AM9:00〜PM0:45PM2:00〜PM6:20
木・日・祝日
5:30起床、トランクを部屋の外に出し朝食後8:00にホテルを出発。まずトルコ石の宝石店に寄り見学。小学校5年生の孫息子がトルコに行くと言ったらトルコ石を買ってきてくれと言うので手頃なのがあるかと見て回ったが、小学5年生に買って帰れる様な物は無い。冗談に「トルコの石」だと言ってその辺に転がっている石を持って帰ろうかなどと家内と話したりした。結局孫息子は齊田家の唯一の総領孫なので家内と相談をし、家内が私の母からもらっていたトルコ石の指輪を渡すことにした。 bb その後バスにてトルコの首都アンカラに向かう。一昨日来たシルクロードを逆に向かって走る。途中、トルコで2番目に大きい大塩湖「トゥズ湖」に寄る。このトゥズ湖に塩の層が出来るのは夏場7月から9月頃の期間だとの事。しかし湖畔の砂地が少し白くなっており塩が析出しているようだった。 駐車場の横に大きな店がありそこでチョコレートや「目玉」グッズと言われている『ハイカルナス』をお土産としてまとめ買いをした。その後一路首都のアンカラに向かう(150km/2時間)。 ところで首都は世界的に有名なアンゴラ山羊と毛で知られるアンカラで、20世紀初期においては人口16,000人の小さな町であった。1919〜1922のあいだの救国戦争の際、イスタンブールが敵に征服されていたことや、戦略上の理由から重要視され、1923年の共和国宣言の後には首都に制定されている。現在は580万人(2023.12.31)の人口を抱えるトルコの第二の大都市である。 アンカラに到着してまずアタチュルク廟に向かう。この廟にはトルコ建国の父ムスタファ・ケマルが眠っている。そしてこの廟は1953年に完成し、現代のトルコ建築物を代表する傑作との事。軍人ムスタファ・ケマルは1923年10月、トルコ共和国の独立を宣言し、スルタン制の廃止など近代化への基礎を築いた。トルコ国民は彼をアタチュルク(トルコの父の意味)とよぶ。入り口には墓を守る衛兵が微動だにしないで立っていた。この衛兵は1時間ごとに交代をしている。 赤い服を着た一団や子供達を含む一団などが多く訪れていた。それだけ国民の多くが彼を尊敬している証だと思った。 1.5時間の自由時間がありこの丘からアンカラ市内を一望し、別の建屋でアタチュルクが使用していた車が補修されて展示されていたので見学した。 廟の前のカフェで全員集合しバスの駐車しているところ(実際は路上駐車)に歩き始めたら急に雨になり、しかも夕立のような大粒の雨である。ツアー仲間の人たちは急いでバスの止まっているところに向かうが私は家内の足が悪いので少し前を歩きながら家内を気遣い、しかもツアー仲間の人達が行く方向も注意しながら歩いていた。しかし家内に取っては気に入ら無かったらしく文句を言われた。気遣っていなければツアー仲間と一緒に先にバスに乗り込んでいただろうに、途中添乗員のGさんが遅いので心配して迎えに来てくれた。 その後バスにてアンカラ城の車窓観光に向かう。途中ロータリーになっているところに戦勝記念碑が建っていた。上部にアタチュルクが馬に乗っている像、下に2人の兵士、一人の兵士は友人を戦線に呼び、もう一人の兵士が戦線を監視している像。そして独立戦争中のトルコ女性の貢献を表す物として女性が砲弾を肩に担いで運んでいる像が配置されていた。 その後アンカラ城の下に来たが車窓から丘の上のアンカラ城の塀を見た。アンカラ城は7世紀に造られた要塞で丘の上に有りアンカラの街を一望できるとのこと。 車窓観光を終えアンカラ空港に向かう途中、夕食の「チキンケバブのトルコ風ブリート(ドゥルム)」を受け取るためにレストランに立ち寄る。 アンカラ空港到着後チェックインする。添乗員のGさんが色々手伝ってくれた。ここでトランクを預けたがこれはそのまま関空まで届く事になっている。 出発までラウンジで過ごしたが先ほどもらった夕食のドゥルムを食べた。国内線のラウンジのためアルコール類は置いて無く残念ながらビールはお預け。 待っている間も夕立があった。 