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05/11 農作業漬けのGW
04/23 日研71同期会に参加して
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外部グログ

大先生(元院長)のブログ

初めてのトルコ旅行 PART1

 以前、2022年9月出発のトルコ旅行を申し込んでいたところコロナ第7波のため旅行会社がキャンセルしてしまい行けなくなっていた。この度インターネットで調べたところ「ターキッシュエアライン&トラベル」が募集している「トルコ周遊8日間ツアー」を見つけ参加することにした。
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 トルコと言ってもあまりなじみがなく中学の音楽授業で軽快な「トルコ行進曲」を聞いたのが初めてトルコを知ったのでは無いかと思う。
その後、高校の歴史などでオスマントルコのことを習ったり、日露戦争で日本がロシアのあのバルチック艦隊に勝利したことでトルコ人が海軍大将「東郷平八郎」の名前から子供の名前に「トウゴウ」と付けたり、通りの名に「東郷通り」をつけていることを聞いたことがあった。
そして2015年日本・トルコ国交樹立125周年を記念して日本・トルコ合作映画「海難1890」が作られ、2015年12月に封切られた。それに先立ち、トルコを訪れていた当時の安部首相とエルドアン大統領が11月、一緒に映画を鑑賞したニュースが流れていた。
この映画は私も封切られるとすぐに観に行き、私のブログ(平成27年12月6日)でも紹介した。一部ブログから転用すると
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『日本よりおよそ9000kmも離れた、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる1つ の国、トルコ共和国。かつてオスマン帝国として歴史に名を刻んできたその国と日本は、長きに渡り交流を深めてきた。そして2015年、日本トルコ友好 125周年を迎える。遥か海を越えた両国の友好には、歴史の裏に隠された2つの知られざる物語があった―。
1890年9月、オスマン帝国最初の親善訪日使節団を載せた軍艦「エルトゥールル号」は、その帰路の途中、和歌山県串本町沖で台風のため海難事故を起こし座礁、大破。乗組員618人が暴風雨の吹き荒れる大海原に投げ出され、500名以上の犠牲者を出してしまう。しかし、この大惨事の中、地元住民による献身的な救助 活動が行われた。言葉の通じない中、避難した小学校では村中の医師が集まり応急手当を行い、台風の影響で残りわずかな蓄えにもかかわらず、食糧や衣類を提供。そのおかげで69名の命が救われ、無事トルコへ帰還する事が出来たのだ。この出来事によりこの地で結ばれた絆は、トルコの人々の心に深く刻まれていった。この軍艦「エルトゥールル号」の話は聞くところによるとトルコの小学校の教科書に載って長い間語り継がれて来たとのこと。
そして、時は流れ1985年、イラン・イラク戦争勃発。サダム・フセインのイラン上空航空機に対する無差別攻撃宣言によって緊張が高まった。この宣言後、 在イランの自国民救出の為、各国は救援機を飛ばし次々とイランを脱出。しかし、日本政府は救援の為、自衛隊機を出すことが自衛隊の海外派兵となり憲法違反と判断し救助要請に応えなかった。またJALも乗務員の安全が確保できないと判断し救援機を出さなかった。テヘランに残された日本人は215人。メヘラバード国際空港で誰も助けの来ない危機的状況に陥り絶望の淵に立たされた。この状況を打開すべく、日本大使館はトルコへ日本人救出を依頼。トルコ大統領オザル氏は、それを快く承諾。まだ500人近くのトルコ人がテヘランに残っていたにも関わらず、日本人に優先的に飛行機の席を 譲ったのだった。』
このことで私はトルコに大変興味を持った。
 それともう一つ高校の世界史でトロイの遺跡をドイツ人のハインリヒ・シューリマンがギリシャの詩人ホメロスの叙事詩「イリアス」にでてくる伝説上の都市と信じられていたトロイを、これが実在したと信じ続け私財を投げうってついに発掘した話を習った時、是非トロイを訪れてみたいと思っていた。
恥ずかしながらまさかトロイがトルコ共和国にあるとは露知らず。数年前に知ってトルコ旅行にトロイが含まれているツアーを選択した。
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ただし私のこのツアーはトルコ航空の旅行会社が企画したため、集合は現地イスタンブール空港出口のすぐ右側に有る「バーガー・キング」の前とのこと。日本のオフィスに電話したら私たちのプランで関西空港から出発される方は私たち夫婦2人だけとのこと。少々心配であったがイスタンブール空港に着いてからの道巡を示した地図などがインターネットのマイページに掲載され、また飛行機の切符もEチケットで掲載されており印刷をして持って出かけた。
 5月19日新尾道駅を14:21の「こだま」で出発、福山で「のぞみ32号」に乗り換え、新大阪で関空特急「はるか」に乗り換え無事関空についた。少し早かったため1時間ほど待つ。
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 当日の関西空港国際便出発ロビーはものすごい人で、ほとんどが外国人。日本語はほとんど聞こえず韓国語や中国語などが飛び交っていた。円安の関係で旅行客が増加しているとニュースなどで聞いていたが、ここまですごいとは思わなかった。1時間ほど待ったところでトルコ航空のカウンターが開きチェックインした。スターアライアンス加盟航空のためANAのラウンジで少し時間を過ごす。
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21時頃搭乗口前に集合したところ放送が流れ家内が搭乗口に呼び出された。家内が搭乗口まで行くと家内の座席のモニターは画像がでるが音声が故障でない。そのため搭乗前にその事が家内に通知され、それに文句を言わない様に誓約書にサインをさせられた。それに対して粗品の一つも無い、とんでもない。
 21:45イスタンブールに向けて離陸。1時間ほどで食事が出たが、言葉はあまり通じず英語のメニューを観ながら私は寿司を頼む。渡辺憲が出演している映画「GODZILLA(ゴジラ)」を観て寝た。
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 トルコ時間午前3時(日本時間朝9時)前に朝食として機内食が提供された。その時モニターで飛行ルートを観ていったら丁度黒海の南側を飛行しており、地図には手前に2014年冬のオリンピックが行われたロシアのSochi(ソチ)、その上方にはウクライナの首都Kyiv(キーウ)が書かれていた。しばらくして黒海の北側にYalta(ヤルタ)が表示されてた(写真では右側)。Yaltaはクリミヤ半島に有りこの飛行機の現在地から5〜600qほどのところ(尾道と静岡間)である。正に今この時間もロシアとウクライナが戦争をしている。今自分たちは戦場横の安心な場所にいて朝食を食べていることに有難さを感じた。
 さらにこのヤルタでは1945年2月にイギリスのチャーチル首相、アメリカのルーズベルト大統領、ソ連のスターリン書記長による会議が行われ、ソ連対日参戦と第二次世界大戦の戦後処理についてヤルタ協定を結んだ場所で、現在の日本の形が作られる出発地点である。
 現地時間4時半(日本時間朝10時半)前頃、無事イスタンブール空港に到着。少し予定より早く着いたようだ。正に「飛んでイスタンブール」であった。
続きはPART 2へ

