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木・日・祝日
さる10月19日に札幌に出張。今回は北海道医療大学歯学部同窓会設立40周年記念式典に出席するためだった。私は1期生で正に卒業40周年、つまり歯科医師歴40年である。さらに現在同窓会副会長という立場にあり主催者側である。 朝8:15のANAで広島空港を出発。今回乗った飛行機は新しい機種で、国際線のように各シートにTV画面があり中をのぞくとなんと映画も見られる様になっていた。私は映画を見ないでフライトスケジュール画面を見ながら、時折外の風景が写しだされるカメラに切り替えて見ていた。 2時間ほどで到着、エアポートライナーで札幌へ、気温は12℃くらいで少し寒い感じがした。宿泊は「京王プラザホテル」だが、チェックインが15時からなのでとりあえず式典が行われる「グランドメルキュール札幌大通り公園」旧ロイトンホテルの会場に行った。 今日は14時から後輩3名の先生方の講演発表があり17時から式典、18時から祝賀会の予定である。15時前に京王プラザホテルにチェックイン、礼服に着替え再度会場にいく。 北海道医療大学は2028年に現在の当別町から北広島市の日本ハムの球場「エスコンフィールド」の横に移転することが決まっている。そこで少しでもお役に立てるように寄付をすることが急遽理事会で決まりその贈呈式の大役が私に回ってきた。 段取りとして私が壇上にあがり挨拶後、学校法人東日本学園理事長に「設立40周年記念寄付目録」を贈呈することになった。その為1週間前くらいから挨拶の文言を考え、「同窓会は大学あっての同窓会で有り、同窓会設立以来大学には陰に陽にご支援をいただいたお礼だと」挨拶して贈呈することにした。 17時丁度から式典はスタートしたが私の番が近づくにつれて内心穏やかでなく緊張した。目録贈呈式が終わり壇上を降りたらほっとした。 その後祝賀会となる。同期の連中。恩師の先生、お世話になった大学関係者と久しぶりに顔を合わせ談笑。息子が小さい頃お世話になった小児歯科のI教授ともしばらく当時を振り返りながら話に花が咲いた。 20時に無事式典が終わり1期生は同ホテル20階の部屋で同期会を行った。先ほどの式典には出席しないで同期会にだけ出席した者もいた。総勢40名以上で、卒業以来一度も顔を合わせたことのない同期生がいて話が弾む。その後、一人ひとりが近況発表をした。糖尿病になっている同期生は結構いた。中には癌になったとか、脳梗塞になりかけたとか、またYouTubeをしているとか、乗馬に精を出している人もいた。ゴルフに精を出しているとか、また65歳になったのを期にリタイヤーしてのんびりしていると言うのもいた。私は「ほとんど持病はないが緑内障で3ヶ月に1度眼下に行くこと、毎朝7q以上歩いていること、肌の日焼けは畑の草取りだ」と話した。 入学当時は同期の現役入学生とは13歳も歳が離れていたので彼らにとって私はおじさんであったのだろう。呼び方も「齊田さん」と「さん」付けで読んでもらっていたが中には「おじさん」、「おっちゃん」、「日本兵」などと親しみを持って呼ばれていた。 今回ほとんどの同級生に「齊田さん全然変わってないね」とか、「この年になったら齊田さん私たちと変わらないですね」といわれた。また浪人して入学してきた同期生は年金を貰いだしたなど話してくれた。 次の同期会は10年後の創立50周年では死んでいる人も多く出そうなので4年後の「入学50周年記念」で集まろうとなった。元気で4年後に皆と会う約束をして別れた。 翌日飛行機は15:00発のJALであったので10時にチェックアウトをして北大の構内を散策した。北海道も今年は暑かったせいか紅葉が今一である。構内を歩いていると中国人の観光客が多かった。 北海道大学総合博物館という建物見つけて中に入ってみた。入場料無料である。北海道大学の成り立ちのパネル展示があった。各学部を紹介する部屋があり、当然歯学部の展示室に入ってみた。
その他、化石の展示場では恐竜の化石もあった。アイヌ民族の文化を展示している部屋もあった。とても面白く1時間ほど見学したが、今度また来ようと思う。その時はもう少し時間を気にしないで見て回りたい。 予定通り飛行機は離陸し無事尾道にかえる。
2024年10月27日
