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04/10 満開の桜見物と五十三次版画鑑賞
03/24 院展観賞
03/09 令和6年度北部圏域ネットワーク(医療・介護連携)会議
02/11 建国記念の日に思う
01/25 尾道市における恐怖の少子化!
外部グログ

大先生(元院長)のブログ

最近の出来事

 先日、尾道在住の画家「わしおさむ」氏に「さいだ歯科医院」の絵を画いて貰った。12月に家内が市内で画伯の作品展をたまたま観たのがきっかけである。1月30日に完成した絵が届けられた。早速待合室の壁に飾った。
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ところが不思議なもので翌1月31日の尾道新聞一面の下段に「向島ドック株式会社」の広告が掲載されていたが、何とそれに「わしおさむ」氏の絵が使用されていてびっくりした。
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 ところで「わしおさむ」氏は彼が小学生の頃からの「さいだ歯科医院」の患者様であり彼の父親と私は高校生の時の同級生であり不思議なご縁で繋がっているなと思った。 
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 2月になりそろそろ春の農作業にとり掛からなくてはと思い、昨年9月の終わりから10月初めに種をまいた大根が4本ほど残っていたのでそれらを抜いたところ1本が面白い形をしていた。通常真っ直ぐな1本の大根が三っに分かれておりその格好が何ともエロチックで男性の下半身にそっくりで立派な一物には驚かされた。昨日枯れ枝・枯れ草などを片付けて農作業の準備が少し出来た。先ずはジャガイモの植えつけからかな?
 2月10日(土曜)に5年半振りに広島県歯科医師会主催の「第21回永在会」が広島で開催された。この会は満70歳以上の会員を対象にした先達の先生方の旧交を温めていただくことは勿論のこと、執行部あるいは地区歯科医師会に貴重なご意見やご要望を賜ることを目的に隔年の開催としている。ところが新型コロナウイルスの影響により止む無く中止が続いていたが、やっと今年度5年半振りに開催された。
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場所は広島市東区二葉の里にあるI羽根神社横の「料亭二葉」で開催された。新幹線の
都合で少し早めに着いたので神社にお参りをした。そう言えばこのI羽根神社は昔孫娘の百日のお詣りをしたことがあったのを思い出した。その後会場に向かう。今日の永在会
の出席者は87人であった。
 15時より開式となり県歯会長挨拶の後、この5年半の間に亡くなられた物故者に黙祷を献げる。物故者名簿が配布されていたので見ると懐かしい人達の名前も多くあり、最高齢は105歳で亡くなられていた。また若い人では70歳で永在会に入会されてすぐに亡くなられた先生もいらっしゃった。
70歳を超えた場合の寿命はどの位か気になって、物故者の平均寿命を計算したら84.09歳であった。女性の先生方5人含まれているが概ね男性の平均寿命を少し上回っている。私にとってはあと7年ちょっとという数字である。
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 その後、余興として落語の講演会があり前座を「桂 ひな太郎」師匠が勤めた。成年後見制度の話と太鼓持ちの話であった。つぎに「桂 文楽」師匠でお題は良く解らないが酔っ払った旦那と奥方の掛合いで非常に面白く、大いに笑わせて貰って楽しんだ。
そして16時15分頃より二人の師匠も参加されての会食となった。
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本当に久しぶりにお会いする先生方とお話が出来て楽しかった。無事18時に散会となった。

2024年02月12日

ささやかな社会貢献に気が付く

 2月になると税金の青色申告の準備が始まる。先日、尾道市市役所より収納済額についてのお知らせが届いた。開封してみると介護保険料と後期高齢者医療保険料の納付済み金額が記載されていた。介護保険は年金から天引きされ、後期高齢者医療保険料は銀行口座振替で引き落とされている。日頃気にしていなかったが、改めて見てみると介護保険料が150,200円、後期高齢者医療保険は660,000円であった。
 その後1週間ほどして広島県後期高齢者医療広域連合 業務課から医療費のお知らせが届いた。それには令和5年1月から令和5年10月までの医療費が記載されていた。
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私は日頃、内科と眼科と泌尿器科に掛かっている。内科は睡眠導入剤を貰うために行くが、その導入剤も1日分を4等分して飲んでいるので4ヶ月に一度の割合である。眼科は緑内障のため2〜3ヶ月に一回受診する。そして泌尿器科は前立腺の状態を観察して貰うため半年に1回診察をして貰っているが、これも先月の検診でPSAデーターが正常に戻り、1年に一回で良くなった。
 10月までの医療費合計は51,640円で、窓口負担は3割で15,492円であった。青色申告のため11月分と12月分の医療費を領収書から計算すると2ヶ月分で医療費が10,910円で窓口負担は3,270円であった。結局私は1年間に医療費として62,550円を使用し、そのうち自己負担として18,762円を払ったので差し引き43,788円を保険料から消費したことになる。
 保険料として支払った660,000円から43,788円を差し引くと616,212円の黒字となっている。この金額が他の人達の医療費として賄われ、お役に立っている。また介護保険は一度も利用したことが無いので、未使用分の医療保険と介護保険料合わせて766,412円がささやかな社会貢献料となった。今までこの様な見方、とらえ方をしていなかったので気が付かなかったが、私が元気で働いていることが社会の為になっている事を実感した。
歯科医師として日頃、地域の人々のお役に立っているだろうとは思っていたが、まさかこの様な形でお役に立てていたとはびっくりである。
 ただし今後私が病に倒れたり、介護が必要になった時は人様にご迷惑をかけることになる。最後までピンピンコロリで行けるように気をつけて生活をしていこうと改めて思った。