2024年06月01日

突然の鼻歌に驚く

 先日、畑の草取りをしているとき、あまりにも突然に鼻歌が出てきた。
「もしもし ベンチでささやく お二人さん 早くお帰り 夜が更ける 野暮な説教 するんじゃないが 此処らは近頃物騒だ 話のつづきは明日にしたら そろそろ広場の灯もきえる・・・」。
何という歌だったのか分からないがあまりにも突然出てきた歌なのでビックリ。帰ってインターネットで調べたら昭和31年4月に発売された「若いお巡りさん」で歌手:曽根史郎 作詞:井田誠一 作曲:利根一郎と有った。
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 昭和31年は私が小学校4年生のときである。当時はTVも無くもっぱらラジオの時代であったし、我が家では父も母も歌には全く興味が無かったようで、あまり歌番組を聞いた記憶が無い。それでも六十数年振りに突然我が口から飛び出してきたからには恐らく同級生が歌っているのを聴きながら覚えて歌ったりしていたのであろう。2番の歌詞の「送って上げよう 任せておきな 今なら間に合う 終列車」という所も覚えていた。改めて懐かしく思った。
 歌を口ずさみながらふと思ったことがある。作詞家の井田誠一氏が今この時代に作詞をしたらどのような歌詞になったのだろうか?
今なら「話の続きは家に帰って携帯か、メールかLineでしたら」とアドバイスをするのであろうか?
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 なお曽根史郎という歌手について調べてみたら「赤胴鈴之助」を歌っていることが判明。今の若い人たちは赤胴鈴之助と言ってもピンとこないであろうが、私たちの年代、特に男性の場合懐かしく思う人が多くいるのでは無いだろうか。子供用の月刊雑誌「少年画報」に掲載されていた漫画である。我が家では漫画を買ってもらう余裕はなく、毎月買って貰らっていた仲の良いクラスメイトが読み終えたらいつも雑誌を借りてよく読んだ。今でもその漫画の一コマを覚えている。それは老婆が鈴之助に呪文をかけるのだが、その呪文が「れむね れむね えましてね」である。それを読んだときにこの呪文は「ねむれ ねむれ ねてしまえ」を逆さまに言った台詞と気がついて悦に入ったことを思い出した。
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 またラジオドラマとしても放送され(昭和33年2月〜昭和34年7月)その時の主題歌が「剣をとっては日本一に 夢は大きな少年剣士 親はいないが元気な笑顔 弱い人には味方する がんばれ たのむぞ 僕等の仲間 赤銅鈴之助・・・」。この主題歌は本当によく歌った記憶がある。しかし誰が歌っているのか歌手の名前も当時知らなかったしこの度初めて知った。しかし、ネットで見るといろいろな人が歌っているので私が聞いた曲が曽根史郎氏のものだったかどうかは解らない。さらに一度だけアニメ映画の赤胴鈴之助を映画館で観たことがある。
 この他、ラジオで放送されたドラマ番組に「笛吹童子」があった。少し時代が下がってTVが出てくると「月光仮面」や「怪傑ハリマオ」などが放映され、主題歌が流されそれを聞きながら歌った記憶が甦る。
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 今でも月光仮面の歌 「どこの誰かは知らないけれど 誰もがみんな知っている 月光仮面のおじさんは 正義の味方よ よい人よ 疾風のように現れて 疾風のように去って行く 月光仮面は誰でしょう 月光仮面は誰でしょう・・・・」がすらすらと出てくる。
 急に出てきた鼻歌のおかげで子供の頃の記憶がよみがえって色々と懐かしむことが出来た。
写真はいずれもインターネットから利用させてもらった。

