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最近の記事
10/03 里子の旅立ち
09/25 小学唱歌 「二宮金次郎」
09/06 平穏死
08/25 我が子育て
08/05 札幌出張
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大先生(元院長)のブログ

里子の旅立ち

 先日タイ国のドゥアン・プラティープ財団よりメールが入った。それによると私が里親として毎年幾ばくかの奨学支援をしていたスピー・タキアン君が6月10日に無事大学を卒業してプラティープ財団に就職し修理部門を担当しているとの連絡であった。
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 私がこの財団と係わるようになったのは、この施設のこと、創設者プラティープ・ウンソンタム・秦 女史の事を2000年に故・石川洋先生(托鉢者、元、京都一燈園)にお聞きし、子供たちを継続的に奨学支援することにし、毎年いくばくかの奨学金を送ってきた。
 バンコクのスラム街クロントイ地区にドゥアン・プラティープ財団がある。1978年にこのスラム出身のプラティープ・ウンソンタム・秦 女史が、自分の経験からスラムに住む子供たちが悲惨な状況下にあり何とか助け出したいとして活動を開始された。現在の日本社会では考えられないことであるが、当時からスラムの子供たちは劣悪な環境下で養育され、やがて麻薬を常用するなどのさまざまな非行問題に引きずりこまれたり、また正規の教育を受ける機会も少ないために、仕事に就くのに十分な学歴が得られず、就職難になりがちであった。
 プラティープ財団のパンフレットによれば、とりわけタイの貧困家庭では、きつい労働と日々の生活費の捻出に精一杯で精神的なゆとりがなく、そのために夫婦が仲たがいしたり、子供の養育が至らなくなるなどの問題が生じている。生活の問題から来るストレスで子供を虐待したり、また違法であっても生活のために我が子を働かせるという状況も出てきている。社会全体に影響を及ぼしている麻薬は、急激な勢いで蔓延しており、若者たちはその犠牲となって始めて、わが身の破滅を知るという状況が起きている。こうした青年たちを立ち直らせ、社会的に自立できるよう教育の機会を提供していくために、プラティープ財団は1986年にチュンポーン県に少年のために、ニューライフプロジェクト「生き直しの学校」をスタートしました。一方少女たちの問題は少年以上に深刻で、近所の人や家族から強姦されたり、虐待されたりといった悲惨な状況下にあっている少女が多く、こうした状況を見かねて、少年たちの施設に続いて、1996年にカンチャナブリ県(映画 戦場に架ける橋の舞台になった場所)に「少女のための生き直しの学校」をスタートした。
 ここでの少女たちの1日は、学校に行く子供たちの世話、野菜栽培、養豚、養鶏、調理や裁縫などの職業訓練、食事の準備などである。
 最初支援したB子は当時7歳の女の子であった。父親は麻薬売買と所持の罪で服役中、母親は麻薬常習者であった。施設に収容されたときは仔細な事で泣くなどなかなかなじめない子であったとの事。15歳になるまで、毎年学校の成績表や、短い手紙(日本人ボランティアが翻訳)、生活状況などが送られてきていた。私は、いつの日か、彼女がタイ国の未来を背負って活躍することを楽しみにしていたのだが、彼女が15歳の2008年6月17日にプラティプ財団からB子が親戚に引き取られ退所したと連絡が来た。両親は麻薬中毒で父親は服役中である。おそらく15歳になった彼女を働かせてお金を得ようとする親戚の魂胆であろう。まともな所で働くのなら良いが、売春宿などで働かされたら、8年間も里親として支援してきた甲斐が無いと当時はおもった。財団のほうも随分とそれを心配しているようであった。現在生きていれば31歳、B子が幸せに生きていてくれることを願うだけである。
 その後、私の里親援助は2008年7月から戸籍証明も無く母親の死亡書のみしか持たないスピー・タキアン君7歳に切り替わった。財団から送られてきたプロフィールによれば両親と物乞いをしながら住む場所も一定しない生活をしていた。父親はアルコール中毒で話すこともおぼつかない。母親が死んだ時、たまたま「生き直しの学校」に保護された。毎年送られてくる財団の報告書を見ながら彼が元気にしていることに安堵していた。小学4年生からは自筆の手紙が添えられていた。最もそれ自体は読めないので財団の日本人ボランティアが翻訳したものを読んでいた。彼からの手紙には前向きな気持ちが綴られていた。「生き直しの学校」で勉学と野菜栽培・養豚・養鶏・アブラヤシの収穫作業などの農業実習、スポーツ、コンピューター学習、学校外教育等をしながら小学校1年から甘えることなく頑張った。そして彼は大学進学を決意しついに大学に合格したというメールが2020年10月5日届いた。大学進学率は日本よりタイの方が低いにも係わらず本当によく頑張ったと当時思った。
 それから4年頑張って今年6月10日に無事卒業し卒業証書を受け取ったと写真を添えてメールが届く。彼からの手紙には感謝の言葉(日本人ボランティアが翻訳)が添えられており彼の頑張りに私も心が熱くなった。財団からも感謝の言葉が添えられていた。
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本当に良かったし私も肩の荷が下りた感じがする。彼には会ったことがないがいつか会える日を楽しみにしている。
 財団からは引き続き新たな子供の里親になってほしい旨、要請があった。ただ私も年齢が喜寿を超えたので最後まで面倒を見られるかどうか解らないが前向きに検討してみよう。

