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外部グログ

大先生(元院長)のブログ

異様な今年のGW

 世間では今年のGWはコロナの影響もあって4月29日から5月6日までの様である。わが「さいだ歯科医院」では4月30日と5月7日が木曜日の休診日で有ることから5月1日、2日は診療したがトータル7日間の休みとなり明日が最終日。例年なら沖縄から孫達が遊びに来たり、私たちが旅行に行ったりと結構忙しいのだがコロナのせいで出かけることもなく巣ごもり状態で有った。そのお陰で日頃しなくてはと思っていたことがかなりはかどった。
 まず家庭菜園の土を耕し、なす(3本)、キュウリ(5本)、トマト(6本)、バジル(1本)、シシトウ(1本)を植えた。今後オクラ・サツマイモなどの植え付けをしなくてはと思っている。また物置の片付けや、畑の廻りの草取りもしっかり出来た。自己満足度評価90点。
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 そしてずっと気になっていたのが「日本歯科医師会雑誌」14ヶ月分を「積ん読」状態で机の上に置いていたこと。1日に2〜3冊読んで何とか読み終えた。各号にはサイエンスや臨床情報などの生涯研修記事がいろいろ掲載されており各方面で私の知識のアップデートが出来た。これからは毎号届く度にまじめに読んでいこうと思った。
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 また本の中には「人間と科学」という欄があり、2019年10月から2020年3月号まで「エピジェネティクス・・生命科学の新しい必修科目」と題して大阪大学大学院生命機能研究科時空生物学・医学系研究科病理学教授 仲野徹氏の連載記事があり特に目をひいた。
まず「エピジェネティクス」という言葉を初めて知った。専門的な話であまり良く理解は出来なかったが、先生はウマとロバの間に出来る雑種を例に挙げて説明されていた。私はウマとロバの雑種は全てラバだと思っていたのだが、実は雌のウマと雄のロバを掛け合わせたのがラバで、雄のウマと雌のロバを掛け合わせたのはケッティと言うのだとか、初めて聞く名前である。ラバは粗食に耐えてよく働くがケッティはそうでもない。他にも色々な違いがあるというので、ウィキペディアで調べてみたところ、ケッティの頭はラバ以上にウマに似ており、たてがみや尾っぽもウマに似ている。
不思議なのはラバもケッティもゲノムあるいは遺伝子で言えばロバが半分、ウマが半分である。しかし、その性質は大きく違う。すなわち、ゲノムだけでは形質が決定されないのだ。こういった現象の背後にあるのが「エピジェネティクス」であるとのこと。「DNAの塩基配列の変化を伴わずに染色体における変化によって生じる、安定的に受け継がれる表現型」と説明されている。
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 もう一つの例として飢餓と生活習慣病の関係があるとのこと。胎内発育不全により低体重児で生まれた赤ちゃんは、大人になってから冠状動脈疾患になりやすいというバーカー仮説がある。これはおそらく胎児が低栄養状態におかれると、からだのどこかに「環境(栄養も環境因子のひとつである)は低栄養である」ということが刻み込まれるのであろう。低栄養に適応したからだ、いわば「低栄養仕様」のからだになるのだ。生まれてからもずっと低栄養であれば、当然メリットがあるが、実際には生後ふつうに食べ物を摂取するようになる。ところが、からだは低栄養仕様になってしまっているので、相対的に栄養過剰になってしまう。そのために、冠状動脈疾患などの生活習慣病になりやすくなると考えられている。低栄養にさらされてもDNAの塩基配列に変化は生じない。すなわち、遺伝子に変異が起きたりはしない。しかし、からだに刻み込まれた飢餓の記憶が何十年にもわたって持続する。現代の生命科学の知識でこの様な現象を説明できるのは、「エピジェネティクス」しかありえないと記されている。
 私が胎内にいた昭和21年〜22年3月までは食べ物が少ない時代で、おそらく私は胎児の時栄養不足で有ったと推察される。この記事を知らないで普通以上に食事をしていると私自身も生活習慣病に陥ることが考えられる。今日から食べ過ぎないように気をつけよう。
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 ずっと家に居るのはつらいので4日の昼から少し散歩に出た。海岸通りを散歩したが丁度グリンヒルホテルの前当たりで漁師さんが船から網を投げ入れながらぐるっと船を一回り半ほどさせた後、網を挙げていくのを見た。時折、20センチくらいの赤い魚体が見え網からはずした後、頭に包丁を入れて血抜きをしているのが見えた。どうやら鯛のようである。まさに尾道水道を舞台としての「無言の一人芝居」を観客として小一時間見学した。漁師さんはこの様にして魚を捕っているという社会勉強をさせて貰い良い時間を過ごした。
 その後本通りを歩いたが大半のお店はシャッターが降りて、4月26日〜5月7日迄臨時休業の看板や張り紙があった。人影がほとんどない、異様な風景であった。また駅前ではバスに乗客が1〜3人くらいしか乗っていないのにも驚く。
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ニュースなどでは見たりしていたが実際に見ると本当に皆巣ごもりをしているのだという実感がわいた。お彼岸以来お墓参りもしていなかったのですることも出来た。途中麦が植えてある畑があった。昔は米の裏作として麦が至る所に植えてあり、あと一ヶ月もすれば一面黄色となり「麦秋」と表現されていたのだが最近はほとんど見かけない。
 最後に気になっていた年賀状の整理をした。一枚いちまい読み返して差し出してくれた人が今どうしているのかと思いを馳せるのも中々良かった。お年玉の当たり番号を確認したが4等の切手シートが5枚当選していた。7月20日までが期限なので明日早速郵便局へ行こう。これで休み前にほぼしなくてはと思っていたことを完了した。
 速くコロナが収束して普通の日常生活に戻れると良いのだが。

