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大先生(元院長)のブログ

私のトイレットペーパー今昔

 私は昭和22年生まれの72歳である。昔「明治は遠くになりにける」と言う言葉を良く聞いたが、令和の時代が始まり今や「昭和は遠くなりにける」と感傷に浸ることが有る。
 先日、職場のトイレ掃除をしていたときのことである。トイレットペーパーを整えていたとき急に昔のことが思い出された。小学生の頃、我家のトイレにはA4サイズに切断された新聞紙が積まれており、大便をした後、その新聞紙を揉んでお尻を拭いていた。
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 当時水洗便所は尾道にはおそらく一軒もなく全戸いわゆる和式のくみ取り式便所で近くの農家の人がくみ取りに来ていた。農家の人は肥担桶を荷車に載せ自分の畑にある肥溜め(野壺)にもって行って投入し堆肥(下肥)にしていた。学校の行き帰りその横を通ると肥溜めの中には多くの新聞紙が見られたことから恐らく多くの家庭で新聞紙を使っていたものと思われる。畑に下肥をまいた後、新聞紙が畑の土の上に載っかっているのが当たり前の風景であった。そのころ私は新聞紙を4つ折りにして包丁で裂いてトイレットペーパー通称便所紙を作るお手伝いをしていた。その後化学肥料が出回るようになり農家の人のくみ取りもなくなり、くみ取り業者がくみ取ってくれた。
 何時かはっきりしないが中学生の頃には一束かなりの枚数の市販の便所紙(落とし紙と呼んでいた)を購入するようになった。その頃の便所紙はおそらく古紙を利用した再生紙で、漂白はされておらず黒ずんだ灰色の紙であったが新聞紙にくらべれば随分とお尻には優しかった記憶がある。その後大学生になった昭和40年頃から現在のロール状トイレットペーパーを見かけるようになった。しかしそれは今のものにくらべれば硬い紙質であった記憶がある。下宿では依然として落とし紙であった。会社に入社した頃は完全にロール状のトイレットペーパーになっていた。
昭和48年結婚した年に起きたオイルショックでは全国的にトイレットペーパーがなくなり、それを確保するのに家内と四苦八苦して手に入れた記憶がある。
 それにしても今のトイレットペーパーはエンボス加工がしてあり、ものによっては二重のものもある。12個入りのビニールの袋には「高密度エンボスでふんわり感アップとかフレッシュパルプ100%」などの宣伝文句が書いてある。新聞紙を使っていた私から見れば今のトイレットペーパーはこの上ない最上級の宝物のように思える。また現在の子供たちに新聞紙でお尻を拭けと言うと泣き出す子供たちが多いのではないだろうか。
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 ところでさいだ歯科医院は開業して33年を経過するが、開業時はくみ取り式のトイレで有った。というのも市の中心部から10キロほど入った田舎では公共の下水道は来ておらず、浄化槽を自分で設置すると大幅に建設費がかかることからやめていたが、平成18年に1000万円近くの投資をして浄化槽を設置し、水洗トイレにした。
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 このブログを書きながら尾道市の下水道普及率が気になり市のホームページで調べてみた。1部抜粋して転載してみると『人口減少や財政縮小等の社会情勢を踏まえ、旧尾道市域内の全体計画について見直しを行いました。尾道市公共下水道事業は、昭和57年(1982年)に着手し、整備を進めていますが、「市街地の道路が狭い」、「車の入らない斜面地等地形条件が厳しい地域が多い」等の理由から、平成27年度(2015年度)末の公共下水道普及率は11.9%と、国及び広島県の公共下水道普及率(国:77.8%、広島県:72.8%)と比べ非常に低い水準にあります。今後も、地形的な面などから事業進捗に大きな改善は見込めず、実質的に200年以上の整備期間を必要とする尾道市公共下水道全体計画については、現実的でないとして、見直しが必要となっていました。』とある。
なお「さいだ歯科医院」がある地区には公共下水道が整備される計画はなく各家庭が浄化槽を整備して対応するように迫られている。
トイレットペーパーの今昔からも戦後の貧しい時代から日本が如何に経済発展をしてきたのかに想いを馳せると本当に良い時代になったと思う。