2024年10月03日

小学唱歌 「二宮金次郎」

 二宮金次郎と言えば、薪を背負って歩きながら本を読む銅像が小学校にあったような気がするが、二宮尊徳(金次郎)についてはあまり詳しくは知らなかった。川の氾濫で田畑が流されその後父母を無くしたがこつこつ小さい努力を積み上げていく「積小為大」に開眼し、かって手放した田畑を請け戻して生家を再興しその後小田原藩の財政を立て直したことなどおぼろげながら知っている程度であった。
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 私が毎月購読している月間「致知」が今年4月号より北康利氏による世界に誇るべき偉人の生涯として「二宮尊徳」の連載が始まっている。
その題の横には『 二宮尊徳はどんな人か。かう聞かれて、尊徳のことをまるで知らない人が日本人にあったら、日本人の恥だと思ふ。それ以上、世界の人が二宮尊徳の名をまだ十分に知らないのは、我らの恥と思ふ。―――武者小路実篤 』と書かれている。
毎月この連載を読みながらすごいことをした人物だと改めて思っている。
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 そんな中、致知10月号の木鶏クラブ通信という欄に「姫路教師木鶏クラブだより」が掲載されていた。その中に、6月例会時の休憩時間に二宮金次郎の歌を聞き懐かしい気持ちになったと書いてあった。
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それを読んで初めて「二宮金次郎」の歌があることを知った。77歳にして初めてのことである。念のため家内に二宮金次郎の歌を知っているかと尋ねたが知らないとのこと。
急いでインターネットで検索すると歌と一緒に歌詞も載っていた。
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インターネット記事によれば『二宮金次郎』は1911年(明治44年)刊行の「尋常小学唱歌」第二学年用で発表された文部省唱歌。作者・作曲者不明。とある。またこの第二学年用には「浦島太郎」、「ふじの山(富士山)」なども掲載されているとのこと。
全国の小学校には、大正から昭和初期にかけて、薪を背負いながら本を読んで歩く姿の二宮金次郎の銅像や石像が建てられたとのこと。
 この歌詞を見ながら現在の世の中を見渡すと随分と変わったなと思う。それも戦後『教育勅語』が禁止されまた論語などの教えがほとんど行われなくなったことによる弊害かなとも思う。彼の言葉の中に先ほどの「積小為大」という言葉があるが、彼自身が経験したことによるものである。本当に小さなことからコツコツと積み上げていくことが大事だと思う。しかし現代では一発勝負的な風潮が多い様に思える。
 さらに彼のやってきた「報徳思想」は徳をもって徳に報いることで、先月(9月)号の記述によれば「極貧の武士が内職として提灯や扇子の骨を削って生計を立てていたが、中には材料を仕入れる金さえなくなっている者もいる。無利息金で仕入れができれば、また内職が始められる。内職ができれば現金収入が入り、返済も可能となり、次の仕入れに回すこともできる。彼は歯車が回っていく最初の一押しのための原資を貸し付けたわけである。
だが人間は弱い。少し楽になると贅沢をする。そのことを何とか食い止めたいというのが金次郎の切なる願いだった。そこで、無利息金によって助かった者たちに、報徳の大切さを説いた。
『無利息金の徳によってその家を興したものは、よく昔の貧困と今日の安楽を思いくらべ、今日譲徳によって、昔施された徳に報いるべきである。こうして徳をもって徳に報いるならば、今日の幸福はずっと子孫に及んで二度と貧困に陥る心配はない。反対に、徳をもって徳に報いなければ、その幸福は一身だけにとどまって、子孫に及ばない。』」とあった。
この報徳思想は道徳と経済を一致させようとする教えで
至誠 わが心を誠、徳、仁に置く
勤労 至誠のもとに日常の労働を行う
分度 贅沢を慎み無駄を無くす
推譲 至誠、勤労、分度の後に残った剰余
で表せる。
この教えを現在に当てはめれば政府の施策のみでなく受ける国民の心構えとして大事である。コロナ禍のとき政府は色々給付金などを出したが、中にはごまかして多くの給付金を受け取った人や企業があったと報道がなされていた。民度が低いのであろう。
 さて現在自由民主党の総裁選まっただ中だが、日本国財政の厳しさをだれが立て直せるのか興味深いところではある。もし現在、二宮尊徳が生きていたらどのような提言をなし、かつ実行してくれるのであろうか。
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 なおこの薪を背負って本を読みながら歩く銅像(石像)の姿は、歩きスマホを助長するとか言われ撤去させられたり、座って本を読む像に変更されているとか、何ともやるせないことである。

2024年09月25日

平穏死

 今年もまもなく敬老の日がやってくる。まだまだと思っていたが、私も77.5歳になりいつの間にか、「敬われる」歳になった。
 先日、経営出版社発行の雑誌「ルネサンス17号」5月14日発行を読んだ。今回の特集は「間違いだらけの日本医療」であった。目次に示すとおり、癌検診、糖尿病食、コロナワクチンに関する記事など多く有りどれもビックリするような内容である。ここに書いてあるものがフェイクだと思われる方もいらっしゃるだろうし、そうなんだと思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
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 その中で私が特に気になった記事は長尾和宏医師の書かれた「多死社会を生き抜く“平穏死”」という記事であった。注に『日本は医療先進国で有るにもかかわらず、終末期患者の多くは医師の知識不足によって苦しい最後を迎えるという。在宅医療のパイオニアとして、四半世紀以上にもわたって2500人以上を在宅で看取ってきた長尾医師が語る、「自然で理想的な最後」とは?』とあった。
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 長尾医師が{平穏死}にたどりついた きっかけを一部転載させていただくと
{「皆さんは、自分や家族の“理想の最後”について考えたことがあるでしょうか。昔も今も、多くの人が自宅で看取ってもらいたい」と答える一方で、現実には病院などの医療機関でたくさんの管につながれて苦しい思いをしながら亡くなって行くケースが約8割を占めます。私が医者になって40年以上が経ちますが、最初に配属された救急病院では2年間にわたってたくさんの死を見ました。肝硬変や癌末期で運ばれてくる方が多かったのですが、「口から食べられないから」と高カロリーの点滴を1日2リットルくらいして、息が苦しくなれば酸素吸入もします。末期癌の人たちであれば、それでも苦しいからと、全員が人工呼吸器を付けていました。腹水や胸水が溜まれば抜いて、すると今度は「脱水になったから」と1リットル、2リットルもの点滴をする・・・。それらは当時、先輩から指導された“ごく常識的な治療”だったのですが、私は「何か違うな」と感じていました。
なぜなら、全員が「苦しい、苦しい」と言って、最後には血を吐いて血だらけになって死んでいったからです。亡くなった患者さん達は皆、溺れ死んだかのように顔も体もパンパンにむくんでいました。けれどそうした状況は、別の病院に異動してからも同じだったのです。
 そして医者になって10年目の頃、転機が訪れました。50代の食道がん末期の患者さんが入院してきたのですが、驚いたことに「何もしないでください」と言うのです。検査をしてみると食道が狭くなっており、かろうじて水が少し飲めるくらいの状態でした。普通なら、胃カメラでステントという管を入れるのですが、その患者さんはそれも拒否。食事もできませんから、それまで何百人もの患者さんにしてきたように高カロリー点滴をしようとしましたが、それも拒否されたのです。これではすぐに死んでしまうだろうと思っていたところ、1ヶ月経っても2ヶ月経っても、お水を少しだけ飲んで超元気に過ごしています。点滴もステントもしない末期がんの人が元気にしているなんて、私は驚きました。     しかし3ヶ月目くらいになると急速に弱って、3日ほどベットに寝付いたあと、枯れるように亡くなってしまいました。その時私は初めて“自然な死”を目の当たりにしたのです。
医者になって10年目にして「こんな死もあるのだ」ということを患者さんに教えてもらって、とても衝撃を受けたことを覚えています。この“自然な死”とはすなわち、「尊厳死」「平穏死」と同義のものです。そしてこの「平穏死」と言う言葉は、特別養護老人ホームの常勤医である石飛幸三先生がご著書『「平穏死」の進め』(講談社)の中で使われた造語なのですが、聞こえ方がやわらかいので私も使わせてもらっています。」} 転載ここまで
 その後、長尾クリニックを開業された後、大家さんを在宅で診たが在宅なので病院のような治療が出来ず基本的には点滴もせず、黄疸があり腹水溜まっていたが、在宅医療なので腹水も抜かなかったがだんだんお腹がしぼんで抜く必要もなくなった。そして2ヶ月ほどで病院でみた"自然な死“迎えられ、枯れるように亡くなられた。病院医療と在宅医療の両方で自然な死を看たことがその後の長尾医師の方向を決定づけたと思われる。
ところで苦しみが長引かない最後と言えば「ピンピンコロリが理想です」と言う人もいるがこれは健康だと思われていた人が、心筋梗塞やくも膜下出血、大動脈解離などで急に亡くなってしまう「突然死」のことで「平穏死」とは異なる。しかもあまりに突然すぎると周囲の人達を混乱させてしまうため、「真に理想的な死」とは死に向かっていく経過が10日くらいある場合でしょう。介護が必要な状態が10日間ぐらいであれば、仕事があるご家族でもお世話することが可能ですし、知人のお見舞いを受けたりお別れの言葉を交わしたりすることが出来ます。ご家族がお葬式の準備をすることもできます。
 一方で、「平穏死」には明確な闘病期間があります。末期癌の終末期でも、毎日水を500mlくらい飲めれば、数ヶ月ほどは自宅で過ごせるのです。その間は外出したり、家の中を移動してトイレに自分で行けたり、口から飲んだり食べたりすることが出来ます。そして何よりも、会話で意思疎通が図れることが重要です。尊厳を保ちつつ緩和ケアをおこなって寝込む期間と苦痛を最小限にする、それが「平穏死」や「尊厳死」の概念なのです。
 病院医療では「たとえ終末期の患者であっても死亡させたら負け」なので、そのため延命治療のフルコースを施しいくつもの管を繋いで命を長らえようとする。しかし海外では「緩和医療とは脱水状態にすることだ」と明言されている。脱水といっても人工的に水分を抜くのではなく、「脱水になるのを見守る」「脱水を容認する」ということなのだが、日本ではそういう教育がまったく出来ていないのが現状です。
近年のように医療が発達していなかった時代の日本では「平穏死」が当たり前でした。しかし高度な治療が出来るようになるにつれて、「平穏死」が難しくなってきたとのこと。
 そもそも日本では、医療関係者でさえ「平穏死」と「安楽死」を混同しがちです。自然な死である「平穏死」に対して「安楽死」は薬などで人工的に寿命を縮めて死なせること。日本では安楽死は殺人罪である。図のように安楽死を認めている国もありますが、その根底にあるのが「リビング・ウイル(LW)」です。これは「延命治療を望まないと言う意思表示」を文章として残すもので、長尾医師は「命の遺言状」と呼んでいる。通常の「遺言状」が死後の遺産相続などを決めるものであるのに対して、LWは死ぬ前のこと、「どのように人生の最期を遂げたいか」本人が決めて記しておくものです。どんな場所で命を終えたいのか、どこまでの治療を受け入れるかといったことです。先進諸国ではすでにLWが法的に担保されていて、医師が勝手にLWの内容に反する治療をすれば罰せられます。
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 しかし日本では本人が「延命治療は受けたくない」と話したり書き残したりしていたとしても、法的担保がないためにいざその時には家族の意思が尊重されてしまうことが多い。しかも医師が本人の意思を尊重して延命治療をしなければ、家族から「人殺し」とののしられたり、訴えられたりすることもあります。そんな事態を防ぐためにも先ずはLWの法制化を急がなければならないと長尾医師はいう。
 これから日本は超高齢化を加速させ、2040年頃には人口の多い団塊世代(正に私の世代)が寿命を迎えることから世界でも類をみない”多死社会”を迎えると推測されます。その前にLWを法制化しなければ医療現場が大混乱しますから待ったなしの状態なのです。
 国もこの状況を打開しようと、近年では「アドバンス・ケア・プランニング」(ACP)といって、患者を中心に家族や医療関係者、ケアマネジャーなどの関係者で行う話し合いを推進しています。ACPは医療の現場では浸透しつつありますが一般の人達にはわかりにくいので「人生会議」という愛称で呼ばれています。この「人生会議」で、元気なうちから何度でも繰り返しLWを記していくわけです。1枚の書類を書いて終わりではなく、決めていく過程がとても重要なのです。繰り返し話し合っていく中でだんだんと、患者さん、家族の意思が固まっていきます。長尾先生が副理事長を務める日本尊厳死協会では、LWの大切さを啓蒙し続けた結果、国民の3%程がLWを書いてくれるようになったとのこと。協会では日記形式で記入できる『リビングウィルノート』を発行しているので、ぜひ活用して頂きたいと思いますとあった。
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 最近小・中学生時代の友達の訃報がちらほら聞こえてくる。この記事を読んでそろそろ自分の死に方につて考えなくてはと思った。もともと管に繋がれる死は受け入れがたいと思っていたのでこれからLWを考え平穏死が迎えられるようにしていこうと思う。本当に考えさせられる内容であった。なお日本尊厳死協会のホームペーに寄れば、尾道で平穏死を受け入れ看取りをしてくれる診療所は3医院であった。


