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木・日・祝日
先日、日本赤十字社 中四国ブロック血液センターで会議と講演会があり出かけた。 広島駅から紙屋町経由宇品行きの電車に何十年振りかに乗って行った。日赤病院前で降りたが、かって私が50年前の昭和40年4月に広島大学に入学しこの電停に降り立った時の電停の名前は「広島大学前」だったと思う。 正門の有った所から眺めた風景は様変わりである。大学1年生の時に撮った写真を見ると正門の柱に比べフェニックスはさほど大きくないし、その奥にメタセコイアや旧文理大の被爆建物で当時の理学部本館が良く見えている。今回その場に立ってみるとフェニックスやメタセコイアはあまりにも大きくなりすぎて奥の理学部の建物がほとんど見えない。 卒業以来40数年ぶりに中に入ってみたが正門は東千田公園の看板が掲げられており、残っていた当時の建物は理学部の被爆建物だけ、教養部の有った所にはマンションが建ち後は公園になってセミの声が昔と変わらずうるさく鳴いていた。まさに「つわものどもの夢のあと」で有る。また運動場だった所に広島大学・放送大学と書かれた新しい建物が出来ていた。歯学部や医学部の教養課程を東広島キャンパスからこちらに戻すような話を聞いた事が有る。そのために整備されているのかも知れない。大学の周りには喫茶店や本屋等が多く有ったが今は1軒も無い。正門脇にトロフィーや楯等を製造販売していた「カキタ」と言うお店がかろうじて残っていた。 大学のむかいには被暴く建物の日赤広島病院が有ったのだが、今は取り壊され現代的な病院になっていた。私はまさに浦島太郎状態で驚くばかりである。 それから会場の血液センターまで歩いて行く。血液センターはかって広大教養部の「青雲寮」跡地に建てられていた。そこにも日赤の被爆建物の一部が保存されていた。 会議の後、「社会保障制度と医療保険制度改革について」と題して厚生労働省 大臣官房審議官(医療保険担当)の武田俊彦氏の講演を聞いた。現在少子高齢化が進行し、また財政不足の中2025年問題(団塊の世代が全員後期高齢者になる)を抱え厚労省がどのように施策をしようとしているかの話しであった。 その中で一つ面白い話が有った。私は第1次ベビーブームの人間であり、私の子供は第2次ベビーブームの時生まれた、第3次ベビーブームは平成12年ころに起こるはずであったが起こらなかった。この原因の分析として平成12年は介護保険が導入された年で、今でこそ「少子高齢化」は一つの言葉として扱われるが当時は全員の頭が高齢化対策にだけに向いており、少子化の事は全く頭になく、何も対策をしなかったとのこと、今となっては後の祭りである。それにしてもこれからはかなり痛みの伴う改革がなされると覚悟を決めなくてはならないと感じた。
2015年08月29日
今年は8月14日から16日までの3日間がお盆休みで有った。お盆休みにはよく海外旅行に出かけたりしていた。昨年は沖縄の孫娘が来て賑やかしをしてくれたが、今年は誰も来ないで、家内と二人の静かな盆休みであった。 14日朝、涼しい内にと思い、私達としては早いと思える午前7時ごろ家を出て私の方と家内の方の両方の墓参りに出かける。 途中の畔道で稲の葉に降りた露が朝日に浴びてとてもきれいであった。
その後昼から映画鑑賞で「日本のいちばん長い日」を観て、夜は院長室に籠り読書をする。このところ忙しさにかまけて何冊も本が机の上に積んどく状態であり、ぜひこの休みに少し山を崩したいと思っていた。こうして1日目が静かに終わる。 2日目、家内が家庭菜園の草取りをするという事で、私も駆り出され、先日購入した耕運機を出して畑を耕す。扱い方に慣れていないため耕運機を始動させるのも大変。ガソリンを買いに行く所から始めた。家内もいずれ耕運機を使用しなくてはならなくなると思い扱い方を教える。 秋になって作物を植えるために、今のうちに畑を耕し肥料を入れて土づくりとしゃれこんだが、狭い畑ではしょっちゅう耕運機を旋回させるために足腰が痛む。それでも家内はこの場所には何を植えようか、大根、タマネギ、ネギなど色々算段しているようだ。 今年は春からこの夏の間にタマネギ、ゴボウ、ジャガイモ、きゅうり、ナス、トマト、カボチャ、オクラなど結構収穫できた。キュウリやトマトなどは2人では食べきれないほどいっぺんに出来る事も有りスタッフにおすそ分けをしたりした。 午後、家内は疲れて昼寝をしたらしいが、私は本を読まなくてはと思い、院長室に籠る。その後院長室の書棚等に、歯科医師会関係の書類が山積みでこれも処分をしなくてはと思い片付け開始。そんなこんなで23時ころまで院長室で過ごす。 3日目、最後の日も朝から読書、結局3日間で歯科関係の月刊誌を3冊読んだ。合計18時間ほどの時間を費やした。本当に静かなお盆休みで、老年夫婦のお盆休みとはこんなものかなと思った。御蔭でほとんどお金を出費をすることは無かったが、家内いわく「あなたは自分のペースを崩さないで、結局いつもと同じだったね、全然休みらしくなかった」と不満を漏らしていた。自分としては畑仕事も手伝ったし、十分尽くして楽しかったと思ったのだが・・・・。