2019年05月16日

令和元年5月1日

 令和元年がいよいよスタートした。元年最初の日、この日の為に前もって新しく購入した国旗をベランダに掲揚し、新時代の始まりと心新たにした。沖縄から長男一家が帰省していたので次男一家共々家族全員で私の家と、家内の家との墓参りに出かけた。令和元年初日にご先祖様に全員が挨拶できたことは意義深く大いに良かった。
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 ところで墓所に向かう途中ほぼ全部の家で国旗の掲揚がないことに驚いた。私が小さい頃は旗日(祝日)にはほとんどの家に国旗が掲揚されていた記憶があるが、最近お正月以外で国旗を見ることが非常にまれである。しかし即位の日にここまでとは思わなかった。もっとも、今までは先帝が御崩御されて国民が悲しみに包まれ、歌舞音曲も控える中で次の天皇陛下が直ちに御即位されるプロセスだったので、国旗を掲げるなんて事は思いもよらず、むしろ半旗が掲げられてきたのかもしれない。
 しかし今回は1年ほど前から、4月30日平成天皇が御退位され5月1日に新帝が即位されることは決定していた。また年号は「令和」と1ヶ月前に決まっていて、TVニュースなどではカウントダウンまでしながらまさにお祭り騒ぎで「令和」を迎えていた。
しかし国旗を掲揚すると言う考えには至らなかったのかと思い、尾道の街を少し散歩しながら国旗掲揚の様子を観察してみた。
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消防署、駅前交番、テアトルセルネには国旗が有ったが尾道駅にはない。まず海岸通りを歩いてみたが市役所までの間、数軒のお店に国旗掲揚があった。それから商店街に向かったが途中お食事処のお店屋さんに小さな国旗と令和と書いてある足下灯があった。商店街の尾道通りと絵の街通りにはアーケイドの両脇の柱に国旗が掲げてありほっとしたが、センター街、中商店街、一番街までは東洋堂1軒除いて国旗は1本も掲げられておらずとても寂しい感じがした。尾道本通り連合会として足並みがそろわなかったのであろう。ちなみに銀行では愛媛銀行が国旗を掲揚していたのみである。
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 一番驚いたのは自由民主党の広島県第6選挙区支部に明かりはついていたが国旗掲揚がない。小島敏文衆議院議員の事務所なら国旗掲揚が当たり前と思っていたのだが。非常に残念である。
 日本国憲法第1条によれば「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。そうであるならば保守の自民党に限らず、憲法改正反対を唱えるいわゆる護憲派の政党や人々も、即位されたことは日本国の一大事であり、憲法を守ろうとするならば当然お祝いをして国旗を掲げることが良いのではないだろうか。果たして国旗は掲揚されたのであろうか?
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結局歩いて観察した範囲では普通の民家で国旗を出していたのは2軒だけだった。寂しい限りである。
それと郵便局横の「工房おのみち帆布」の前で、「令和」と書かれた額がおいてあった。そばにいた女性の説明によると菅官房長官がTVで発表したときの書体のコピーだという。手で触っても良いとの事であったので額を持って1枚記念撮影をした。また尾道駅で入場券を購入したが日付はR1.5.1.ではなく2019.-5.-1 であり「令和」のRの字はなかった。
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 2時間ほどの歩きの中で走行する車や駐車場に止めてある車のナンバープレートを観たら中国5県はもちろん、九州・四国全県、神戸、和泉、堺、金沢、奈良、名古屋、浜松、富士山、八王子、大宮、習志野、遠く山形など53種類のナンバープレートを数えることが出来た。尾道がいかに観光都市として人気があるのか改めて知り驚いた。
「令和」が良い時代であることを祈るばかりである。