2024年09月06日

我が子育て

 致知別冊「母」2024を読んだ。今回のテーマは「母の力 子育ての人間学」であった。
子育てと聞くと私は失格で黙る以外にないが、この本ではいろいろの人が子育てに工夫を凝らしれおられる。
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 第2章「母の力」の中で「幸せに生きる言葉の力」と題して俳優の木村拓哉氏の母親 木村まさ子様が書かれていた。
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 彼女のプロフィールは昭和25年東京都生まれ。20歳の時に結婚し、22歳で長男・拓哉さんを、29歳で次男・俊作さんを出産。現在は「言の葉語り」として講演で全国を回り、朗読会にも力を注いでいる。子供の心に届く言葉を親が語りかけることや自尊心を育むことがいかに大切かを伝えている。NPO法人「エフ・フィールド」理事として「いのちの授業」の活動にも協力。幅広く活躍されている。
いかにして現在の活動をするようになったのかその切っ掛けの一部を転載します。
 「かく言う私も、自己肯定感の低い時がありました。私は昭和25年生まれです。当時は今と違って、結婚して嫁に入ったら『いつでも遊びに来ていいが、二度と帰ってくるな』と父に言われる時代でした。それだけの覚悟を持て、という意味だったと思います。
また、嫁いだらその家に染まるというのが当たり前で、『私はこう思う』と軽々しく言えない時代でした。
 夫は猛烈社員で朝早くから夜遅くまで仕事で家にいない。対等に話し合う時間がない。それを仕方ないと愚痴一つ言わずに受け入れていたものの、もやもやしたものがぬぐいきれない。私の性格というか、私の魂が『それじゃないだろう』と言っているように感じるわけです。
 葛藤を抱えて仕事を続けるうちに腸炎を患うなど体調が悪化していきました。そんなある日、友人に誘われて、癌や難病の治療を専門にしている水上治先生という方の講演を聴きに伺いました。
 いろいろなお話の中で、『人のため、夫のために癌になる必要はないんです』という言葉がズシリと心に響きました。先生がそう表現するというのは、身近な人に対する不平不満が重なったり、自分の気持ちを素直に伝えられなかったりすることが病に繋がっているのかなと漠然と思いました。
 それからというもの、『自分を大事にするとはどういうことか』について意識が向かっていくようになり、同時に不思議なことに、出逢う方々や入ってくる情報がどんどん変わって行きました。
 これまで自分のことを一番後回しにしてきたけれども、まず自分自身を認めて大切にし、自分で自分を愛する、慈しむ。例えば、きょうも朝、目が覚めて生きていること。寝ている間も肺が呼吸をし、心臓が血液を送り、細胞が働き続けているのは、自ら意識的に行っているわけではありません。そのようなことを重ねてみた時に、私たちは大いなるものに生かされている。本当にありがたいなと気づくようになったのです。
 そうやって自分の身体や存在に『ありがとう』や『嬉しい』や『大好き』といった言葉掛けをしているうちに、自分自身が喜ぶのはもちろんのこと、私に命を繋いでくれたご先祖様が一番喜んでくれるんじゃないかと思い、ものすごく生きる力をいただきました。」とあった。

