大先生(元院長)のブログ
二つのOB会 |
|
2019年04月07日
| |
映画「バジュランギおじさんと、小さな迷子」を観て |
|
2019年03月23日
| |
畑の草取り悪戦苦闘 |
|
2019年03月15日
| |
由紀さおり文化講演会に参加して |
|
2019年02月17日
| |
堺屋太一氏の悲報に接して |
|
|
| 去る2月8日堺屋太一氏が亡くなられたと10日にTVでテロップが流れ、一瞬びっくりした。その後各局のニュース番組で取り上げられ彼の功績が報道されていた。
私にとって彼は特別の人である。私が現在歯科医をしているのもある意味彼のお陰である。
新聞記事は日本経済新聞2月12日付け朝刊より

確か昭和53年1月3日の日本経済新聞の記事かコラム欄に書かれた記事の内容を今でもはっきり覚えている。その記事には当時私が勤務していた日立製作所を引き合いにして書かれていた。会社は大学卒を毎年1300名程度採用していたが、いわゆる堺屋太一氏が名付ける「団塊の世代」が入社するようになって急に大学卒が増えたので将来、課長とか部長と言ったポストがなくなると言うことが書かれていた。私は団塊世代の一番先頭で有り入社7年目であった。まさに私のことを言っているのだと思った。
「そうか将来課長にもなれないのか」とがっくりきたことを覚えている。その後、連日の会議や何やらで、ひどい風邪を引いた。3日間有給休暇を取ったが「休みます」という連絡を家内から上司にしてもらった。「1日目はああそうですかお大事に」だったが、3日目は「えっ、まだやすむの?」と言ったニュアンスで返答されたとのことで有った。
今でこそ長時間労働・残業手当なしの企業をブラック企業と呼ぶが、当時工場で働く現場の工員は直接部門で大学卒等は間接部門に区別され、間接部門の人については1ヶ月の残業時間が決められており一人10時間程度であった。その為、与えられた残業時間を消費してしまうと後はいわゆるサービス残業である。しかし当時それは当たり前と思っていたし、その分ボーナスなどに反映されるのだと思っていた。
しかし此の風邪を引いて休んでいる間に「このままで良いのか」自問自答を繰り返した。
昭和54年から大学入試がセンター試験になると報道されていた。会社を辞めて1年間びっちり勉強して医学部を受けようと思ったが、知り合いの歯科医の先生が私がすでに30歳を越えており、よしんば合格して6年間勉強しても卒後研修医をしていたら開業も遅くなる。歯科医師の方が良いといわれた。
それで歯科医を目指すこととして出身大学の広島大学歯学部に学士入学の制度があるかどうか尋ねたがそのようなものはなく1年生から学ぶようにと言われた。今ならどこの大学にもある制度で、第3学年に編入できるのだが当時はなく、センター試験を受ける覚悟で辞表を提出、2月の終わりだった。たまたま東日本学園大学(現北海道医療大学)が歯学部を設立し今まさに生徒募集をしていると歯科医師の先生から連絡を受け、私立でも受かって免許を取れば同じだし、来年合格できるかどうか分からない。君の年齢を考えればチャンスが多い方が良いとアドバイスしていただき受験。無事合格できて今の私がある。
ほんとにあの記事出会えなかったら私の人生は全く違ったものになっていただろう。堺屋太一様々である。有り難うございました。
ご冥福をお祈りいたします。
| | | |
2019年02月14日
| |
健康寿命 |
|
2019年01月22日
| |
ベトナム旅行 PART X |
|
2019年01月06日
| |
ベトナム旅行PART W |
|
2019年01月05日
| |
ベトナム旅行 PART V |
|
2019年01月04日
| |
« 前のページ |
院長のブログのトップ
| 次のページ »