19:00のアンカラ発ターキッシュエアラインズでイスタンブールに向かい20:10頃に到着。まだ外が少し明るいのには驚いた。 その後午前1時過ぎまでラウンジで過ごし搭乗口に向かうが距離が有り15分も掛かった。ほぼ2時に離陸し、出発後1時間ほどで食事(朝食)が出る。ビールを飲むが丸1日振りである。4時過ぎに寝る。実に23時間近く起きていたことになる。睡眠導入剤を飲んで寝たが3時間ほどで目が覚めトイレに行きまた寝る。10時(トルコ時間)過ぎに目覚める。すぐ昼食が出る。TV画面で飛行ルートを観ながら過ごす。 日本時間18時半頃、無事関西国際空港に到着。トランクを受け取り1階のクロネコヤマトで宅配の手続きをして関空を後にする。20:30頃新大阪に到着。21:30の「こだま」に乗る予定にしていたが21:13「のぞみ81号」に乗って福山駅で在来線に乗り替える方が早く帰れるので「のぞみ」の自由席に乗り込んだところ満員で車両の中程に立ったまま出発。ところが家内の横に座っていた男性が新神戸駅で下車したため家内は無事座ることができた。そしたらなんとその横に座っていた20代と思われる女性が立ち上がって席を譲ってくれた。おかげで私も座ることができた。年寄り二人が疲れた顔をして立っていたのであろう。それにしても有り難かったし、今時若い人がその様な行動を起こしたことに驚き、日本もまんざらではないと思った。その彼女にどこまで乗車するのか聞いたところ広島だという。その彼女も岡山駅で再度座れた。福山駅で降りるときにしっかりお礼を述べた。福山から尾道まで在来線で帰り、尾道駅のタクシー乗り場にたまたま1台のタクシーがいたのですぐ乗って帰れた。丁度23時を過ぎたところで家に帰り着く。郵便受けは満杯、インスタント系の物を食べ風呂を沸かして入浴。寝たのは5月27日の1時を廻っていた。 疲れたが楽しい思い出深い旅であった。
2024年07月12日
今日は終日カッパドキア観光である。昨日からの雨で残念ながら気球ツアーは中止された。前もって一部ツアー代を払い込んでいるがどこかで払い戻しがあるだろう。まずバスにてエセンテペにある3本のキノコ岩で有名な「親子岩」別名「三姉妹」の岩を観に行く。 カッパドキアの地層は地上で見られる自然の奇跡の一つであり、中央アナトリアの火山が盛んに活動し溶岩や火山灰に覆われた「堆積期」、そして火山活動の停止と共に始まった「浸食期」において、自然の持つ相反する二つの作用が作り上げた作品と言える。「るるぶトルコ」に図解が載っていたので掲載します。
まるでキノコのような格好の岩で、三姉妹の頭の部分は焦げ茶色で胴体の部分は白っぽい岩で出来ており、この頭の帽子の部分は玄武岩で胴体の部分は凝灰岩である。玄武岩下部の凝灰岩上部は柔らかく浸食されやすい。浸食は今も続いておりこれから何百年か何千年か後には浸食がさらに進み。帽子の部分が転げ落ちてしまい胴体だけになる恐れがある。現にそのような岩も多く見られたそれらは。三角形の岩となって残っている。 次に「ピンクの谷」と言われる「ローズバレー」にいく。ここは岩に酸化鉄を多く含んでいることから岩が少し赤みを帯びている。そのため谷が夕日を浴びて真っ赤に染まることからこの名が付いたとか。ただ残念ながら我々が訪れたのは午前中でしかも曇っていてその光景は見れなかったが、岩が波を打っている様は面白いと思った、 次に「ギョレメの谷」に行き、そこにある洞窟住居の一般家庭を訪ね部屋に上がらして貰い紅茶をいただきティータイムとなる。ご婦人がそこでの暮らしについて説明をしてくれた。何が不自由かとお聞きをしたところ、用を足すのに外の玄関脇のトイレに行かなくてはならないこと。また世界遺産なので自分の家であっても勝手に改築など出来無いことを言われていた。