 ところで私も家内も昭和22年生まれで、木村様と同じ時代である。この時代、多くは父親が働きに出て収入を得るが母親は家庭にあって家事と育児に専念するスタイルが一般的であった。両親もそのスタイルであったから私も何も考えずにそのスタイルを通した。息子達が生まれたころ私は日立製作所で猛烈社員として働いていた。そのため育児はほとんど家内任せで、子供が夜泣きをすれば抱っこして外に連れ出して寝つくまで家の周りを歩き家内の負担を少し和らげる程度で、たまの休みは親子で出かけることはあっても本当に家内におんぶに抱っこであった。
とりわけこどもが4歳と2歳になったとき私は会社を辞めて歯科医師になるために大学に入り直した。その時の入学金、学費、生活費は家内の親戚からお借りしての状態で、絶対に留年しない、国家試験には一発で合格しなければならないと悲壮感で過ごしていた。その為、家内は冬休み正月でも朝早くから近くのスキー場に子供二人を連れて行き、私の勉強を邪魔しないような環境を造ってくれたりしていた。そういう意味で子育てに関しては家内に頭が上がらないし本当によくやってくれたと思う。
心の中におそらく木村様と同じような葛藤もあったであろうし、そのことに気がつきもしないし、それをどの様に克服したのかも解らない。本当によく頑張って育ててくれたものと思う。
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 この記事の中で木村様は「上皇后陛下・美智子様が浩宮様(現在の天皇陛下)をご出産された時、『お預かりし、お育て申し上げます』おっしゃっていましたが、そのお言葉が甦ってきて、たとえ自分が産んだ子供であっても、それは自分の子供じゃない。子供は神様からの預かり物だと捉えるようになりました。」と書かれている。おそらくご子息を育てられる時その気持ちでもって育てられたのではないだろうか。
 最近のニュースなどを見ていると我が子に暴力を振るって死に至らすような事件が報道されているが、子供さんを神様からの預かり物だと皆が思えるようになるとこのような事件もなくなるのであろう。
本当に考えさせられる特集記事であった。

2024年08月25日

札幌出張

 この夏札幌に2回出張があった。1回目はコロナの時期を除いて30年くらい続いている会議である。私は北海道医療大学後援会中四国支部長を拝命していて、この支部長会議が毎年この時期にある。この会議では大学の状況や今年度の入学試験受験者数、入学者数の推移などの報告を受け学生達の生活ぶり、各学部の国家試験対策の状況などの報告を受ける。また10月には全国15の会場で地区別懇談会が開催され各学部の教授が手分けして出かけご父兄と直接面談され学生の生活振りや成績に付いて懇談される。広島での地区別懇談会には私も出席してご父兄とお話をし、何かあればアドバイスなどをさせて頂く。
 支部長会議後、懇親会があり、理事長をはじめ学長、各学部長の先生方や大学の理事の先生方も出席されていた。理事長からは2028年の大学の北広島市移転計画について話があった。来年からはいよいよ工事も始まるようだ。
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 翌日15:00発のJALで帰ることにしていたのでホテルの近くの北海道庁の建物を見に行った。昨年と同じで、工事中のため赤煉瓦の建物を描いたシートで覆われていた。蓮の咲いている池などを見たあと大通公園を散歩がてら歩いてみた。
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 丁度花フェスタの最終日であったが色いろのガーデニングなどがあり観て楽しんだ。
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 そして7月27日にも札幌に出張した。これは北海道医療大学歯学部同窓会の理事会出席のためである。私は2017年から同窓会の副会長に就任したことによるが、就任した頃は春と夏に年2回の理事会が札幌で有り出張していた。しかしコロナの時期はZOOMでオンライン会議となっていたが、昨年から夏だけ対面という方式に変更になった。今年は同窓会設立40周年で10月には40周年式典がある。今回の理事会でもその記念式典の経過報告などがあった。概ね問題なく準備が進んでいるようである。
 翌日は同級生で千歳で開業しているU君と会った。毎年会っているが、昨年は日ハムのエスコンフィールドの見学に連れて行って貰った。今年は私をどこに連れて行こうかと思案していたようであるが余市に連れて行ってくれた。北海道に住んでいたが余市は積丹の神恵内にキャンプに行ったとき通り過ぎただけの街でであった。
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 U君が余市を選んだのは宇宙飛行士の毛利衛氏が余市出身であるため、余市宇宙記念館があること、またNHK朝ドラの「マッサン」で有名なニッカウヰスキーの工場があることなどを考慮したとのこと。まず記念館に入りいろいろの展示物を観た。
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 小惑星探査機「はやぶさ」1/1のモデルや「はやぶさ2」が岩石を持ち帰った再突入カプセル、1/20の宇宙ステーションの模型、などを観た。展示場の横の売店に宇宙ステーションでも食べられているパンの缶詰などが売られておりU君が買って渡してくれた。
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 隣の敷地にはニッカウヰスキーの工場があった。工場見学は前もって予約をしないと見学できないとのこと。工場横の展示場に行くとウヰスキーの製造工程などの展示があり熟成年代別にウイスキーが透明の瓶に詰められて展示されており年代物ほど濃い色になっていた。また試飲コーナーがあったが、広島空港から家まで車を運転して帰らなくてはならないので残念ながら試飲はパスした。
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 そして13時過ぎに空港まで送って貰い別れた。
 前回もそうであったが梅雨前線の影響で飛行機の出発が遅れた。窓からは一面雲しか見えなかったが能登半島付近で少し眼下に海が見えてきた。若狭湾では天橋立を見る事が出来たが中国山地を横切る頃は入道雲がいっぱいあった。
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 そうこうする内に海が見えてきたら何と尾道水道である。通常飛行機は東側から空港にアプローチするため私の診療室の少し北側が飛行ルートになっている。今回は風の関係か西側から空港に入るようで、飛行機は向島と因島の間あたりを飛行しているようであった。
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 尾道水道を見ていると「尾道大橋」と「しまなみ海道」の「新尾道大橋」とが並んで見えた。また少し行ったところでは尾道商業高校のグランドや吉和小学校のグランドも見えた。
そして予想通り東広島市西条でUターンして無事広島空港に着陸した。

