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03/09 令和6年度北部圏域ネットワーク(医療・介護連携)会議
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外部グログ

大先生(元院長)のブログ

二つのOB会

 いよいよ次の元号が「令和」となったが、平成最後という意味合いも含めてか、先日から立て続けに二つのOB会があった。一つは4月2日に広島で開催された広島大学工学部応用化学科根来研究室のOB会である。当時の教授や助手の先生は既に他界されているが、昭和42年から46年に卒業した者たちが6年振りに集まり旧交を温めた。私は44年卒業だが修士課程に進学していたので、全員と顔見知りである。全員が70歳を超え、それなりの風貌である。遠く千葉、群馬、神奈川、関西地区、宮崎などから参集し懐かしい話に花が咲き、また近況を話したりする。中には卒業以来の後輩もいて楽しい一時を持てた。
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この様な会合に出席出来るのはある意味幸せなことだと思う。まず健康であること、家庭が円満で奥さんの理解があること、さらに遠方の場合、旅費や宿泊費など少し経済的余裕が必要で、三拍子そろっている証かも知れない。
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 もう一つは4月4日に日立製作所、日立研究所、旧第4部の第一回OB会である。48年前に入社して研究所に配属になったが7年で日立を退職した私には少し場違いかなとの思いもあった。しかしお会いしたい上司や同僚がいて思い切って出席を決めた。集合は14時に日立研究所講堂と案内があった。水戸に前泊しほぼ時間通りに集合。最初どうなのだろうと思ったが会場に入ると30人くらいは顔が思い出され名前も直ぐに出てきた。幹事のK氏によると120人に案内を出したが当日46人が参加しているとのこと。まず研究所企画室の責任者から日立製作所の現状と日立研究所の最近の状況紹介があった。残念ながら当時私達が研究していた絶縁材料の様な分野はほとんど淘汰され、いまやIoTやAIに関係したものが最先端として研究されているようであった。説明を受けてもよく理解できなかった。
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 その後展望台にあがる。ここは360度パノラマで見渡せる。目の前に、日立製作所大甕ゴルフ場その向こうに日立港が見える。東日本大震災の時、日立港では並べてあった輸出用の車が多数炎上している様子がTV画面に映し出されていたのを思い出す。今は綺麗に整備されているようだ。そこから南に目をやると東海村の原子力発電所が40数年前の姿で見え、筑波山も視界に入ってきた。なおこの展望台から写真撮影が許されるなんて思いもかけなかった。
 それにしても退職した人達に会社の施設を利用させてくれるなんて、さすが日立製作所。一時期でも会社に籍を置いていたことに幸せを感じた。
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 その後ゴルフ場に併設されている大甕クラブで懇親会がある。お酒も入り40数年ぶりに会う同僚などと話が弾む。以外と多くの皆が歯科医になっていることを知っていて、良い歯医者の見分け方など色々なことを質問され答えに窮す。
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 最後まで日立研究所に席があった人はいないようで、他の工場や子会社に転勤・転出したり大学の教授になった人など様々で有った。
直接の上司のN主任研究員は今年80歳とか、毎週ゴルフなどをしてお元気そのものであった。また当時良く一緒にゴルフをしていたS君、彼は私より1年前に入社して石油タンパクなどを研究していたが、私が退職する時心配して家まで来てくれた。電話や年賀状のやりとりはしていたが、今回41年振りに初めて再会を果たす。彼も最後は大学教授、学部長まで勤めていたとのこと。
 現在では女性の大学卒は本社採用もあるが私達の頃は事業所採用であった。同じ年度に入社し同じ研究室にいたN女史は2年ほどで結婚して退職したが今回出席していて現在、下野市の市議会議員をしているとか驚きである。
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それにしてもこんなにワクワクして楽しかったことは最近無かった気がした。2次会にも参加しもう一泊。新幹線から残雪残る富士山を観ながら無事帰宅。
この歳になると何時どうなるか分からない。チャンスがあるときには出来るだけ出かけるのが良いのかも知れない。