2024年02月01日

寒波襲来

 数日前からTVの天気予報などで今年一番の寒波がやってくると報じられていた。1月23日はここ三成でも日中に少し雪が舞った。そして夕刻から冷えだし、夜のTVニュースでは安芸高田市、北広島町に大雪警報が出たと字幕スーパーで報道された。スマホの天気予報で尾道の気温を見ると24日の朝5時〜7時くらいはマイナス3℃と表示されていた。
翌24日朝いつものようにウオーキングのため5時前に起床するとスマホ画面がマイナス2℃となっていた。着替えて歩きに出たところ外にうっすらと雪が積もっており、歩くとさくさくとした音がした。8q程歩いたが、路面が凍り付いていて何度か足が滑りそうになった。海辺でこの程度の雪なら、9キロメートル北にある診療所ではかなり雪が降って積もっているのでは無いかと思いながら出勤したところ、三成はほとんど雪が降った形跡が無くがっかり。
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 ところで年末にも寒波が来たせいで、畑に植えていたキンカンの実が霜にやられて全部枯れて真っ白になっている。また山椒の葉っぱも全部枯れている。一方大根とタマネギは霜にもやられず元気に育っている。
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 そんな中でも南高梅の白い花が咲き出し気持ちを慰めてくれる。寒波襲来で確かに日頃より寒さがきつく、今日は背中にカイロを貼って仕事をしている。
夕方少し雪が舞ったが積もりはしなかった。
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 ふと北海道時代の事を思い出した。私は昭和53年4月からから59年11月まで北海道に住んでいた。というのも歯科医になろうと急に思い立ち、会社を退職し急遽大学受験をして東日本学園大学歯学部〔現在北海道医療大学〕に入学した。最初の2年は釧路の西40キロの白糠町に住んでいた。ここはあまり雪が降らないところであるが寒さは超一級で有る。マイナス20℃なんて当たり前、外に出ると顔が針でちくちく刺されるように痛かった。TVの天気予報を観ると釧路がマイナス20℃の時沖縄の那覇がプラス20℃で北と南の差が40℃もあることに驚いたことを思い出した。また歩いて2分ほどの所に銭湯があったが風呂から上がって家まで歩いて帰ると髪の毛がカチカチになっていた。小学校の校庭は屋外スケートリンクになる。我が子もそこで滑ったりしていた。
 2年後教養課程から歯学課程に移行するため札幌から東26キロにある当別町に引っ越しした。ここも寒いが釧路程では無く日本海側で雪が多く札沼線(現在は学園都市線)が時々大雪のため運休すると大学は臨時休校になる。そのようなときは夜でも屋根に上がり雪下ろしをしたりしていた。
 また北海道では冬、毎晩水道の水を落として水道管の中を空にしないと水道管が破裂して大変な事になる。たまたまテーブルの上に急須のお茶を入れたまま2日ほど家を空けた事があるが、帰宅するとお茶が凍って膨張し急須が割れていた事もあった。さらに面白い経験としては当時ほとんどの家は水洗便所では無く、所謂「ぼっとん便所」であった。冬大便をしてお尻を拭いてトイレットペーパーを便器に落とすとそれが凍る。次に同じ事をすると大便がその上に重なり、積もってタケノコの様に伸びてくる。60p位伸びるとお尻に当たりそうになるので、時々竹の棒で押し込んだりした事を思い出した。
 そんな経験をしたが北海道を離れて40年ほど経つと全くそのようなことは忘れて寒い寒いと言っている自分に驚く。体が楽な方になれてしまったのであろうがたまには過去を振り返ってみるのも面白いことに気がついた。

2024年01月25日

2023年から2024年へ

 12月29日の午後から年末年始の休暇に入り、やっと今年も無事仕事が終わったとほっとする。年末の大掃除をかねてまず自分の部屋を片付ける。多くのがらくたが山積みとなっており、確認しながら捨てていった。30日夜には家族ぐるみでお付合いをしているS様のお宅ですき焼きを食べながら忘年会をした。お互いなんとか元気で無事1年が過ごせたことに感謝した。
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 翌31日、昼前にお墓参りをする。墓所に行く途中、黄色い南天を見つけて写真を撮る。通常は赤い実だのにめずらしい。午後少し本を読み、夜は恒例のNHK紅白歌合戦を少し観る。23:30過ぎから外に出て除夜の鐘を聞く。ここ2〜3年はコロナのせいもあって、ほとんど鐘の音はしなかったが、今年は裏のお寺さんの鐘の他に、尾道駅方面からも鐘の音が聞こえて来た。音の響き、高さなどから耳を澄ませば4カ所くらいの鐘の音が聞こえた。零時半頃には床につく。
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 翌朝、元日は昨夜寝るのが遅かったので朝のウォーキングはしないで、毎年行く尾道西消防署前の岸壁で初日の出を観た。晴れて風も無く本当に穏やかな朝でこのような穏やかな日々が続くように手を合わせて拝んだ。まさか夕方に能登半島地震が発生するとは知るよしも無い。昼前に次男一家が新年の挨拶に来た。その後年賀状を確認し、出しそびれた方に印刷して本局まで歩いて出しに行く。朝のウオーキング分を少し取り戻した。
 帰って夕食まで少し本を読もうとしかけたところ急に携帯の緊急警報が鳴る。すぐNHKのTVをつけると石川県能登半島で地震発生、津波警報が出される。志賀町で震度7と報道していた。東日本大震災並と思った。NHKも民法も全部特別放送に切り替わり、お正月の特別番組は全部カットされた。いずれどこかで放送されるのだろうが。それにしても石川県は祖父の出身地で特別の思い入れがありTV画面に釘付けで観ていた。
ただ情報が少なくて被害程度が解らない。朝の穏やかさは何処に行ったのかと思った。
 2日もNHKは朝から一日中報道番組をしていた。民放は一部報道番組も放送をしていが多くは正月番組となっていた。私は箱根駅伝を観ながら時々NHKにチャンネルを変えたりしていた。往路は青山学院大学が優勝した。
 少し被害状況が見えてきた。そんな中、夕方突然、羽田空港で事故発生、JALの札幌発羽田行きのJAL―A350が海上保安庁の飛行機と滑走路場で衝突炎上した。JAL機が着陸してすぐさま海保機とぶつかり火だるまになりながら滑走路を走る様子が繰り返し放送されていたがすさまじかった。乗客乗員379人が奇跡的に脱出に成功、その間18分とのこと。乗務員による誘導は見事で海外メディアでも賞賛されていた。一方海保には6人が乗り込んでいたが、機長が重症ながら一人助かった。海保の飛行機は地震の被災地に物資を運ぶ途中だったとのこと。報道番組は地震とJALの事故の放送を代わる代わるやっていた。地震は天災だがJAL機の事故はおそらく人災であろう。翌3日の新聞には1面トップで載っていた。(2日は新聞休刊日)
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 この日もNHKは夜九時まで報道番組をしていたが民放はほぼ通常放送になっていた。私は昨日と同様箱根駅伝を観ながら時折NHKに替えてみた。駅伝は青山学院大学が新記録で総合優勝をしていた。青学の8区を走り区間賞を取った塩出翔太選手は尾道市出身(栗原北小・栗原中学〔私の母校〕)で世羅高校出身だったのでより応援をした。
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 4日は年末年始休暇の最終日だったが少しゆっくりした。能登半島地震の被害がだいぶ明らかになり、死者数も増えて84人(6日時点で死者126人、安否不明210人)まだ多くの行方不明者がいるとのこと、道路が寸断され孤立している地域もあるとか?これから復興するにしても人手が不足するし、お金も多く掛かるだろう。万博などやっている暇は無いだろうに、会場を造る人達を復興に回すべきでは無いだろうか、これからは人件費も資材費もどんどん高騰する。その分税金投入額も増えるのでは無いか、それならばその分を復興に回すのが妥当では無いだろうか? 