2020年05月07日

子守唄

 新型コロナウイルスが猛威を振るってまさに日本は国難といえる状態となっている。学校も多くのところで5月6日まで休校となって、出あるかないようにといわれているが、多くの人がストレスを感じDV(家庭内暴力)が発生しているニュースも流れている。それでなくても最近多発する児童虐待に心を痛めていたが、そんな中、月刊「致知」5月号に日本子守唄協会理事長 西舘好子氏の「日本人よ子守唄を取り戻せ」というインタビュー記事が掲載されていた。
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 内容を要約しながら少し紹介すると。『わが国では児童虐待の数は、年間約16万件にも上ると書いてあり、西舘好子氏が小さい頃には無かった、親が我が子に暴力を振るい、時に死に至らしめる痛ましい事件が近頃は日常茶飯事になった。親の愛情というのは、子供にとって絶対的なもので、それがいま、根底から揺らぎ始めている。今の親というのは、家庭で父親はどうあるべきか、母親の役割は何かということが分からなくなっている。父、母という言葉の重みがなくなって家庭が喪失してしまっている。特に子育てに直接関わる母親の力が家庭から失われてしまったことが、こうした事件が頻発する根源だと分析されている。
 その一因として戦後の核家族化が進んで世代間の交流がなくなり、家庭という場で代々伝えていかなければならない大切なことが、伝えられなくなっている。
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 さらに最近では女が社会に出て男と肩を並べるとか、男と全部同じじゃなきゃ許せないみたいな時代の風潮で、それと共に男も男らしさを問われなくなってきてそれが家庭を家庭たらしめていないもう一つの要因だと分析されている。
 最近は三歳までに人間の脳が決定されてしまうことが明らかになり、人間の基本は幼児期に造られることが理解されるようになった。幼児期にどういう育てられ方をしたのかが生涯に関わる重要な問題でその大切な時期に聞くのが子守唄でとても大切なものだと述べられている。
 母親は子供が寝てくれないと困るから、なだめたりすかしたり、いろいろなことを駆使して何とか子供を寝かしつけようとする。そういう中で生まれた子守唄というのは、言ってみれば女の知恵袋だとある。』
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 私自身は子供の時、母親から子守唄を聞かされたかどうか記憶がない。母親に聞こうにもすでに他界しており聞くすべがない。記事のなかには子守唄の原型とも言われる「江戸の子守唄」が紹介されていた。
「ねんねんころりよ おころりよ 坊やはよい子だ ねんねしな 坊やのお守りは どこへ行った あの山越えて 里へいった 里の土産に なにもろた でんでん太鼓に 笙の笛」 歌詞はある程度知っていたが、私が口ずさむことの出来る子守唄は小学校か中学校の音楽の教科書に載っていて習った「中国地方の子守唄」である。
1.ねんねこ しゃっしゃりませ 寝た子の かわいさ 起きて 泣く子の 
ねんころろ つらにくさ ねんころろん ねんころろん 
2. ねんねこ しゃっしゃりませ きょうは 二十五日さ あすは この子の 
ねんころろ 宮詣り ねんころろん ねんころろん
3. 宮へ 詣った時 なんと言うて 拝むさ 一生 この子の ねんころろん 
まめなように ねんころろん ねんころろん
新聞などのニュースで子供の夜泣きがストレスになって虐待をしたと報道されることがある。
この「中国地方の子守唄」にも「泣く子の ねんころろ つらにくさ」とあり、ほんとに衝動的に手を挙げることもあるのだと思う。
 私たち夫婦が子育てをしているときは核家族で子育ては主に家内に任せ放しであった。長男が夜泣きをすると私は寝れなくて家内に「長男を昼間寝させないで起こしておけば夜寝るのだから」と話したこともある。それでも時々、夜中に長男を抱いて団地の中を歩いて寝かせ付けたりした。その時、子守唄を口ずさんだ記憶がある。
子供が泣いたとき自分も小さいとき夜泣きをして親を困らせたのだろう、しかしちゃんと育ててくれたのだという思いに到れば虐待に到らずに済むかも知れない。
記事の中に『子供をおんぶしたり、抱っこしたりしている時の女の人が強いのは、この子のためなら自分の命すら惜しまないというくらいの無償の愛情を注いでいるからでしょう。子供にそういう愛情をもてるのはやっぱり母親だけだし、そういう人が歌う強い唄をもう一度見直して欲しい。子守唄は日本を変えると私は信じているんです。』とあった。
 「中国地方の子守唄」の3番の歌詞にも「一生 この子の ねんころろん まめなように」と有り母親の深い愛情が込められており、この事に気が付けば虐待は防げるのではないだろうか?
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 さらにもう一つ興味深いことが書いてあった。それは誰もが知っている「シャボン玉」という唄についてである。「シャボン玉 飛んだ 屋根まで 飛んだ 屋根まで 飛んで こわれて 消えた シャボン玉 消えた 飛ばずに 消えた 生まれて すぐに こわれて 消えた 風 風 吹くな シャボン玉 飛ばそ」『これは遊びの唄のようだけど、実は子供を失った悲しみを唄った唄です。儚くて、すぐに消えてしまうシャボン玉は人生そのものと言えます。命というものを、子供の遊びに譬えて唄った詩人がかつていたんですね。いまの日本にないのはこういう詩心じゃないかしら。』とあり初めて「シャボン玉」の唄に込められた意味になるほどと合点した。

