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大先生(元院長)のブログ

初めてのトルコ旅行 PART 4

 朝5:30起床、バイキングスタイルの朝食後8:00にホテルを出発。バスにてトロイに向かうおよそ330km/約5時間30分の行程である。トルコのヨーロッパ側、マルマラ海に沿って移動する。途中のトイレ休憩はガソリンスタンドとコンビニが一緒になったところである。イスタンブールを離れると農地が続く。そして所々にトルコ国旗があるが、今日は何故か国旗が半旗で掲げてあった。だれか偉い人がお亡くなりになったのかと思った。
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 アジアとヨーロッパを分けるダーダネルス海峡にかかる全長3563mの世界最長の吊橋「チャナッカレ大橋」を渡りアジア大陸に入る。ダーダネルス海峡は多くの船が行き来していた。
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添乗員Gさんの話によればこの海峡では第一次世界大戦のとき英仏連合国軍がトルコに攻め込もうとしたが阻まれ11ヶ月(1915年2月19日〜1916年1月9日)の戦闘の後トルコ軍が勝ったことなどをトルコ人の彼女は少し誇らしそうに話してくれた。
その後昼食はトロイに行く途中のホテルのレストランで取り、昼食後バスにて移動しトロイ遺跡のあるヒサルルクの丘に到着。
 入り口を入ったすぐの所(地図の@)に遺跡のシンボルであるトロイの木馬のレプリカが置かれているのだが現在修復中でその姿を見ることはできない。もっともこの木馬が修復中という情報は今年のはじめに知った。というのも2019年にハワイ旅行に行ったときの添乗員Sさんと家内が時折LINE(ライン)で連絡をしあっていて、彼女が2月にトルコツアーの添乗員でトルコに行ったら木馬がなかったと写真を送ってくれていた。
 高校時代から一度は行ってみたいと思っていたトロイに来たと思うと感無量である。但し行きたいと思っていただけで実はトロイのことは何も知らなかった。
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見学ルートにしたがって取り付けられている木製の板の上を歩きながら遺跡を見学していく。添乗員のGさんがこのトロイがある「ヒサルルクの丘」について説明をしてくれた。
 トロイ遺跡は青銅器時代の紀元前3000年頃からローマ時代の西暦500年くらいまでの間戦争、火災、地震などで何度も倒壊しその都度瓦礫の上に新しい街が築かれていった。近年の発掘では9層に及ぶ古代都市の痕跡が明らかになった。元の地表から見れば15m以上たかさになっている。私はそんなことは全く知らず、トロイ戦争の後廃墟となって放置されたままになっていたのだと思っていた。そんなに同じ場所に何度も都市が再建されていたとは思いもせず驚いた。
 ギリシャ神話ではこの地に存在した都市はイリオスやトロイアの名前で呼ばれていたこと、現在ではトロイの名称で広く知られている。紀元前6世紀のホメロスが「叙事詩」として「イーリアス」と「オデュッセイア」や書いたと言われているがこの「イーリアス」に出て来るトロイは神話上の伝説都市と思われていた。子供の頃「イーリアス」を読んでこれは神話なんかでないと思い続けたのがドイツ人のシュリーマンである。
 1870年に彼は私財を投じてこのヒサルルクの丘を発掘し、都市遺構や数々の財宝を見つけ出す事に成功したことからトロイが実在したと証明された。但しシュリーマンは9層有る都市遺構の下から第2層がトロイと思い込んだがその後の発掘調査で現在では第6層(BC1300〜1180年頃)がトロイ戦争の舞台となったと見られている。
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 まず歩き始めてすぐに東の塔と城壁(第6市、BC1900〜1300年)の遺構(地図のA)が見えてくる。見事な石積みの城壁が続く。2つの城壁に挟まれた狭い通路の途中に門をもうけ、外敵の侵入を防いだ。トロイ最盛期の遺構の一つ。 石を積み上げた城壁に備えられていた東の塔。
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 次にアクロポリス内部に、城壁と平行して残る建物の遺構はメガロンと呼ばれている。1998〜99年に発掘された時点では、石の土台に建つレンガの壁が1.5メートル以上の高さで残されていた。2003年夏ここに保護用のルーフが取り付けられたので、今やオリジナルのレンガ遺構を壊す心配なく、メガロンハウスと城塞の壁が見学できる。
 ところでトロイの遺跡には建物は残っていない。そのため多くの場所で石の土台とか石垣とかレンガの壁しかなく、どれも同じように見えてさっぱり解らない。
 次にシュリーマンが初めて遺跡を発見した場所(第1市、紀元前3000〜2600年)を見る(地図のB)。発見当時、掘り進めた結果最下層の都市の遺跡が発見された。しかし掘り進めた結果、上にあった何層もの遺跡が破壊されてしまったとも言われる。 
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 案内板に9層の断面図の模式図あった。その横には同じように発掘した地層が残されていたが手前が第2層その上が第3層と案内板があった。添乗員のGさんはシュリーマンが発掘した物はことごとくドイツに持っていかれトルコには何も無いと少し悔しそうに話していた。
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 さらに進むと城塞の南東と南西にも立派な門が有ったとのこと。特に南西の門に続く急傾斜の石畳の道が設けられていた。その一部は修復されている。おそらくギリシャ軍が残した木馬はこの坂道を引っ張り上げられ城塞に入ったと考えられている。
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 さらに進むと聖域(第8市、紀元前900〜350年)と呼ばれている神々に供物を捧げた場所に来る(地図のC)。ここは生け贄の儀式に使われた場所で井戸と祭壇が並び、アレキサンダー大王もここで供物を捧げたとされる。第8〜9市時代のもので、当時はトロイ初のギリシャ都市であった。
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次にオデオン(第9市、紀元前350〜400年)と呼ばれる音楽や演劇、会議が行われていた小劇場の跡にくる(地図のD)。トロイ遺跡の中で最も保存状態がよく、ローマ時代に建てられたもので、当時は木製の屋根が付いており音響もよかったという。 かってはオデオンの他に大劇場もあったという。
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 さらに歩くと入り口近くのトロイの木馬の場所に戻ってきた(@)。ここで30分ほどのトイレ休憩と自由行動となった。トロイの象徴である木馬は紀元前1,200年、トロイ戦争の最中、退却していくアガメムノン率いるギリシャ軍が残した木馬にまさか兵が潜んでいるとも知らず夜襲を受けて陥落した。この木馬は1975年に復元され当時の大きさを再現していると言われていたが、木馬が揺れるようになったため修復を開始したらしい。
じっくりトロイの木馬を見たが足の大腿骨あたりに金属の補強板が取り付けてあった。
完成までにはもう少し時間が掛かるらしい。
 その後バスにて宿泊先のホテル「アドリナ サーマル ヘルス&スパ」に向かう(150km/約2.5時間)。途中の道路の中央分離帯には夾竹桃の花が咲いていた。
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 このホテルにはプールがありその前にはエーゲ海が広がり遠浅の砂浜が続いていた。この砂場に立つとエーゲ海から吹くマリンブルーの風が感じられる。おそらく夏には観光客でさぞかし賑わうのであろう。
続きはPART 5へ