2024年05月09日

ここ2週間

 「さいだ歯科医院」では、日曜、祝日、木曜日が休診日となるが、毎月一日だけ木曜日と土曜日とを入れ替え土曜日を休診日にしている。そして木曜日に1.5時間の院内ミーティングを行い、問題点や改善点などを話し合っている。4月は18日の木曜日と20日の土曜日とを入れ替えたので20・21日と連休になった。
 このところ結構雨が多く家庭菜園での農作業が中々出来ず、何としても20日には農作業をすると決めた。幸い午前中は曇っており決行できた。
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畑は3月中に前もって耕し、マルチなどを貼って準備していたので、トマト3種類8本、キュウリ8本、なすび5本、ししとう2本、ピーマン2本の苗を買ってきて植えた。また昨年取っておいたバジルの種もまいた。
 ところで例年「尾道みなと祭」はゴールデン・ウィーク中にするのが習わしだったが、今年は一週間早く4月20・21日に開催された。結構な人出で有った。私は21日に家内と一緒に出かけて「ええじゃんSANSA・がり 踊りコンテスト」の幼稚園児と、小学生の部を観た。まず子供たちは海岸通りを「SANSA・がり 踊り」の音楽に合わせて目一杯踊りを披露してくれる。審査が終わると駅前広場の特設ステージとその下の芝生の上で再度踊りを披露してくれた。私は4チーム位を海岸通りで見た後、駅前広場に戻りウッドデッキの壁に寄りかかってステージでの踊りを再度見ていた。
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 どのチームもはつらつとしていて素晴らしかった。特に今年度で閉校になり来年度からは「尾道みなと小学校」として統合される土堂・長江・久保小学校の子供達は元気いっぱいに最後の踊りを踊っていた。
 広場の周りは人垣が出来、舞台や広場で踊る子供達の親御さんや学校関係者が応援しているが、一チーム終わると入れ替わり、次のチームの関係者がやって来て応援をされていた。その中で「抱っこ紐」をしてお子様を前に抱いて通られる若い男性の姿が結構目に付いた。家内と「時代が随分変わったね」と話した。私たち夫婦が子育てをするときは家内が子供を背中におんぶして行動しているのがあたりまえであった。私はちょっとの間子供を抱くことはあっても今の若い人のように長時間前に抱いて歩いたことなど無かった。
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 ところで「尾道みなと祭」のポスターがどこかで見た事があると思って昨年の写真を見たら図柄は全く同じで、回数が第80回から第81回と変わっており、開催日が違っているのと「しまなみ海道開通25周年記念」の文字と公式HPのQRコードが載っていただけなのには驚いた。良い図案なのでまた来年も同じなのかな?
尾道水道の対岸の向島ドックに修理に入っている船には鯉のぼりが飾ってあり綺麗であった。雨が少し降りだしたので帰る。
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 25日は晴れで朝から家庭菜園に来てジャガイモ畑の草取りをする。ジャガイモは今年は北海道産の「キタカムイ」という品種で3月20日に植えたが早く芽が出た株にはもう花芽がでてきているが、遅いのはやっと土から芽を出したのもある。また柿の木の下草を取ったが誤って何本かのミョウガの茎を折ってしまう。
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 今年の菜園は他に大根、人参、春菊、ふだんそう、ほうれん草、モロヘイヤ、オクラ、といろいろの物を植えた。今回いつ植えても途中で枯れてだめになる「ほうれん草」の植え付けに初めて成功した。オクラの発芽が悪くやっと芽が出てくる感じである、28日にはキュウリとトマトの支柱を半日がかりで立てた。
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 5月2日は木曜日で休診日のためゴールデンウイーク後半は5連休となっているが、畑周りや駐車場の草取りをする予定である。