2019年04月07日

映画「バジュランギおじさんと、小さな迷子」を観て

 先日「バジュランギおじさんと、小さな迷子」を尾道シネマで観た。と言うのもその数日前に家内がその映画を観て、いたく感動し「是非お父さんも観た方が良い、私もう一度観る」というので一緒に出かけた。いつもにくらべ多くの観客がいたのに驚く。
 パンフレットによれば2015年、1本の映画が世界を笑いと感動に包み込んだ。バカ正直でお人好しなインド人青年と、声を出せないパキスタンからの迷子の少女の二人旅を国や宗教、人間愛についてのメッセージとほっこりした笑いに包んで描き、世界中から人種を越えた熱い支持を受け大ヒットとなり、全世界でも150億円に迫る興収を記録してインド映画の世界興収歴代第3位を継続中とある。
日本では今年の1月18日に全国で封切られ、広島県では尾道シネマでしか現在公開されていない。
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ストーリーはパンフレットに依ると
『パキスタンの小さな村に住む女の子シャヒーダー。幼い頃から声が出せない彼女を心配したお母さんと一緒に、インドのイスラム寺院に願掛けに行くが、帰り道で一人インドに取り残されてしまう。そんなシャヒーダーが出会ったのは、ヒンドゥー教のハヌマーン神の熱烈な信者のパワンだった。これも、ハヌマーンの思し召しと、母親とはぐれたシャヒーダーを預かることにしたパワンだったが、ある日、彼女がパキスタンのイスラム教徒と分かって驚愕する。歴史、宗教、経済など様々な面で激しく対立するインドとパキスタン。それでもパスポートもビザもなしに、国境を越えてシャヒーダーを家に送り届けることを決意した二人の旅が始まった。果たしてパワンは無事にシャヒーダーを母親の元へ送り届けることが出来るのか!?』とある。
更に『底抜け正直者のインド青年パワン(愛称バジュランギおじさん)と声を亡くしたパキスタンの迷子シャヒーダー((パワンはムンニ(お嬢ちゃん))と名付け、笑いと冒険に満ちた700キロの旅が教えてくれる何よりも大切なことそれは、きっと、あなたの心にも温か感動を届けてくれると書いてあった』がその通りで有った。いくつかミュージカルの場面、格闘シーン、スパイ容疑でパキスタン警察に捕まったパワンへの拷問シーンなど盛りだくさん159分間の長い映画であるが飽きるようなことはない。それなりに面白く描かれていて温かい感動を味わうことが出来た。
 ところでインドもパキスタンも元はイギリス領インド帝国であったが第2次世界大戦後インド独立の父と言われるガンジーやチャンドラ・ボース等により独立を勝ち取る。その時ヒンズー教徒の多いインドとイスラム教徒の多いパキスタンに分かれた。
 私が広大工学部在学中、西パキスタンから来た船舶工学科のダラ・カビール君とはドイツ語の授業が同じで、その時イスラム教やパキスタンのことを知った。
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 その頃はインドを挟んで東パキスタンと西パキスタンがあったが1971年に第3次印・パ戦争を経て東パキスタンはバングラデシュとして独立している。昔からカシミール地方の領有権を巡りお互いの国が小競り合いをしている、ついこの2月にもお互いの戦闘機が空中戦をしてインドの戦闘機が撃墜されパイロットが捕虜となったが、パキスタン側が捕虜を釈放するニュースが入ってきたばかりである。
その様な複雑な関係にある中でのこの映画を観ると、人間愛から来る信念こそが宗教の対立、国の対立を越えるものだと感じられ、何度か目頭が熱くなる。
最後のシーンで、声のでなかった女の子が「おじさん」と初めて声を出し大声で叫ぶシーンは感動である。