 
 ところで昨年10月にダイレクト出版社が発行する「ルネサンス vol.15号 2023.10.23発行」は「医療・環境・地震予知 嘘だらけの科学者たち」と題して特集記事が組まれていた。このルネサンスは定期刊行物ではないが年に2〜4回不定期に発行されており、毎回取り寄せて読んでいる。たまたまこの地震の前に記事を読んでいたので紹介する。
 武蔵野学院大学特任教授で地震学者の島村英紀先生が「利権化した『地震予知』国策がむしろ地震・津波被害を広げる」と題して書いておられる。購入してすぐ読んだとき日本の国は一体どうなっているのと思い憤慨したが、今改めて読むと怒りさえ覚える。
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 内容をかいつまんで書き出すと、日本で地震予知計画が1965年に立ち上がり研究が始まって半世紀を超えたが地震予知に一度も成功したことは無く、記録は日々更新されている。1978年に「地震予知が可能だ」という前提で作られた「大規模地震対策特別法」(大震法)は地震の予知が実際には現実的でないということから、数年前に「見直し」の声が高まったが結局、政府はいまだに変更も取り下げもしていない。
 地震学会という組織があり、任意団体ではあるが3000人近い会員がいる。多くは地震研究者やそのタマゴ、それに気象庁など地震関係のお役人でさすが地震国・日本、地震学者の数は多い。しかも研究予算のほとんどを国費に頼っている為、地震学者は「御用学者」になる宿命にあり、政府の意向に沿ったことしか言わない。地震予知研究が世界的に暗転していったときにも、地震予知研究について、学会として議論をしたことも意見を表明したことも一度も無い。学者の仲良しクラブに成り下がっている。
 2004年に著者(島村英紀先生)は『公認「地震予知」を疑う』で地震を巡る政・官・学のあきれる歴史を述べたところ学会より相手にされなくなり、さらに冤罪で逮捕され半年間拘置所で拘留されたとのこと。1999年に世界でもっとも権威がある英国の科学雑誌「ネイチャー」が「地震予知は可能か」ということについて公開討論会を実施した。しかし不可解なことに、世界でもっとも多くの研究予算を使っている、突出した「予知大国」日本からは誰も参加しなかった。日本は説明責任を放棄し「敵前逃亡」したのである。「ネイチャー」誌の結論は、「一般の人が期待するような地震予知はほとんど不可能で有り、本気で科学として研究するには値しない」と言う物であった。
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しかし日本政府の説明では、一般的には地震予知は実用段階ではないが、東海地震(南海トラフの一部)だけは予知が可能だということになっている。かくて「大震法」(大規模地震対策特別法)がつくられた。阪神淡路大震災、東日本大震災以後もこの説明は変わっていない。これは地震学者にとってかなり不思議なことだ。東海地震だけが他の地震と違う起こり方をしたり、東海地震だけが特別の前兆が出ることは、学問的には考えられないからだ。
 地震が起こると地震警戒警報が発令され携帯で知らせてくれるが、これは地震予知では無い。あくまで地震が発生して震源近くの地震計が揺れてからコンピューターが計算し各地の揺れを知らせてくれる。しかし震源地では警戒警報が出た頃にはすでに被害が発生している。今回の能登半島地震でも津波警報が出されたが、震源地近くではすでに津波は到達している模様と放送されていた。これらは予知にあらず。研究開始からすでに1兆円近くの予算がつぎ込まれているが、今回の能登半島地震を契機にそろそろどうするかを考えて貰いたいものである。再度この記事を読んで本当に情けなくなった。

 令和6年能登半島地震によりお亡くなりになられた方のご冥福をお祈りすると共に、被害を受けられた皆様に心よりお見舞い申し上げます。またインフラなどの復旧が早く進み、被災者の皆様が一刻も早く日常生活が取り戻せることをただただ願うばかりです。

2024年01月07日

寿命中位数

 「寿命中位数」、聞き慣れない言葉である。私は来春には喜寿を迎えるが、最近新聞・TVで「人生百年時代」という言葉を良く見聞きする。そして毎日多くの人を診療しているが、私と同年齢もしくはそれ以上の年齢の人を見ると所作や歩き方などから年相応なのか若いのか等を想像してしまう。90歳を超えてまだはつらつとしている人には素晴らしいと思い、日頃どの様な生活リズムで過ごされているのか聴いてみたくなったりする。
 私の両親は二人とも88歳で身罷った。せめてその年までは元気で生きなくてはせっかく丈夫な体に生んでくれた両親に申し訳ないと思う。
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 ところで先日、毎月購読している「致知」12月号を読んでいたところ社会教育家の田中真澄氏が「人生百年時代を生きる心得」と題して連載を執筆しておられる。12月号は「オンリーワンの存在価値を目指して生きる」と題して書かれた記事の中にこの言葉があった。
引用させて貰うと、『厚生労働省は毎年7月に国民の「平均寿命」や「寿命中位数等生命表上の生存状況」を公表しています。前者は多くの人の知るところですが、後者はさほど知られていません。「寿命中位数」とは同じ年に生まれた出生者の生存数が半数となる年齢のことであり、「生存状況」とは、同年齢者が何歳まで生きるかを示す生存率値です。
直近で発表された2022年の数値は、同じ年の人が半数になるのは男性が83.93歳、女性は89.96歳でした。また90歳時点での生存率は男性25.5%、女性49.8%。同じく95歳では男性8.7%、女性25.0%となっています。つまり現時点で男性の約1割、女性の4人に1人は95歳以上まで生存しており、しかもその率は概ね上昇傾向にあるのです。「人生百年」の時代はもうとっくに始まっていると申せましょう。』引用ここまで。
なお2022年の平均寿命は男性で81.47歳女性で87.57歳である。
私が寿命中位数に達するのには後7年ちょっと、平均寿命までなら後4.8年ほどである。しかしこればっかりは判らない。最近小・中・高の同級生の訃報をよく耳にするようになった。せめて「寿命中位数」を超えるまでは生きていたいと思う。そのためにも生活リズムには注意を払っていこう。
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 ところでこの致知12月号には他に生・死に関する記事が2編掲載されていた。
一つは「人生を照らす言葉」と題して連載167回をほこる国際コミュニオン学会名誉会長で、もと聖心女子大学教授の鈴木秀子氏のコラムで河井酔茗の「ゆずり葉」という詩が紹介されていた。『私たちの命は親から子、子から孫へと受け継がれていきます。いまこの世に生を享けている私たちは、受け継いだものをいかに次の世代に渡していけばよいのでしょうか。河井酔茗の詩「ゆずり葉」にそのヒントを探ります。』とあった。
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正にその通りで、若い頃にはあたりまえの様に感じていたが、さすがこの歳になると自分の生きてきた道を振り返りながら親の偉大さ、ありがたさが身にしみてくる。それと同時に鈴木先生が言われるように「子供たちに素晴らしい宝をゆずり渡しその宝を生かしながらよき人生を送り、世の中の人々をも幸せにして欲しいとの親の切なる思いが込められている。」そしてまた子供たちが私の歳になったとき同じように感じて欲しいとも思う。本当に味わい深い詩である。
 もう一つ「禅語に学ぶ」と題して連載102回目の臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺氏の「空手(くうしゅ)にして来たり空手(くうしゅ)にして去る」と題したコラムが掲載されていた。なおこの言葉は「虚堂禅師語録」に有る言葉とのこと。
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これも私の心に強く響く言葉であった。我々は何も持たずにこの世に生を受け何も持たずにこの世を去って行く誠に真理である。しかし中々これに気づかないものである。私たちは生きている間お金や物に執着し、ときにはそれによって争いが生じることもある。いかに多くの物を手に入れたとしても何も持って行けない。
道元禅師の言葉が記載されていたが「己に随い行くは只是れ善悪業等のみなり」つまり「自分についてくるものは、ただ自分が作った善行や悪行のみなのだ」と。
それにしてもこの12月号に期せずして同じような内容が掲載されたのは私に対して何か天か、神様か、仏様が「そろそろ考えろと」いう暗示なのかな。