2024年06月22日

初めてのトルコ旅行 PART 3

 バスにて旧市街地にあるオスマン帝国皇帝の住居「トプカプ宮殿」に向かう。トプは大砲、カプは門を意味する。1472年コンスタンティノープルを制圧したメフメット2世によってイスタンブール市内で最も見晴らしのよい丘に建てられた。15〜19世紀にかけて、オスマン帝国の中心として国政が行われ、オスマン帝国歴代の君主スルタンとその家族たちがここで暮らした。
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 入り口でイヤホンガイドを渡されたが説明は添乗員のGさんがする。音声はよく聞こえた。帝王の門から入ると第一庭園がありそこをさらに進むと表敬の門をくぐり第2庭園がある。左手に正義の塔がありそこでは国政を取り仕切る会議が行われていた。また右手には厨房跡の建物が見えてくる。この厨房ではかって数百人もの料理人が4000〜5000人分の食事を作っていたと添乗員のGさんが説明してくれた。
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 さらに進むと第3庭園に出てくる。右手に宝物館があり右手にハレムが有る。ここで1時間の自由時間、集合はこの場所でと言われる。
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トプカプ宮殿の見所はハレムとスルタンの財宝を展示する宝物館が必見らしいが多数の観光客が並んでいて、観ていたらとても1時間の自由時間では無理と判断しさらに前方へ進むと第4庭園に出た。この一番先端からはボスボラス海峡、金角湾、マルマラ海が一望に見え多くの船が航行していた。
 家内はとても疲れたといい、集合場所に戻っていく。私はそこからメジディエ・キョシュキュの内部を観る。
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 それから第4庭園を左手に歩いて行くと宮殿の一番奥には、イズニック・タイルなの外壁が美しく、あずま屋の中では最も優雅で美しいと言われる「バーダーット・キョシュキュ」があった。さらにその横には海を望む黄金屋根のあずま屋があり金角湾が見渡せた。イスラム教のラマダンの時夕食を取った場所とのこと。
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 さらに集合場所に向かおうと思い歩いて行くと大きな赤いレンガの建物があり警察官がいた。聞くとここはハレムの出口なので入り口に回れと言われる。ハレムの隣りに武器の展示室があり見学。そして無事家内が待っていた場所にたどり着く。
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 そこではトルコ人の男の人が箒で庭園のゴミや落ち葉を掃いて清掃していた。その箒を見るとどう見ても日本の座敷箒にしか見えなかったので、「それは日本の箒ですか」と訪ねてたところ何とその人は日本のアニメ、「魔女の宅急便」の主人公「キキ」の如くその箒をまたいでにっこり笑顔を見せてくれた。あまりにも突然のことでびっくりするとともにこちらも笑顔で手を振った。まず日本の箒がトルコで活躍していることに驚き、多分機能性がよいのだろうと思った。そして日本のアニメがトルコにまで浸透していることに本当に驚いた。残念ながらそのパフォーマンスの写真はない。
 全員集合し、「スルタンアフメッド・ジャミィ(通称ブルー・モスク)」に向かう。
途中「アヤソフィア」の横を通る。歩きながら添乗員のGさんが説明をしてくれた。アヤソフィアの建物はビザンチン帝国時代の360年に建設され15世紀までキリスト教の教会として信仰を集めたが、その後オスマン帝国時代にイスラム教のモスクに改修された。20世紀にトルコが共和制に移行するとアヤソフィアは無宗教の博物館に転身したが2020年大統領の方針で再びモスクと姿を変えたとのこと。
   DSC00096-3.jpg   DSC00097-3.jpg  
「ブルー・モスク」についても説明があった。「通常モスクには主の権威を示すために複数のミナレット(尖塔)が造られるが、このモスクには6本のミナレットがある。本来皇帝は4基、皇族は2基など決まりがあったが、アファメド1世が「黄金(アルトゥン)の」と命じたのを設計士が「6本(アルトゥ)」と聞き間違えたという逸話も残っている」とのこと。なお女性はモスクに入るときはスカーフをしなくてはならず家内は日本で購入して持ち歩いた。
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 大きなモスクで中央ドームを4つの副ドームが囲み、さらにその周りを2〜3つの小ドームが囲んでいる。それぞれのドームを支えるアーチには、赤や青を基調とした植物模様のフレスコ画が施されている。金文字で刻まれているのはコーランの1節。また中央のドームを支える柱は直径5m。巨大なドームの重さを支えるために丈夫に作られている。見た目が象の足に例えられている。周りのステンドグラスも260枚ありそこから注ぐ光と美しい照明の光で幻想的な雰囲気を醸し出していた。
 ブルー・モスクを出るとすぐ横にローマ時代の競馬場跡があった。そこにはエジプトのナイル河畔の「カルナック神殿」からテオドシウス帝が移したオベリスクがあった。
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さらに歩いて地下宮殿に向かう。途中色々の銀行のATMが並んでいた。トラムが割合頻繁に運行していた。
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 地下宮殿は東ローマ時代に造られた巨大な地下貯水池で幻想的な空間が広がっていた。ここには各地の神殿から運ばれた柱で支えられており各列28本の円柱が12列で合計336本の柱が並んでいた。広さは縦140m、横70mでギリシャ神殿から運ばれてきたという神秘的な模様の柱は模様が涙のようであることから「涙の柱」と呼ばれている。また地下宮殿の最も奥にある2つの柱は土台部分に恐ろしい形相の顔が彫られている。良く見ると髪がうごめくヘビを表していることから、ギリシャ神話の怪女「メデューサ」を形取ったものと言われている。ヘレニズム時代の遺跡を石材と転用した為、そこにあった石像が柱の土台として使われた等と言われている。ただなぜ横向きや反対向きに置かれているかは謎とのこと。
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 その後バスにてグランドバザールに行く。添乗員のGさんの説明ではバザールの中は中央の道から枝わかれて幾本もの道が続くこと、また4000店舗くらいあるので横道に入るときは良く道順を確認して歩いてくださいとの注意があった。入り口の手前にあるお店屋さんでトイレ休憩をしてバザールの門から中に入る40分程の自由時間となる集合場所は先程のお店の前という、入ってお店をのぞき見してどの様なものがあるか見て歩いた。
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 ただし今買ったらこれから先ずっとそれをもって旅行しなくてはならないので、土産は最後のカッパドキアで購入するのが良いのかなと思った。門から300メートルくらい来たところで家内が「疲れてもう歩けない」というので集合場所にもどることにした。本当に歩くのがしんどそうなので家内の手を引きながらあるく。手をつないで歩くなんてそれこそ何十年振りかである。尾道では恥ずかしくて出来ないな。
 そこからバスにてオリエント急行の終着駅にあるオリエントエクスプレスレストランで夕食となる。
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オリエント急行は1883年10月4日にフランス・パリからトルコ・コンスタンチノープル(イスタンブール)まで走った。2009年に運行が修了した。
 アガサ・クリスティの小説「オリエント急行殺人事件」に登場するクラシカルな建物は1890年当時のままでステンドグラスがきれいな雰囲気のあるレストランで有った。
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   IMG_6040-3.jpg   IMG_6036-3.jpg
 壁には当時の写真やら、訪れた有名人の写真などが飾ってあった。
 20時過ぎにヒルトンホテルに帰ってきた。22時過ぎに就寝。19時間以上行動したので本当に長い1日であった。
続きはPART 4へ