2019年03月23日

畑の草取り悪戦苦闘

 昨年秋口に、少しばかり「おでん用大根」、「ニンニク」、「たか菜」を植えた。オクラやトマト、キュウリ、茄子等の夏もの野菜を収穫した後、畑の7割程度はそのまま放置しておいた。
 おでん大根は途中、間引きをして最終的に36本ほどを育て11月終わり頃から少しずつ収穫をした。今年は暖冬であったせいか1月終わり頃から大根の生長が著しくなり2月中頃には今まで見たことのないような大きさになる。そもそもおでん大根は長さが短いのが特徴である。
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 写真に示したおでん大根は長さ44センチ、胴回り42.5センチ、重さ4.2キロもありびっくりした。最後の7〜8本はほぼこの大きさ長さであった。この様に大きくなっても味が良く、夫婦二人で1本食べ切るのに一週間程度かかる。毎年おでん大根を植えているのだが、今迄3月に花の芽が出るまで置いてもこんなに大きくなったことがない。昨年春に肥料をしこたま入れて土を肥沃化したことによるのかもしれない。ニンニクも順調に育っているようで、6月頃には収穫できそうである。
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 まだ今年は何を植えるか決めていないがそろそろ農作業の準備をしなくてはと思い、まず11月以降運転していなかった井戸ポンプが動くかどうか動作確認をした。と言うのも昨年は冬が寒くて井戸ポンプの中の水が凍って破裂し廃棄せざるを得なかった。
今回は冬になる前に発泡スチロールでカバーを造って対策をしていた事と、暖冬だったので井戸ポンプは壊れないでスイッチを入れたとたんものの見事に一発稼働した。ほっとする。
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 毎年ある程度、畑の草をあらかじめ取ってから耕運機で掘り起こすことにしている。そうでないとあっという間に畑が草ぼうぼうになる。ところで最近雨の日が多く、なかなか休日が晴れない。それでも合間を縫いながら少し草取り始めたところ抜いた草の根にびっしり土がついてきて、少々ほろっても土が離れない。このまま草を捨てたのではせっかく肥沃にした土もかなり捨てることになる。夏場なら数日で草も枯れ泥も落ちるが、今年のように雨が多く、土が付いていると何日経っても抜いた草が枯れない。
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 そこで根の方を上にして置いて枯れやすいようにしてみたりしたがやはりなかなか枯れない。とうとう業を煮やして抜いた草を洗って土を落とし、ビニールシートの上に置いて少し枯れたところでゴミとして処理してもらうことにした。本当に手間がかかり悪戦苦闘しながらの草取りである。
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昼休憩も返上で作業着に着替えてやったりするが、している最中に小雨がぱらついたりしてがっかり。それでも時折聞こえるウグイスの声に春を感じたりしたが、本日やっと草取りが終了である。今度の日曜日には肥料を撒いて耕運機をかけよう。
 

2019年03月15日

由紀さおり文化講演会に参加して

 先日、しまなみ信金経営者協議会主催の文化講演会に三原市芸術文化センターポポロに出かけた。今回は歌手で女優の由紀さおり氏が「美しい日本語の歌を伝えたい」と題して講演された。1000人ほどの聴衆が来ており会場はほぼ満席であった。私は文化講演会とか言うものにほとんど参加したことがない。講演会と言えばおおかた歯科関係のものばかりである。
 彼女の話はとても面白く引き込まれていった。最初は彼女のデビュー曲「夜明けのスキャット」にまつわる話であったが、日本の歌は明治時代にまず西洋の曲に日本語の歌詞を付けるところから始まったこと、その後、学校教育のために唱歌が作られていったことなど歌の歴史を知った。
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 講演が進につれてアカペラで歌ってくれたりした。例えば滝廉太郎の「花」の場合は「春のうららの墨田川・・・」の川(がわ)は濁音でなく鼻濁音で歌うと音が柔らかくなるのだと話しながら濁音の場合と鼻濁音の場合を比較して歌われた。確かにその通りだと知った。
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 また「あめ あめ ふれふれ かあさんが じゃのめで お迎え 嬉しいな ピッチピッチ チャップチャップ ラン ラン ラン」の歌詞で有名な北原白秋の「あめふり」の場合、私は1番程度しか歌ったことはないが、
3番は「あら あら あのこは ずぶぬれだ やなぎの ねかたで 泣いている・・・・」
4番「かあさん ぼくのを 貸しましょうか きみ きみ この傘 さし給え・・・・」
5番「ぼくなら いいんだ かあさんの 大きな じゃのめに 入ってく ピッチピッチ チャップチャップ ラン ラン ラン」
歌詞の3番、4番、5番には日本人の優しさが込められている特に4番と5番の間には傘を持っている男の子とびしょ濡れになっている子の間にどのような会話があったのだろうか、想像して見て下さいと言うお話もあった。
彼女が歌うのを聴きながら、そういえば小学生の時何度か母親が傘を持ってきてくれたことを思い出した。もちろん蛇の目ではなかったが。
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 西条八十の「カナリヤ」も日本人の優しさ、いたわる心がにじみ出していると話された。しかし彼女の歌を聴きながらこの歌詞のある意味怖さを感じた。
1、歌を忘れたカナリヤは 後ろの山に捨てましょうか。
  いえいえ、それはかわいそう
2、歌を忘れたカナリヤは 背戸の小籔に埋めましょうか
  いえいえ、それはなりませぬ
3、歌を忘れたカナリヤは 柳の鞭でぶちましょうか
  いえいえ それはかわいそう
4、歌を忘れたカナリヤは 象牙の船に銀のかい
月夜の海に浮かべれば、忘れた歌を思い出す
1番は「後ろの山に捨てる」、2番は「背戸の小籔に埋める」、3番は「柳の鞭でぶつ」。
これって虐めそのものでは無いのか? 千葉県野田市で両親に虐められて亡くなった小学生4年生のことが頭をよぎった。両親に「かわいそう」とか、「なりませぬ」とかいう気持ちがあれば事件は起こらなかったのでは無いだろうか?
 サトウハチロー作詞の「小さい秋みつけた」を彼女が歌った後、会場のみんなに「この歌を聴いてあなたはどんな秋を見つけられますか」という問が投げかけられた。色々考えているときにふと古今和歌集の「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」と言う歌が思い出され、何時でも自分の周りには色々の事象があるのに、忙しさにかまけて見過ごしている自分に気付かされた。
 それにしても童謡とか唱歌の旋律の美しさに改めて驚くと共に、また歌詞が本当に素晴らしい日本語で、優しく情操豊かで心の中に染み渡る感じがする。
今の子供たちがどの程度童謡や唱歌を歌っているのか知らないが是非とも歌って欲しいと思った。
 70歳になっている彼女が1時間半ハイヒールで立ちっぱなしで講演する姿にも感動した。
最後に全員で故郷(うさぎ追いしかの山・・・)を歌って散会となった。
本当に良い時間を持ててよかった。