2024年05月03日

第五のがん治療「光免疫療法」

 私が毎月購読している月刊「致知」5月号のテーマは「倦(う)まず弛(たゆ)まず」でトップ記事にアメリカ国立衛生研究所主任研究員小林久骼≠ニSBIホールディングス会長兼社長の北尾吉孝氏の「人類の未来を拓くがん治療への挑戦」と題した対談記事が掲載されていた。
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 恥ずかしいことであるが私は医療従事者にもかかわらずこの「光免疫療法」は全く知らなかった。がんの治療と言えば「外科手術」、「抗がん剤」、「放射線治療」の三大治療が有ることは大学でも習った。しかし最近はノーベル・生理学賞を受賞された本庶佑先生の開発されたがん治療の新薬「オプジーボ」を始めとする第四の治療として「免疫療法」が行われてきている事までは理解していた。しかし「光免疫療法」は知らなかった。
 小林久隆氏の説明を引用すると
『従来のがん治療は外科手術、抗がん剤、放射線の三大治療と呼ばれるものですが、これらはがんだけでなく、正常な細胞や臓器にもダメージを受けてしまうデメリットが有りました。それに対して光免疫療法は正常な部分をほとんど傷つけず、光を使ってがん細胞だけを壊します。
 それがどうして可能になるかと言うと、先ほど北尾社長がおっしゃった通り、鍵を握るのはIR700という化学物質と近赤外線です。近赤外線は身近なところではテレビのリモコンにも使われているような無害安全な種類の光。IR700は道路標識や東海道新幹線の車体の青色に使われているフタロシアニンという色素を水溶性にしたもの。
 がん細胞の表面には他の正常細胞にはない特有のタンパク質(がん抗原)が数多く存在していて、そのがん抗原と結合するタンパク質(抗体)にIR700をくっつけます。この複合体をナノ・ダイナマイトと呼んでいるのですが、それを薬剤として点滴投与します。体内のがん細胞と結合した後、直径1ミリの光ファイバーを患部に刺し込み、近赤外線を数分間照射するとIR700が化学反応を起こし、結合している抗体の形状を物理的に変化させることでがん細胞の細胞膜に無数の穴が開きがん細胞が内部破裂していく。
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 がん細胞だけを破壊するというのは実は前段階の働きです。次の段階として、がん細胞が死んだという情報が免疫システムに伝わり、周辺の免疫細胞が活性化し、がん細胞に対してさらなる攻撃を開始します。
 先ほど近赤外線を照射することで細胞膜に穴が開くと言いましたが、これがすごく重要なんです。細胞膜が壊れるだけで核や細胞質といった中身は綺麗に残っている。その中身が一斉に放出されると、何が起きるか。周辺にいる免疫細胞が壊れたがん細胞の中身をパクパク食べるように消化・分解し始め、がん細胞の情報を取り込むんです。それによって、とらえ損ねた微少ながん細胞や転移がん、今後新たに生まれてくるがん細胞を攻撃することができます。
 分かりやすく言えばがん治療は戦争と同じで、敵(がん細胞)を減らして味方(免疫細胞)を増やせば勝つ。従来の三大治療は敵を減らすことはできるけど、同時に味方も減らしてしまう。オプジーボをはじめ「第四の治療」である免疫療法は、味方を増やせても敵を減らすことはできない。
 それに対して「第五の治療」と呼ばれる光免疫療法は敵を減らして味方を増やすことができる、従来とは全く一線を画す治療法だとご理解いただけると嬉しいです。』引用ここまで。
 現在この療法は2020年9月に光免疫療法に使われる新薬『アキャルックス点滴静注』の製造販売及びレーザー光照射による治療が、世界に先駆けて日本の厚労省で承認され2021年1月に保険適用が始まった。ただし頭頸部がんが再発し従来の治療が効かなくなった患者さんが対象という条件付きである。今後さらに研究が進展し、保険適応拡大が進めば8〜9割の固形がんは治るのでは無いかと考えられている。ノーベル賞級の世紀の大発見である。
 ところでこの開発にはまさに今月号のテーマである「倦まず弛まず」がピッタリのような小林先生の生き方が載っていた。「倦まず」は「飽きない」、「弛まず」は「心を緩めない」と言うことであり、一つのことを始めたら途中でいやになって投げ出したりしない。孜々(しし)として努力を続ける。その大事さを表した言葉である。
寝る時間以外は仕事を続け、並々ならぬ努力と覚悟があったこと、信念を持って突き進んだ経緯が語られていた。とても私には真似できないことである。昨今の「働き方改革」などと騒いでいたらこの偉業は達成されなかったとおもう。大いに感動した。