2024年06月15日

初めてのトルコ旅行 PART 2

 ダウンロードした空港内の地図を見ながら無事集合場所の「バーガー キング」に到着。まだ日本語ガイドは来ていなかった。しばらくしたらトルコ人の男性がやって来て「Oさんですか」尋ねられたが「齊田です」と答えたところ、「もう一つのツアーの方ですね、少し早く着いたのでまだ迎えが来ていません」と流暢な日本語で話してくれた。しばらくすると男女3人組の人が来た。きけば羽田から来たとのこと、漸くして私たちが待っていたお迎えの人が来た。彼は我々をホテルまで送ってくれる運転手さんであった。そうこうするうちに成田からの人達が来て10人となった。
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 運転手さんに日本円をトルコリラに替えたいと話したところ空港内に5つの銀行が交換所を開いているのでそこで替えてくださいと言われ替えた。レートは1リラ5.22円だった。バスには先ほど羽田からのかたがたも乗り込んでホテルまで行く。途中ホテル到着後のスケージュールが話された。私たち2人はホテルのロビーに9:15集合と言われ、ほかの方々は8:30集合とのこと。
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ホテルはヒルトンホテルで部屋は10階にあった。広い綺麗な部屋である。窓のカーテンを開けてみると大きなモスクが丘の上に見えた。ひょっとしてあれがブルーモスクでは無いかと勝手に想像した。
 9:15に1階フロアーに集合したら女性の添乗員Gさん来ていた。私たち2人のほかに15人がいてこれから一緒に行動するとのこと。このトルコ旅行には私たちの8日コースのほかに9日、10日コースがあるがこの方たちは私たちよりも1日早く来て前の日から観光が始まっている人、私たちと行動を一緒にした後さらに2日間観光する人など様々らしい。
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 まずバスにてクルーズ船乗り場に向かう。至る所にモスクがある。金角湾にかかる「ガラタ橋」を徒歩で渡る。この橋は旧市街と新市街を結ぶイスタンブールの交通の要で6世紀に最初の橋が架けられた2層式で、橋の上はトラムが走る珍しい造りで下階はカフェやレストランが並んでいる。橋の上では多くの人が釣り糸を垂れていた。橋の向こう側にはアタチュルク橋が見えた。そしてこのガラタ橋のたもとに、大きなモスクがあった。イエニ・ジャミィである。このモスクは1597年に着工したが完成までに60年以上の歳月がかかった。そのため「新しい(建設者)モスク」という意味の名前が付けられたとか。
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 エミノニュ桟橋で結構大きなクルーズ船に乗り込む。添乗員のGさんがクルーズのコースについて日本語で説明してくれた。ボスボラス海峡を北上し「7月15日殉教者の橋(以前は第1ボスポラス大橋と呼ばれていたが2015年のクーデター事件後この名前に変更)」をくぐり「第2ボスボラス大橋」でUターンするコースである。後、クルーズが終わっての集合場所を聞いた。
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 船の中は全く自由で好きなところから風景を見ることができた。ただし何も説明がなく、ただ景色を見ているだけで時折面白そうな建物などがあると写真に収めた。
帰ってきて「るるぶトルコイスタンブール」という観光情報誌を観ながら写した写真の名前が確認した。これが日本の旅行社がするツアーならば添乗員さんが前もって色々の資料を用意してくれて、その都度渡してくれるのでよく理解できたであろう。
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 私たちが乗船したクルーズ船の横に何かトルコらしい装いをした小さい観光船が泊まっていた。いよいよ出港。金角湾を出てボスボラ海峡に入ると右手がアジサイドで左手がヨーロッパサイドである。船はヨーロッパサイドを航行する。出発点から300m位移動したとき、少し高いところにガラタ塔やモスクが見えた。正にイスラムの世界にやって来た感がある。
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 またしばらく行くと大型のクルーズ船が停泊していた。船名は「Queen Victoria」である。
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 第一ボスポラス大橋のたもとに綺麗な建物が見えたが「オルタキョイ・ジャミ」で1854年に建設されたアブドゥル・メジト1世のモスクでオスマン・バロック様式、さらに進んで第2ボスボラス大橋のたもとに城塞が見えてきたが「ルメリ・ヒサール」で1452年にメフメット2世がコンスタンチノープル陥落のために僅か4ヶ月で建設してとのこと。
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 Uターンをしてアジアサイドに沿って航行。ボスボラス海峡の終点付近アジアサイドのウスキュダルの沖合にクズ塔(乙女の塔)が見えた。ウスキュダの沖合に浮かぶ石造りの塔でさまざまな伝説が残された塔で展望台からの眺めは絶景、ボスボラス海峡とマルマラ海側の入り口に位置し、かつては灯台や税関として使われたと「るるぶ」に説明があった。
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無事出発したエミノニュ桟橋に到着しクルーズを終わる。
 ところでクルーズ中もそうだが至る所でトルコ国旗を見る。写っている船に比べ丘の上の旗がいかに大きかわかる。また個人の家の窓にも国旗がつり下げられている。日本は正月元旦でもほとんど国旗が掲揚されていない。尾道市でも私が見るところでは市役所と消防署くらいしか常時掲揚されていない。トルコ人と日本人の愛国心の違いなのであろうか?
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 またガラタ橋を歩いて渡りガラタポートに有るレストランに行く。スープとサラダと鯖サンドイッチを食べる。ビールは旅行代金には含まれない。500mlが240トルコリラで大まかに日本円に換算するとおよそ1200円強である。今トルコは急激なインフレになっており、あらゆる物が高くなっているとのこと。そして円は安くなっているため我々観光客にとっては大ピンチである。
昼食後イスタンブール市内観光である。 続きはPART 3へ