2019年02月17日

堺屋太一氏の悲報に接して

 去る2月8日堺屋太一氏が亡くなられたと10日にTVでテロップが流れ、一瞬びっくりした。その後各局のニュース番組で取り上げられ彼の功績が報道されていた。
私にとって彼は特別の人である。私が現在歯科医をしているのもある意味彼のお陰である。
 新聞記事は日本経済新聞2月12日付け朝刊より
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 確か昭和53年1月3日の日本経済新聞の記事かコラム欄に書かれた記事の内容を今でもはっきり覚えている。その記事には当時私が勤務していた日立製作所を引き合いにして書かれていた。会社は大学卒を毎年1300名程度採用していたが、いわゆる堺屋太一氏が名付ける「団塊の世代」が入社するようになって急に大学卒が増えたので将来、課長とか部長と言ったポストがなくなると言うことが書かれていた。私は団塊世代の一番先頭で有り入社7年目であった。まさに私のことを言っているのだと思った。
「そうか将来課長にもなれないのか」とがっくりきたことを覚えている。その後、連日の会議や何やらで、ひどい風邪を引いた。3日間有給休暇を取ったが「休みます」という連絡を家内から上司にしてもらった。「1日目はああそうですかお大事に」だったが、3日目は「えっ、まだやすむの?」と言ったニュアンスで返答されたとのことで有った。
 今でこそ長時間労働・残業手当なしの企業をブラック企業と呼ぶが、当時工場で働く現場の工員は直接部門で大学卒等は間接部門に区別され、間接部門の人については1ヶ月の残業時間が決められており一人10時間程度であった。その為、与えられた残業時間を消費してしまうと後はいわゆるサービス残業である。しかし当時それは当たり前と思っていたし、その分ボーナスなどに反映されるのだと思っていた。
 しかし此の風邪を引いて休んでいる間に「このままで良いのか」自問自答を繰り返した。
昭和54年から大学入試がセンター試験になると報道されていた。会社を辞めて1年間びっちり勉強して医学部を受けようと思ったが、知り合いの歯科医の先生が私がすでに30歳を越えており、よしんば合格して6年間勉強しても卒後研修医をしていたら開業も遅くなる。歯科医師の方が良いといわれた。
それで歯科医を目指すこととして出身大学の広島大学歯学部に学士入学の制度があるかどうか尋ねたがそのようなものはなく1年生から学ぶようにと言われた。今ならどこの大学にもある制度で、第3学年に編入できるのだが当時はなく、センター試験を受ける覚悟で辞表を提出、2月の終わりだった。たまたま東日本学園大学(現北海道医療大学)が歯学部を設立し今まさに生徒募集をしていると歯科医師の先生から連絡を受け、私立でも受かって免許を取れば同じだし、来年合格できるかどうか分からない。君の年齢を考えればチャンスが多い方が良いとアドバイスしていただき受験。無事合格できて今の私がある。
 ほんとにあの記事出会えなかったら私の人生は全く違ったものになっていただろう。堺屋太一様々である。有り難うございました。
ご冥福をお祈りいたします。