2024年04月11日

喜寿を迎えて

 3月25日に私は喜寿を迎えた。同級生の家内も今月少し前に喜寿を迎えた。2年前から高等学校の同窓会で喜寿のお祝い会が2回も行われたが、全く現実味が無かった。しかし実際に喜寿を迎えてやっとそうなのだと思った。
 誕生日の前の日に次男一家が食事会をしてくれた。昨年は広島の「なかしま」だったが今年は長江通りにある「鮨 やくしどう』であった。ここは昔『由良や』というふぐ料理のお店屋さんだったが閉店されしばらく空き家となっていた。大将に伺うと一昨年4月に開業したが昨年2月1日から4月28日間で一時休業して昨年4月29日から再オープンしたとのこと、また大将は東京の人でスカウトされ東京から移住をしてきたとのお話であった。尾道の活性化に一役買っていただいている。有難いことである。
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 私にとって料理はすごく洗練されており、使用するお酢は尾道造酢製だとのこと。寿司飯の量は普通のにぎり寿司の1/4程度でほんとに一口サイズのようで有った。ネタには近海の魚(尾道産のたこ、鯛)も有るし函館のウニや宮城のホタテなど厳選してあった。
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一晩8人までの限定で18時からスタートした。当日は我々家族5人ともう一組2人の計7名であった。
私は美味しいお寿司にビールを2杯と日本酒1合を飲んで大満足であった。
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 食事会が終わりに近づいたとき次男一家から喜寿のお祝いだと言って孫娘が代表で私にネクタイ、家内に帽子のプレゼントを渡してくれた。突然のことで私も家内もおお喜び。
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 沖縄の長男一家からは家内の誕生日と私の誕生日にそれぞれお手紙とお花が届いた。そして誕生日には孫たちも含めて電話で話が出来た。
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 ところで77歳の喜寿という節目のため尾道市歯科医師会からお祝いの金一封3万円を頂いた。これは歯科医師会の共済規程のお祝いの項に記されているのだが、それによると60歳の還暦、77歳の喜寿、88歳の米寿、99歳の白寿に祝意を表し、慶祝金を贈ると書かれている。99歳以上のお祝いの規定は無いのだが、もしも私が長生きしたら何か頂けるのかな。私の両親はどちらも満88歳であの世に旅立ったが、両親の遺伝子を受け継いで丈夫に育ててもらった以上、88歳は優に超えないと両親に申し訳ないと思っている。
 なお私が尾道市歯科医師会に入会して以来100歳を超えられた先生方はいらっしゃらない。記録を打ち立てたいものだ。
頂いたお金は家内と分け合った。

2024年03月28日

北部圏域ネットワーク(医療・介護連携)会議に出席して

 先日コロナ禍で休会になっていた会議が3年振りに再開され出席した。尾道市には7圏域ネットワークがあり、北部は尾道市美ノ郷町・原田町・御調町が対象区域である。今回は42名の出席があり、メンバーは医師・歯科医師・薬剤師・民生委員・居宅介護支援事業所・老健施設・訪問看護ステーション・グループホーム・デイサービス事業所等の方々であった。
 まず本多会長の挨拶に続き尾道市健康推進課より保険事業と介護予防の一体的事業と言うことで「尾道市服薬情報通知事業」について報告があった。
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これは後期高齢者(75歳以上)の薬剤レセプト等4ヶ月分を調べ、重複投薬者(同じ薬効の薬が重複処方されている人)や多剤投薬者(6剤以上の薬を処方されている人)を抽出し、服薬指導・服薬支援につなげることで、残薬を減らすとともに、転倒などの薬物有害事象を防止すること目的に行ったとのこと。そして抽出された方には健康推進課から通知書を発送し、その通知書とお薬手帳をもって早めに「かかりつけの薬局」などで相談する様に促した。その結果令和4年度では重複投薬者527人中335人(63.6%)に、また多剤投薬者2650人中740人(27.9%)に改善が見られたとのこと。
私も日頃、抜歯をするとき必ずお薬手帳を見せて貰うようにしているが、多剤投薬者は結構いらっしゃるのでこういう取り組みが行われていることに安堵した。
 次にフレイル予防について6グループに分かれ各グループで事例検討会を行った。
事例は以下に示すようなものである。
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@ この事例の中で気になるのはないかということについて話し合う。
家族の関わりの程度がどうなのか、右肩骨折で右の腕の機能はどうなのか?3食を誰が用意をするのか? タクシーでの通院(家族の付き添いはないのか?) やせたような感じ→食べる能力の低下? 右肩骨折で足ではないのに出かけることが少なくなっているのは何故なのか、今まで地域のサロンなどにも参加されていたが、誘ってくれる友達はいないのか?等、多くの意見が出た。
そしてこの事例はまさにフレイル(虚弱)に進む1歩手前であると思った。
 一般的にフレイルドミノの入り口は、外出しなくなったり、人付き合いが無くなり社会性が失われる社会的フレイルからスタートし、次に歯を失ったり、入れ歯が合わなくなって、食べこぼし、わずかなむせ、噛めない食品の増加、口の乾燥、滑舌低下と言った口腔機能の低下が現れ食事が取りづらくなりオーラルフレイルに進む。そして食事が取れないと低栄養となり筋力低下を来たし、運動能力低下へと進み身体的フレイルとなる。これがフレイルサイクルを形成し要介護状態に移行し寝たきりになる。
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歯科医師の立場からいえばオーラルフレイルになることをいかに阻止するかその進行をいかに遅くするかが重要な仕事だと感じている。
次にこの事例で  
A もし提案できるとしたらどの様なものがありますかについても話し合う。
ご家族のお話を聞く、民生委員に相談する。サロンに通っていたのでその時親しかった人等に声がけをして外出する様にうながして貰う。等、等多くの意見が出された。
ところでこの話し合いの中でふと自分もいい年なのでこのような事態に何時なるとも限らない。今は妻と二人で生活が出来ているが仮に妻が倒れたらたちまち食事はどうすれば良いのか考えてしまう。食後の茶碗洗いはするが、食事の作り方は全く知らない。少し料理が出来るように練習しないといけないのかな。
 その後、尾道市地域包括ケア連絡協議会 地域包括ケア推進部会の沖田部会長より、この事例のまとめをしていただき、尾道市が進めている「でたもん勝ち」というキャッチフレーズの「シルバーリハビリ体操」についての紹介があった。
包括支援センターが作成した「おのみち元気づくりマップ北部圏域」と言うパンフレットが配布されたがこの裏にフレイル予防のポイントが記されている。
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最後にこの会の副会長をしている私が閉会の挨拶をして無事終わった。