2020年04月16日

春本番到来

 世間では今、新型コロナウイルスの感染が拡大して尾道市でも2名の感染者が出たと報じられている。日本経済を始め世界経済がダウンして世界恐慌が始まるかも知れないと報道されている。またオリンピック・パラリンピックも1年ほど延期されるという報道がなされた。この新型コロナウイルスの世界パンデミック報道を観ながら、昔、草刈正雄主演で小松左京氏の小説を映画化した「復活の日」の場面を思い出した。まさにウイルスが地球を滅ぼし南極大陸に逃れた人と原子力潜水艦に乗っていた人のみが助かる話であったように思う。早く終息してくれることを願うばかりである。・
 ところで季節はそのようなことにお構いなく過ぎていき、いよいよ春本番到来となってきた。2月23日に海岸通りを散歩をしていて尾道商工会議所の西隣に河津桜が咲いているのを観て春到来を感じたのだが、その時倉敷から来尾のご夫妻がオームを三羽つれて河津桜を見学されていた。オームは動物園で観る物だとの思っていたのでたいそう驚いた。
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 3月26日現在、桜土手の桜がちらほら咲き始めた。また診療室の近く藤井川の土手の桜は2分くらい咲いている。そして診療室駐車場では吉野桜が2輪花開いている。また例年患者様に喜ばれている花桃の花が咲き出した。この花桃は1本の木で赤、ピンク、白、白の中に赤い筋の入った花びらなど多彩な花が咲く。その他にも紅花ヒメコブシが咲いている。
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 私にとっての春本番は家庭菜園での農作業である。三月の初めまず畑の草取りをするところから始まり最初にじゃがいもを植える為、畑の西側を耕し3月15日に種芋を植え付けた。今年は「とうや」「アンデス赤」「シャレード・クイーン」を植えた。「シャレード・クイーン」は紫芋で初めての挑戦である。
 26日は東半分の草取りを終え耕運機を使って耕し肥料を入れていつでも作付けOKとした。
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 ところで26日草取りをしているときタンポポの根っこを取ろうとしたら「てんが」が折れてしまった。タンポポの根っこはゴボウのように地中深く入っており「てんが」で根っこを「うがそう」として力を入れたとたん首の部分がぐにゃっと曲がりさらに力を入れたとたん「ぼぎっ」と折れた。
急いで国道を挟んだ隣のJA北部営農センターに駆け込んで新しいのを買う。新しいのは切れが良く草取りが少し楽な様である。家庭菜園にも肥料代のほかなんやかやと結構費用がかさむな。4月になったらキュウリやトマト・なすび等夏野菜を植えることにしよう。
それにしても今後コロナウイルス感染が終息して安心して畑仕事が出来れば良いな。