2019年02月14日

脅迫・詐欺メール

 昨年12月に英文で書かれたメールが届く。最初にこれはあなたのパスワードの一つであると書いてあった。確かに何かに使ったことのあるパスワードであるが何のパスワードだったか全く覚えていない。ずいぶん昔に使用したパスワードである。
 近頃何をするにしてもパスワードが必要で有り、しかもパスワードの使い回しは良くないと聞いているので最近はメモを取るようにしているが今回のパスワードについては使用したことは有るが何のパスワードであったか記憶が定かで無い。それでびっくりして英文を読む。
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 内容をかいつまんで書くと、私はあなたを調べる様に強要されたわけではない。あなたは私を知らないし、何故あなたがこの様なメールを受け取ったのか大いに不思議に思っているでしょう。
私はポルノ動画サイトにマルウエアー(ウイルス)を仕込んだ。あなたがその動画サイトに入ってビデオを楽しんだことを知っている。こちらはあなたが動画を楽しんでいる間にキーロガー機能によりあなたのデイスプレーとウェブカメラ、メッセンジャー、フェイスブック、電子メールのアカウント情報を収集した。私はあなたが観ていた動画とあなたが動画を楽しんでいる様子を記録し、それを組み合わせた動画を作成した。
そこであなたには2つの選択肢がある。
一つはこのメールを全く無視すること。その場合は、私が作成した動画をフェイスブック、メッセンジャー、メール友達等に全て送信し公開する。
もう一つのオプションは米ドルで899ドルを私に支払う事。その際ビットコインで振り込む事。ビットコインが分からなければGoogleでビットコインの入手方法を探しなさい。
BTC(ビットコイン)送金先 ****************
 あなたが警察に通報してもこのメールから私にたどり着くことは出来ない。私はこのメールに特殊な仕掛けをしており、あなたがこのメールを読んだことを知っている。48時間以内に実行しないと動画をあなたの関係する連絡先全てに送信する。お金を受け取れば動画を消去すると書いてあった。

 勿論私はアダルトサイトなどに行ったことはなく身に覚えがないので無視した。
十日ほど経って第2弾が送信されてきた。若干読みやすくなった英文であったが、文面はほぼ同じで金額の要求が米ドルで998ドルになっていた。勿論ビットコインである。それも無視していたら1月になってまたほぼ同じ内容の3弾目が送られてきた。今度は米ドルで7000ドルを要求してきた。
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 私もこのパスワードが何だったか色々調べてやっとたどり着いた。何とGoogleのパスワードであった。すぐさまパスワードの変更を行う。
そういえば何年か前にGoogleのアカウントが大量に流出したといったニュースがあった。どうやらその時、私のアカウントも流出したのであろう。それを多分外国人と思われる人達が悪用してメッセージを送り届けて来たのであろう。
その後は何もメールが来ない。ポルノサイトを閲覧していたら真っ青になり詐欺に引っかかったかも知れない。メールやネットは怖いな。