2024年03月17日

「遺憾」って何?

 いつも思っていたことだが、政治家や会社の経営者などが何か不祥事があると謝罪・説明の時に決まって「遺憾です」というのをよく聞いていた。聞くたびその言葉になにか違和感を持っていたが、毎月購読している「致知」3月号の風の便りという記事に占部賢志(中村学園大学客員教授)氏の「目立つ面妖な言葉と話法」いう記事をよんで合点がいった。
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転載させて貰うと
[ 口を開けば「遺憾」?
近年、政治家や各界のトップが記者会見などで、「遺憾」の語を多用するケースが目立ちます。しかし耳にするたびに、何に対してどんな思いを伝えようとしているのかがはっきりしないことが多い。
 たとえば自党や自社に不祥事があったときに、「この様な事態を招いて遺憾の意を表する」と陳謝するかと思えば、北朝鮮のミサイル発射や中国公船の領海侵犯に対しても「まことに遺憾だ」などと口にする。
このように、あるときはお詫び、またあるときは抗議にも用いる。何と都合の言い使い方でしょう。
 そもそも、遺憾は「残念」とか「心残り」という意味であって、お詫びの意味はない。ですから、会見でいくら遺憾の意を表明したところで、謝罪したことにはならないのです。 
語源を訪ねてみれば・・・
 では語源をみてみましょう。使われ始めたのは室町から江戸にかけての頃。織田信長の伝記『信長公記』を加筆修正した『信長記』(江戸時代初期)の中に用例が出てきます。その端書きに、前書には功績のあった人物が洩れていたので、「遺憾」に思って加筆した旨の記述が見える。「残念に思って」の意であることはあきらかです。
 ところが今日では、本来の意味や用法とは異なる物言いに重宝される。辞書編集者の神永暁氏によれば、敗戦後の国会の会議録に抗議の意味での使用例が散見されるそうです。そうだとすれば、この都合よく使える表現は政治家や答弁作成担当の官僚あたりがこしらえたものと断じていい。発言を曖昧にしておくにはうってつけ。なるほど彼らが頻用するはずです。]  引用ここまで。
 やっと胸のつかえが下りた感じがした。しかし北朝鮮のミサイル発射や中国公船の領海侵入対しては全くもって抗議になっていない。断固反対する強い表現をしないと彼らにとって日本政府が「遺憾」だといってもその意味が「残念である」ならば痛くもなければ痒くもない。だから毎日のように中国の公船が侵入してくる。外務省を始め政治家は日本の国や国民を本気で守ろうとしているのか疑いたくなる。
 外務省や政治家に強い反省を望むと思っていた矢先、2月21日に韓国がいわゆる元徴用工訴訟を巡り日立造船が韓国裁判所に預けた供託金が原告側に支給された件で厳重抗議したと林官房長官がTVのニュースで述べていたがその時も「極めて遺憾である」と発言した。
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 翌日の産経新聞には「日韓請求権協定に反する判決に基づき、日本企業に不当な利益を負わせるもので極めて遺憾だと外務省の岡野正敬事務次官が韓国の駐日大使を外務省に呼んで伝えた」と記事が載っていた。全く駄目であるなぜ本気度を示す言葉を使わないのか? 弱腰の日本外交であるから竹島も帰ってこないし、慰安婦問題も解決しないのである。反省しろと言いたくなる。
 