2023年12月17日

初めてのスペイン旅行PART 9

 朝7時起床し、帰国の準備をする。11:15までにスーツケースをドアの外に出ように添乗員さんから言われた。お土産などもなんとか全部パッキングが出来た。
結局、旅行中一回も雨に遭わなかった。雨傘やウインドーブレイカーは無駄であったがその方が良かった。ホテルの部屋に飾ってあった土で出来た古そうな人形は、なんとなく日本の土偶に似ていて親しみが湧いた。
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 11:45バスにてホテルを出発、30分ほどでバルセロナ空港に着く。バルセロナ空港は明るく綺麗でテナントもしゃれていた。
 飛行機はエミレーツのB777-200で往路の関空からドバイまで乗ったB777とは違いドバイからマドリードまで乗ったA380と同じく座席は窓際に2列。中央に2列の計6列のためゆったりしている。15:30にドバイに向けて出発。機内食を食べ、いつもの様に映画を観る。
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 アメリカ映画「インディ・ジョーズと運命のダイアル」1本を観た。来るときと違って疲れていたので映画は1本観ただけである。7時間強のフライトで現地時間0時過ぎに到着。乗り継ぎのためラウンジでビールを飲んで過ごした。
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 ドバイをAM:3:00出発予定であったが中国が空路上空を飛行禁止にしていたので出発が50分遅れて飛び立つ。最初そうなんだと思ったが、ふと考えると関空に着いてから尾道に帰る新幹線が無くなるのではと心配した。ドバイからの飛行機は往路と同じB777で席が両脇2列で真ん中が3列の計7列ためバルセロナからの飛行機6列と違って1席多くなった分、1席あたりの横幅が狭くなり寝返りが出来なかった。
 現地時間の6時頃(日本時間11時)に食事が出たが、軽食でお寿司にした。また食事が日本時間で16時頃に出た。もう時間感覚が鈍ってしまいその食事が朝食なのかランチなのか、早い夕食か解らなくなった。食べたのは日本食の「幕の内」であった。
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 途中日本映画「アイスクリームフィーバー」を観たが良く解らなかった。
無事関空に18:20頃に到着。スーツケースを受け取り税関を通り、スーツケースの宅配をお願いする。17日午前中には届くようである。
 新大阪20:37のこだまに乗り22:21新尾道に到着。急いで改札を抜けタクシー乗り場にいくと運良く一台が停車していて無事乗れた。後から来た人はどうなったのかな。本当にタクシー不足だと思う。23時前に我が家に無事帰り着く。夕食を食べ風呂に入り、後は何もしないで16日午前1時過ぎに床に入る。今日から仕事だが午前中は休みを取っていた。
なお帰ってTVを観るとカープがCSでDeNAに連勝して阪神との決勝戦に行くことになっていた。また藤井聡太氏が将棋で八冠を達成したとか。すごいなと思った。

 
ところでスペイン旅行を終わって思ったことは、このツアーに1万数千年以上前の旧石器時代にクロマニヨン人によって描かれた壁画が残る「アルタミラ洞窟」の観光が無かったのが残念であった。 
 また各地ですばらし大聖堂などを見学したがこれらの「建設資金はどうしたのだろうかと?」とふと思った。 高校で習った世界史の記憶を基に考えてみた。
 1492年にコロンブスが新大陸を発見してから大航海時代が始まる。その時、当時のポルトガルとスペインは地球を2分割して支配しようとローマ教皇の許可の基、1494年6月7日に「トルデシャリス条約」締結した。これによりヨーロッパ以外の新領土の分割方式が取り決められ、西経46度37分の東側の新領土がポルトガルに西側がスペインに属することが定められた。当然日本人は知るよしも無い。
 これによりスペインは南米において植民地を形成し、ピサロがインカ帝国を滅ぼし、コルテスがアステカ王国を滅ぼし莫大な金・銀をスペインに持ち込んだ。この資金で多くの大聖堂などを建てたことを考えると少し見方が変わる。またマゼランが世界一周をしたことで地球が丸い事が証明された。それにより反対側にも境界線が必要だと言うことで、1529年4月22日に東経144度30分の子午線を第2の境界としてサラゴサ条約を結んだ。これにより北海道の一部(知床半島)を除く日本全土、言うなればアジア全部がポルトガルの支配可能地となった。
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  図はWikipediaから引用 〔トルデシャリス条約(紫)サラゴサ条約(緑)の境界線〕
 そして1543年ポルトガル商人より種子島に火縄式鉄砲がもたらされる。またスペイン人のフランシスコ・ザビエル(宣教師)がポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドゴアに派遣されその後1547年日本に初めてキリスト教を伝える。この後、多くの宣教師や商人がやってきた。彼らは布教や貿易だけで無く、その地域を植民地にするための情報収集をしたり、アジア・アフリカの人々を買って人身売買を行っていた。例外なく日本でも行われ、中でも寄港地の九州は悲惨な状況になっていた。彼らは日本人を買って船に積み込むと容赦なくヨーロッパに連行した。また日本人の中にはポルトガル人を真似て親、子、妻子を売り飛ばす輩まで出てきた。さらにキリスト教に改宗した人達に多くの神社仏閣を破壊させた。これらのことを豊臣秀吉は見聞きし、天正15年(1587年)に伴天連追放令をだした。しかし交易は許していたのでその後も問題は残った。そして徳川幕府は寛永16年(1639年)に長崎出島においてのみオランダ・清国との取引を認めそれ以外の国との取引並びに、日本人が海外に渡航するのも禁止する鎖国令を出した。
 そして幕末嘉永6年(1853年)ペリー艦隊がやってくるまで日本は平和に過ごせた。この間、アジアではシャム(現在のタイ国)と日本国以外はすべてが欧米列強の植民地となった。そして日本が大東亜戦争で欧米の国々を追い出したが、日本が敗戦を迎えた後、欧米諸国はいったん戻ってきたものの、植民地の人々が独立戦争に立ち上がり自由を獲得した。そういう意味で日本が植民地化されなかったことは本当に良かったと思った。豊臣秀吉の先見の明に今更ながら驚く。
スペインの立派な大聖堂を観てからの感想である。