2019年05月03日

花桃

 尾道では桜土手の桜もほぼ散って桜の時期は終わりになったが昨日、三次・庄原を経て帝釈峡を抜けて東城まで足を伸ばした。
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こちらはまだ寒いせいか桜が満開を少し過ぎたところで至る所綺麗であった。山の色も尾道とは全く違ってまだ春浅く新緑の緑がなく茶色の様な色という感じで有った。また2カ所で鯉のぼりを見たが昔のように至るところで鯉のぼりが上がっている状況ではなく、少子高齢化が如実に表れているのではないだろうか。
帝釈峡から東城に向かう途中道ばたや農家の庭先に花桃が咲き乱れていた。赤やピンク、白など本当に綺麗であった。
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 ところで「さいだ歯科医院」の駐車場にも花桃が植えてある。この花桃は一つの木に赤、白、ピンク、白の花びらに赤の入ったものと色々の種類の花が咲き目を楽しませてくれる。
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花の付き方からして東側の枝が赤で西の枝が白であり、どうやら買った苗が接ぎ木をしてあったようでこの様な花が咲く様になったのであろう。
来院される患者様も不思議がってスマホで写真を撮られる方もいらっしゃる。
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 その他「さいだ歯科医院」に有る桜は吉野桜であり花桃とほぼ同時に咲き始めて桜と花桃のコラボも綺麗であった。今日現在、花桃の花は少し枯れかけているがその横で姫リンゴの花が咲き始めた。この姫リンゴ秋には直径5センチ程度の実を付け、食べるとそこそこ美味しいのである。もう少しすればキンカンの花も咲きそうであり、この季節が一番心踊らされる。

2019年04月21日

八ヶ月振りの札幌

 先日、同窓会理事会が有り8ヶ月ぶりに札幌に出かけた。眼下に雪をかぶった白神山地や岩木山を観ながら無事札幌に着いたが気温が16℃でびっくり。
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 夕方から理事会が開催されて、同窓会が取り組んでいる学生支援の状況、財務状況、会計・監査報告等があった。私は財務担当の副会長をしているが、中々会費納入がままならずかなりの歳入不足がある。それでも5年前から学生を準会員と位置づけ会費を完納した終身会員として卒業する様に改革を計り少し財務状況は好転してきている。
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そんな中にあって今回、共済制度の見直しを協議した。と言うのも現在の共済制度は学生の入学定員が120名(現在80名)時代の30年以上前に作った制度である。
 会員死亡時、疾病・傷害による入院、自宅療養時のお見舞金の支払い、他にも会員の診療所あるいは自宅焼失の場合や風水害、地震、等にも支払い事由がある。ここ最近でも3年前の熊本地震、昨年の西日本豪雨災害、苫東厚真地震など災害が多く発生し、同窓会員の中にも被害に遭われる会員が少なからずいて、そのような方への災害見舞金等を共済制度でまかなっているが、今後会員の高齢化や新卒者の減少により共済制度を維持していけるのかについて協議をした。協議をしながらまさに国家の少子高齢化の問題と同じ構図になってきていると思った。
 翌日、15時発のJALにて帰るので少し時間があり札幌市内を歩くことにしてまず北海道大学内を歩く。構内にはまだ残雪があり、さすが北海道と思う。
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 今回はメイン通りを少し外れて歩いてみた。ポプラ並木にも足を運ぶ。入学式が終わったばかりなので、クラブや同好会などの案内立て看板が目につく。

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 北十八条の通りまできてその先を見ると、開拓時代の建物が目に入り何だろうと行ってみたところ、そこは農学部の第二農場で有った。
 今まで観たことがなく興味を持って見学をした。札幌農学校時代の明治10年〜11年にかけて建てられた模範家畜房(モデルバーン)を中心にした牧場の建物群であった。製乳所、穀物庫、牧牛舎など九棟が有った。
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 北大の散策後はいつものお決まりコースで赤レンガの道庁の建物を観て、大通公園を歩いたが、春まだ浅く公園にある噴水はどれも止まったままである。
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 その後時計台に向かう。昨年8月に来たときは改修中で布に描かれた時計台を観たが、今回は改修も終わりきれいになった時計台とご対面である。この日も11時には気温が15℃になっており暖かく、コートを着て歩いていると汗ばんでしまった。見ると若い女の子の中には膝上のスカートや短パン姿で歩いていたのでびっくりした。飛行機は少し遅れたが無事尾道に帰り着く。この日歩いた距離は12.3q、16,392歩であった。