2024年06月07日

初めてのトルコ旅行 PART1

 以前、2022年9月出発のトルコ旅行を申し込んでいたところコロナ第7波のため旅行会社がキャンセルしてしまい行けなくなっていた。この度インターネットで調べたところ「ターキッシュエアライン&トラベル」が募集している「トルコ周遊8日間ツアー」を見つけ参加することにした。
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 トルコと言ってもあまりなじみがなく中学の音楽授業で軽快な「トルコ行進曲」を聞いたのが初めてトルコを知ったのでは無いかと思う。
その後、高校の歴史などでオスマントルコのことを習ったり、日露戦争で日本がロシアのあのバルチック艦隊に勝利したことでトルコ人が海軍大将「東郷平八郎」の名前から子供の名前に「トウゴウ」と付けたり、通りの名に「東郷通り」をつけていることを聞いたことがあった。
そして2015年日本・トルコ国交樹立125周年を記念して日本・トルコ合作映画「海難1890」が作られ、2015年12月に封切られた。それに先立ち、トルコを訪れていた当時の安部首相とエルドアン大統領が11月、一緒に映画を鑑賞したニュースが流れていた。
この映画は私も封切られるとすぐに観に行き、私のブログ(平成27年12月6日)でも紹介した。一部ブログから転用すると
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『日本よりおよそ9000kmも離れた、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる1つ の国、トルコ共和国。かつてオスマン帝国として歴史に名を刻んできたその国と日本は、長きに渡り交流を深めてきた。そして2015年、日本トルコ友好 125周年を迎える。遥か海を越えた両国の友好には、歴史の裏に隠された2つの知られざる物語があった―。
1890年9月、オスマン帝国最初の親善訪日使節団を載せた軍艦「エルトゥールル号」は、その帰路の途中、和歌山県串本町沖で台風のため海難事故を起こし座礁、大破。乗組員618人が暴風雨の吹き荒れる大海原に投げ出され、500名以上の犠牲者を出してしまう。しかし、この大惨事の中、地元住民による献身的な救助 活動が行われた。言葉の通じない中、避難した小学校では村中の医師が集まり応急手当を行い、台風の影響で残りわずかな蓄えにもかかわらず、食糧や衣類を提供。そのおかげで69名の命が救われ、無事トルコへ帰還する事が出来たのだ。この出来事によりこの地で結ばれた絆は、トルコの人々の心に深く刻まれていった。この軍艦「エルトゥールル号」の話は聞くところによるとトルコの小学校の教科書に載って長い間語り継がれて来たとのこと。
そして、時は流れ1985年、イラン・イラク戦争勃発。サダム・フセインのイラン上空航空機に対する無差別攻撃宣言によって緊張が高まった。この宣言後、 在イランの自国民救出の為、各国は救援機を飛ばし次々とイランを脱出。しかし、日本政府は救援の為、自衛隊機を出すことが自衛隊の海外派兵となり憲法違反と判断し救助要請に応えなかった。またJALも乗務員の安全が確保できないと判断し救援機を出さなかった。テヘランに残された日本人は215人。メヘラバード国際空港で誰も助けの来ない危機的状況に陥り絶望の淵に立たされた。この状況を打開すべく、日本大使館はトルコへ日本人救出を依頼。トルコ大統領オザル氏は、それを快く承諾。まだ500人近くのトルコ人がテヘランに残っていたにも関わらず、日本人に優先的に飛行機の席を 譲ったのだった。』
このことで私はトルコに大変興味を持った。
 それともう一つ高校の世界史でトロイの遺跡をドイツ人のハインリヒ・シューリマンがギリシャの詩人ホメロスの叙事詩「イリアス」にでてくる伝説上の都市と信じられていたトロイを、これが実在したと信じ続け私財を投げうってついに発掘した話を習った時、是非トロイを訪れてみたいと思っていた。
恥ずかしながらまさかトロイがトルコ共和国にあるとは露知らず。数年前に知ってトルコ旅行にトロイが含まれているツアーを選択した。
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ただし私のこのツアーはトルコ航空の旅行会社が企画したため、集合は現地イスタンブール空港出口のすぐ右側に有る「バーガー・キング」の前とのこと。日本のオフィスに電話したら私たちのプランで関西空港から出発される方は私たち夫婦2人だけとのこと。少々心配であったがイスタンブール空港に着いてからの道巡を示した地図などがインターネットのマイページに掲載され、また飛行機の切符もEチケットで掲載されており印刷をして持って出かけた。
 5月19日新尾道駅を14:21の「こだま」で出発、福山で「のぞみ32号」に乗り換え、新大阪で関空特急「はるか」に乗り換え無事関空についた。少し早かったため1時間ほど待つ。
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 当日の関西空港国際便出発ロビーはものすごい人で、ほとんどが外国人。日本語はほとんど聞こえず韓国語や中国語などが飛び交っていた。円安の関係で旅行客が増加しているとニュースなどで聞いていたが、ここまですごいとは思わなかった。1時間ほど待ったところでトルコ航空のカウンターが開きチェックインした。スターアライアンス加盟航空のためANAのラウンジで少し時間を過ごす。
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21時頃搭乗口前に集合したところ放送が流れ家内が搭乗口に呼び出された。家内が搭乗口まで行くと家内の座席のモニターは画像がでるが音声が故障でない。そのため搭乗前にその事が家内に通知され、それに文句を言わない様に誓約書にサインをさせられた。それに対して粗品の一つも無い、とんでもない。
 21:45イスタンブールに向けて離陸。1時間ほどで食事が出たが、言葉はあまり通じず英語のメニューを観ながら私は寿司を頼む。渡辺憲が出演している映画「GODZILLA(ゴジラ)」を観て寝た。
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 トルコ時間午前3時(日本時間朝9時)前に朝食として機内食が提供された。その時モニターで飛行ルートを観ていったら丁度黒海の南側を飛行しており、地図には手前に2014年冬のオリンピックが行われたロシアのSochi(ソチ)、その上方にはウクライナの首都Kyiv(キーウ)が書かれていた。しばらくして黒海の北側にYalta(ヤルタ)が表示されてた(写真では右側)。Yaltaはクリミヤ半島に有りこの飛行機の現在地から5〜600qほどのところ(尾道と静岡間)である。正に今この時間もロシアとウクライナが戦争をしている。今自分たちは戦場横の安心な場所にいて朝食を食べていることに有難さを感じた。
 さらにこのヤルタでは1945年2月にイギリスのチャーチル首相、アメリカのルーズベルト大統領、ソ連のスターリン書記長による会議が行われ、ソ連対日参戦と第二次世界大戦の戦後処理についてヤルタ協定を結んだ場所で、現在の日本の形が作られる出発地点である。
 現地時間4時半(日本時間朝10時半)前頃、無事イスタンブール空港に到着。少し予定より早く着いたようだ。正に「飛んでイスタンブール」であった。
続きはPART 2へ