2023年11月30日

初めてのスペイン旅行PART 8

 朝ゆっくりして7時起床、9時前に食堂に行きバイキングスタイルの朝食を食べる。色々の種類が有り少しずつ取っていたら結構な量になる。温かい物としてオムレツを頼むとすぐその場で焼いて持ってきてくれた。
そ れから10時前に家内とホテル出て散策に出かける。メインストリートのグラシア通りを海の方に向かって歩く。途中左手にカサバトリョーというユニークな建物がありガウディ設計したとのこと。その隣もその隣も結構ユニークな建築物が並んでいた。
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 通りの両側には綺麗なしゃれたお店がある。家内が興味を持ってお店に入って見たりする。さらに進むとカタルーニャ広場に来た。北の方角を見ると昨日観たサグラダ・ファミリアの建物が山の上に見えた。公園には色々の像が建てられていた。その後ろにはオレンジ色の屋根がかわいらしいカサ・ロカモラが見える。
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 その後公園の横にあるある「エルコルテ・イングレスデパート」に入り、その地下の食品街に行った。
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 その頃から家内は目が痛くて開けられないという。サングラスはかけていたのだが。そこでとりあえずホテルに戻ることにした。タクシー乗り場に行き一番後ろのタクシーに話しかけたが一番前に行けと言われ前に行って運転手さんにホテル「クラリス」まで頼むと、3区画先なので断られた。それもそうである。やっと一番目に並んでいるのに私たちを乗せたらほとんど銭が取れないので乗車拒否をしたのであろう。
デパートの食品街で買った菓子パンと牛乳1Lもって帰り、部屋で食事をした。家内は疲れたのと目が痛いと言うことで横になって休むと言うので、私一人再び散策に出かける。
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 午前中行ったカタルーニャ広場まで行きそこから右手に入ってランブランス通りを散策する。添乗員Sさんからバルセロナ散策地図をもらっていたのでそれを片手に始めた。この通りは大勢の人が歩いている。中央分離帯が広い通りになっていて分離帯の両脇には出店が並んでいて本当にいろいろ物を売っていた。分離帯の外側が一方通行の車道になっていてさらにその横に本当の歩道がある。
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 バルセロナ散策地図を見ながら海の方に向かって歩くのだが、予備知識も無いし標識の字も読めない。ガイドさんがいるわけで、どのあたりを歩いているのかさっぱり。とにかく面白そうな建物や何かがあれば写真を撮った。これが実は日本に帰って何の写真を撮ったのかさっぱり解らず、このブログを書くのにあたりあれこれ検索してやっと理解する有様である。
 海の方に向かう途中、右手に「サン・ジョセップ市場」が見えた。ものすごい数の人がいた。スリなどに合うとやばいので市場の中には入らなかった。
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 さらに進むと石造りの重厚なゴシック様式の建物がある。教会のような感じである。帰って調べたら14〜15世紀に建てられた「サンタ・マリア・デル・ピー大聖堂」だった。
 さらに進むと建物の壁の上の方に丸いものが装飾され、下の方の壁には日本画が描かれている建物を発見した。これも帰国後、調べると「カサ・ブルーノクアドロス」という建物で1883年に傘屋の建物を改修したのだとか。壁の丸いのは沢山の傘の飾り。地元では「傘の家」と呼ばれているとのこと。
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 さらに進むと着ている服から顔や手に彩色を施し一見銅像かと見間違う人に出会う。観光客に彼をバックに記念写真を撮影させてお金を稼ぐ大道芸人と思われる。
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 通りの先に高い塔が見えてきた。「コロンブスの塔」である。バルセロネータ港に立つ約60mの塔で塔の上には新大陸を発見したコロンブスの5像がある。
海上に架かるアーチ状の橋が有り、ヨット通過のため1時間に一度橋の中央が開閉するとのこと。海の中にはボラとおぼしき魚が泳いでいた。
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 そこから今来た道を帰り始める。地図によると少し入ったところに「レイアール広場」が有ったので行ってみる。中央には噴水があり、周りの建物の下ではカフェやバル、レストランなどがあり賑わっていた。ガウディの若い頃に手がけた街灯があった。
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 その後ランブランス通りに戻り地図を見ると近くに「グエル邸」が在るように記載されていたので、近所とおぼしき場所のお店の人に地図を見せながら英語で話してみたがよく判らないとのこと。
 もう少し行くと扉に面白い模様がありよく見ると日本語の漢字や平仮名あり写真に撮っていたら建物の上の方に「リセウ」と有った。どうやらバルセロナの名門オペラ座のようで有った。日本に関係するオペラでも公演されていたのかな。
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 そこでまた地図を見ると右手の少し入ったところにカテドラルの絵があったので行ってみることにした。狭い通り(車一台が通れる)を進むと立派な建物がある広場に出て来た。後で調べるとバルセロナ市役所であった。さらに進むと教会のような建物が見えてきた。しかし地図の絵のような尖塔が無い。とにかく写真を撮って帰ることにして歩き出す。なおこの教会は、後で「るるぶスペイン‘24」で調べたら『「サンタ・マリア・デル・マル教会」で、かっての海と陸の境目に建てられており権力者や聖職者に頼らず港湾で働く人々の力で建てられた教会「デル・マル」は「海の」を意味する。カタルーニャ・ゴシック様式の装飾が美しい』とあった。
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 さらに歩いて行くと尖塔がみえてきた。さらに進むと古い石造りの建物が現れた。地図からしてどうやら王の広場と称される「レイアール・マジョール宮殿」と思われた。この地区はゴシック地区の中でも最も古いエリアで中世の佇まいを残しているとか。
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 途中馬に乗った「王」と思われる像があった。検索したが誰かは解らない。なお正面には行かなかったので王の広場そのものを見ることは出来なかった。なおこの宮殿で1492年にアメリカ大陸に到達したコロンブスがパトロンであった「イサベル女王」と「フェルナンド王」に謁見した歴史の舞台となったところである。
 さらに進んで左に曲がるとやっとカテドラル「サンタ・エウラリア大聖堂」が見えた。
中には入らず外から外観を眺めただけであったが、壮大な感じがした。聖堂の前の広場では大道芸人達がギターを弾いたり、シャボン玉のパフォーマンスをしていた。
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時間が迫ってきたので急いでホテルに戻ることにする。ホテルに16時半過ぎに帰り着いた。
 17:15ホテルロビーに集合してバスにて「モンジュイック地区」にある「スペイン村」にオプショナルツアーの「フラメンコディナーショー」を見に行く。10名が参加した。途中「スペイン広場」は車窓観光で、ここバルセロナでは闘牛が禁止されたため、かって闘牛場であった建物を上方に持ち上げ「ラス・アレナス・ショッピングセンタ−」が出来ていた。また「カタルーニャ美術館」の建物が見えた。
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 「スペイン村」は、多くの文化的施設が集う「モンジュイックの丘」にあるテーマパークでバルセロナのみならず、スペイン国内中の代表的な建造物が原寸で再現されている。パーク内をぐるりと廻ればスペイン全土を一挙に観光したような気分になれるとのこと。また「フラメンコ」は本来「カタルーニャ地方」の文化ではないため、バルセロナ市内で観られる場所は数えるほどしかない。しかしここスペイン村は「スペイン」がコンセプトなので本場のフラメンコショーが観られるとのこと。
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フラメンコショーはレストランで食事をしながら観た。私の座席は丁度舞台のすぐ前でいわゆる「かぶりつき」の位置であった。そのためダンサーを見上げるようで首が痛かった。そういえば昔学生の頃、広島でストリップショーをかぶりつきで観たことを思い出した。1時間45分程いてホテルに帰る。明日はいよいよ帰国である。
続きはPART 9へ