2019年02月03日

健康寿命

 日本人の健康寿命をネットで検索すると2016年は男性72.14歳、女性74.79歳で、 前回調査の2013年の調査から男性は0.95歳、女性は0.58歳、それぞれ延びた。私はまもなく72歳となり健康寿命に達する。そのせいか先日、左目の白内障の手術をした。右目はすでに1年ほど前に済ましている。70歳までは手術や入院などしたことがなかったが、この手術一つをとっても老化が忍び寄って来ていると考えざるを得ないし、まさに健康寿命に近づいていると感じた。
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 一方平均寿命という言葉があるが私が生まれた1947年(昭和22年)の平均寿命は男50.06歳、女53.96歳であった。2017年の日本人の平均寿命は男性が81.09歳で女性が87.26歳いずれも過去最高を更新したとのこと。この平均寿命と健康寿命の差が介護などが必要となる期間とされている。この差を縮める事が「ぴんぴんころり」となる。
 ところで最近人生100年時代と言われ政府は働き方改革などの議論において定年を伸ばし年金の受給年齢を引き上げるなどの議論を開始している。
現在なら65歳で定年となった後、男の場合16年分の生活費でよいが、人生100年となれば定年後35年間生きていく必要があり経済面でも大変なことになる。この事を踏まえて政府が有識者会議を開いて検討を始めたことも納得できる。
 先日新聞記事で寿命100年は大いに達成することが出来るがその時の死因の1番は自殺と書いてある記事を読んでどきっとする。
 そんな矢先、呉市出身で東京で暮らす信友直子氏が監督・撮影・語りをしているドキュメンタリー映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」を観た。
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この映画は呉市に住む両親、認知症を発症した母87歳と耳が遠く95歳で初めて家事をする父と離れて暮らす一人娘の直子氏が東京と呉市を行き来して両親を泣きながら撮った1200日の記録映画である。
映画の最初の頃の画像は両親とも元気で生活している場面だったが映画が進むにつれて母親が認知症を煩い父親が老老介護をしていく場面になっていった。老老介護も限界となってきて娘の直子氏のすすめで介護保険を利用していくが、母親はヘルパーさんを拒否したり、自分が分からなくなって「死にたい」としばしば口走るようになっていく様が映し出されていた。
 正に新聞記事に書かれた様に自殺が死因の1番になるのが当たり前になるのではないかと思った。
家内と一緒に観たが、私達夫婦のこれからを見ている気がし、今から将来に向けて生活スタイルを考えていく必要を感じた。

2019年01月22日

ベトナム旅行 PART X

 朝6時にホテルを出発しダナン国際空港に行く。前回と同じようにガイドさんと別れて自分たちで手続きを行う。手続きのため順番に並んでいると中国人の女性が列に割り込んで来たので「NO」と言うと何かしら大声で文句を言っていたが渋々列の後ろに並んだ。少しでも列に隙間があれば割り込んでくるのを今迄で何度も経験したことがある。
 無事ホーチミン市につく。ここで3人目のガイドさんに迎えられる。さすが南に来たせいか気温は28度を超えて汗が出てくる。市内観光でまず向かったのは統一会堂。この建物はあまりにも歴史的に有名な建物である。
 ベトナム共和国(南ベトナム)の大統領府で1975年4月30にサイゴン市内に突入した北ベトナム軍の戦車2台がこの建物のフェンスを破り突入、ここに南ベトナムの首都サイゴンは陥落した。この時の映像は中継されていて見た記憶がある。正に1つの国が消滅する瞬間で多くのアメリカ人やベトナムの高官・家族などが米軍のヘリコプターで脱出していく様が放映されていた。
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 現在この建物は統一会堂と名を改め、庭には当時突入した北ベトナムのソ連製戦車T-54が展示されている。中には入らないでフェンス越しから見るだけの観光であった。
 次に歩いてサイゴン大教会に行く。途中何度か道路を横断するのだがバイクの数や車が多く、手を挙げてゆっくり横断した。さもないと相手はスピードを緩めないため事故になるとガイドの説明である。現在この教会は修復中でここも中に入らず外から見ただけである。
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その横にクリームイエローのサイゴン中央郵便局があり、フランス統治下に建てられた郵便局で365日休日無しでオープンしている。入ると正面の壁にホーチミンの肖像画が掛けてあり土産屋さんもあった。なお郵便ポストは黄色であった。
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昼食後ドンコイ通りの雑貨屋さんに入って見る。1時間の自由時間でスーパにも行ってみる。その後ガイドさんが観光予定にはなかった福音寺に急遽案内してくれる。この寺の池にナマズが飼われていたが「白なまず」がいるのに驚いた。寺の中を見て歩き、そこに般若心経が掲示されているのに驚いた。
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夕食まで3時間以上の自由時間となった。集合場所はシェラトンホテルのロビーとなる。どこを観光したら良いのか判らず思い切ってガイドさんにマッサージを紹介してもらう。シェラトンホテルの直ぐ近くにあり、日本語を話す従業員もいて安心だった。日本語のパンフレットも有りグループの多くの人達と行く。 家内と私はタイ式マッサージを選ぶ。ホットストーンマッサージをされる方もいた。タイ式は90分で米ドル40ドルであり都会だけあって少し高い。
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終了後、シェラトンホテルのロビーに行くが集合時間まで1時間以上あったのでホテルの近くを歩いてみる。マッサージのお陰で足取りは軽かった。
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サイゴン・オペラハウス、ホーチミン市人民委員会庁舎を見た。途中JICA
の事業として清水建設と前田建設がホーチミン市地下鉄工事を行っていた
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 シェラトンホテルのロビーに戻ったが、ロビーは広々としてとても綺麗で外国人のみが利用している様である。全員と合流し夕食会場へ。
 最後の食事はベトナム風フレンチであった。品数が少なくがっかり。サラダ、カボチャスープ、ポークステーキとデザートでイタリア旅行の時の3プレートを思い出した。
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 食後ホーチミン国際空港に行くが搭乗口集合が23:30で3時間ほどあった。他の人達は免税店など見て回られたが私と家内は15番ゲートでずっと待っていた。23時頃ベトナム航空のアテンダンドが来たがゲートにいる係員となにやら話していたが全員が引き上げるのを目撃した。あれ何と思い急いで私も係員の所に行きチケットを見せると搭乗口が変更になったという、電光掲示板を見ると18番ゲートになっている。何人か近くにいたグループの人に知らせ18番に移動する。そこでまた電光掲示板を見ると今度は22番ゲートと表示されている。さらに22番ゲートで待っていると再度変更となり、12番ゲートと表示されしかも出発時間が1時間40分延びて2時(日本時間午前4時)だという。さまよえる乗客という感あり。文句を言う気力も無くひたすら待ち、結局1時間30分遅れで出発となる。何と朝から21時間30分も起きていたことになる。
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 関西空港までほとんど寝れなくて、空の上から平成30年最後の日の出を見て無事関空着陸。「はるか」・「こだま」と乗り継いで我家に12月31日12:40頃帰り着く。結局32時間ほど寝てないこととなりしかもハプニング続きで大いにくたびれた。でもベトナムにはまた行ってみたい。