さらにトルコでは絨毯は工場で織るよりも家庭で時間をかけて織るのだという。現に壁際には織りかけている絨毯があった。また床に敷いている絨毯は代々この家で作ってきたものだという。絨毯はただ単に横糸、縦糸の問題では無く、模様を織るために時間が掛かるとのこと。40分くらいお邪魔した。そこをでて少し上に行ったところにお土産店があってご主人はそこの店主とのこと、その土産店で家内と二人帽子を買った。 次にカッパドキアの最高所で巨大な岩山をくり抜いて造られた要塞のあるウチヒサールからの景色を見、そして鳩の谷に向かう。ここの人達は昔からブドウ栽培をしており鳩を飼いその糞を肥料として利用してきた。また卵は食料とし、殻は教会の壁に描かれているフレスコ画を描くための漆喰として利用してきた。 今では観光客が餌をまくので鳩がよってくるが雀もやってきておこぼれを頂戴していた。 その後トルコ絨毯店によってトイレ休憩とショッピングタイムとなった。色々絨毯について説明を受ける。絨毯を制作することは大変な仕事であり、高いものと安いものとの違いなどについて説明を受けた。中には天然の蚕の糸でしかもトルコの人間国宝のビュユカシュク氏が織られたものは2.4*2.0mで1200万円もするとかびっくりである。 ところで今日の天気は曇ったり雨が降ったりであったが絨毯店を出たときアラレが降ってきたのには驚いた。 その後アヴァノス地区に有る「ビズィム・エヴ」レストランにいき昼食となる。
カッパドキア名物「テスティケバブ」であった。これは壺の中に野菜と肉が入っていて火が付いたままテーブルまで壺を持って来てくれた。その後火を消し、壺の中身をご飯にかけてたべるが一種のカレーライスのような感があった。 昼食後、バスにてギョレメ野外博物館に行く。途中「赤い川」の名前をもつトルコ最長のクズルウマク川を渡る。この川から取れる赤土と粘土を用いた陶芸がヒッタイト王国時代から現代まで続いていると添乗員Gさんから説明を受けた。途中の山の断面には赤い土が見える。 このギョレメ野外博物館には多くの教会がある。「るるぶトルコ」の説明によると、『イスラムの圧迫から逃れるため、9世紀頃からキリスト教徒は岩を掘って洞窟に教会や修道院を造ったと言われている。その中心となった場所がギョレメで、一帯には400〜500もの教会があったという。現在は約30の教会が野外博物館として公開されており、信徒が描いたフレスコ画などが見学可能である。』 入場口にクズラル修道院がある。本来4っの教会からなるが2番目の教会の名前をとってそうよばれているとのこと。そこから坂道を上っていくと教会が連なっている。
綺麗なフレスコ画残っている教会は入場料がいるので無料の教会の中に入って観た。ただし入場料を払ってもフレスコ画の撮影は禁止とか。その代わり出口付近にフレスコ画の写真パネルが展示してあった。 それにしても昔の人は宗教心が旺盛なのか良くもこんなに教会を造ったものだと感心する。 その後バスにて「パシャバウ」にいく。ここではミニハイキングとして30分ほどの行程でキノコ岩が立ち並ぶ横を通りながら観光をした。 「妖精達の住家」は一つの岩から2本、3本とのびる複数の首に「帽子」被った格好をしており、ビザンチン時代に隠遁生活を選択した修道僧達の隠れ家でもあった。本当に色々な形状の岩がある。写真の岩は教会でありトルコと日本が共同で修復したと案内板が掲げてあった。 他にも色々の形状の岩があり、珍しさと不思議さでお伽の国に来たような錯覚になった。 また途中に軍警察(憲兵隊)の看板がありトルコ語と英語と日本語が書いてあった。 日本語で「ようこそ 私たちの地域でお会いできてとても嬉しいです あなたの平和と安全のために、私たちは電話としてあなたの近くにいます。 軍警察」と書いてあり驚いた。 次に「デヴレント」に向かう。ここにはラクダ、フクロウ、トカゲなどのユニークな岩が想像を膨らませてくれる事から「イマジネーション」の谷ともよばれている。 ここでカッパドキアの観光が終わりいったんホテルに帰り夕食を済ませた後、洞窟レストランでのベリーダンスと民族舞踏のショーに出かけた。おつまみとお酒が出て飲みながら観賞した。 明日はトルコ旅行最後の日である。続きはPART 8へ
2024年07月05日