2024年02月23日

最近の出来事

 先日、尾道在住の画家「わしおさむ」氏に「さいだ歯科医院」の絵を画いて貰った。12月に家内が市内で画伯の作品展をたまたま観たのがきっかけである。1月30日に完成した絵が届けられた。早速待合室の壁に飾った。
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ところが不思議なもので翌1月31日の尾道新聞一面の下段に「向島ドック株式会社」の広告が掲載されていたが、何とそれに「わしおさむ」氏の絵が使用されていてびっくりした。
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 ところで「わしおさむ」氏は彼が小学生の頃からの「さいだ歯科医院」の患者様であり彼の父親と私は高校生の時の同級生であり不思議なご縁で繋がっているなと思った。 
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 2月になりそろそろ春の農作業にとり掛からなくてはと思い、昨年9月の終わりから10月初めに種をまいた大根が4本ほど残っていたのでそれらを抜いたところ1本が面白い形をしていた。通常真っ直ぐな1本の大根が三っに分かれておりその格好が何ともエロチックで男性の下半身にそっくりで立派な一物には驚かされた。昨日枯れ枝・枯れ草などを片付けて農作業の準備が少し出来た。先ずはジャガイモの植えつけからかな?
 2月10日(土曜)に5年半振りに広島県歯科医師会主催の「第21回永在会」が広島で開催された。この会は満70歳以上の会員を対象にした先達の先生方の旧交を温めていただくことは勿論のこと、執行部あるいは地区歯科医師会に貴重なご意見やご要望を賜ることを目的に隔年の開催としている。ところが新型コロナウイルスの影響により止む無く中止が続いていたが、やっと今年度5年半振りに開催された。
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場所は広島市東区二葉の里にあるI羽根神社横の「料亭二葉」で開催された。新幹線の
都合で少し早めに着いたので神社にお参りをした。そう言えばこのI羽根神社は昔孫娘の百日のお詣りをしたことがあったのを思い出した。その後会場に向かう。今日の永在会
の出席者は87人であった。
 15時より開式となり県歯会長挨拶の後、この5年半の間に亡くなられた物故者に黙祷を献げる。物故者名簿が配布されていたので見ると懐かしい人達の名前も多くあり、最高齢は105歳で亡くなられていた。また若い人では70歳で永在会に入会されてすぐに亡くなられた先生もいらっしゃった。
70歳を超えた場合の寿命はどの位か気になって、物故者の平均寿命を計算したら84.09歳であった。女性の先生方5人含まれているが概ね男性の平均寿命を少し上回っている。私にとってはあと7年ちょっとという数字である。
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 その後、余興として落語の講演会があり前座を「桂 ひな太郎」師匠が勤めた。成年後見制度の話と太鼓持ちの話であった。つぎに「桂 文楽」師匠でお題は良く解らないが酔っ払った旦那と奥方の掛合いで非常に面白く、大いに笑わせて貰って楽しんだ。
そして16時15分頃より二人の師匠も参加されての会食となった。
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本当に久しぶりにお会いする先生方とお話が出来て楽しかった。無事18時に散会となった。