2023年11月25日

初めてのスペイン旅行PART 7

 朝6:00モーニングコール。7:15に出発してグラナダ飛行場に向かう。飛行場に着いたころ空が明るくなった。9:30飛び立ち一路バルセロナに向かう。到着後スーツケースを取るのに小一時間かかる。そしてバスにて街へ向かう。
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 日本人女性ガイドがついてくれた。まず世界遺産のサン・パウ病院に向かう。建築家モンタネールの代表作品でバルセロナ市内にあった6つの病院を合併して1936年に建設され、美しく芸術的に価値が高い48の建造物が建ち並んでいる。ここが最近まで実際に病院として使われていたとは思えない美しさと旅行社のパンフレットに有る。
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 『モンタネールは1850年バルセロナに生まれ、政治家として活動しながらモデルニスモ建築を代表する建築家で、スペイン国内のアラブ建築に影響を受けた合理主義とモデルニスモ様式独特の曲線の癒合が、モンタネールの建築物の特徴で、さまざまなアーティストとコラボレーションしたため、病院内の至る所に貴重な彫刻、モザイク、絵画で装飾されている』と「るるぶスペイン‘24」に解説があつた。ここは外観のみを見学。
 その後一つ星レストラン「イソップ」にて昼食。一皿、一皿量は少ないが中々の味であった。この旅行で全員一緒に食べるのはこれが最後、夕食は各自でのこと。
 昼食後再び日本人の女性ガイドと合流しサグラダ・ファミリアに行く。
ここでは資格のあるガイドが付き添うことになっており、綺麗な外人女性ガイドが合流した。顔が以前我が家にホームステイしていたアメリカのL子によく似ていた。中に入っても外人ガイドは説明しないで日本人ガイドがすべて説明してくれた。ところが観光客が多くて音声ガイドが混線を来たしたので、周波数チャンネルを変更したらしく私は気付かなかった。そのためガイドのそばにいるときだけ聞こえたが後はさっぱりであった。
 「サグラダ・ファミリア」は1882年、聖ヨセフ信徒協会の聖堂として着工。アントニ・ガウディが31歳の若さで2代目建築家に就任し、聖堂全体で聖書の内容を表現するという構想を打ち出した。字が読めない人でも聖書が解るようにと言うことで細密な彫刻が施され壮大なファサードとなっている。
 私はキリスト教徒でないため聖書を読んだことはなく、ある意味このファザードの彫刻から聖書の中身が少し理解できた。なお彫像などの説明は「るるぶスペイン’24」から転載させて貰った。
 『美しい曲線と光で彩られた聖堂内部など、未完にしてモデルニスモの最高峰と称されている。19世紀の天才建築家アントニ・ガウディが全人生を捧げた大聖堂。天高くそびえるその姿は未だ完成に至らず、ガウディの意思を引き継いだ人々の手によって、今も建築が進められている。建築様式や精密な装飾には、さまざまな意味が込められている。』とある。
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 まずガウディ広場の池越しに全体を見て記念写真を撮る。写真の右端はメインタワーの1つで2021年12月18日に完成した聖母マリアの塔である。高さ138m完成した塔のなかでは最も高く、てっぺんに設置されたガラス製の巨大な星は、キリスト生誕直後に輝いたと言われる“ベツレヘムの星”がモチーフとなっている。
 それから生誕のファザードに行く。
多数の観光客がいて入場も大変だった。このファザードは建物の北東側の入り口にあたり、ガウディ自らが指揮をとって完成した部分で、キリストの生誕に関する装飾が施されている。日本人建築家の外尾悦郎氏は1978年にバルセロナに渡り、「生誕のファザード」のハープを持った天使の彫刻を担当して以来40年以上多くの彫像を手がけている。現在サグラダ・ファミリア主任彫刻家である。
なお「生誕の門」では外尾氏が中央と左右両方の扉の彫刻を担当している。
「生誕のファサード」ではいずれも、圧倒されるほど繊細な彫刻が施されています。
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 「生誕の門」の中央部「慈愛の扉口」には「キリスト生誕」の像があり、産まれたばかりのイエスキリストがヨゼフとマリアに見守られている。イエス生誕の場面がよく描かれている、牛とラバの姿も見える。
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 その右に「羊飼いの礼拝」が配置されている。最初に星を見てキリストに祈ったのが羊飼といわれ、民衆の象徴とされている。左側にはイエスの誕生を確認に「東方の三賢者」がイエスのもとに贈り物を持ってやって来た像が彫られている。
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 またその上にはイエス、聖母マリア、ヨセフを囲む 15体の天使像が配置されこれらは外尾さんの作品 。9人の合唱隊、6人の楽器を奏でる天使たちがキリストの誕生を祝っている姿を表現しています。15体の天使が完成するのに17年を費やしたとのこと。
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そして「キリスト生誕」の上には、「受胎告知の彫像」が配されている。数々の芸術作品の主題とされている宗教的シーンで、大天使ガブリエルがマリアの前に現れ、神の子キリストを身籠もったことを告げる場面を表している。
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さらにその上には「マリアの戴冠」の像がある。これはキリストが聖母マリアに冠を授ける様子を表し、左下の人物は聖ヨセフである。さらにその上に「生命の木」として永遠のシンボル糸杉と大理石の鳩が止まっている。
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また信仰の門の右側には「働くキリスト」の像があり、大工である養父ヨセフの仕事を手伝う青年期のキリスト。キリストの世俗での生活を表した最後の彫刻。
まだ他にも色々の場面が表現されている。
 次に色鮮やかな聖堂内部に入る。
入った瞬間今まで見てきたカテドラルとは雰囲気が違った。高い天井に覆われた広大な空間、建物は十字形になっており、中心に主祭壇がある。白い無数の柱が並びステンドグラスの入った窓から青やオレンジの色鮮やかな光が入るようになっている。
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「主祭壇」主祭壇の上空に飾られているのは十字架に磔にされたキリストの像。50のランプ、血を表すブドウの房、キリストの体を表すパンを作る麦などにかこまれている。
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「ステンドグラス」西側は赤やオレンジ色、東側は青や緑とガラスの色が異なり、午前は東に面しているブルーやグリーンのステンドグラスがとても綺麗とのこと。午後と夕方は西に面しているオレンジ色、赤色、黄色のステンドグラスがとても綺麗だと言われた。私が見たときは正に午後であり何とも言えない暖かさを感じる色で聖堂内が照らされていた。
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 続いて「受難のファサード」に向かう。このファザードは聖堂の南西側にある入り口でこのファザードの彫刻はカタルーニャ出身のアーティスト、ジヨセップ・マリア・スビラックが担当して、彫像はキリストの受難から死、復活までの3日間を表しているが、生誕のファザードの彫像とは全く違ったフォルムをしている。
 中央の大きな扉「福音の扉」にはイエス最後の2日間について「新約聖書」から800字を抜粋している。重要な部分だけは金文字で装飾されている。
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その左側の彫像は「ユダの接吻」と言われ、裏切り者のユダが、隠れている兵士に誰がキリストかを伝えるシーン。悪魔のシンボルとされるヘビがユダの後ろでキリストを裏切るようにそそのかしている。また右側には「ペテロの否定」と言われ、ペテロはキリストを知っていることを3回否定した。それを3人の女性で表現した彫像。 
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その上には「ネガのレリーフ」と言われるキリストの顔の跡が残った布を掲げるヴェロニカ。左側にある横を向いた男性像はガウディと言われている。中央には「キリストの磔刑」で十字架に磔にされているキリストと、ヨハネに慰められる聖母マリア、ひざまずくマグダラのマリアがいる。キリストの足元には頭蓋骨が。そして右には「キリストの埋葬」が配され、布に包まれたキリストを埋葬しようとする最後の場面。傍らでは聖母マリアがひざまずいている。
二つのハザードの彫像を見たことで、ほんの少し聖書のお話が分かった。
20分間の自由時間があり地下博物館とミュージアムショップにも入ってみた。
集合して全員で記念写真を撮った。
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 その後バスにて「グエル公園」に行く。ここはパトロンで有ったグエル伯爵の依頼で市場や学校までも擁する60戸の田園住宅街として建設されたものの、計画は失敗。後に公園として開放された。市内が見渡せる広場のほか、ガウディがかって暮らした住居なども残る。ここからサグラダ・ファミリアが見えた。
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 公園内には土地の高低によって建築様式の異なる3つの柱廊がある。列柱ホールの左側にある柱廊の柱には、頭に籠をのせた女性が彫刻されており、洗濯女の柱と呼ばれている。
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「列柱ホール」はドーリア式の柱で建造されたホール。天井に4つある円形の破砕タイルの装飾はジュジョールの作品で四季を表している。列柱ホールの天井にあるバラ装飾、太陽やメドウーサなどが豊かな色彩で表現されている。
また列柱ホールの上に広大なテラスがある。広場はさまざまな色の破砕タイルを組み合わせて飾られた110mもあるベンチで縁取られている。ベンチの装飾はジュジョールが担当。テラスからはバルセロナの街が一望できる。ベンチに座ると腰の部分と背骨の境目が出っ張っており座り心地が良い。
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「中央階段」は中央入口から入ってすぐ現れる列柱ホールに続く長い広い階段で、列柱ホールの雨水貯めとしての役割もあったという。口から水を出しているモザイクのドラゴンがシンボルだが、実はトカゲやサンショウウオという説もある。
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 ここで現地の女性ガイドさん、日本人ガイドさんと別れ今夜宿泊するホテルクラリスに到着。このホテルはマドリードで泊まったホテルと同系列である。
 今夜も食事は付いて無く、添乗員のSさんが、ホテル近くのバルに案内してくれる9人で参加。日本の居酒屋の様なところである。今日も結構疲れた。明日は夜オプショナルツアーとしてフラメンコダンスを観に行くことになっているが、それまでは完全な自由行動だ。
 続きはPART 8へ