2020年03月27日

凡事徹底

 先日職場の近くの住宅新築工事現場に「凡事徹底・・・当たり前のこと、やるべきことを当たり前に行う。」と「全ては準備で決まる」という横断幕が掲げてあってびっくりした。大和ハウス工業が手がける工事である。
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 私がこの「凡事徹底」という言葉に出会ったのは今から24年前になる。自動車用品販売店「イエローハット」を創業した鍵山秀三郎氏の本「凡事徹底」(致知出版)を購入したときである。この本は平成6年に発刊された。私が買ったのは平成8年の第7刷である。ちょうどその頃経営上いろいろ悩む事が多く、たまたま懇意にしていた広島のK先生が大阪で良いセミナーがあるよと教えていただき受講した。田舞徳太郎氏が創設した「日本創造教育研究所 通称日創研」のセミナーである。SAコース(自己への気づき)SCコース(自己のコントロール)LT(リーダートレーニング)の3コースを受講した。これをきっかけに自分を見つめ直す為にいろいろ本を読むようになり、経営にも良い結果が出るようになった。
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 この「凡事徹底」とは簡単なことあるいは平凡なことを徹底して極めていく事で同じような言葉として「積少為大」や「微差は大差」等の言葉がある。「積少為大」は小さなことでも積み重なれば大きな物になる。「ちりも積もれば山となる」と同じ意味だと思うし、「微差は大差」について考えてみると、たとえば今日の自分と昨日の自分の顔を鏡で見ても全く変化はない様に見える。しかし5年前の写真を見ると明らかに髪の毛は薄く白くなり、顔には皺が幾筋も出ている。一日の変化は気づかない程のわずかでも時を重ねれば大きな差が出てくる、それと同じである。
 この工事現場の「凡事徹底」の下に「当たり前のこと、やるべきことを当たり前に行う。」は建築に関わる作業員の方が細部に気を遣い、「まあいいか」と言う気持ちにならないように、手抜きをすることのないように戒める言葉となっているのであろう。些細なことだからと見逃すと後でとんでもないことが起きる、それを予防するために掲げてあるのだろうと思う。さすが大手企業「大和ハウス工業」の仕事に対する心構えは違っていると思った。
 なお日創研の研修を受けたとき、講師の先生から「なんでもいいから何かを続けてやってみなさい」と課題を出された。その時私は朝スタッフが出勤する前に患者様用のトイレとスタッフ用のトイレを掃除することを決めてやり始めた。「最初3日間そして3週間できたら次3ヶ月続ける。そうすればそのことが習慣になって続けてやることが出来る」と講師の先生に言われた。その言葉にしたがってやり続けてきたが令和2年3月1日から28年目に入り完全に私の習慣になっている。
毎朝すがすがしい気持ちでトイレに向かい、今日も倒産しないで掃除できるトイレがあること、また元気でトイレ掃除が出来る自分がいることに感謝し、手を合わせている自分を発見できる。
 本当に些細なことをおろそかにしないで積み重ねる大切さをこの言葉は教えてくれている。
これからも私自身は「凡事徹底」で生きていこう。
 ところで鍵山秀三郎氏は別名「掃除の神様」と呼ばれている。会社設立後、会社の廻りを黙々と毎日一人で掃除していく。そのうち社員が1人ふたりと掃除に参加し、その掃除を通して社員が色々気付き会社が発展していく。さらにそれを日本全国に広げ、今や「掃除に学ぶ会:NPO法人日本を美しくする会」となり掃除を通して、自分たちの「心の荒み」と社会の荒み」をなくすことを目指している。広島でもこの掃除に学ぶ会に県警の呼びかけで暴走族の人達が参加し掃除をすることにより、ついに暴走族が解散した事例もある。尾道でも掃除に学ぶ会が活動したこともある。

2020年03月13日

初めてのインド旅行 PART Z

 ベナレス空港に2時過ぎに到着。すぐチェックインをして待合室で待つ。出発は15:30発のデリー空港行きである。15時前に案内表示板に433便の遅延がでる。出発時間になってもスケジュール調整中としかでない。いつ出発が出来るのか判らない。こちらとしてはデリー空港で乗り換え夜20:20のJALに乗らなければならない。遅れると乗れなくなる可能性が出てくる。昨日の寝台列車の件も有り少しいらいらしてガイドのRさんと口論なる。というのも旅行会社のスケジュールではインド航空405便と書いてあり私たちの持っているチケットは433便になっているので何故かと問い詰めることになる。
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 405便は定刻16時に出発した。その後搭乗時間が表示され出発ゲートに行くが中々搭乗出来ない。やっと1時間5分遅れで出発した。どうやら433便は始発がガヤでベナレスは中継空港のためこのように遅延したのではないのだろうか?何とかJALには間に合いそうである。
 機内で食事が出る。パンとカレーと甘いあんころ餅の様な物がでたが、感心したのはスプーンとホークが木製であったこと。現在世界中でプラスチックゴミが問題になっており日本でもコンビニ弁当などではプラスチックのスプーンやホーク、あるいはストローが出てくる。世界中でこれらを木製にしたら随分と違うであろうに。インドは一歩進んでいるのではないのだろうか?
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 18時過ぎにデリー空港に到着、急いで預けていた荷物をターンテーブルから受け取り国際線の方に移動。途中までガイドのRさんが送ってくれ、現地の旅行社が手配した航空職員に引き継いでくれる。ここで4日間一緒だったRさんとはお別れである。
 国際線の搭乗手続きをする。手荷物検査場で手荷物のショルダーバックがX線検査で引っかかる。タバコは申告が必要なのでタバコがあるのでは無いかと質問される。私はタバコは吸わないと話す。係官がショルダーバックを開けて中を確認する。中から電子辞書と家庭用電子鍼がでてくる。電子辞書をシガレーットケースだと勘違いしたようである。また電子鍼は多分見たこともないのでパイプか何かと勘違いしたのであろう。そこで私の首筋にカチカチとしてヘルスだと言って係官の首にもカチカチとしたところピリッとした弱電気刺激があり筋肉が動いた。驚いて何かを言ったところ廻りの係官なども笑っていた。無事X線検査を通過した。
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 予定通りJALはデリー空港を離陸し帰国の途につく。機内食が出るが日本食を希望したが日本食の希望者が多いらしく「洋食にしてくれませんか」とスチュワデスが言いに来る。いやだと言えなくてOKを出す。恐らく多くの乗客もカレーに飽きたのかも知れない。食事をしながら映画「ヒキタさんご懐妊です」を1本見ただけで寝る。翌朝5時半頃に起こされ朝食の機内食を食べ7時過ぎに成田空港に無事到着。
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 入国審査をして羽田空港に向かうためリムジンバスに乗る。成田から羽田までバス移動なのでかなり時間が掛かるだろうと思っていたところショートカット宜しく「海ほたる」を通り羽田に着く。海ほたるは初めて利用した。大阪空港行きのJALの搭乗手続きをしてラウンジにいく。そこで久しぶりに新聞を見ると結構コロナウイルスの感染者が出ていると書いてあった。
家内に貸していた携帯電話を返して貰いニュースなどを検索した。11時30分羽田を飛び立つが、たまたま家内の席が窓際で「富士山が見えるかね」と言うので写せるように携帯を渡す。これが後で大変なことになる。残念ながら富士山は右手にあって見ることは出来なかった。無事大阪空港につく。それからリムジンバスに乗り新大阪駅まで帰ってくる。
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 新幹線こだまで帰ろうかと時刻表を見ると16:29発までこだまは走っていない。どうやらこの時間帯「こだま」は無い。仕方なく14:39発の「のぞみ31号」の自由席をみどりの窓口で購入し1号車に乗るべく入場しホームまで行く。ベンチに座って切符をポケットから取り出そうとしたところ切符がない。自動改札機から切符を取り忘れたか、何処かに落としたのか慌てるがどうにもならない。列車に乗ってから家内が車掌さんに状況を話し中央改札口に残っていなかったか連絡を取って貰う。しかし返事は「なかった」とのこと。車掌さんが新尾道駅で説明してくださいと言われる。運賃を再度払えば良いと思い気を取り直した。
 しかしそれもつかの間、家内に携帯電話を返して欲しいというと「私持って無いよ」と言う。色々探して貰うが無い。どうやら羽田から大阪空港までのJAL115便に忘れたようである。携帯電話は丁度1ヶ月前に買い換えたばかりで少し憂鬱になる。飛行機を降りるとき座席の上は確認して降りたので多分座席の下に落としたのであろう。家に帰って電話をすることにした。
 新尾道駅について家内の切符を見せながら切符を紛失したことを話したところ、今回だけは大目に見てくることになり有難くホットする。無事16時半頃に家にたどり着く。成田について家まで何と9時間以上掛かった。
 すぐ大阪空港JALお客様係に家内が電話をするが話し中で何度もかけ直してやっと通じる。名前を名乗ったところ向こうから「携帯電話のことですね」と言われる。「もう少し後にお帰りになった頃を見計らって電話をかけようと思っていた」と言われた。飛行機の場合、座席と利用者の名前などが把握されているので落とし主が判別しやすいのではないだろうか?結局着払いで送って貰い14日に受け取り一件落着。今回の旅行は最後の最後までハラハラ・ドキドキさせられ、くたびれる珍道中であった。でもまたインドには行ってみたいな。