2019年04月17日

水戸市内散策

 前回のブログで書いたように4月4日に日立市大甕の日立研究所でOB会が開催され、前日水戸駅横のホテルに前泊した。翌日OB会は午後2時開催だったので、午前中水戸市内を観て歩いた。昔、日立市や常陸太田市に住んでいたので水戸には度々来ていたが、ほとんど駅北側での買い物程度で、梅で有名な日本三大庭園の一つ偕楽園でさえ3回ほどしか訪れたことがなかった。
ホテルで「水戸おもてなしMAP」をもらいそれを頼りに散策に出かける。
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 まず水戸駅が新たにリニューアルされていて、北口と南口が自由通路で繋がり南口エリアがずいぶん開発されていた。40年前にはほとんど南口に足を伸ばした記憶が無い。南口の「水戸の納豆記念碑」を観て、桜川の土手まで足を伸ばした。
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その後、北口の「水戸黄門、助さん、格さん像」を観ようとしたがデッキ改修工事のため後ろ姿しか見観ることが出来ない。市内には何カ所か水戸黄門の銅像があるということで他を当たることにする。その後水戸光圀公生誕の地にある水戸黄門神社をおとずれた。
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 駅から偕楽園入り口までバスに乗り、表門から入り孟宗竹林を抜け好文亭につく。今迄入館したことはなく、外から建物を見ていただけだったので今回初めて入館する。70歳を超えたので入館料が半額の100円でラッキー。
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 各部屋には立派な襖絵が描かれておりその絵によって「梅の間」、「萩の間」、「紅葉の間」、「桜の間」、「竹の間」等と呼ばれている。また一階の調理室から3階までお膳や酒肴を運搬する滑車式昇降機(手動式エレベーター)が有りびっくり。好文亭から桜咲く千波湖の景観は格別である。その後梅林に出たが残念ながら梅の時期は既に終わっており、約100品種、3000本の梅の花が咲き誇っていれば壮観だろうと想像しながら見晴広場に出る。
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 そこには左近の桜が咲いていた。梅林を抜け、徳川光圀公と徳川斉昭公の二柱を御祭神にしている常磐神社にお参りし、大工町交番まで歩く。
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 交番前には水戸光圀公(水戸黄門)像がありやっとご対面をさせていただく。そこから水戸駅北口に向かって下っていく。途中徳川慶喜公の像を観た。中央郵便局前を左折し三の丸にある水戸藩の藩校弘道館に向かう。弘道館記碑を納めてある八卦堂を過ぎて弘道館に行き着く。ここも70歳以上と言うことで入館料は半額有難い。
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水戸光圀公が編纂を開始し約250年をかけて完成した「大日本史」が展示されていた。15代将軍慶喜公が使用した長持ちが展示されていたがその装飾も素晴らしい。また斉昭公が七郎麻呂(後の慶喜公)を諭しておられる像も有った。
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三の丸小学校横を抜けて水戸駅北口に戻ってきた。4時間ほどの散策であったが色々見て回れて良かった。まだまだ観るところはあるのでチャンスがあれば他も散策してみたい。
またこの日の1日の運動量はiPhoneのヘルスケアデーターによると、歩いた距離16.3km歩いた歩数は21,887歩、上がった階数36階だった。この歳でもそこそこ歩けて自信が持てた。