2024年02月12日

ささやかな社会貢献に気が付く

 2月になると税金の青色申告の準備が始まる。先日、尾道市市役所より収納済額についてのお知らせが届いた。開封してみると介護保険料と後期高齢者医療保険料の納付済み金額が記載されていた。介護保険は年金から天引きされ、後期高齢者医療保険料は銀行口座振替で引き落とされている。日頃気にしていなかったが、改めて見てみると介護保険料が150,200円、後期高齢者医療保険は660,000円であった。
 その後1週間ほどして広島県後期高齢者医療広域連合 業務課から医療費のお知らせが届いた。それには令和5年1月から令和5年10月までの医療費が記載されていた。
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私は日頃、内科と眼科と泌尿器科に掛かっている。内科は睡眠導入剤を貰うために行くが、その導入剤も1日分を4等分して飲んでいるので4ヶ月に一度の割合である。眼科は緑内障のため2〜3ヶ月に一回受診する。そして泌尿器科は前立腺の状態を観察して貰うため半年に1回診察をして貰っているが、これも先月の検診でPSAデーターが正常に戻り、1年に一回で良くなった。
 10月までの医療費合計は51,640円で、窓口負担は3割で15,492円であった。青色申告のため11月分と12月分の医療費を領収書から計算すると2ヶ月分で医療費が10,910円で窓口負担は3,270円であった。結局私は1年間に医療費として62,550円を使用し、そのうち自己負担として18,762円を払ったので差し引き43,788円を保険料から消費したことになる。
 保険料として支払った660,000円から43,788円を差し引くと616,212円の黒字となっている。この金額が他の人達の医療費として賄われ、お役に立っている。また介護保険は一度も利用したことが無いので、未使用分の医療保険と介護保険料合わせて766,412円がささやかな社会貢献料となった。今までこの様な見方、とらえ方をしていなかったので気が付かなかったが、私が元気で働いていることが社会の為になっている事を実感した。
歯科医師として日頃、地域の人々のお役に立っているだろうとは思っていたが、まさかこの様な形でお役に立てていたとはびっくりである。
 ただし今後私が病に倒れたり、介護が必要になった時は人様にご迷惑をかけることになる。最後までピンピンコロリで行けるように気をつけて生活をしていこうと改めて思った。

2024年02月01日

寒波襲来

 数日前からTVの天気予報などで今年一番の寒波がやってくると報じられていた。1月23日はここ三成でも日中に少し雪が舞った。そして夕刻から冷えだし、夜のTVニュースでは安芸高田市、北広島町に大雪警報が出たと字幕スーパーで報道された。スマホの天気予報で尾道の気温を見ると24日の朝5時〜7時くらいはマイナス3℃と表示されていた。
翌24日朝いつものようにウオーキングのため5時前に起床するとスマホ画面がマイナス2℃となっていた。着替えて歩きに出たところ外にうっすらと雪が積もっており、歩くとさくさくとした音がした。8q程歩いたが、路面が凍り付いていて何度か足が滑りそうになった。海辺でこの程度の雪なら、9キロメートル北にある診療所ではかなり雪が降って積もっているのでは無いかと思いながら出勤したところ、三成はほとんど雪が降った形跡が無くがっかり。
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 ところで年末にも寒波が来たせいで、畑に植えていたキンカンの実が霜にやられて全部枯れて真っ白になっている。また山椒の葉っぱも全部枯れている。一方大根とタマネギは霜にもやられず元気に育っている。
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 そんな中でも南高梅の白い花が咲き出し気持ちを慰めてくれる。寒波襲来で確かに日頃より寒さがきつく、今日は背中にカイロを貼って仕事をしている。
夕方少し雪が舞ったが積もりはしなかった。
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 ふと北海道時代の事を思い出した。私は昭和53年4月からから59年11月まで北海道に住んでいた。というのも歯科医になろうと急に思い立ち、会社を退職し急遽大学受験をして東日本学園大学歯学部〔現在北海道医療大学〕に入学した。最初の2年は釧路の西40キロの白糠町に住んでいた。ここはあまり雪が降らないところであるが寒さは超一級で有る。マイナス20℃なんて当たり前、外に出ると顔が針でちくちく刺されるように痛かった。TVの天気予報を観ると釧路がマイナス20℃の時沖縄の那覇がプラス20℃で北と南の差が40℃もあることに驚いたことを思い出した。また歩いて2分ほどの所に銭湯があったが風呂から上がって家まで歩いて帰ると髪の毛がカチカチになっていた。小学校の校庭は屋外スケートリンクになる。我が子もそこで滑ったりしていた。
 2年後教養課程から歯学課程に移行するため札幌から東26キロにある当別町に引っ越しした。ここも寒いが釧路程では無く日本海側で雪が多く札沼線(現在は学園都市線)が時々大雪のため運休すると大学は臨時休校になる。そのようなときは夜でも屋根に上がり雪下ろしをしたりしていた。
 また北海道では冬、毎晩水道の水を落として水道管の中を空にしないと水道管が破裂して大変な事になる。たまたまテーブルの上に急須のお茶を入れたまま2日ほど家を空けた事があるが、帰宅するとお茶が凍って膨張し急須が割れていた事もあった。さらに面白い経験としては当時ほとんどの家は水洗便所では無く、所謂「ぼっとん便所」であった。冬大便をしてお尻を拭いてトイレットペーパーを便器に落とすとそれが凍る。次に同じ事をすると大便がその上に重なり、積もってタケノコの様に伸びてくる。60p位伸びるとお尻に当たりそうになるので、時々竹の棒で押し込んだりした事を思い出した。
 そんな経験をしたが北海道を離れて40年ほど経つと全くそのようなことは忘れて寒い寒いと言っている自分に驚く。体が楽な方になれてしまったのであろうがたまには過去を振り返ってみるのも面白いことに気がついた。

2024年01月25日

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