2020年02月25日

初めてのインド旅行 PART Y

 まず最初に訪れたのはバラナシ・ヒンドゥー大学の中にあるヴィシュワナート寺院。新ヴィシュワナート寺院に入る前に左右にインド犀の像が配置されていた。サイは「さいだ歯科医院の」マスコットなので写真を撮る。それから本殿にはいるのだが写真撮影禁止と言うことで今思い出しても何を見たのか思い出せない。急ぐあまりゆっくり見れないし写真も無いので説明を聞いたことが思い出せない。その後赤く塗られたドゥルガー寺院(モンキー・テンプル)に行くがここも撮影禁止であった。とにかく急ぐあまり本来1日にかけて観光すべき場所をただ案内した事実だけがガイドにとって必要なのかさっぱりであった。
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 その後ホテルに帰り朝食後荷物を持ってペナレス郊外の四大仏跡の一つで釈尊の初転法輪の地、仏教教団成立のサルナート観光にいく。高校の世界史でこの地を「鹿野苑」と習っていたがサルナートというのは覚えてなかった。
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 ここ遺跡公園(ダメーク・ストゥーパ・モニュメントサイト)は写真OKだがビデオ撮影は禁止であった。入り口側の建物の中にこの場所を発掘したときの状況などのパネル展示があった。
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 ガイドのRさんが途中まで同行して説明をしてくれた。遺跡公園は芝生が敷かれ綺麗に整理され物売りなどもいなくて静かである。
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 僧院の跡や三つに折れたアショカ王の石柱、さらにひときわ大きな円形の基礎の廻りには多くの人がお祈りをしていたがここはダルマラージカ仏塔の基礎部分で紀元前3世紀にアショカ王が建てたものだそうです。基礎しか残っていないのは18世紀にレンガを建材と使用するために地元の人々が破壊したとのこと。お祈りしている人は裸足であったので我々も裸足で廻りを歩いてみた。
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 その後ダメーク・ストゥーパに向かう。高さ43メートルという巨大なストゥーパでアショカ王が初転法輪を記念して建てた物が増築され現在の姿は6世紀頃のグプタ朝のものだそうです。塔の廻りには美しいレリーフが施されている。その後サルナート考古博物館に行く。
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 博物館位入ってすぐ正面にはインドの国章になっている4頭のライオンが配された有名なアショカ王柱が展示されている。なおこの王柱のライオンの足下にある法輪が現在インド国旗の中央に配置されている。その後館内を観て回るが素晴らしい仏像やレリーフなどが展示されておりいつまでも観て飽きない感じがした。
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 その後遺跡公園を後にしてRさんが一番古い菩提樹があるところを案内すると言うので歩いてついて行く。そこは初転法輪寺であった。ところが本日スリランカのマヒンダ・ラジャパクサ首相がこれからこの寺院を訪れるため中には入れないとのこと。門から赤絨毯が敷いてある。寺院の中は無理でもそばまで行けるので、生まれて初めて赤絨毯の上を歩く。  
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 寺院の右奥に釈迦が五人の弟子にはじめて説法をした場所があり、その様子を再現した人形が置いてあった。その後昼食を近くのレストランでとる。これまたカレーであった。
その後帰途につくため空港に向かう。続きはPART Zへ