2024年08月05日

初めてのトルコ旅行 PART 8

 5:30起床、トランクを部屋の外に出し朝食後8:00にホテルを出発。まずトルコ石の宝石店に寄り見学。小学校5年生の孫息子がトルコに行くと言ったらトルコ石を買ってきてくれと言うので手頃なのがあるかと見て回ったが、小学5年生に買って帰れる様な物は無い。冗談に「トルコの石」だと言ってその辺に転がっている石を持って帰ろうかなどと家内と話したりした。結局孫息子は齊田家の唯一の総領孫なので家内と相談をし、家内が私の母からもらっていたトルコ石の指輪を渡すことにした。
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 その後バスにてトルコの首都アンカラに向かう。一昨日来たシルクロードを逆に向かって走る。途中、トルコで2番目に大きい大塩湖「トゥズ湖」に寄る。このトゥズ湖に塩の層が出来るのは夏場7月から9月頃の期間だとの事。しかし湖畔の砂地が少し白くなっており塩が析出しているようだった。
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 駐車場の横に大きな店がありそこでチョコレートや「目玉」グッズと言われている『ハイカルナス』をお土産としてまとめ買いをした。その後一路首都のアンカラに向かう(150km/2時間)。
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 ところで首都は世界的に有名なアンゴラ山羊と毛で知られるアンカラで、20世紀初期においては人口16,000人の小さな町であった。1919〜1922のあいだの救国戦争の際、イスタンブールが敵に征服されていたことや、戦略上の理由から重要視され、1923年の共和国宣言の後には首都に制定されている。現在は580万人(2023.12.31)の人口を抱えるトルコの第二の大都市である。
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 アンカラに到着してまずアタチュルク廟に向かう。この廟にはトルコ建国の父ムスタファ・ケマルが眠っている。そしてこの廟は1953年に完成し、現代のトルコ建築物を代表する傑作との事。軍人ムスタファ・ケマルは1923年10月、トルコ共和国の独立を宣言し、スルタン制の廃止など近代化への基礎を築いた。トルコ国民は彼をアタチュルク(トルコの父の意味)とよぶ。入り口には墓を守る衛兵が微動だにしないで立っていた。この衛兵は1時間ごとに交代をしている。
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 赤い服を着た一団や子供達を含む一団などが多く訪れていた。それだけ国民の多くが彼を尊敬している証だと思った。
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 1.5時間の自由時間がありこの丘からアンカラ市内を一望し、別の建屋でアタチュルクが使用していた車が補修されて展示されていたので見学した。
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 廟の前のカフェで全員集合しバスの駐車しているところ(実際は路上駐車)に歩き始めたら急に雨になり、しかも夕立のような大粒の雨である。ツアー仲間の人たちは急いでバスの止まっているところに向かうが私は家内の足が悪いので少し前を歩きながら家内を気遣い、しかもツアー仲間の人達が行く方向も注意しながら歩いていた。しかし家内に取っては気に入ら無かったらしく文句を言われた。気遣っていなければツアー仲間と一緒に先にバスに乗り込んでいただろうに、途中添乗員のGさんが遅いので心配して迎えに来てくれた。
その後バスにてアンカラ城の車窓観光に向かう。途中ロータリーになっているところに戦勝記念碑が建っていた。上部にアタチュルクが馬に乗っている像、下に2人の兵士、一人の兵士は友人を戦線に呼び、もう一人の兵士が戦線を監視している像。そして独立戦争中のトルコ女性の貢献を表す物として女性が砲弾を肩に担いで運んでいる像が配置されていた。
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 その後アンカラ城の下に来たが車窓から丘の上のアンカラ城の塀を見た。アンカラ城は7世紀に造られた要塞で丘の上に有りアンカラの街を一望できるとのこと。
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車窓観光を終えアンカラ空港に向かう途中、夕食の「チキンケバブのトルコ風ブリート(ドゥルム)」を受け取るためにレストランに立ち寄る。
 アンカラ空港到着後チェックインする。添乗員のGさんが色々手伝ってくれた。ここでトランクを預けたがこれはそのまま関空まで届く事になっている。
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出発までラウンジで過ごしたが先ほどもらった夕食のドゥルムを食べた。国内線のラウンジのためアルコール類は置いて無く残念ながらビールはお預け。
待っている間も夕立があった。
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 19:00のアンカラ発ターキッシュエアラインズでイスタンブールに向かい20:10頃に到着。まだ外が少し明るいのには驚いた。
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 その後午前1時過ぎまでラウンジで過ごし搭乗口に向かうが距離が有り15分も掛かった。ほぼ2時に離陸し、出発後1時間ほどで食事(朝食)が出る。ビールを飲むが丸1日振りである。4時過ぎに寝る。実に23時間近く起きていたことになる。睡眠導入剤を飲んで寝たが3時間ほどで目が覚めトイレに行きまた寝る。10時(トルコ時間)過ぎに目覚める。すぐ昼食が出る。TV画面で飛行ルートを観ながら過ごす。
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 日本時間18時半頃、無事関西国際空港に到着。トランクを受け取り1階のクロネコヤマトで宅配の手続きをして関空を後にする。20:30頃新大阪に到着。21:30の「こだま」に乗る予定にしていたが21:13「のぞみ81号」に乗って福山駅で在来線に乗り替える方が早く帰れるので「のぞみ」の自由席に乗り込んだところ満員で車両の中程に立ったまま出発。ところが家内の横に座っていた男性が新神戸駅で下車したため家内は無事座ることができた。そしたらなんとその横に座っていた20代と思われる女性が立ち上がって席を譲ってくれた。おかげで私も座ることができた。年寄り二人が疲れた顔をして立っていたのであろう。それにしても有り難かったし、今時若い人がその様な行動を起こしたことに驚き、日本もまんざらではないと思った。その彼女にどこまで乗車するのか聞いたところ広島だという。その彼女も岡山駅で再度座れた。福山駅で降りるときにしっかりお礼を述べた。福山から尾道まで在来線で帰り、尾道駅のタクシー乗り場にたまたま1台のタクシーがいたのですぐ乗って帰れた。丁度23時を過ぎたところで家に帰り着く。郵便受けは満杯、インスタント系の物を食べ風呂を沸かして入浴。寝たのは5月27日の1時を廻っていた。
疲れたが楽しい思い出深い旅であった。 