2019年01月06日

ベトナム旅行PART W

 起床時から雨、それもかなり強くなったりしている。朝食後バスにて古代チャンパ王国の聖なる遺跡ミーソンに行く。ここは1999年に世界遺産に登録されている。途中ガイドさんからホイアンは昔港町で、徳川幕府が鎖国政策を取るまでは千人以上の日本人が住んで日本人町を造っていたが外国貿易禁止令に従ってほとんどの日本人が帰国したとのこと。ミーソンへ向かう途中の田んぼの中に谷弥次カ兵衛と言う人の墓があり、彼は日本に帰国する際ホイアンの彼女に会うためこの地を訪れたとき倒れ帰国出来なくなりこの地に骨を埋めたとガイドさんが説明してくれた。日本とベトナムの繋がりの深さを知った。
 ミーソン遺跡に到着。結構雨が激しく入り口から遺跡まで徒歩、電気自動車で行くが靴の中まで水が浸みてきた感あり。
 ガイドさんの説明によるとベトナム戦争当時この地域にはベトコンの兵士が多数潜んでいたことから、アメリカ軍B-52の爆撃を受けて遺跡の3分の2が破壊されたとのこと。現に爆弾の破裂した穴が保存されているし、米軍の爆弾2個も発掘されて展示されていた。
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 遺跡そのものはアンコールワットの遺跡にかなり似ている感じがした。建物はレンガ造りであるがレンガとレンガの間にはセメントなどの接着材が使われていないとのこと。時間の関係でほんの一部しか見ることが出来なかったのが残念である。