2020年02月24日

初めてのインド旅行 PART X

 朝4時半に起き、荷物をパッキングしてロビ−に降りた。まだガイドのRさんは来ていなかった。ロビーのソファーに座ったところ他のツアーのガイドさんが日本語で話しかけてきた。彼はマレーシアからの15人ほどのツアーガイドをしていると言っていた。意外と日本語を話せるガイドが多いのに驚く。
 Rさんが昨日のドライバーと一緒に来る。いよいよ家内の「憧れのガンジス河」遊覧に出かける。近くまで行きダシャーシュワメーダ・ガートに歩いて向かう。路上でごろ寝をしている人や、物乞いをする小さな子供。老人の乞食が多いのに驚く。朝早いのに多くの人が来ており、また僧侶が祈りを捧げている光景も見た。
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 ボートに乗ってガンジス河沿いを遊覧して見て回る。西にはまだ月が残っている。とにかく驚くばかりである。他の船には多くの観光客が船に乗っているが、私たちが乗ったボートは他に船頭さん・ガイドのRさんとの4人だけでゆったり乗れた。まず南の方に向かった。沐浴をする人達を見た。この習慣は何千年にもわたって行われているとのこと。ただ最近は水質汚染がひどいとのこと。
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 途中日本人の久美子さんが経営するゲストハウス「久美子の家」を見た。こんなところに日本人がいるのが不思議な感じがする。
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近くのボートに多くの水鳥が寄ってきていたのでRさん聞くと餌を撒いているのだという。鳥の餌を売る船が寄って来たので一袋買い大声で「ホーホー」と叫ぶがあまり寄ってこなかった。
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 そこからUターンをして北に向かう。丁度朝日が昇ってくるが霧が掛かって太陽が赤い、それでも崇高な感じがした。ヒンドゥー教徒達にとってガンジス河の聖なる流れに身を浸すのは早朝が良いとされている。朝日の一条の光が差し込んできたとき、人々は水を手ですくいあげ太陽に捧げ、また水を河にもどす。沐浴をすることは、全ての罪に対する贖罪であると信じられている。
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 その後少し進むと岸辺で火が焚かれている場所に来た。火葬場である。火の周辺のおびただしい布や竹が散乱している。恐らく竹は死体を運んだ担架の燃え残りで布は死体を包んでいた燃え残りと思われる。その横には次の火葬のために沢山の木が積まれている。朝から晩まで24時間火が絶えることは無いとのこと。
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 ここで火葬される人はベナレスの人だけでは無く、インド各地からここで火葬されるために運ばれてくるが、中には前もってベナレスにやってきて死を待つ人もいるのだとか。
焼かれた死体の灰はガンジス河に流すことにより死者の魂が救われると信じられている。
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 船着き場に戻る途中、前もって船頭さんが用意してくれていた木の葉っぱで造った、お椀のような器にお花とローソクがいれて有り、それに火を付けてガンジス河に流した。これは供養のために流すのだという。心の中で南無阿弥陀仏を唱えた。
それから陸に上がり昨日観光出来なかったところを駆け足で見て回る。続きはPART Yへ