2024年07月12日

初めてのトルコ旅行 PART 7

 今日は終日カッパドキア観光である。昨日からの雨で残念ながら気球ツアーは中止された。前もって一部ツアー代を払い込んでいるがどこかで払い戻しがあるだろう。まずバスにてエセンテペにある3本のキノコ岩で有名な「親子岩」別名「三姉妹」の岩を観に行く。
カッパドキアの地層は地上で見られる自然の奇跡の一つであり、中央アナトリアの火山が盛んに活動し溶岩や火山灰に覆われた「堆積期」、そして火山活動の停止と共に始まった「浸食期」において、自然の持つ相反する二つの作用が作り上げた作品と言える。「るるぶトルコ」に図解が載っていたので掲載します。
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 まるでキノコのような格好の岩で、三姉妹の頭の部分は焦げ茶色で胴体の部分は白っぽい岩で出来ており、この頭の帽子の部分は玄武岩で胴体の部分は凝灰岩である。玄武岩下部の凝灰岩上部は柔らかく浸食されやすい。浸食は今も続いておりこれから何百年か何千年か後には浸食がさらに進み。帽子の部分が転げ落ちてしまい胴体だけになる恐れがある。現にそのような岩も多く見られたそれらは。三角形の岩となって残っている。
 次に「ピンクの谷」と言われる「ローズバレー」にいく。ここは岩に酸化鉄を多く含んでいることから岩が少し赤みを帯びている。そのため谷が夕日を浴びて真っ赤に染まることからこの名が付いたとか。ただ残念ながら我々が訪れたのは午前中でしかも曇っていてその光景は見れなかったが、岩が波を打っている様は面白いと思った、
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 次に「ギョレメの谷」に行き、そこにある洞窟住居の一般家庭を訪ね部屋に上がらして貰い紅茶をいただきティータイムとなる。ご婦人がそこでの暮らしについて説明をしてくれた。何が不自由かとお聞きをしたところ、用を足すのに外の玄関脇のトイレに行かなくてはならないこと。また世界遺産なので自分の家であっても勝手に改築など出来無いことを言われていた。
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 さらにトルコでは絨毯は工場で織るよりも家庭で時間をかけて織るのだという。現に壁際には織りかけている絨毯があった。また床に敷いている絨毯は代々この家で作ってきたものだという。絨毯はただ単に横糸、縦糸の問題では無く、模様を織るために時間が掛かるとのこと。40分くらいお邪魔した。そこをでて少し上に行ったところにお土産店があってご主人はそこの店主とのこと、その土産店で家内と二人帽子を買った。
 次にカッパドキアの最高所で巨大な岩山をくり抜いて造られた要塞のあるウチヒサールからの景色を見、そして鳩の谷に向かう。ここの人達は昔からブドウ栽培をしており鳩を飼いその糞を肥料として利用してきた。また卵は食料とし、殻は教会の壁に描かれているフレスコ画を描くための漆喰として利用してきた。
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 今では観光客が餌をまくので鳩がよってくるが雀もやってきておこぼれを頂戴していた。
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 その後トルコ絨毯店によってトイレ休憩とショッピングタイムとなった。色々絨毯について説明を受ける。絨毯を制作することは大変な仕事であり、高いものと安いものとの違いなどについて説明を受けた。中には天然の蚕の糸でしかもトルコの人間国宝のビュユカシュク氏が織られたものは2.4*2.0mで1200万円もするとかびっくりである。
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ところで今日の天気は曇ったり雨が降ったりであったが絨毯店を出たときアラレが降ってきたのには驚いた。
 その後アヴァノス地区に有る「ビズィム・エヴ」レストランにいき昼食となる。
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カッパドキア名物「テスティケバブ」であった。これは壺の中に野菜と肉が入っていて火が付いたままテーブルまで壺を持って来てくれた。その後火を消し、壺の中身をご飯にかけてたべるが一種のカレーライスのような感があった。
 昼食後、バスにてギョレメ野外博物館に行く。途中「赤い川」の名前をもつトルコ最長のクズルウマク川を渡る。この川から取れる赤土と粘土を用いた陶芸がヒッタイト王国時代から現代まで続いていると添乗員Gさんから説明を受けた。途中の山の断面には赤い土が見える。
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 このギョレメ野外博物館には多くの教会がある。「るるぶトルコ」の説明によると、『イスラムの圧迫から逃れるため、9世紀頃からキリスト教徒は岩を掘って洞窟に教会や修道院を造ったと言われている。その中心となった場所がギョレメで、一帯には400〜500もの教会があったという。現在は約30の教会が野外博物館として公開されており、信徒が描いたフレスコ画などが見学可能である。』
 入場口にクズラル修道院がある。本来4っの教会からなるが2番目の教会の名前をとってそうよばれているとのこと。そこから坂道を上っていくと教会が連なっている。
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 綺麗なフレスコ画残っている教会は入場料がいるので無料の教会の中に入って観た。ただし入場料を払ってもフレスコ画の撮影は禁止とか。その代わり出口付近にフレスコ画の写真パネルが展示してあった。
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それにしても昔の人は宗教心が旺盛なのか良くもこんなに教会を造ったものだと感心する。
 その後バスにて「パシャバウ」にいく。ここではミニハイキングとして30分ほどの行程でキノコ岩が立ち並ぶ横を通りながら観光をした。
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 「妖精達の住家」は一つの岩から2本、3本とのびる複数の首に「帽子」被った格好をしており、ビザンチン時代に隠遁生活を選択した修道僧達の隠れ家でもあった。本当に色々な形状の岩がある。写真の岩は教会でありトルコと日本が共同で修復したと案内板が掲げてあった。
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他にも色々の形状の岩があり、珍しさと不思議さでお伽の国に来たような錯覚になった。
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また途中に軍警察(憲兵隊)の看板がありトルコ語と英語と日本語が書いてあった。 日本語で「ようこそ 私たちの地域でお会いできてとても嬉しいです あなたの平和と安全のために、私たちは電話としてあなたの近くにいます。 軍警察」と書いてあり驚いた。
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 次に「デヴレント」に向かう。ここにはラクダ、フクロウ、トカゲなどのユニークな岩が想像を膨らませてくれる事から「イマジネーション」の谷ともよばれている。
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ここでカッパドキアの観光が終わりいったんホテルに帰り夕食を済ませた後、洞窟レストランでのベリーダンスと民族舞踏のショーに出かけた。おつまみとお酒が出て飲みながら観賞した。
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明日はトルコ旅行最後の日である。続きはPART 8へ

2024年07月05日

初めてのトルコ旅行 PART 6

 朝5:00起床、バイキングスタイルの朝食後7:00にホテルを出発。バスにてまずコンヤに向かう。ここは13世紀セルジュクトルコの首都であり今でもトルコで一番面積の広い都市である。およそ410km/約6時間の行程である。道の両側に畑が広がり小麦が黄色に実っていたりした。高い山にはまだ少し雪が残っていた。それにしても本当に広いと思う。
 ところどころ小高い丘の上には風力発電の風車や、太陽光発電パネルなども見受けられた。食料問題やエネルギー問題ではおそらく日本は足下にもおよばないのであろうと思う。
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 途中10時半頃ローカルレストランで昼食となる。ビデと呼ばれるトルコ風舟形ピザで挽肉や、玉ねぎ、ピーマンがトッピングしてあったが、写真を取り損ねる、スープとビールだけしか写していなかった。
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 そこを出てコンヤにある、13世紀の神学者「メブラーナ」の尊称を持つジェラルッディン・ルーミーを始祖としたメブラーナ教の博物館に向かう。バスを降りて少し歩いたが通りには市内電車(トラム)が走っていた。
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 この博物館は当時の聖者が生活し研鑽を重ねてきた部屋が復元され、人形がその当時の服装をしてあたかもそこで生きているかの様にリアルに再現されていた。
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 また青い塔の下は始祖たちが眠るお墓になっていて、地上には始祖の棺や、他の聖職者の棺が飾られておいてある。その他使われていたコーランなども展示されていた。
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 また実演を観ることはなかったがメブラーナ教団発祥の地で旋回して踊ることで神に近づいていけると言われていたセマー(旋回舞踏)の人形がその様を再現していた。
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 ところでこの博物館に大勢の小学生(2〜3年生くらい)が見学に来ていて、我々を見ると何故か「こんにちは」と日本語で挨拶をしてくれた。驚きである。私も「こんにちは」と挨拶を交わした。しかしその他の日本語は知らない様で有った。
この博物館の隣りにセリミエ・ジャミィという壮大なモスクがあった。中には入らなかったが1570年にオスマン帝国セリム2世の命により建造されたモスクである。2本のミナレットをもつ、16世紀オスマン帝国時代の典型的なモスクで、コンヤでのイスラム教信仰の拠点となっている。
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 見学後一路カッパドキアに向かう。230km/約3時間の行程である。コンヤの街中を通っていたとき2010年にできた日本式庭園の入り口を窓越しに見た。また郊外には外国企業が進出しているようだった。コンヤを過ぎるとかって旧シルクロード呼ばれていた道が今では高速道路となってほぼ一直線の道が続いていた。窓から見える風景は道路の両側に畑が続いており、遠くに山などが見えていた。
 13世紀に「東方見聞録」を書いたヴェネツィアの商人「マルコポーロ」もこの道を通り風景を見ていただろう。当時は畑などなかったかも知れないが少なくとも山の形はほとんど変化していないと想像し、彼と同じ山を見ていることに驚いた。
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 途中スルタハンでトイレ休憩をしたがそのお店の前にかってのシルクロード時代のラクダの隊商宿キャラバンサライがあった。隊商宿は約30q〜45q(キャラバンが1日で旅できる平均距離)間隔で建てられていてトルコには100近く存在していたとのこと。     
休息後バスにてカッパドキア地方にある「カイマクル地下都市」に立ち寄る。
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3世紀半ばローマ帝国の弾圧を逃れたキリスト教徒の修道士がカッパドキアに移り住んだ。柔らかい岩をくりぬいて住居や教会を造り、ペルシャやビザンチン勢力の脅威から一時的に身を隠す場所を地下に求めた。部屋がそれぞれ狭い通路で繋がっていて、ワイン貯蔵庫や貯水池、台所、食料庫、換気口、井戸、教会、さらに外敵からの侵入を防ぐための岩扉があった。
なお私たちが見学した地下都市は地下13階建てで地下4階までを見学した。
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 その後ホテルに向かう。1日で600km以上の移動をした。ホテル到着少し前から雨が降りだしたが、添乗員のGさんから明日の気球ツアーは中止と告げられた。残念である。
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ホテルは岩をくり抜いて作られた洞窟ホテルである。食事はバイキングスタイルでビールは500ml1本が375トルコリラには驚く。日本円で2000円近い。食事中雨と雷が鳴り通しであった。ホテルの風呂場のシャワーの設備は使い勝手が悪かった。
続きはPART7へ