2023年11月19日

初めてのスペイン旅行PART 6

 ところでアルハンブラ宮殿について予備知識が無く、「るるぶスペイン‘24」から引用させてもらうと『アルハンブラ宮殿は14世紀に完成した、イベリア半島最後のイスラム王朝、ナスル王朝(グラナダ王国)の大宮殿。丘の上に広がる1万4000uもの敷地に、緻密な装飾が美しい宮殿群や、堅牢な城塞、水路や噴水を多用した庭園等が点在し、イスラム建築の最高傑作として名高い。1492年、キリスト教軍のレコンキスタ(国土回復運動)により、アルハンブラ宮殿は陥落。王朝の栄華と哀愁が漂う遺産として、ヘネラリフェ、アルバイシン地区とともに世界遺産に登録されている。』とあった。
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 先に庭園を見学したことより順序が少し違った。かってモスクだった場所に立てられたサンタ・マリア・アルハンブラ教会の横を通り、となりのカルロス5世宮殿に行く。ここはグラナダ陥落後16世紀にカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)が建設したルネサンス洋式の宮殿で、外観は正方形だが内部は円形の中庭を多くの列柱が取り囲んでいるのが特徴で、内部はグラナダ芸術美術館になっている。
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 続いてナスル朝宮殿に進む。ここは「メスアール宮」「コマレス宮」「ライオン宮」の三つに分かれており最初に「メスアール宮」の「メスアールの間」に入りそれを通り抜けてイスラム教祈祷室に入る。馬蹄形アーチの窓の向こうには、アルバイシン地区の美しい街並みが広がっていた。
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 次にメスアールの中庭に出てきたが、前方の壁には二つの青銅の門が有り周囲を色鮮やかなタイルが装飾されている。日本人ガイドさんによればこの門の右側はまっすぐでなく少しゆがんでいる。万能はアラーの神で人間は万能でないことを示すためにその様に作られているとのこと。門の外壁は見事な漆喰細工で、アラベスク模様で埋め尽くされている。そしてこの中庭には噴水があるだけ。
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 次に「コマレス宮」のアラヤネスの中庭を見る。コマレスの塔を正面に望む長さ34m幅7mの池があり両側には刈り込まれた天人花(アラヤネス)の生け垣がある。対岸から見ると水面に映える美しいアーチや周囲の緑が左右対象に写りとりわけ緑が映えていた。
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 そしてコマレスの塔の中に入ると「バルカの間」という細長い部屋があり、天井には幾何学模様の寄せ木細工が施され船底の形をしていることからこの名がついたとか。「バルカの間」の先には王に謁見するために大使が通されるという「大使の間」と呼ばれる大広間があり宮殿のなかで最も広い部屋となっている。
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 壁一面天井までびっしりと漆喰細工が施され、その細密なアラベスク模様は圧巻で、装飾の一部にはコーランの一部も彫られているとのこと。
また木組み細工の天井は星空をイメージしたデザインだとか。部屋の中央、天井の真下部分の床に立ち入り禁止スペースがあったが、これは宮殿が建てられたときのオリジナルのタイルが残っており傷まないように保護されている。
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 その後「ライオン宮」に移動、ここはかっての王の居住スペースで、男子禁制のハーレムだったところ。そのライオンの中庭はコーランに書かれた天国をイメージして造られ、当時は草花が植えられていた。中庭の中央には12頭のライオン像が水盤を支える噴水がある。当時は水を吹き出すライオンの数で時間を表す水時計でもあった。なお白大理石のライオン像は、かって黄金に彩色されていた。ほかと比べると彫刻技術がやや古拙に見えるのは、11世紀頃の建物から転用したためだと言われている。またライオンの口から流れる水は四方の溝に流れていくがこれは天国の川を意味し、宇宙の隅まで水が行き渡る様子を表している。
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そして中庭を取り囲むように「アベンセラヘスの間」「諸王の間」「二姉妹の間」という三つの部屋がある。まず「アベンセラヘスの間」に入る。ここは豪族アベンセラヘス一族が最後の王ポアブディルによって惨殺されたという伝説にちなみ、16世紀から「アベンセラヘスの間」といわれ、部屋の中の噴水についた薄茶色の染みは、アベンセラヘス一族の血だと伝えられ、かっての惨殺事件を彷彿させる。この部屋の一番の見どころは星をイメージしたという16角形の天井の鍾乳石飾りで、天井を覆う巧妙な装飾はモカラベ様式。立体的で複雑な構造から蜂の巣天井とも呼ばれる。
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 次に「諸王の間」にいく。ここは王の居住空間で、3つの寝室につながっている。内部は鍾乳石造りのアーチが美しく、天井には革に書かれたナスル朝の10人の王の肖像画が残されている。
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 続いて「二姉妹の間」に行くが、左右全く同じ大理石の敷石があることからこの名前がついたとのこと。八角形の天井には、「アベンセラヘスの間」と同じ鍾乳石飾りが施されモカラベ様式の天井が美しく広間は夏季の住居としてボアブディル王の母とその子供達が使ったという。壁にはいくつかの詩が刻まれている。「二姉妹の間」の奥にはリンダハラの望楼があり、二連のアーチ窓からは緑豊かなリンダハラの中庭を望むことが出来る。
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次に進むと下にコマレスの浴室の屋根が見えた。現代の浴室と同様、採光と換気が考慮されている。保存状態を保つため見学は外側からのみ。写真は浴室の屋根で採光が取り入れられる様子がわかる。
次は北側の回廊で、この回廊からは世界遺産のアルバイシン地区全体が見渡すことが出来る。青い空に白壁の家々がよく映えた南スペインらしい景色を楽しむことが出来た。
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そしてリンダハラの中庭にやって来た。1526年に設置された小さな噴水を幾何学模様の植木で囲んだ小さな庭、アルハンブラ宮殿のなかでカトリック的な要素を持つ場所。そして出口へ。そこではちょうど結婚式の写真の前撮りをしているカップルがいた。
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 バスの駐車場に行く途中、アルハンブラ宮殿の中で最も古い宮殿とされ長方形の池の奥に貴婦人の塔(ダマスの塔)を配する「パルタル宮」がたたずみ、水面に映る姿がとても綺麗で美しかった。
 携帯を手に持って写真を撮ったりしたせいか、携帯アプリでは1日のウオーキングが6.8qしかなかった。実際は足の張り具合からもっと歩いているものと思う。ヘネラリフェ庭園とアルハンブラ宮殿の見学でトータル2時間の見学であったため、駆け足見学の感あり、あまり頭に入っていない。もう一回ゆったりコースで見学したいな。日本人のガイドさんによると、今日我々を案内したコースを1日三回ガイドすることもあるとかすごいな。
 夜はホテルのレストランでスープとメインは鱈の蒸した物にソースが掛かった料理とデザートであった。このホテルには宿泊客用の飲料水が部屋に置いて無く、前もって購入してチェックインをした。初めての経験である。
 続きはPART 7へ