朝5:00起床、バイキングスタイルの朝食後7:00にホテルを出発。バスにてまずコンヤに向かう。ここは13世紀セルジュクトルコの首都であり今でもトルコで一番面積の広い都市である。およそ410km/約6時間の行程である。道の両側に畑が広がり小麦が黄色に実っていたりした。高い山にはまだ少し雪が残っていた。それにしても本当に広いと思う。 ところどころ小高い丘の上には風力発電の風車や、太陽光発電パネルなども見受けられた。食料問題やエネルギー問題ではおそらく日本は足下にもおよばないのであろうと思う。 途中10時半頃ローカルレストランで昼食となる。ビデと呼ばれるトルコ風舟形ピザで挽肉や、玉ねぎ、ピーマンがトッピングしてあったが、写真を取り損ねる、スープとビールだけしか写していなかった。 そこを出てコンヤにある、13世紀の神学者「メブラーナ」の尊称を持つジェラルッディン・ルーミーを始祖としたメブラーナ教の博物館に向かう。バスを降りて少し歩いたが通りには市内電車(トラム)が走っていた。 この博物館は当時の聖者が生活し研鑽を重ねてきた部屋が復元され、人形がその当時の服装をしてあたかもそこで生きているかの様にリアルに再現されていた。
また青い塔の下は始祖たちが眠るお墓になっていて、地上には始祖の棺や、他の聖職者の棺が飾られておいてある。その他使われていたコーランなども展示されていた。 また実演を観ることはなかったがメブラーナ教団発祥の地で旋回して踊ることで神に近づいていけると言われていたセマー(旋回舞踏)の人形がその様を再現していた。 ところでこの博物館に大勢の小学生(2〜3年生くらい)が見学に来ていて、我々を見ると何故か「こんにちは」と日本語で挨拶をしてくれた。驚きである。私も「こんにちは」と挨拶を交わした。しかしその他の日本語は知らない様で有った。 この博物館の隣りにセリミエ・ジャミィという壮大なモスクがあった。中には入らなかったが1570年にオスマン帝国セリム2世の命により建造されたモスクである。2本のミナレットをもつ、16世紀オスマン帝国時代の典型的なモスクで、コンヤでのイスラム教信仰の拠点となっている。 見学後一路カッパドキアに向かう。230km/約3時間の行程である。コンヤの街中を通っていたとき2010年にできた日本式庭園の入り口を窓越しに見た。また郊外には外国企業が進出しているようだった。コンヤを過ぎるとかって旧シルクロード呼ばれていた道が今では高速道路となってほぼ一直線の道が続いていた。窓から見える風景は道路の両側に畑が続いており、遠くに山などが見えていた。 13世紀に「東方見聞録」を書いたヴェネツィアの商人「マルコポーロ」もこの道を通り風景を見ていただろう。当時は畑などなかったかも知れないが少なくとも山の形はほとんど変化していないと想像し、彼と同じ山を見ていることに驚いた。 途中スルタハンでトイレ休憩をしたがそのお店の前にかってのシルクロード時代のラクダの隊商宿キャラバンサライがあった。隊商宿は約30q〜45q(キャラバンが1日で旅できる平均距離)間隔で建てられていてトルコには100近く存在していたとのこと。 休息後バスにてカッパドキア地方にある「カイマクル地下都市」に立ち寄る。 3世紀半ばローマ帝国の弾圧を逃れたキリスト教徒の修道士がカッパドキアに移り住んだ。柔らかい岩をくりぬいて住居や教会を造り、ペルシャやビザンチン勢力の脅威から一時的に身を隠す場所を地下に求めた。部屋がそれぞれ狭い通路で繋がっていて、ワイン貯蔵庫や貯水池、台所、食料庫、換気口、井戸、教会、さらに外敵からの侵入を防ぐための岩扉があった。 なお私たちが見学した地下都市は地下13階建てで地下4階までを見学した。 その後ホテルに向かう。1日で600km以上の移動をした。ホテル到着少し前から雨が降りだしたが、添乗員のGさんから明日の気球ツアーは中止と告げられた。残念である。
ホテルは岩をくり抜いて作られた洞窟ホテルである。食事はバイキングスタイルでビールは500ml1本が375トルコリラには驚く。日本円で2000円近い。食事中雨と雷が鳴り通しであった。ホテルの風呂場のシャワーの設備は使い勝手が悪かった。 続きはPART7へ
2024年07月01日