2024年07月01日

初めてのトルコ旅行 PART 5

 朝5:00起床、バイキングスタイルの朝食後7:00にホテルを出発。バスにてエーゲ海最大の遺跡が残るエフェソスへ向かう。およそ250km/約4時間の行程である。ホテルの入り口には宿泊しているお客様の国の国旗が掲揚されているが中央にあるトルコ国旗は昨日我々が到着したときは半旗であったが今日は普通どおりに掲揚されていた。添乗員のGさんによれば19日にイランの大統領がヘリコプター事故で亡くなられた事によるトルコ政府の弔慰であったとのこと。
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 1時間ほど走ったところで1回目のトイレ休憩があった。そこのコンビニで何と日本の巻き寿司がパックされて売られている事に驚いた。
休憩後バスにて先に進むと、革製品製造会社兼お店で2回目のトイレ休憩をした。そこで革製品のファッションショウを見る。モデルの他に我々観光客の中から何人かが呼ばれて、にわかモデルになりショウを盛り上げていた。その後お店で革製品のコートやブレザーなどのショッピング案内があった。家内にどうかと勧めてみたがノーサンキュウとのこと。何人かは購入されたようだ。
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 その後バスにてローカルレストランに移動。今日の昼食はトルコから世界中に広がった名物料理・シシケバブ(エーゲ海地方セルチュク村のシシケバブはチョップシシと呼ばれている)であった。竹串に刺した一口サイズのお肉の串焼きは、まるで日本の焼き鳥のような感じであった。
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食後バスにて移動やっとエフェソスに到着。 エフェソスは東西交易の集積港として栄えた。紀元前2世紀から紀元後2世紀頃の建造物が並び保存状態も良い。南側の出入り口から北側の出入り口に向かうルートで見学を行う。
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 入ると広場がありまず右手にアーチが今も残る2世紀に建てられたヴァリウスの浴場がある。左手にすすむと小規模な音楽堂似たオデオンがあり、1500人を収容し劇やコンサートが上演されたほか、議会所としても使われたという。
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 オデオンの横にはエフェスの市庁舎「プリタネイオン」があり、紀元前3世紀の建築からビザンチン時代まで増改築が行われた。竈の神で、国家体制の鎮護神として崇拝された、ウェスタ女神の聖火を灯し続けていた。
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市庁舎から下るとメインストリートのクレテス通りに繋がる道にでてくる。さらに進むとクレステ通りの入り口を守る半神半人の英雄ヘラクレスが彫り込まれた門が有りここからクレステ通りが始まる。この門のすぐ上のドミティアヌス広場にある、勝利の女神ニケの飛んでいる姿が彫られた三角形のレリーフは、このヘラクレス門の上部を飾っていたもので、4世紀前半に造られたとみられています。ちなみに勝利の女神ニケはあのナイキのロゴの由来となっている女神でもあります。
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 途中建物跡の前に置かれていた石の彫刻を見る。多分そこにあった家の看板か何かではないのだろうか。さらに石造りのアーチ型のくぼみ遺構は商店で有ったとのこと。
さらに進むと紀元1世紀にトラヤヌス帝に捧げるために建設された泉「トラヤヌスの泉」があり、かってその正面には皇帝像が置かれ、その足下から水が流れ出ていたといわれる。現在も足の一部が残っている。
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さらに進むとハドリアヌス神殿がある。138年頃、エフェス市民クインティリウスが皇帝ハドリアヌスに献上した神殿。2世紀前半のコリント式神殿で小規模ではあっても壁の装飾と浮き彫りは唯一無二の美しさといって良い正面の2重のアーチには、手前に女神ティケ、奥にはメドゥーサのレリーフが見られる。
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 神殿の横の細い道を入ったところにある公衆トイレは、古代、人々が隣同士、隔てもない開放的な空間で並んで用を足っした事実を物語って興味深い。しかも水洗便所であった。
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 そこから元のクレスタ通りに出てくると目の前にセルシュウス図書館が見えた。2世紀の初頭、エフェスを首府とするアジア州の総督だったセルススの功績を記念して、息子が建てた図書館。発掘中にほぼ全ての部分が見つかった事から、過去の壮大な姿そのままに、今私たちの前に立ちはだかっている。コンポジット式の柱が美しい建物正面には、知恵や美徳を象徴する4体の女性像(複製・オリジナルはウイーンの博物館に有る)が並ぶ。2万冊の蔵書を誇ったという。
 ここから右は大理石通りが始まる。先ほどの図書館の横は娼婦宿で2階建ての建物で内部のサロンには愛と美の女神像があったとのこと。
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この大理石通りを大劇場に向かう途中。大理石の上に娼館への案内図として足は方向、十字は十字路女性は娼館、ハートは愛を表していると言われる謎の案内図が大理石に刻まれている。客を娼館に案内するためのものだったと言われているが詳しい事実はわかっていない。
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 さらに進むと商業アゴラとも呼ばれる下のアゴラがあり奴隷売買をはじめとするあらゆる商取引が行われていた。大理石通りの終点は大劇場である。24000人を収容したトルコでも最大級の円形劇場で紀元前3世紀に建築され歴代の皇帝により増改築が行われた。客席はパナユル山の斜面に寄りかかるように設けられて、音響効果も抜群だったという。その後、劇場体育館の横を通り北口出口に出る。
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 バスに乗り次の観光地パッカレムへ向かう。およそ180km/約3時間の行程である。
目的地近くになると畑の向こうの小高い丘の途中に白い帯状のものが見えてきた。
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「るるぶトルコ」の説明によれば『パムッカレはトルコ語で「綿の城」を意味するが小高い丘の斜面を覆い尽くす純白の石灰層が最大の見どころ。その正体は斜面を流れ落ちる温泉の石灰成分が沈殿、凝結することにより形成された石灰華段丘。その規模は幅3km、高さ100m、厚さ300mにも及び、水をたたえる無数のプールが幻想的な景観をつくり出している。朝は真白く、夕日を浴びると赤みを帯びるなど、時間とともに刻々と表情を変える神秘的な風景を様々な角度から観賞したい、』とあった。上の石灰棚の写真はトルコ航空の広告からスクリーン・ショットした画像でこんなにも美しいのかと期待していた。
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 入場口に到着後、入場して少し歩くと古代都市ヒエラポリスの南のビザンチン門があり、ここは古代のヒエラポリスの遺跡があった。その遺跡の中を歩いて行くとパッカレムの棚田が見えてきた。
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 しかし棚田に水はなく真っ白の光景に驚く。ただしわずかに足湯が許されているところだけ少し水があり観光客が足湯を楽しんでいた。靴を脱いで足湯につかった。
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足湯の湯はそれ程高くなくぬるま湯程度であった。
 その後ホテルに向かう。今日のホテルも温泉と温泉プールがあり、日本から持ってきた水着を着て10分ほど温泉プールにつかった。泳いでみたが何年も泳いでいなかったせいか10mも泳げないビックリ。
続きは PART 6 へ