 その後、休憩所のような所に戻り横のステージでチャムダンスショーを見学した。男性が縦笛を息継ぎなしで長時間演奏するのには会場から大きな拍手が上がった。
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 バスにてホイアンに戻り旧市街を散策、ここも治安が悪いのでショルダーバックは前に持ってきて行動するように注意を受ける。
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福建会館を見学した。ここは元々中国福建省から来た商人達が17世紀に建てた中国人の集会場で中に天后聖母が祀られている。
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その後日本橋(別名来遠橋・・・論語の「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」から名付けられたという説有り)を見た。1593年に建てられ、日本人町と中華街とを結ぶ橋だと言われているが、確固たる証拠はないとのこと。屋根付きの石橋で現在ベトナム2万ドン紙幣の絵柄になっている。写真では右手が中華街、左手が日本人町と言われている。
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昼食後絹織物製造所とランタン製作所を見た。絹織物製作所では実際に蚕が桑の葉を食べて成長し繭を作りそれを湯煎して絹糸を製糸する様子を見た。その後夕方まで自由行動となる。
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通りの一角で結婚式の前撮りをしているカップルに遭遇、写真に納めたりかって、日本人町があったとされる地区に長崎市から送られた山車の朱印船が飾られていた。
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夕食後ナイトマーケットを見に行く。カエルの串焼きを売っていた。正に飛び出した格好をしていた。
 明日は6時出発のため8時前にホテルに帰ってきたところ、上の階で大音響のカラオケ大会をしている。聴けばベトナムの人達の忘年会とのこと、9時までは我慢しようかと思っていたが、同じツアーの方達がホテルに文句を言って部屋替えをしてもらった。思わぬハプニングであった。明日はいよいよ最後ホーチミン市(旧サイゴン)の観光である。
続きはPART Xへ

2019年01月05日

ベトナム旅行 PART V

 朝4時半起床し、ロビーに5時集合、直ぐにバスで空港に向かう。朝が早すぎてホテルの朝食が間に合わずバスの中でパンとモンキーバナナとヨーグルトの朝食を食べる。ガイドさんが搭乗カウンターまで案内してくれわかれる。そこから先は我々だけでチケット発行、スーツケースの預け入れをした。さらに外国人の我々はパスポートチェックを受け、手荷物検査場では靴まで脱いでチェックを受けた。その後搭乗して予定通りベトナム中部のフエに10時頃到着。
 新しいガイドさんが空港に迎えに来てくれており、今度のバスは新しく立派である。すぐにフエ市内の観光が始まる。まず世界遺産のフエ王宮に行く。
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ここはベトナム王朝最後の王都として栄えたところだがベトナム戦争の時アメリカの空爆などで王宮の多くの建物が焼失し一部修復中の建物もあったが、壁などは今も黒くすすけたままである。ベトナム戦争はベトナムの南北戦争で当時の世界情勢から起こるべくして起きた感があるが、フエが丁度南北境界線に近く戦闘は激しかったと想像できる。
 その後、輪タク(シクロ)に乗って昼食の為レストランにむかう。乗り心地はまあまあである。宮廷料理と称されるものを食べる。本当の宮廷料理なら50〜100品ぐらい有るのだが我々は10品目を食べた。料理と言うよりも人参や色々のもので飾りを造りお皿に盛られて綺麗であった。もちろん飾りは食べてはいけないのだとか。
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昼食後はティエンムー寺に行く。フエで一番古いお寺で1601年創建の七層八角の塔が有り、ベトナム戦争当時、政府に抗議するためサイゴンに行き焼身自殺をした住職の車が展示されていた。この焼身自殺の話はニュースで聞いた記憶がある。寺の周りには土産物店などがあった。
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その後バスにて12代皇帝が眠るカイディン廟に行く。1920〜1931年の12年間を掛けて建設され精巧な建造物に壮麗な装飾がなされさすが王廟である。様式は中国を模していると思われた。
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その後バスにてダナン経由で宿泊するホテルのあるホイヤンに移動する。ここはランタンで有名で街のここ彼処にランタンが飾られている。夕食は海岸べりのレストランでホイアン料理を食べリゾートホテルにチェックイン。このホテルは2連泊である。
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 ところでホテルのトイレに入ったところトイレットペーパーは便器に流さない様に書いてあり驚く。家内に聞くと海外では良くあることだという。今迄私は気付かないで流してきた。その後気を付けて色々の所の便所を覗くとそのようで有る。ホーチミン国際空港のトイレでさえもその様になっていた。良い勉強をしたと同時に何と日本は素晴らしいと改めて思った。
またマッサージをしに行く。今度は1人25米ドルであった。
続きはPART Wへ

2019年01月04日

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