2019年04月09日

二つのOB会

 いよいよ次の元号が「令和」となったが、平成最後という意味合いも含めてか、先日から立て続けに二つのOB会があった。一つは4月2日に広島で開催された広島大学工学部応用化学科根来研究室のOB会である。当時の教授や助手の先生は既に他界されているが、昭和42年から46年に卒業した者たちが6年振りに集まり旧交を温めた。私は44年卒業だが修士課程に進学していたので、全員と顔見知りである。全員が70歳を超え、それなりの風貌である。遠く千葉、群馬、神奈川、関西地区、宮崎などから参集し懐かしい話に花が咲き、また近況を話したりする。中には卒業以来の後輩もいて楽しい一時を持てた。
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この様な会合に出席出来るのはある意味幸せなことだと思う。まず健康であること、家庭が円満で奥さんの理解があること、さらに遠方の場合、旅費や宿泊費など少し経済的余裕が必要で、三拍子そろっている証かも知れない。
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 もう一つは4月4日に日立製作所、日立研究所、旧第4部の第一回OB会である。48年前に入社して研究所に配属になったが7年で日立を退職した私には少し場違いかなとの思いもあった。しかしお会いしたい上司や同僚がいて思い切って出席を決めた。集合は14時に日立研究所講堂と案内があった。水戸に前泊しほぼ時間通りに集合。最初どうなのだろうと思ったが会場に入ると30人くらいは顔が思い出され名前も直ぐに出てきた。幹事のK氏によると120人に案内を出したが当日46人が参加しているとのこと。まず研究所企画室の責任者から日立製作所の現状と日立研究所の最近の状況紹介があった。残念ながら当時私達が研究していた絶縁材料の様な分野はほとんど淘汰され、いまやIoTやAIに関係したものが最先端として研究されているようであった。説明を受けてもよく理解できなかった。
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 その後展望台にあがる。ここは360度パノラマで見渡せる。目の前に、日立製作所大甕ゴルフ場その向こうに日立港が見える。東日本大震災の時、日立港では並べてあった輸出用の車が多数炎上している様子がTV画面に映し出されていたのを思い出す。今は綺麗に整備されているようだ。そこから南に目をやると東海村の原子力発電所が40数年前の姿で見え、筑波山も視界に入ってきた。なおこの展望台から写真撮影が許されるなんて思いもかけなかった。
 それにしても退職した人達に会社の施設を利用させてくれるなんて、さすが日立製作所。一時期でも会社に籍を置いていたことに幸せを感じた。
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 その後ゴルフ場に併設されている大甕クラブで懇親会がある。お酒も入り40数年ぶりに会う同僚などと話が弾む。以外と多くの皆が歯科医になっていることを知っていて、良い歯医者の見分け方など色々なことを質問され答えに窮す。
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 最後まで日立研究所に席があった人はいないようで、他の工場や子会社に転勤・転出したり大学の教授になった人など様々で有った。
直接の上司のN主任研究員は今年80歳とか、毎週ゴルフなどをしてお元気そのものであった。また当時良く一緒にゴルフをしていたS君、彼は私より1年前に入社して石油タンパクなどを研究していたが、私が退職する時心配して家まで来てくれた。電話や年賀状のやりとりはしていたが、今回41年振りに初めて再会を果たす。彼も最後は大学教授、学部長まで勤めていたとのこと。
 現在では女性の大学卒は本社採用もあるが私達の頃は事業所採用であった。同じ年度に入社し同じ研究室にいたN女史は2年ほどで結婚して退職したが今回出席していて現在、下野市の市議会議員をしているとか驚きである。
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それにしてもこんなにワクワクして楽しかったことは最近無かった気がした。2次会にも参加しもう一泊。新幹線から残雪残る富士山を観ながら無事帰宅。
この歳になると何時どうなるか分からない。チャンスがあるときには出来るだけ出かけるのが良いのかも知れない。