2015年08月17日
8月14日に映画を観た。この映画はまさに70年前の8月14日の戦争終結を決断するまでの話がメインで有る。はるか70年前を思いやりながら画面を凝視している自分が有った。 一般国民はただ単に天皇陛下が終戦の詔勅を読まれた程度にしか当時は感じていなかったのかもしれないが、映画ではその過程に至る事実が克明に1分刻みで構成されている。 パンフレットから一部引用させてもらうと 「戦争終結の為に、彼らが下した日本史上最大の結論とは・・・・ 今日も世界のどこかで、戦いが続いている。もはや日本の平和もいつまで続くのか,誰にもわからない。おりしも戦後70年の節目となる今年、日本が終戦に至るまでの波乱に満ちた道のりと、終戦前夜に起きた大事件の“知られざる真実”を解き明かす物語が完成した。太平洋戦争末期、戦況が絶望的となった1945年4月、鈴木貫太郎内閣が発足し、そして7月、日本は連合国から、ポッダム宣言(日本に対し無条件降伏を求める共同宣言)の受託が迫られる。降伏か、本土決戦か・・・連日連夜、閣議が開かれるが、議論は紛糾。 降伏勧告を黙殺すると発言した日本に、アメリカは原爆を投下、広島と長崎で何十万もの命が散る。 8月14日に御前会議が開かれ、天皇陛下の聖断のもと、ついに閣僚たちは降伏を決定。だが、終戦に反対する若手将校たちはクーデターを計画、皇居やラジオ局への占拠へと動き始める。その時から、終戦を知らせる天皇陛下の玉音放送が国民に届く8月15日の正午まで・・・この“日本のいちばん長い日”に、一分一秒ごとに変わっていった日本の運命とは・・・?」 ところで映画の中で天皇陛下が読まれる終戦の詔勅の文言を決める閣議の場面中、日本の碩学・安岡正篤先生が詔勅に朱筆を入れたくだりが少し出てくる。安岡先生は歴代内閣の指南役と知られ、東洋宰相学・人物学・陽明学等の権威として知られている。 20年ほど前から先生の御本を読んだりしているが、作家・神渡良平の「安岡正篤の世界」と言う本に詔勅が変更されたくだりが有る。引用させていただくと 詔勅案第三稿を安岡先生が校閲した際、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の前にある「時運の趨く所」を「儀命の存する所」に訂正されたが、これが「時運の趨く所」に書き換えられた。そこで閣議直前の校閲で、安岡先生は何故“義命の存する所”で無ければならないのか、迫水内閣書記官長に理由を示し再度元に戻したが、残念ながら安岡先生の意見は通らなかった。 安岡先生には“義命の存する所”でなければならない理由が有った。「『春秋左氏伝』成公八年の条に『信を以て義を行い、義を以て命を為す』とある。義命とは大義名分よりもはるかに重いもので、道徳の至上命令に当たるものです。自分の心に深く内省してみると、もはや戦争はやめたほうがいいという答えが返ってくるからやめるのです。それを“時運”にすると、戦い、われに利あらず、だから、ときの成り行きのままやめるということになってしまい、まったくのご都合主義になってしまう。この姿勢はもってのほかといわなければならない」 閣議で“義命の存する所”が“時運の趨く所”に決定した事を聞いた安岡先生は「国家の事は成り行き任せではない」と怒ったが、後の祭り、8月15日正午を迎えたとある。 それにしてもこの様な先輩たちがいて、ほとんど混乱もなく見事に終戦を迎えることが出来、その上に今日の平和と繁栄が有るのだと終戦記念日にあたり感謝に堪えない。 後年迫水書記官長は衆議院議員・参議院議員となり池田内閣の経済企画庁長官として所得倍増計画を推進し、また郵政大臣等を歴任したが、彼が政治家になる時、安岡先生は「現代の政治には理想がないと言える。民主政治の名の下に行政も議会も成り行き任せになりがちです。それもこれも終戦の詔勅の中の“義命”を“時運”に変えてしまった所に責任が有る。あなたも政治家として、時運派ではなく、義命派になって下さい」と話された。 まさに現在の国会議員達を見ていると、安岡先生の気持ちが伝わってくる感じがする。
2015年08月15日
