりハワイの惨敗の原因は、決して日本軍の「騙し討ち」にあったのではなく、まったく現地陸海軍当局の油断と無準備とにあったことを、明白に指摘している。この事が日本国民に知られるとまずいと思い焚書にしたものと考えられる。
 話は変わるがもう一つ1937年に書かれた「裏から見た支那人 笠井孝著」は最初の序に代えてで「支那の主要民族たる漢民族の特筆を拾い上げたものであって、就中その悪徳方面のみが、多すぎる嫌いがないでもない。素より支那人にも美点はある。併しながらそれがある故に、その悪徳方面を見逃す訳には行かない。そこで私は、この方面について私の体験を、極めて率直に記述した次第である。」と書いている。
 ここに書いてあることは今現在の中国の政治手法などからもその通りで有ろうと思われる。とりわけ中国に進出して儲けようと思われる経営者の方には是非読んでおいてもらいたい。
 2015年「かっぱえびせん」のカルビーが中国から撤退するのに持ち分の51%の株を買いたたかれてたったの1元(19円)で譲り渡してやっと引き上げることが出来た話などこの本を読むと何故そうなるのか納得できる。
 なおこの本の著者「笠井孝」についてはこの本が復刻されるまで詳細はわからなかったが復刻された本を読んだ読者の方からダイレクト出版に連絡があった。
日本陸軍の中でも、支那通で知られていた酒井隆(さかい たかし)という人物がペンネームで書いたものだった。
 彼は広島県出身、陸軍士官学校を出て1908年任官、駐中華民国公使館の副武官、支那駐屯軍参謀長、香港軍政庁長官など、中国に駐屯していた日本軍で要職を歴任し、陸軍きっての支那通として知られていた人物です。終戦後の1946年、南京の軍事法廷で死刑判決を受け、同年に処刑。最終階級は陸軍中将でした。
 つまり、この本は中国専門の日本軍人によって書かれたということであり、それだけ正確に、当時の日本軍は中国の情報を掴んでいた。それ故今も十分にこの内容は生きていると思う。

2022年10月10日

医療費窓口負担

 本日「後期高齢者医療被保険者証」が広島県後期高齢者医療広域連合から送られてきた。これで今年3回目の保険証である。と言うのも3月から後期高齢者になったため最初3月25日から7月31日まで有効なもの、次に8月1日から9月30日まで有効なもので本日送られて来たものは来年7月31日まで有効となっている。これは10月1日より今迄1割り負担で有った方の中で一定以上の所得がある方は窓口負担が2割負担に変更されるからだ。
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 厚労省のHPによれば『少子高齢化が進展し、令和4年度以降、団塊の世代が75歳以上の高齢者となり始める中、現役世代の負担上昇を抑えながら、全ての世代の方々が安心できる社会保障制度を構築することが重要です。
 このような状況を踏まえ、医療保険制度における給付と負担の見直しを実施するとともに、子ども・子育て支援の拡充や、予防・健康づくりの強化等を通じて、全ての世代が公平に支え合う「全世代対応型の社会保障制度」を構築することを目的として、令和3年の通常国会において、健康保険法等の一部を改正する法律が成立しました。
 この法律により、令和4年10月1日から、現役並み所得者を除き、75歳以上の方等で一定以上の所得がある方は、医療費の窓口負担割合が1割から2割に変わります。また、窓口負担割合が2割となる方には、外来の負担増加額を月3,000円までに抑える配慮措置があります。』と説明されている。
そして2割になる人の数は後期高齢者全体の2割の人だと書いてあった。私の場合まだ現役バリバリで仕事をしているので今迄と同じく3割負担である。しかし「さいだ歯科医院」に通院される患者様の中には影響がでる方がいらっしゃるであろ。ただ厚労省のHPに書いてあるように「外来の負担増加額を月3,000円までに抑える配慮措置」が少しは有効であるだろう。ただメンテナンスの患者様には厳しいかもしれない。 
 ところで医療費の負担割合というのは法律で決まっており今迄は75歳以上の者は、1割(現役並み所得者は3割)。70歳から74歳までの者は、2割(現役並み所得者は3割)。70歳未満の者は3割。6歳(義務教育就学前)未満の者は2割、となっているがこの度75歳以上の者について改正が行われたと言うことである。
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6歳未満の就学前乳幼児については乳幼児医療と言うことで2割負担であるが、各自治体が補助を行っている。
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 尾道市でも最初は6歳未満で通院の場合1医療機関につき1日500円の患者負担で、同じ医療機関での1ヶ月の負担は通院月4日までの支払い(最高2000円)でその後は窓口負担がないと言うサービスが行われていた。その後小学校卒業までに延長され、さらに中学生までと延長されてきたが、この度10月1日より18歳到達後最初の3月31日(高校卒業)までに延長された。近辺の三原市、福山市よりも良いサービオス提供となった。平谷市長を始め市議会の先生方の英断によるものであり医療提供側としては本当に有難いことである。これにより少しでも受診抑制がなくなり市民の健康に役立てば良いと思う。
 また最近は若い人達がUターン・Iターンをして地方に移り住むケースが増えてきていると聞くが、この人達にとっても子育てするのにどこが良いか探す場合大いに参考にしていただき尾道市を選んでいただけるのではないだろうか?

2022年09月22日

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