2024年06月01日

突然の鼻歌に驚く

 先日、畑の草取りをしているとき、あまりにも突然に鼻歌が出てきた。
「もしもし ベンチでささやく お二人さん 早くお帰り 夜が更ける 野暮な説教 するんじゃないが 此処らは近頃物騒だ 話のつづきは明日にしたら そろそろ広場の灯もきえる・・・」。
何という歌だったのか分からないがあまりにも突然出てきた歌なのでビックリ。帰ってインターネットで調べたら昭和31年4月に発売された「若いお巡りさん」で歌手:曽根史郎 作詞:井田誠一 作曲:利根一郎と有った。
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 昭和31年は私が小学校4年生のときである。当時はTVも無くもっぱらラジオの時代であったし、我が家では父も母も歌には全く興味が無かったようで、あまり歌番組を聞いた記憶が無い。それでも六十数年振りに突然我が口から飛び出してきたからには恐らく同級生が歌っているのを聴きながら覚えて歌ったりしていたのであろう。2番の歌詞の「送って上げよう 任せておきな 今なら間に合う 終列車」という所も覚えていた。改めて懐かしく思った。
 歌を口ずさみながらふと思ったことがある。作詞家の井田誠一氏が今この時代に作詞をしたらどのような歌詞になったのだろうか?
今なら「話の続きは家に帰って携帯か、メールかLineでしたら」とアドバイスをするのであろうか?
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 なお曽根史郎という歌手について調べてみたら「赤胴鈴之助」を歌っていることが判明。今の若い人たちは赤胴鈴之助と言ってもピンとこないであろうが、私たちの年代、特に男性の場合懐かしく思う人が多くいるのでは無いだろうか。子供用の月刊雑誌「少年画報」に掲載されていた漫画である。我が家では漫画を買ってもらう余裕はなく、毎月買って貰らっていた仲の良いクラスメイトが読み終えたらいつも雑誌を借りてよく読んだ。今でもその漫画の一コマを覚えている。それは老婆が鈴之助に呪文をかけるのだが、その呪文が「れむね れむね えましてね」である。それを読んだときにこの呪文は「ねむれ ねむれ ねてしまえ」を逆さまに言った台詞と気がついて悦に入ったことを思い出した。
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 またラジオドラマとしても放送され(昭和33年2月〜昭和34年7月)その時の主題歌が「剣をとっては日本一に 夢は大きな少年剣士 親はいないが元気な笑顔 弱い人には味方する がんばれ たのむぞ 僕等の仲間 赤銅鈴之助・・・」。この主題歌は本当によく歌った記憶がある。しかし誰が歌っているのか歌手の名前も当時知らなかったしこの度初めて知った。しかし、ネットで見るといろいろな人が歌っているので私が聞いた曲が曽根史郎氏のものだったかどうかは解らない。さらに一度だけアニメ映画の赤胴鈴之助を映画館で観たことがある。
 この他、ラジオで放送されたドラマ番組に「笛吹童子」があった。少し時代が下がってTVが出てくると「月光仮面」や「怪傑ハリマオ」などが放映され、主題歌が流されそれを聞きながら歌った記憶が甦る。
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 今でも月光仮面の歌 「どこの誰かは知らないけれど 誰もがみんな知っている 月光仮面のおじさんは 正義の味方よ よい人よ 疾風のように現れて 疾風のように去って行く 月光仮面は誰でしょう 月光仮面は誰でしょう・・・・」がすらすらと出てくる。
 急に出てきた鼻歌のおかげで子供の頃の記憶がよみがえって色々と懐かしむことが出来た。
写真はいずれもインターネットから利用させてもらった。