8月2日に尾道市向島町岩子島の厳島神社管弦祭を観に行った。これは家内の同級生で家庭菜園のお師匠さんである、岩子島の専業農家のお友達Y子さんからのお誘いで有る。 あの有名な「安芸の宮島」の管弦祭は前日の8月1日に行われ、TV ニュースや、新聞記事に載っていた。昔から宮島の管弦祭の事は良く聞いていたが、観に行った事は一度も無い。岩子島の管弦祭の事も、地方ニュースで以前とり上げられていたので、存在は知っていたがこの目で直に観たのは初めてである。 19時頃厳島神社に行ったが、TVで観る宮島の観客には遥かに及ばないがそれでも地元の人や、おみこしを担ぐ地元小学校の子供達、一部観光客らしき人も来ており、結構にぎわっていた。神社の前の海は西方に開けているためにまだ明るく情緒あふれている。 そういえばここは昔、海水浴場で小学6年生の時、学校から臨海学校に来て鳥居の前で記念写真を撮った事を思い出した。また最近では「男たちの大和」のロケ地でもある。 地元の婦人会の奥様方が屋台を出し、ビールやラムネなどの飲み物、かき氷、鳥の空揚げ、いか焼きなどを売っていた。Y子さんの話によれば昔はもっと見物人が多く、よそからテキヤの兄さん達が来て屋台も賑やかだったとか。 待っている間、おもわぬ事で社殿に上がってお祓いをしてもらい家内安全を祈願した。 夕闇が迫る頃、松明を付けて先導する小型の船(Y子さんの御主人が船を出し操縦している)、提灯を飾った2艘の船その後ろに御神体を載せた御座船が、神社前の入り江にやってきて入り江を3周する。御座船からは笛と太鼓の優美な音楽が聞こえてくる。何とも厳かな素晴らしい感覚になる。 その後、御座船は鳥居前に着く。神主が御座船に御神体をお迎えに行き、その後御神体を奉じて社殿に戻っていく。その後を、子供たちが大人達に助けられながら神輿を引っ張っていく。もっとも神輿と言っても、普通の神社で観るお神輿では無く1本の棒の先に飾りがついていて足元には石の車が2個付いたものをひもで引きながら移動していくものであった。その後を御座船に乗っていた太鼓や笛の楽士たちが船から降りて演奏しながら付いていく。今でこそ、この楽士の方達は法被姿だが昔は神主さんの様な服装では無かったのではと想像した。
それにしても貴重な体験をしたし、これがもう少し大々的に知れ渡ると村おこしにもなるのでは、観光都市を目指す尾道市としては良い素材が有るのに残念だ。 そいえば厳島神社は日本全国いたるところにあるのではないだろか?昔30数年前に北海道白糠郡白糠町に住んでいた時、そこにも厳島神社が有り、除夜の鐘と共にマイナス10数度の中、根室本線の踏切を渡り初詣に行った記憶が有る。その時、「こんな所にも厳島神社が」と不思議に思った記憶がこの管弦祭見物で急に思い出した。
2015年08月04日
先日、私が歯科医師会会長職を退任した事で義妹が御苦労さん会兼ねて家内ともども食事会に誘ってくれた。お互い中々時間が取れずこの時期になった。4年間御苦労さんと言われて乾杯をしたのだが、家内が横やりを入れ「本当にご苦労さんと言ってもらいたいのは私だ」と言う。「会議に遅れないように毎回車で送ったり、会合の後、街で飲んでいた私を夜遅く何度車で迎えに行ったことか。そのために寝ずに待っていたりした。」と言われ、本当にそうだなと思い、改めて家内に御苦労さんと言って乾杯をし直す。 食事会は三原の「ひょこめ」と言うお食事処でスーパーのイオンの少し北側にある。 ここは以前、一度だけ利用した事のある店。名前の由来は「ひょっとこ」と「おかめ」の子供を「ひょこめ」と言うらしい。それでお店には「ひょっとこ」と「おかめ」のお面が飾ってあった。 料理の方はおまかせコースを頼んだと義妹が言う。味も中々美味しく、また料理の出てくるタイミングが絶妙である。他にも4組くらいのお客さんがいたのだが、上手に時間配分をされていると感心した。 また料理を盛る器の中には、おかみさんが焼いた手作りの備前焼等もある。中々風情が有ってより料理を引きたてている。また店内ではおかみさんが焼いた備前焼の湯飲みなども展示販売されていた。 魚料理がメインだが、お刺身なども活きが良く、サザエのみそ焼き、新蓮根とスルメイカのサラダとか、南京饅頭、米なす田楽、ノドグロの塩焼き、タコ天、さらにご飯はウナギ飯であり家庭料理のオンパレード、凄く気楽に食べれた。最後に開業20周年と言う事で紅茶アイスクリームが出て来た。
御蔭で生ビール2杯と日本酒1.5合くらい飲んですっかり良い気分になれた。 話は日常の他愛もない話や息子や孫達の話であっと言う間に時間が立ってしまった。 良い時間をいただいた義妹に感謝であると同時にいつも気を使って私を助けてくれる我が家内に感謝である。
2015年08月03日