2019年04月07日

映画「バジュランギおじさんと、小さな迷子」を観て

 先日「バジュランギおじさんと、小さな迷子」を尾道シネマで観た。と言うのもその数日前に家内がその映画を観て、いたく感動し「是非お父さんも観た方が良い、私もう一度観る」というので一緒に出かけた。いつもにくらべ多くの観客がいたのに驚く。
 パンフレットによれば2015年、1本の映画が世界を笑いと感動に包み込んだ。バカ正直でお人好しなインド人青年と、声を出せないパキスタンからの迷子の少女の二人旅を国や宗教、人間愛についてのメッセージとほっこりした笑いに包んで描き、世界中から人種を越えた熱い支持を受け大ヒットとなり、全世界でも150億円に迫る興収を記録してインド映画の世界興収歴代第3位を継続中とある。
日本では今年の1月18日に全国で封切られ、広島県では尾道シネマでしか現在公開されていない。
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ストーリーはパンフレットに依ると
『パキスタンの小さな村に住む女の子シャヒーダー。幼い頃から声が出せない彼女を心配したお母さんと一緒に、インドのイスラム寺院に願掛けに行くが、帰り道で一人インドに取り残されてしまう。そんなシャヒーダーが出会ったのは、ヒンドゥー教のハヌマーン神の熱烈な信者のパワンだった。これも、ハヌマーンの思し召しと、母親とはぐれたシャヒーダーを預かることにしたパワンだったが、ある日、彼女がパキスタンのイスラム教徒と分かって驚愕する。歴史、宗教、経済など様々な面で激しく対立するインドとパキスタン。それでもパスポートもビザもなしに、国境を越えてシャヒーダーを家に送り届けることを決意した二人の旅が始まった。果たしてパワンは無事にシャヒーダーを母親の元へ送り届けることが出来るのか!?』とある。
更に『底抜け正直者のインド青年パワン(愛称バジュランギおじさん)と声を亡くしたパキスタンの迷子シャヒーダー((パワンはムンニ(お嬢ちゃん))と名付け、笑いと冒険に満ちた700キロの旅が教えてくれる何よりも大切なことそれは、きっと、あなたの心にも温か感動を届けてくれると書いてあった』がその通りで有った。いくつかミュージカルの場面、格闘シーン、スパイ容疑でパキスタン警察に捕まったパワンへの拷問シーンなど盛りだくさん159分間の長い映画であるが飽きるようなことはない。それなりに面白く描かれていて温かい感動を味わうことが出来た。
 ところでインドもパキスタンも元はイギリス領インド帝国であったが第2次世界大戦後インド独立の父と言われるガンジーやチャンドラ・ボース等により独立を勝ち取る。その時ヒンズー教徒の多いインドとイスラム教徒の多いパキスタンに分かれた。
 私が広大工学部在学中、西パキスタンから来た船舶工学科のダラ・カビール君とはドイツ語の授業が同じで、その時イスラム教やパキスタンのことを知った。
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 その頃はインドを挟んで東パキスタンと西パキスタンがあったが1971年に第3次印・パ戦争を経て東パキスタンはバングラデシュとして独立している。昔からカシミール地方の領有権を巡りお互いの国が小競り合いをしている、ついこの2月にもお互いの戦闘機が空中戦をしてインドの戦闘機が撃墜されパイロットが捕虜となったが、パキスタン側が捕虜を釈放するニュースが入ってきたばかりである。
その様な複雑な関係にある中でのこの映画を観ると、人間愛から来る信念こそが宗教の対立、国の対立を越えるものだと感じられ、何度か目頭が熱くなる。
最後のシーンで、声のでなかった女の子が「おじさん」と初めて声を出し大声で叫ぶシーンは感動である。

2019年03月23日

畑の草取り悪戦苦闘

 昨年秋口に、少しばかり「おでん用大根」、「ニンニク」、「たか菜」を植えた。オクラやトマト、キュウリ、茄子等の夏もの野菜を収穫した後、畑の7割程度はそのまま放置しておいた。
 おでん大根は途中、間引きをして最終的に36本ほどを育て11月終わり頃から少しずつ収穫をした。今年は暖冬であったせいか1月終わり頃から大根の生長が著しくなり2月中頃には今まで見たことのないような大きさになる。そもそもおでん大根は長さが短いのが特徴である。
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 写真に示したおでん大根は長さ44センチ、胴回り42.5センチ、重さ4.2キロもありびっくりした。最後の7〜8本はほぼこの大きさ長さであった。この様に大きくなっても味が良く、夫婦二人で1本食べ切るのに一週間程度かかる。毎年おでん大根を植えているのだが、今迄3月に花の芽が出るまで置いてもこんなに大きくなったことがない。昨年春に肥料をしこたま入れて土を肥沃化したことによるのかもしれない。ニンニクも順調に育っているようで、6月頃には収穫できそうである。
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 まだ今年は何を植えるか決めていないがそろそろ農作業の準備をしなくてはと思い、まず11月以降運転していなかった井戸ポンプが動くかどうか動作確認をした。と言うのも昨年は冬が寒くて井戸ポンプの中の水が凍って破裂し廃棄せざるを得なかった。
今回は冬になる前に発泡スチロールでカバーを造って対策をしていた事と、暖冬だったので井戸ポンプは壊れないでスイッチを入れたとたんものの見事に一発稼働した。ほっとする。
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 毎年ある程度、畑の草をあらかじめ取ってから耕運機で掘り起こすことにしている。そうでないとあっという間に畑が草ぼうぼうになる。ところで最近雨の日が多く、なかなか休日が晴れない。それでも合間を縫いながら少し草取り始めたところ抜いた草の根にびっしり土がついてきて、少々ほろっても土が離れない。このまま草を捨てたのではせっかく肥沃にした土もかなり捨てることになる。夏場なら数日で草も枯れ泥も落ちるが、今年のように雨が多く、土が付いていると何日経っても抜いた草が枯れない。
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 そこで根の方を上にして置いて枯れやすいようにしてみたりしたがやはりなかなか枯れない。とうとう業を煮やして抜いた草を洗って土を落とし、ビニールシートの上に置いて少し枯れたところでゴミとして処理してもらうことにした。本当に手間がかかり悪戦苦闘しながらの草取りである。
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昼休憩も返上で作業着に着替えてやったりするが、している最中に小雨がぱらついたりしてがっかり。それでも時折聞こえるウグイスの声に春を感じたりしたが、本日やっと草取りが終了である。今度の日曜日には肥料を撒いて耕運機をかけよう。
 