2024年05月09日

ここ2週間

 「さいだ歯科医院」では、日曜、祝日、木曜日が休診日となるが、毎月一日だけ木曜日と土曜日とを入れ替え土曜日を休診日にしている。そして木曜日に1.5時間の院内ミーティングを行い、問題点や改善点などを話し合っている。4月は18日の木曜日と20日の土曜日とを入れ替えたので20・21日と連休になった。
 このところ結構雨が多く家庭菜園での農作業が中々出来ず、何としても20日には農作業をすると決めた。幸い午前中は曇っており決行できた。
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畑は3月中に前もって耕し、マルチなどを貼って準備していたので、トマト3種類8本、キュウリ8本、なすび5本、ししとう2本、ピーマン2本の苗を買ってきて植えた。また昨年取っておいたバジルの種もまいた。
 ところで例年「尾道みなと祭」はゴールデン・ウィーク中にするのが習わしだったが、今年は一週間早く4月20・21日に開催された。結構な人出で有った。私は21日に家内と一緒に出かけて「ええじゃんSANSA・がり 踊りコンテスト」の幼稚園児と、小学生の部を観た。まず子供たちは海岸通りを「SANSA・がり 踊り」の音楽に合わせて目一杯踊りを披露してくれる。審査が終わると駅前広場の特設ステージとその下の芝生の上で再度踊りを披露してくれた。私は4チーム位を海岸通りで見た後、駅前広場に戻りウッドデッキの壁に寄りかかってステージでの踊りを再度見ていた。
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 どのチームもはつらつとしていて素晴らしかった。特に今年度で閉校になり来年度からは「尾道みなと小学校」として統合される土堂・長江・久保小学校の子供達は元気いっぱいに最後の踊りを踊っていた。
 広場の周りは人垣が出来、舞台や広場で踊る子供達の親御さんや学校関係者が応援しているが、一チーム終わると入れ替わり、次のチームの関係者がやって来て応援をされていた。その中で「抱っこ紐」をしてお子様を前に抱いて通られる若い男性の姿が結構目に付いた。家内と「時代が随分変わったね」と話した。私たち夫婦が子育てをするときは家内が子供を背中におんぶして行動しているのがあたりまえであった。私はちょっとの間子供を抱くことはあっても今の若い人のように長時間前に抱いて歩いたことなど無かった。
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 ところで「尾道みなと祭」のポスターがどこかで見た事があると思って昨年の写真を見たら図柄は全く同じで、回数が第80回から第81回と変わっており、開催日が違っているのと「しまなみ海道開通25周年記念」の文字と公式HPのQRコードが載っていただけなのには驚いた。良い図案なのでまた来年も同じなのかな?
尾道水道の対岸の向島ドックに修理に入っている船には鯉のぼりが飾ってあり綺麗であった。雨が少し降りだしたので帰る。
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 25日は晴れで朝から家庭菜園に来てジャガイモ畑の草取りをする。ジャガイモは今年は北海道産の「キタカムイ」という品種で3月20日に植えたが早く芽が出た株にはもう花芽がでてきているが、遅いのはやっと土から芽を出したのもある。また柿の木の下草を取ったが誤って何本かのミョウガの茎を折ってしまう。
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 今年の菜園は他に大根、人参、春菊、ふだんそう、ほうれん草、モロヘイヤ、オクラ、といろいろの物を植えた。今回いつ植えても途中で枯れてだめになる「ほうれん草」の植え付けに初めて成功した。オクラの発芽が悪くやっと芽が出てくる感じである、28日にはキュウリとトマトの支柱を半日がかりで立てた。
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 5月2日は木曜日で休診日のためゴールデンウイーク後半は5連休となっているが、畑周りや駐車場の草取りをする予定である。