2024年06月27日

初めてのトルコ旅行 PART 4

 朝5:30起床、バイキングスタイルの朝食後8:00にホテルを出発。バスにてトロイに向かうおよそ330km/約5時間30分の行程である。トルコのヨーロッパ側、マルマラ海に沿って移動する。途中のトイレ休憩はガソリンスタンドとコンビニが一緒になったところである。イスタンブールを離れると農地が続く。そして所々にトルコ国旗があるが、今日は何故か国旗が半旗で掲げてあった。だれか偉い人がお亡くなりになったのかと思った。
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 アジアとヨーロッパを分けるダーダネルス海峡にかかる全長3563mの世界最長の吊橋「チャナッカレ大橋」を渡りアジア大陸に入る。ダーダネルス海峡は多くの船が行き来していた。
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添乗員Gさんの話によればこの海峡では第一次世界大戦のとき英仏連合国軍がトルコに攻め込もうとしたが阻まれ11ヶ月(1915年2月19日〜1916年1月9日)の戦闘の後トルコ軍が勝ったことなどをトルコ人の彼女は少し誇らしそうに話してくれた。
その後昼食はトロイに行く途中のホテルのレストランで取り、昼食後バスにて移動しトロイ遺跡のあるヒサルルクの丘に到着。
 入り口を入ったすぐの所(地図の@)に遺跡のシンボルであるトロイの木馬のレプリカが置かれているのだが現在修復中でその姿を見ることはできない。もっともこの木馬が修復中という情報は今年のはじめに知った。というのも2019年にハワイ旅行に行ったときの添乗員Sさんと家内が時折LINE(ライン)で連絡をしあっていて、彼女が2月にトルコツアーの添乗員でトルコに行ったら木馬がなかったと写真を送ってくれていた。
 高校時代から一度は行ってみたいと思っていたトロイに来たと思うと感無量である。但し行きたいと思っていただけで実はトロイのことは何も知らなかった。
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見学ルートにしたがって取り付けられている木製の板の上を歩きながら遺跡を見学していく。添乗員のGさんがこのトロイがある「ヒサルルクの丘」について説明をしてくれた。
 トロイ遺跡は青銅器時代の紀元前3000年頃からローマ時代の西暦500年くらいまでの間戦争、火災、地震などで何度も倒壊しその都度瓦礫の上に新しい街が築かれていった。近年の発掘では9層に及ぶ古代都市の痕跡が明らかになった。元の地表から見れば15m以上たかさになっている。私はそんなことは全く知らず、トロイ戦争の後廃墟となって放置されたままになっていたのだと思っていた。そんなに同じ場所に何度も都市が再建されていたとは思いもせず驚いた。
 ギリシャ神話ではこの地に存在した都市はイリオスやトロイアの名前で呼ばれていたこと、現在ではトロイの名称で広く知られている。紀元前6世紀のホメロスが「叙事詩」として「イーリアス」と「オデュッセイア」や書いたと言われているがこの「イーリアス」に出て来るトロイは神話上の伝説都市と思われていた。子供の頃「イーリアス」を読んでこれは神話なんかでないと思い続けたのがドイツ人のシュリーマンである。
 1870年に彼は私財を投じてこのヒサルルクの丘を発掘し、都市遺構や数々の財宝を見つけ出す事に成功したことからトロイが実在したと証明された。但しシュリーマンは9層有る都市遺構の下から第2層がトロイと思い込んだがその後の発掘調査で現在では第6層(BC1300〜1180年頃)がトロイ戦争の舞台となったと見られている。
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 まず歩き始めてすぐに東の塔と城壁(第6市、BC1900〜1300年)の遺構(地図のA)が見えてくる。見事な石積みの城壁が続く。2つの城壁に挟まれた狭い通路の途中に門をもうけ、外敵の侵入を防いだ。トロイ最盛期の遺構の一つ。 石を積み上げた城壁に備えられていた東の塔。
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 次にアクロポリス内部に、城壁と平行して残る建物の遺構はメガロンと呼ばれている。1998〜99年に発掘された時点では、石の土台に建つレンガの壁が1.5メートル以上の高さで残されていた。2003年夏ここに保護用のルーフが取り付けられたので、今やオリジナルのレンガ遺構を壊す心配なく、メガロンハウスと城塞の壁が見学できる。
 ところでトロイの遺跡には建物は残っていない。そのため多くの場所で石の土台とか石垣とかレンガの壁しかなく、どれも同じように見えてさっぱり解らない。
 次にシュリーマンが初めて遺跡を発見した場所(第1市、紀元前3000〜2600年)を見る(地図のB)。発見当時、掘り進めた結果最下層の都市の遺跡が発見された。しかし掘り進めた結果、上にあった何層もの遺跡が破壊されてしまったとも言われる。 
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 案内板に9層の断面図の模式図あった。その横には同じように発掘した地層が残されていたが手前が第2層その上が第3層と案内板があった。添乗員のGさんはシュリーマンが発掘した物はことごとくドイツに持っていかれトルコには何も無いと少し悔しそうに話していた。
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 さらに進むと城塞の南東と南西にも立派な門が有ったとのこと。特に南西の門に続く急傾斜の石畳の道が設けられていた。その一部は修復されている。おそらくギリシャ軍が残した木馬はこの坂道を引っ張り上げられ城塞に入ったと考えられている。
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 さらに進むと聖域(第8市、紀元前900〜350年)と呼ばれている神々に供物を捧げた場所に来る(地図のC)。ここは生け贄の儀式に使われた場所で井戸と祭壇が並び、アレキサンダー大王もここで供物を捧げたとされる。第8〜9市時代のもので、当時はトロイ初のギリシャ都市であった。
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次にオデオン(第9市、紀元前350〜400年)と呼ばれる音楽や演劇、会議が行われていた小劇場の跡にくる(地図のD)。トロイ遺跡の中で最も保存状態がよく、ローマ時代に建てられたもので、当時は木製の屋根が付いており音響もよかったという。 かってはオデオンの他に大劇場もあったという。
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 さらに歩くと入り口近くのトロイの木馬の場所に戻ってきた(@)。ここで30分ほどのトイレ休憩と自由行動となった。トロイの象徴である木馬は紀元前1,200年、トロイ戦争の最中、退却していくアガメムノン率いるギリシャ軍が残した木馬にまさか兵が潜んでいるとも知らず夜襲を受けて陥落した。この木馬は1975年に復元され当時の大きさを再現していると言われていたが、木馬が揺れるようになったため修復を開始したらしい。
じっくりトロイの木馬を見たが足の大腿骨あたりに金属の補強板が取り付けてあった。
完成までにはもう少し時間が掛かるらしい。
 その後バスにて宿泊先のホテル「アドリナ サーマル ヘルス&スパ」に向かう(150km/約2.5時間)。途中の道路の中央分離帯には夾竹桃の花が咲いていた。
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 このホテルにはプールがありその前にはエーゲ海が広がり遠浅の砂浜が続いていた。この砂場に立つとエーゲ海から吹くマリンブルーの風が感じられる。おそらく夏には観光客でさぞかし賑わうのであろう。
続きはPART 5へ

2024年06月22日

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