2019年03月15日

由紀さおり文化講演会に参加して

 先日、しまなみ信金経営者協議会主催の文化講演会に三原市芸術文化センターポポロに出かけた。今回は歌手で女優の由紀さおり氏が「美しい日本語の歌を伝えたい」と題して講演された。1000人ほどの聴衆が来ており会場はほぼ満席であった。私は文化講演会とか言うものにほとんど参加したことがない。講演会と言えばおおかた歯科関係のものばかりである。
 彼女の話はとても面白く引き込まれていった。最初は彼女のデビュー曲「夜明けのスキャット」にまつわる話であったが、日本の歌は明治時代にまず西洋の曲に日本語の歌詞を付けるところから始まったこと、その後、学校教育のために唱歌が作られていったことなど歌の歴史を知った。
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 講演が進につれてアカペラで歌ってくれたりした。例えば滝廉太郎の「花」の場合は「春のうららの墨田川・・・」の川(がわ)は濁音でなく鼻濁音で歌うと音が柔らかくなるのだと話しながら濁音の場合と鼻濁音の場合を比較して歌われた。確かにその通りだと知った。
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 また「あめ あめ ふれふれ かあさんが じゃのめで お迎え 嬉しいな ピッチピッチ チャップチャップ ラン ラン ラン」の歌詞で有名な北原白秋の「あめふり」の場合、私は1番程度しか歌ったことはないが、
3番は「あら あら あのこは ずぶぬれだ やなぎの ねかたで 泣いている・・・・」
4番「かあさん ぼくのを 貸しましょうか きみ きみ この傘 さし給え・・・・」
5番「ぼくなら いいんだ かあさんの 大きな じゃのめに 入ってく ピッチピッチ チャップチャップ ラン ラン ラン」
歌詞の3番、4番、5番には日本人の優しさが込められている特に4番と5番の間には傘を持っている男の子とびしょ濡れになっている子の間にどのような会話があったのだろうか、想像して見て下さいと言うお話もあった。
彼女が歌うのを聴きながら、そういえば小学生の時何度か母親が傘を持ってきてくれたことを思い出した。もちろん蛇の目ではなかったが。
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 西条八十の「カナリヤ」も日本人の優しさ、いたわる心がにじみ出していると話された。しかし彼女の歌を聴きながらこの歌詞のある意味怖さを感じた。
1、歌を忘れたカナリヤは 後ろの山に捨てましょうか。
  いえいえ、それはかわいそう
2、歌を忘れたカナリヤは 背戸の小籔に埋めましょうか
  いえいえ、それはなりませぬ
3、歌を忘れたカナリヤは 柳の鞭でぶちましょうか
  いえいえ それはかわいそう
4、歌を忘れたカナリヤは 象牙の船に銀のかい
月夜の海に浮かべれば、忘れた歌を思い出す
1番は「後ろの山に捨てる」、2番は「背戸の小籔に埋める」、3番は「柳の鞭でぶつ」。
これって虐めそのものでは無いのか? 千葉県野田市で両親に虐められて亡くなった小学生4年生のことが頭をよぎった。両親に「かわいそう」とか、「なりませぬ」とかいう気持ちがあれば事件は起こらなかったのでは無いだろうか?
 サトウハチロー作詞の「小さい秋みつけた」を彼女が歌った後、会場のみんなに「この歌を聴いてあなたはどんな秋を見つけられますか」という問が投げかけられた。色々考えているときにふと古今和歌集の「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」と言う歌が思い出され、何時でも自分の周りには色々の事象があるのに、忙しさにかまけて見過ごしている自分に気付かされた。
 それにしても童謡とか唱歌の旋律の美しさに改めて驚くと共に、また歌詞が本当に素晴らしい日本語で、優しく情操豊かで心の中に染み渡る感じがする。
今の子供たちがどの程度童謡や唱歌を歌っているのか知らないが是非とも歌って欲しいと思った。
 70歳になっている彼女が1時間半ハイヒールで立ちっぱなしで講演する姿にも感動した。
最後に全員で故郷(うさぎ追いしかの山・・・)を歌って散会となった。
本当に良い時間を持ててよかった。