先日タイ国のドゥアン・プラティープ財団よりメールが入った。それによると私が里親として毎年幾ばくかの奨学支援をしていたスピー・タキアン君が6月10日に無事大学を卒業してプラティープ財団に就職し修理部門を担当しているとの連絡であった。 私がこの財団と係わるようになったのは、この施設のこと、創設者プラティープ・ウンソンタム・秦 女史の事を2000年に故・石川洋先生(托鉢者、元、京都一燈園)にお聞きし、子供たちを継続的に奨学支援することにし、毎年いくばくかの奨学金を送ってきた。 バンコクのスラム街クロントイ地区にドゥアン・プラティープ財団がある。1978年にこのスラム出身のプラティープ・ウンソンタム・秦 女史が、自分の経験からスラムに住む子供たちが悲惨な状況下にあり何とか助け出したいとして活動を開始された。現在の日本社会では考えられないことであるが、当時からスラムの子供たちは劣悪な環境下で養育され、やがて麻薬を常用するなどのさまざまな非行問題に引きずりこまれたり、また正規の教育を受ける機会も少ないために、仕事に就くのに十分な学歴が得られず、就職難になりがちであった。 プラティープ財団のパンフレットによれば、とりわけタイの貧困家庭では、きつい労働と日々の生活費の捻出に精一杯で精神的なゆとりがなく、そのために夫婦が仲たがいしたり、子供の養育が至らなくなるなどの問題が生じている。生活の問題から来るストレスで子供を虐待したり、また違法であっても生活のために我が子を働かせるという状況も出てきている。社会全体に影響を及ぼしている麻薬は、急激な勢いで蔓延しており、若者たちはその犠牲となって始めて、わが身の破滅を知るという状況が起きている。こうした青年たちを立ち直らせ、社会的に自立できるよう教育の機会を提供していくために、プラティープ財団は1986年にチュンポーン県に少年のために、ニューライフプロジェクト「生き直しの学校」をスタートしました。一方少女たちの問題は少年以上に深刻で、近所の人や家族から強姦されたり、虐待されたりといった悲惨な状況下にあっている少女が多く、こうした状況を見かねて、少年たちの施設に続いて、1996年にカンチャナブリ県(映画 戦場に架ける橋の舞台になった場所)に「少女のための生き直しの学校」をスタートした。 ここでの少女たちの1日は、学校に行く子供たちの世話、野菜栽培、養豚、養鶏、調理や裁縫などの職業訓練、食事の準備などである。 最初支援したB子は当時7歳の女の子であった。父親は麻薬売買と所持の罪で服役中、母親は麻薬常習者であった。施設に収容されたときは仔細な事で泣くなどなかなかなじめない子であったとの事。15歳になるまで、毎年学校の成績表や、短い手紙(日本人ボランティアが翻訳)、生活状況などが送られてきていた。私は、いつの日か、彼女がタイ国の未来を背負って活躍することを楽しみにしていたのだが、彼女が15歳の2008年6月17日にプラティプ財団からB子が親戚に引き取られ退所したと連絡が来た。両親は麻薬中毒で父親は服役中である。おそらく15歳になった彼女を働かせてお金を得ようとする親戚の魂胆であろう。まともな所で働くのなら良いが、売春宿などで働かされたら、8年間も里親として支援してきた甲斐が無いと当時はおもった。財団のほうも随分とそれを心配しているようであった。現在生きていれば31歳、B子が幸せに生きていてくれることを願うだけである。 その後、私の里親援助は2008年7月から戸籍証明も無く母親の死亡書のみしか持たないスピー・タキアン君7歳に切り替わった。財団から送られてきたプロフィールによれば両親と物乞いをしながら住む場所も一定しない生活をしていた。父親はアルコール中毒で話すこともおぼつかない。母親が死んだ時、たまたま「生き直しの学校」に保護された。毎年送られてくる財団の報告書を見ながら彼が元気にしていることに安堵していた。小学4年生からは自筆の手紙が添えられていた。最もそれ自体は読めないので財団の日本人ボランティアが翻訳したものを読んでいた。彼からの手紙には前向きな気持ちが綴られていた。「生き直しの学校」で勉学と野菜栽培・養豚・養鶏・アブラヤシの収穫作業などの農業実習、スポーツ、コンピューター学習、学校外教育等をしながら小学校1年から甘えることなく頑張った。そして彼は大学進学を決意しついに大学に合格したというメールが2020年10月5日届いた。大学進学率は日本よりタイの方が低いにも係わらず本当によく頑張ったと当時思った。 それから4年頑張って今年6月10日に無事卒業し卒業証書を受け取ったと写真を添えてメールが届く。彼からの手紙には感謝の言葉(日本人ボランティアが翻訳)が添えられており彼の頑張りに私も心が熱くなった。財団からも感謝の言葉が添えられていた。 本当に良かったし私も肩の荷が下りた感じがする。彼には会ったことがないがいつか会える日を楽しみにしている。 財団からは引き続き新たな子供の里親になってほしい旨、要請があった。ただ私も年齢が喜寿を超えたので最後まで面倒を見られるかどうか解らないが前向きに検討してみよう。
2024年10月03日