2023年11月12日

初めてのスペイン旅行PART 5

 モーニングコール7:00で8:45バスにてグラナダに向かう。途中3時間で白い村ミハスに到着する。旅行会社のパンフレットによると『スペイン南部に広がるアンダルシア地方、灼熱の太陽が織りなす光と影、抜けるような青い空と白い家並み。「プエブロ・ブランコ」と呼ばれるその白い家並みでよく知られるのがミハスです。白い家の窓には花々が溢れる、まるで映画のワンシーンのようにゆったりとした時間が流れています。』と有った。途中車窓からは山の中腹あたりまで白い家が連なっているのが見えた。
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 到着後日本語が「こんにちは」「さよなら」しか解らない外国人のガイドが来て案内してくれる。昼食でレストランに入る。前菜にガスパチョ(トマトの冷製スープ)が出てきた。
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その後、村の散策をする。なだらかな斜面に白い家が並んでいる。この白壁は毎年5月頃に主婦が石灰を塗って白さを維持しているとのこと。街中をロバタクシーがのんびり移動していた。
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 村の土産物店で日本人女性がやっているお店(アマポーラ)があるというので立ち寄り4人の孫娘達にミハスで採取した押し花を入れて造った首飾りを買った。
 楕円形の闘牛場を外から見たが、日陰になる処とそうでない処で観覧料が違うとのこと。その先の展望台に行くと地中海が目の前に見える。晴れていたが少しもやが掛かっているのか残念ながらアフリカ大陸は見えない。晴れ渡ったとき右手にはジプラルタ海峡が見えるとのことだったが残念。
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 バスの駐車でトイレに行くが無料であった。そのトイレの横にロバのオブジェがあり面白半分に跨がってみたところ、地元の人か観光客か解らないが乳母車を押していた女性が写真を撮りましょうというジェスチャーしてくれたのでスマホを渡したら撮影してくれた。普通なら子供しか乗らないであろう処に大人が跨がっていたのでおかしかったのかも知れないな。良い記念になった。
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 その後バスにて2時間、グラナダ市街を抜けてアルハンブラ宮殿に直行した。ここでは日本人の女性ガイドがついてくれた。宮殿の歴史を話してくれた。まず庭園を見てその後宮殿に案内して貰うことになる。
 水の宮殿と呼ばれる「ヘネラリフェ」庭園は13世紀末に建設され、歴代の王達が私的な休暇を過ごした夏の別荘でアルハンブラ宮殿の城壁の外、坂道を登った高台にある。
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入り口を入ると糸杉の並木道があり、野外劇場を抜けると下の庭園に出る。糸杉などが丁寧に刈り込まれておりすごく綺麗であった。左手にアルハンブラ宮殿が見える。咲いている花も種類が多く驚く。
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 その後アキセアの中庭に出てくる。真ん中に水路があり、噴水が出ている。ここは離宮の中核をなし、かっての王の間と見晴らしの塔が見える。スペイン・イスラムの庭園の完璧な見本であるとも言われている。
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 その後も庭園を巡る。豊富に庭園内を流れる水は山の上の用水路などから引き込まれている、
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 最後に渡った橋はへネラリーフェから集落や王宮都市へのアクセスを簡便にするため現代になって作られた橋でそこから撮影した写真はチノ坂へと続く外堀をまたいでいる水道橋。ここを通って用水がアルハンブラに流れ込んでいた。水の塔とは、この戦略的にも重要な水道橋を監視する機能ゆえにその名が与えられたとのこと。この橋を渡りいよいよアルハンブラ宮殿にやってきた。 
続きはPART 6へ

2023年11月06日

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