2024年05月03日

第五のがん治療「光免疫療法」

 私が毎月購読している月刊「致知」5月号のテーマは「倦(う)まず弛(たゆ)まず」でトップ記事にアメリカ国立衛生研究所主任研究員小林久骼≠ニSBIホールディングス会長兼社長の北尾吉孝氏の「人類の未来を拓くがん治療への挑戦」と題した対談記事が掲載されていた。
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 恥ずかしいことであるが私は医療従事者にもかかわらずこの「光免疫療法」は全く知らなかった。がんの治療と言えば「外科手術」、「抗がん剤」、「放射線治療」の三大治療が有ることは大学でも習った。しかし最近はノーベル・生理学賞を受賞された本庶佑先生の開発されたがん治療の新薬「オプジーボ」を始めとする第四の治療として「免疫療法」が行われてきている事までは理解していた。しかし「光免疫療法」は知らなかった。
 小林久隆氏の説明を引用すると
『従来のがん治療は外科手術、抗がん剤、放射線の三大治療と呼ばれるものですが、これらはがんだけでなく、正常な細胞や臓器にもダメージを受けてしまうデメリットが有りました。それに対して光免疫療法は正常な部分をほとんど傷つけず、光を使ってがん細胞だけを壊します。
 それがどうして可能になるかと言うと、先ほど北尾社長がおっしゃった通り、鍵を握るのはIR700という化学物質と近赤外線です。近赤外線は身近なところではテレビのリモコンにも使われているような無害安全な種類の光。IR700は道路標識や東海道新幹線の車体の青色に使われているフタロシアニンという色素を水溶性にしたもの。
 がん細胞の表面には他の正常細胞にはない特有のタンパク質(がん抗原)が数多く存在していて、そのがん抗原と結合するタンパク質(抗体)にIR700をくっつけます。この複合体をナノ・ダイナマイトと呼んでいるのですが、それを薬剤として点滴投与します。体内のがん細胞と結合した後、直径1ミリの光ファイバーを患部に刺し込み、近赤外線を数分間照射するとIR700が化学反応を起こし、結合している抗体の形状を物理的に変化させることでがん細胞の細胞膜に無数の穴が開きがん細胞が内部破裂していく。
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 がん細胞だけを破壊するというのは実は前段階の働きです。次の段階として、がん細胞が死んだという情報が免疫システムに伝わり、周辺の免疫細胞が活性化し、がん細胞に対してさらなる攻撃を開始します。
 先ほど近赤外線を照射することで細胞膜に穴が開くと言いましたが、これがすごく重要なんです。細胞膜が壊れるだけで核や細胞質といった中身は綺麗に残っている。その中身が一斉に放出されると、何が起きるか。周辺にいる免疫細胞が壊れたがん細胞の中身をパクパク食べるように消化・分解し始め、がん細胞の情報を取り込むんです。それによって、とらえ損ねた微少ながん細胞や転移がん、今後新たに生まれてくるがん細胞を攻撃することができます。
 分かりやすく言えばがん治療は戦争と同じで、敵(がん細胞)を減らして味方(免疫細胞)を増やせば勝つ。従来の三大治療は敵を減らすことはできるけど、同時に味方も減らしてしまう。オプジーボをはじめ「第四の治療」である免疫療法は、味方を増やせても敵を減らすことはできない。
 それに対して「第五の治療」と呼ばれる光免疫療法は敵を減らして味方を増やすことができる、従来とは全く一線を画す治療法だとご理解いただけると嬉しいです。』引用ここまで。
 現在この療法は2020年9月に光免疫療法に使われる新薬『アキャルックス点滴静注』の製造販売及びレーザー光照射による治療が、世界に先駆けて日本の厚労省で承認され2021年1月に保険適用が始まった。ただし頭頸部がんが再発し従来の治療が効かなくなった患者さんが対象という条件付きである。今後さらに研究が進展し、保険適応拡大が進めば8〜9割の固形がんは治るのでは無いかと考えられている。ノーベル賞級の世紀の大発見である。
 ところでこの開発にはまさに今月号のテーマである「倦まず弛まず」がピッタリのような小林先生の生き方が載っていた。「倦まず」は「飽きない」、「弛まず」は「心を緩めない」と言うことであり、一つのことを始めたら途中でいやになって投げ出したりしない。孜々(しし)として努力を続ける。その大事さを表した言葉である。
寝る時間以外は仕事を続け、並々ならぬ努力と覚悟があったこと、信念を持って突き進んだ経緯が語られていた。とても私には真似できないことである。昨今の「働き方改革」などと騒いでいたらこの偉業は達成されなかったとおもう。大いに感動した。

2024年04月11日

喜寿を迎えて

 3月25日に私は喜寿を迎えた。同級生の家内も今月少し前に喜寿を迎えた。2年前から高等学校の同窓会で喜寿のお祝い会が2回も行われたが、全く現実味が無かった。しかし実際に喜寿を迎えてやっとそうなのだと思った。
 誕生日の前の日に次男一家が食事会をしてくれた。昨年は広島の「なかしま」だったが今年は長江通りにある「鮨 やくしどう』であった。ここは昔『由良や』というふぐ料理のお店屋さんだったが閉店されしばらく空き家となっていた。大将に伺うと一昨年4月に開業したが昨年2月1日から4月28日間で一時休業して昨年4月29日から再オープンしたとのこと、また大将は東京の人でスカウトされ東京から移住をしてきたとのお話であった。尾道の活性化に一役買っていただいている。有難いことである。
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 私にとって料理はすごく洗練されており、使用するお酢は尾道造酢製だとのこと。寿司飯の量は普通のにぎり寿司の1/4程度でほんとに一口サイズのようで有った。ネタには近海の魚(尾道産のたこ、鯛)も有るし函館のウニや宮城のホタテなど厳選してあった。
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一晩8人までの限定で18時からスタートした。当日は我々家族5人ともう一組2人の計7名であった。
私は美味しいお寿司にビールを2杯と日本酒1合を飲んで大満足であった。
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 食事会が終わりに近づいたとき次男一家から喜寿のお祝いだと言って孫娘が代表で私にネクタイ、家内に帽子のプレゼントを渡してくれた。突然のことで私も家内もおお喜び。
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 沖縄の長男一家からは家内の誕生日と私の誕生日にそれぞれお手紙とお花が届いた。そして誕生日には孫たちも含めて電話で話が出来た。
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 ところで77歳の喜寿という節目のため尾道市歯科医師会からお祝いの金一封3万円を頂いた。これは歯科医師会の共済規程のお祝いの項に記されているのだが、それによると60歳の還暦、77歳の喜寿、88歳の米寿、99歳の白寿に祝意を表し、慶祝金を贈ると書かれている。99歳以上のお祝いの規定は無いのだが、もしも私が長生きしたら何か頂けるのかな。私の両親はどちらも満88歳であの世に旅立ったが、両親の遺伝子を受け継いで丈夫に育ててもらった以上、88歳は優に超えないと両親に申し訳ないと思っている。
 なお私が尾道市歯科医師会に入会して以来100歳を超えられた先生方はいらっしゃらない。記録を打ち立てたいものだ。
頂いたお金は家内と分け合った。