2020年02月23日

初めてのインド旅行 PART W

 本来なら昨日の夜20:25の寝台列車で出発しペナレス駅に朝6:10に到着しペナレス市の観光を一日行う予定になっていた。ところが深夜2:10頃に列車に乗ったのだが指定の席に行くと2段ベッドの上の人が下段の私の本来のベッドを使用している。起こしてのいてもらったが、枕や毛布、シーツがない。乗務員と思われる人にガイドのRさんが交渉し持ってきてもらう。そんなこんなで実際に眠りについたのは3時頃だろうか、狭いしベッドの長さが少し足らなくてエビのような格好で寝る。朝7時過ぎには目が覚める。朝食はパンとオムレツの弁当であった。
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 インドの列車は全く車内放送がなく一体どこを走っているのか判らない。しかもインドの寝台列車は以前日本にあった寝台列車と違い通路が中央にあり私が乗った列車では左側が進行方向に対して直角に配列され通路を挟んだ右側に進行方向と並列に一つベッドが配列されている。おそらく線路が広軌道の為そのように配列されていたのであろう。そのため通路が狭くおよそ70センチ位の間隔であった。最も日本の場合、急行「安芸」号のように3段ベッドの時代も有ったので1区画の床面積当たりでは日本の方がベッド数は多くなるのかも知れない。
 それにしてもベナレスに向かう線は単線のためスピードは遅く駅でのすれ違いのため待つ時間も多い、特に遅れていて時間通りでないので駅以外のところでも信号により停止する。いつ頃着くのかとガイドのRさんに聞いても15時くらいかなという程度である。
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窓の外はのどかな田園風景で菜の花がいっぱい咲いている。Rさんに聞くと菜種油を採るとのこと。また麦畑もあるようであった。南に行くにしたがってサトウキビ畑が表れ、収穫している畑もあった。行く先々で多くの牛を見たが、Rさんに聞くと牛は神聖な生き物で食べない、しかも第2のお母さんだという。つまり母親のお乳が済めば牛乳は飲むようになるのでお母さんだという。なるほどと納得した。また牛の糞は燃料として使われており家の側や、畑に牛の糞を板状にして乾燥し小山のように積んであった。また町外れにはテントのような家や掘っ立て小屋のような家で暮らす人々も多く見られた。
昼はカレー弁当であった。食欲がなく半分ほど残した。
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 15時頃ある駅に停車したので手足を延ばすのにホームに降りてみた。私は座高が高いのかベッドに腰掛けると頭が上段のベッドに当たるため少し前かがみで座るので結構しんどかった。
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 ホームには野猿がいた。インドには至る所、野ザルがいる。昨日のアグラ城にも多くの猿がいた。というのもインド神話における猿の神様「ハヌマーン」があがめられており大切な生き物とのこと。以前観た映画「バジュランギおじさんと小さな迷子」の中でもハヌマーンのお祭りのシーンがあったことを思い出す。
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 それにしてもさっぱり目的地に着かないどうやら夜の8時頃ではないかとRさんが言う。そうなると今日予定の観光はおじゃんとなる、しかも明日の午後には帰国の途につくようになるのだが。本日観る予定の18時から20時頃に行われるガンジス河沿いで行われるヒンドゥー教の礼拝プジャ(アールティー)は見学できないが他は何とか見学できるようにするとRさんが言う。信じるしかない。
仕方ないのであきらめて彼と色々話す。彼の結婚についても聞いた。ヒンドゥー教にはカースト制度という身分制が有り上からバラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラの4階級が有り自分は上から二番目のクシャトリアに属する。母親が同じ階級の知り合いの家の娘を探してきたので何も言わずに結婚したとのこと。階級による差別は法律で禁止されているが慣習として他の階級との結婚はほぼ無いといっていた。また今は良く判らないが日本では私が結婚した時代、男性からお相手の女性の家に結納金を出していた。インドでは女性が生涯男性に養って貰う関係で女性の家から花婿料を出すので女性が生まれるとその家は大変だとR さんは言う。
その後、私が使用した毛布やシーツを綺麗にたたみ枕もそろえると、Rさんが何故そうするのかと聞くので日本では「立つ鳥跡を濁さず」という諺があることを説明したところ感心していた。その後乗車したとき枕、毛布、シーツなどを持ってきたボーイが私たちの席にやってきてチップを要求するが、Rさんが断固拒否をしてくれた。
 今回の旅行ではチップについて旅行会社から案内があり、旅行者1人あたりドライバーには1日250ルピー、ガイドには500ルピー、枕銭は20〜30ルピー、ポーターは荷物1個に付き20ルピーの案内があった。至る所チップのオンパレードである。日本では旅館に泊まった時、掛かりの女中さんに心付けをすることぐらいで面食らう。
 そんなこんなでやっと20:11にベナレス駅に到着。本来なら10時間程度であるのに何とおよそ倍の18時間も掛かった、へとへとでそのままホテルに直行。
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Rさんから明日は朝5時30分ロビーに集合と言われる。彼は別のホテルなのでここで別れすぐバイキングスタイルの夕食を取る。頭がふらふらして丁度船酔い状態であった。
このホテルはバスタブが有りやっと湯船につかれた。それでも布団に入ったのは23時を回っていた。過酷なさんざんの旅で難行苦行であったが、普通見ることが出来ない景色なども見ることが出来て良かったのかも知れない。続きはPART Xへ