2019年02月17日

堺屋太一氏の悲報に接して

 去る2月8日堺屋太一氏が亡くなられたと10日にTVでテロップが流れ、一瞬びっくりした。その後各局のニュース番組で取り上げられ彼の功績が報道されていた。
私にとって彼は特別の人である。私が現在歯科医をしているのもある意味彼のお陰である。
 新聞記事は日本経済新聞2月12日付け朝刊より
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 確か昭和53年1月3日の日本経済新聞の記事かコラム欄に書かれた記事の内容を今でもはっきり覚えている。その記事には当時私が勤務していた日立製作所を引き合いにして書かれていた。会社は大学卒を毎年1300名程度採用していたが、いわゆる堺屋太一氏が名付ける「団塊の世代」が入社するようになって急に大学卒が増えたので将来、課長とか部長と言ったポストがなくなると言うことが書かれていた。私は団塊世代の一番先頭で有り入社7年目であった。まさに私のことを言っているのだと思った。
「そうか将来課長にもなれないのか」とがっくりきたことを覚えている。その後、連日の会議や何やらで、ひどい風邪を引いた。3日間有給休暇を取ったが「休みます」という連絡を家内から上司にしてもらった。「1日目はああそうですかお大事に」だったが、3日目は「えっ、まだやすむの?」と言ったニュアンスで返答されたとのことで有った。
 今でこそ長時間労働・残業手当なしの企業をブラック企業と呼ぶが、当時工場で働く現場の工員は直接部門で大学卒等は間接部門に区別され、間接部門の人については1ヶ月の残業時間が決められており一人10時間程度であった。その為、与えられた残業時間を消費してしまうと後はいわゆるサービス残業である。しかし当時それは当たり前と思っていたし、その分ボーナスなどに反映されるのだと思っていた。
 しかし此の風邪を引いて休んでいる間に「このままで良いのか」自問自答を繰り返した。
昭和54年から大学入試がセンター試験になると報道されていた。会社を辞めて1年間びっちり勉強して医学部を受けようと思ったが、知り合いの歯科医の先生が私がすでに30歳を越えており、よしんば合格して6年間勉強しても卒後研修医をしていたら開業も遅くなる。歯科医師の方が良いといわれた。
それで歯科医を目指すこととして出身大学の広島大学歯学部に学士入学の制度があるかどうか尋ねたがそのようなものはなく1年生から学ぶようにと言われた。今ならどこの大学にもある制度で、第3学年に編入できるのだが当時はなく、センター試験を受ける覚悟で辞表を提出、2月の終わりだった。たまたま東日本学園大学(現北海道医療大学)が歯学部を設立し今まさに生徒募集をしていると歯科医師の先生から連絡を受け、私立でも受かって免許を取れば同じだし、来年合格できるかどうか分からない。君の年齢を考えればチャンスが多い方が良いとアドバイスしていただき受験。無事合格できて今の私がある。
 ほんとにあの記事出会えなかったら私の人生は全く違ったものになっていただろう。堺屋太一様々である。有り難うございました。
ご冥福をお祈りいたします。

2019年02月14日

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