2024年03月28日

北部圏域ネットワーク(医療・介護連携)会議に出席して

 先日コロナ禍で休会になっていた会議が3年振りに再開され出席した。尾道市には7圏域ネットワークがあり、北部は尾道市美ノ郷町・原田町・御調町が対象区域である。今回は42名の出席があり、メンバーは医師・歯科医師・薬剤師・民生委員・居宅介護支援事業所・老健施設・訪問看護ステーション・グループホーム・デイサービス事業所等の方々であった。
 まず本多会長の挨拶に続き尾道市健康推進課より保険事業と介護予防の一体的事業と言うことで「尾道市服薬情報通知事業」について報告があった。
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これは後期高齢者(75歳以上)の薬剤レセプト等4ヶ月分を調べ、重複投薬者(同じ薬効の薬が重複処方されている人)や多剤投薬者(6剤以上の薬を処方されている人)を抽出し、服薬指導・服薬支援につなげることで、残薬を減らすとともに、転倒などの薬物有害事象を防止すること目的に行ったとのこと。そして抽出された方には健康推進課から通知書を発送し、その通知書とお薬手帳をもって早めに「かかりつけの薬局」などで相談する様に促した。その結果令和4年度では重複投薬者527人中335人(63.6%)に、また多剤投薬者2650人中740人(27.9%)に改善が見られたとのこと。
私も日頃、抜歯をするとき必ずお薬手帳を見せて貰うようにしているが、多剤投薬者は結構いらっしゃるのでこういう取り組みが行われていることに安堵した。
 次にフレイル予防について6グループに分かれ各グループで事例検討会を行った。
事例は以下に示すようなものである。
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@ この事例の中で気になるのはないかということについて話し合う。
家族の関わりの程度がどうなのか、右肩骨折で右の腕の機能はどうなのか?3食を誰が用意をするのか? タクシーでの通院(家族の付き添いはないのか?) やせたような感じ→食べる能力の低下? 右肩骨折で足ではないのに出かけることが少なくなっているのは何故なのか、今まで地域のサロンなどにも参加されていたが、誘ってくれる友達はいないのか?等、多くの意見が出た。
そしてこの事例はまさにフレイル(虚弱)に進む1歩手前であると思った。
 一般的にフレイルドミノの入り口は、外出しなくなったり、人付き合いが無くなり社会性が失われる社会的フレイルからスタートし、次に歯を失ったり、入れ歯が合わなくなって、食べこぼし、わずかなむせ、噛めない食品の増加、口の乾燥、滑舌低下と言った口腔機能の低下が現れ食事が取りづらくなりオーラルフレイルに進む。そして食事が取れないと低栄養となり筋力低下を来たし、運動能力低下へと進み身体的フレイルとなる。これがフレイルサイクルを形成し要介護状態に移行し寝たきりになる。
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歯科医師の立場からいえばオーラルフレイルになることをいかに阻止するかその進行をいかに遅くするかが重要な仕事だと感じている。
次にこの事例で  
A もし提案できるとしたらどの様なものがありますかについても話し合う。
ご家族のお話を聞く、民生委員に相談する。サロンに通っていたのでその時親しかった人等に声がけをして外出する様にうながして貰う。等、等多くの意見が出された。
ところでこの話し合いの中でふと自分もいい年なのでこのような事態に何時なるとも限らない。今は妻と二人で生活が出来ているが仮に妻が倒れたらたちまち食事はどうすれば良いのか考えてしまう。食後の茶碗洗いはするが、食事の作り方は全く知らない。少し料理が出来るように練習しないといけないのかな。
 その後、尾道市地域包括ケア連絡協議会 地域包括ケア推進部会の沖田部会長より、この事例のまとめをしていただき、尾道市が進めている「でたもん勝ち」というキャッチフレーズの「シルバーリハビリ体操」についての紹介があった。
包括支援センターが作成した「おのみち元気づくりマップ北部圏域」と言うパンフレットが配布されたがこの裏にフレイル予防のポイントが記されている。
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最後にこの会の副会長をしている私が閉会の挨拶をして無事終わった。

2024年03月17日

「遺憾」って何?

 いつも思っていたことだが、政治家や会社の経営者などが何か不祥事があると謝罪・説明の時に決まって「遺憾です」というのをよく聞いていた。聞くたびその言葉になにか違和感を持っていたが、毎月購読している「致知」3月号の風の便りという記事に占部賢志(中村学園大学客員教授)氏の「目立つ面妖な言葉と話法」いう記事をよんで合点がいった。
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転載させて貰うと
[ 口を開けば「遺憾」?
近年、政治家や各界のトップが記者会見などで、「遺憾」の語を多用するケースが目立ちます。しかし耳にするたびに、何に対してどんな思いを伝えようとしているのかがはっきりしないことが多い。
 たとえば自党や自社に不祥事があったときに、「この様な事態を招いて遺憾の意を表する」と陳謝するかと思えば、北朝鮮のミサイル発射や中国公船の領海侵犯に対しても「まことに遺憾だ」などと口にする。
このように、あるときはお詫び、またあるときは抗議にも用いる。何と都合の言い使い方でしょう。
 そもそも、遺憾は「残念」とか「心残り」という意味であって、お詫びの意味はない。ですから、会見でいくら遺憾の意を表明したところで、謝罪したことにはならないのです。 
語源を訪ねてみれば・・・
 では語源をみてみましょう。使われ始めたのは室町から江戸にかけての頃。織田信長の伝記『信長公記』を加筆修正した『信長記』(江戸時代初期)の中に用例が出てきます。その端書きに、前書には功績のあった人物が洩れていたので、「遺憾」に思って加筆した旨の記述が見える。「残念に思って」の意であることはあきらかです。
 ところが今日では、本来の意味や用法とは異なる物言いに重宝される。辞書編集者の神永暁氏によれば、敗戦後の国会の会議録に抗議の意味での使用例が散見されるそうです。そうだとすれば、この都合よく使える表現は政治家や答弁作成担当の官僚あたりがこしらえたものと断じていい。発言を曖昧にしておくにはうってつけ。なるほど彼らが頻用するはずです。]  引用ここまで。
 やっと胸のつかえが下りた感じがした。しかし北朝鮮のミサイル発射や中国公船の領海侵入対しては全くもって抗議になっていない。断固反対する強い表現をしないと彼らにとって日本政府が「遺憾」だといってもその意味が「残念である」ならば痛くもなければ痒くもない。だから毎日のように中国の公船が侵入してくる。外務省を始め政治家は日本の国や国民を本気で守ろうとしているのか疑いたくなる。
 外務省や政治家に強い反省を望むと思っていた矢先、2月21日に韓国がいわゆる元徴用工訴訟を巡り日立造船が韓国裁判所に預けた供託金が原告側に支給された件で厳重抗議したと林官房長官がTVのニュースで述べていたがその時も「極めて遺憾である」と発言した。
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 翌日の産経新聞には「日韓請求権協定に反する判決に基づき、日本企業に不当な利益を負わせるもので極めて遺憾だと外務省の岡野正敬事務次官が韓国の駐日大使を外務省に呼んで伝えた」と記事が載っていた。全く駄目であるなぜ本気度を示す言葉を使わないのか? 弱腰の日本外交であるから竹島も帰ってこないし、慰安婦問題も解決しないのである。反省しろと言いたくなる。
 

2024年02月23日

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