2020年02月22日

初めてのインド旅行 PARTV

 アグラの町は混み合っていて日本では信じられ内容の交通状態である。1車線の所を2列で走るのは当たり前。2輪車はちょっとの隙間に容赦なく入ってくるためクラクションはほぼ全車両が鳴らし放しで生きた心地がしない。
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 最初にタージ・マハルを観に行く。近くまで車で行き、インドの三輪タクシー(オート・リキシャ)に乗りかえ入り口まで行く。入るのにも非常に多くの人が並んでいたが、観光関係の政府の役人とコネが有るらしく前もって入場券を手に入れてくれ、並ぶことなく入場できてラッキーであった。日曜日なので観光客があふれていた。家内によると10年前はさほどでもなかったとか。それでも赤砂岩の門を入ると正面に大理石の白い建物が目に入ってくるがとても綺麗で、やっと本物が見れて感激した。
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 ガイドのRさんの説明とパンフレットに依ると、ムガール帝国の第5代皇帝シャージ・ハーンが愛妃ムムターズ・マハルのために22年の歳月をかけてヤムナー河の畔に建てた総大理石の墓で広い庭園と水路が四方に流れ、その中央に左右対称の美しい白大理石の霊廟で四隅の4本のミナレット(塔)の高さは43メートル視覚的にもバランスが良く、霊廟を際立たせている。霊廟を挟んで赤砂岩のモスクと集会場がある。
 政府の役人の方が家内と私の写真を撮ってくれるサービスをしてくれた。廟の中に入には不織布の靴カバーを付けて入るが、なければ裸足ではいる必要があるとか、中は撮影禁止と書いてあったがちらほら撮影した人がいる。見つかると罰金が科されるとか。私は規則を守っていたので内部の写真はない。
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廟の裏にはヤムナー河があり、水鳥やペリカンらしきものが泳いでいた。
 その後アグラ城に向かう。この時も政府の役人の方が付き添ってくれた。パンフレットによると、「この城は第3代皇帝アクバルが8年かけて作った要塞である。外観は重厚感のある赤砂岩だが、城内は白大理石が多く使われており、幾何学的な装飾が施されている。」
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 また建物にはムガール帝国時代金箔を施されていた建物もあったが、Rさんの説明ではイギリスの植民地になったとき剥がされて持ち去られたとか。今でも一部金箔が残っている所もあった。また城壁の小窓からのぞくとタージ・マハールの全景が見えてよかった。
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 ところでアグラ20:25発の今夜の寝台列車が運休の為、現地旅行社が色々検討した結果マトゥラー発23時台の寝台列車を予約できたとRさんから聞く。出発まで時間に余裕が出来たので本場のアユルヴェーダセラピーを受けることにした。額に油を垂らして貰うなど三種類の施術をして貰った。私は初めての経験だったが日本のマッサージの方が私には向いている。その後インド料理のレストランでまたカレー料理の夕食となる。
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 その後アグラから50Kmほどニューデリー寄りのマトゥラー駅に向かう。22時半頃到着し待合室で待つが23時を過ぎ24時を過ぎてもいっこうに列車が来る気配はない。01時頃電光掲示板に遅延とでてくる。結局02時過ぎに列車が来て乗り込む。これからが苦痛の始まりだが続きはPART Wへ

2020年02月21日

初めてのインド旅行 PART U

 ニューデリー駅から朝6:00発の列車でアグラに向かって出発。インドの列車は広軌のため両側3人掛けである。指定席のせいか全席満席である。
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朝食にパンとカレー味のコロッケのような食事を列車内でガイドさんが手配してくれていた。外の風景は霧であまりよく見えなかったが霧の中から太陽が昇ってきて幻想的であった。
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途中、ガイドのRさんから夜寝台列車でバラナシ市へ行くことになっているが霧のため予定列車が運休となるという情報が入ったと聞かされる。じつはこのことが後から大変なことになるとは思いもしなかった。約2時間でムガール帝国の首都でアグラに到着。新たらしいドライバーが韓国製の車で迎えに来てくれていた。駅から駐車場まで歩くが子供達がまとわりついて物乞いをする。
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最初にアグラ郊外のムガール帝国時代の夢の都ファテープル・シークリー(世界遺産)に行く。入場する前にトイレに行くが有料で1人20ルピーを取られる。有料のせいか日本ほど綺麗ではないが用を足すことは出来た。
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駐車場から少し歩いてファテープル・シークリーの門までは専用バスで行くことになっている。バスにおそらくバス会社の名前なのであろうが「SWARAJ MAZDA」と書いてある。「MAZDA」とは日本の自動車会社マツダの英語標記「MAZDA」と同じである。マツダ製のバスではないし、多分ゾロアスター教の主神アフラ・マズダーに由来しているのではないかと思った。
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 ガイドのRさんの説明とパンフレットによればムガール帝国第3代皇帝アクバルがこの地に住む聖者の予言によって男児を授かり首都をこの地に移転した。5年をかけて建設したが水不足と猛暑の影響で14年しか使われず廃墟になった。城壁の中は宮廷地区とモスク地区に区分されているが今回は宮廷地区だけの見学である。宮廷地区には五重塔・謁見殿、宮殿がありいずれも赤砂岩で造られており建物には木彫りのような細かい細工や彫刻がなされている。ひとめ見ただけでは木で出来ているのかと思われ触って石だと納得した。
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40分ほど自由タイムと言われ写真を撮っていたら掃除をしている若者がここで写真を撮るように仕草をするのでそこで写真を撮ったところ指3本を出しチップを要求されるがスルーした。その後ガイドのRさんにつれられて説明を受けながら中を見て歩く。
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 見学後アグラ城、タージ・マハルに向かうが途中昼食のためレストランによる。小綺麗なレストランでダリアの花が咲きそろっていた。部屋でなく外のガーデンで食事になる。
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バイキングタイプの昼食であるが5種類のカレー、野菜、ナン、チャパティなどがおいてある。辛くなさそうなのを選んで食べる。ビールを飲みながらガイドのRさんと少し個人的な話をした。
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彼は現在31歳で妻と1歳の男の子がいるとのこと。14歳の時に父親を亡くし母親に育ててもらった。自分の下に妹と弟がいて気持ちとしては家長のとのこと。弟は現在、日本とインド政府の奨学金をもらい日本で就学しているとのこと。弟のために仕送りをしているとか。弟に送金した送り状の写真を見せてくれた。たいしたものである。続きはPART Vへ


2020年02月19日

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