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外部グログ

大先生(元院長)のブログ

院長交替

 昨日、実に30回目の「さいだ歯科医院」の年末大掃除をした。今回はひと際、感慨深い掃除であった。というのもこの12月31日を以て息子と院長を交替することにし、私が院長としての最後の大掃除であったからだ。
 思えば30年前にこの地に御縁をいただき39歳で開業し、地域の皆様、患者様に支えられて今日の日を無事に迎えることができ感慨ひとしおのものが有る。息子も来年2月には39歳となり、私が開業した年齢となることから、まさに時を感じ決断をした。
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 この30年間思い起こせば本当に色々の事が有り、大変だったことが次から次へと脳裏をかすめて行く。開業した頃は来院される患者様が少なく「患者様が来ないこないのコンコン病」に苦しんだり、従業員確保に四苦八苦した。その中でも4人しかいない女性従業員が1度に3人も退職されて途方に暮れた事など、ほんとに修羅場をくぐりぬけて来た感じが有る。
 おもえば開業から数年は医院経営に追われ他に目を移す事など到底考えられず、とにかくがむしゃらであった。大企業に勤務していた経験から従業員に対してもかなり厳しい注文をつけていたように思う。決して従業員から慕われるような存在ではなかった。
 そんな折、ある懇意にして頂いている歯科の先生より大阪でのセミナーを紹介され受講してみた。このセミナーをきっかけに全て私自身の至らなさから引き起こった事だと気が付く。今までは仕事はチームワークだ、従業員も私も同じ仲間だと思っていても経営者対従業員という構図が強く、お給料を払っている事だけで何にも従業員に応えていなかった。
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 それでは何をしたら良いのかと思った時に、待合室と従業員用のトイレ2ヵ所を毎日掃除しようと決めた。それも従業員が出勤する前、朝6時半から30分かけて二つのトイレを掃除して気持ち良く従業員を迎える事、そして毎朝出勤してきた従業員と「おはよう今日も元気で頑張ろう」と声がけをしながら握手をすることを実行して来た。
 その積み重ねの御蔭で今では従業員の皆様に支えられて経営・人間関係も順調に推移している。安心して息子にバトンタッチが出来る。
 今後は息子が立派な経営をし、地域の皆様に愛され、「さいだ歯科医院」が永く続く事を願うのみである。
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毎年、大掃除の後は従業員と一緒にケーキとコーヒーをいただきながら1年間を振り返るのだが、今回は従業員の皆様から「院長お疲れ様でした スタッフ一同」とメッセージの入った花束をいただき労をねぎらってもらった。本当に有難いことである。
 これからは時折人生を味わうゆとりを持ちながら日々診療に関わっていこうと思う。
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 また家族付き合いをしている T 様からも30年間御苦労様でしたとピンクのばら30本をいただいた。本当にうれしい限りである。

2015年12月30日

映画「杉原千畝」を観て

 先日映画「杉原千畝」を観に行った。彼の事はかれこれ20年くらい前に知った。杉原千畝氏の奥様の杉原幸子さんが書かれた本「六千人の命のビザ」を読んでからである。それまでは彼の名前、彼の功績すら知らなかった。
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 彼は第二次大戦前夜、昭和14年にリトアニアのカウナスに代理領事として赴任しそこで色々の諜報活動、今で言うインテリジェンス、もっと砕けて言えばスパイ活動をしながらソ連の動きを調べていた。日本は当時満州でソ連と対峙していた為、ヨーロッパにおけるソ連の動きを探る必要が有った。当時ドイツはヒットラー総統のもと東ヨーロッパの国々を占領して行った。ポーランドがドイツに併合されとユダヤ人が迫害・虐殺され難民となってリトアニアにやって来る。しかしここも間はなくソ連の手に落ちる。ユダヤ人たちには安住の地は無く国外脱出を計ろうとするが行くあてがない。西はドイツが押さえており、南はトルコが入国を拒否をしており、唯一シベリア鉄道で日本を経由してアメリカ等自由な国に逃げることしかなかった。
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 そのため杉原千畝のいる日本領事館に日本経由のビザ発給に押し掛けてくる。日本国政府にビザ発給の許可の伺いを立てるが答えは「NO」である。彼らの窮状を見るにつけ、外務省の方針に逆らって外交官生命を賭して発給する。1940年8月1日から領事館が閉鎖される8月28日までさらにホテルに移動して発行を続け、9月1日カウナス駅からベルリンに向けて汽車が走りだすまで窓から身を乗り出して許可書を書き続けた。その後終戦となりソ連の収容所で家族ともども収容されるが昭和22年4月に無事帰国。
 帰国後外務省は命令に背いたことを理由に彼を罷免する。覚悟はしていたものの千畝氏にとって不本意な事であったろうと思う。この後職を転々とし、ロシア語が堪能な事から貿易会社に就職、単身でモスクワ駐在員になる。映画ではモスクワで彼が助けたユダヤ人のニシュリ氏と再会、彼は千畝氏にその時発給してもらった擦り切れたビザを見せるシーンが有った。しかし本当はイスラエル大使館で彼と再会したと奥様の本には書いてあった。その後のことは映画では字幕で解説が有る程度だったが、イスラエル国は彼の功績をたたえ昭和60年に勲章を授与し顕彰碑まで立てる。
 昭和61年7月に永眠する、その後海外からの圧力もあり、平成4年3月13日の衆議院予算委員会で質問が出され宮沢総理が発言し彼の名誉が回復される。外務省を罷免されてから実に44年振りである。
 それにしてもこの映画を観ながら現在の日本を見た時考えさせられるものが多々有る。杉原千畝氏の様に首を掛けてまで信念を貫く公務員や議員さんがどれほどいらっしゃるのか、パフォーマンスだけの政治家、事なかれ主義を貫く官僚。
 先日の新聞報道によれば3カ月で日本年金機構が運用に失敗し7兆九千億円もの損失を出し年金積立金を失ったという報道が有ったが、誰一人として責任を取る人がいない。
またこの混迷する現代にあって国際情勢は混とんとしているが、残念ながらわが国には、国際インテリジェンス収集をするための組織がほとんどない。当時の情報なき国家がだどった運命について、いま一度、思いを致してみるべきだろう。
 このままではいずれこの国はどこぞの国に飲み込まれてしまい無くなってしまうのではないだろうか?
 さらに世界では難民問題がクローズアップされているが、杉原千畝氏がビザを発給したのはあくまで日本を通過するためのもの、今後隣国等で政権崩壊が起これば何百万人単位での難民が押し寄せてくる。それを受け入れることの是非については、ただ感情論だけで片付けられるものでは無いことを今からしっかりと押さえておく必要がある。
 また前回ブログに書いたトルコの軍艦エルトゥールル号の話、今回の杉原千畝氏の話など日本人として誇れる話は多数ある。もっと学校で積極的に教えるべきではないだろうか、それこそ自分が日本人として生まれてきて良かったと誇りを持てるのではないだろうか?

2015年12月13日

映画「海難 1890を観て」

 この映画、封切り日の12月5日に鑑賞した。この映画の題材になっているオスマン帝国(現トルコ)の軍艦エルトゥールル号の沈没事故のことを10年前位に知った。またその事件後95年を経ったイラン・イラク戦争のさなか、取り残された日本人の為にトルコが救援機を出して救出してくれたことは当時新聞で知っていたが改めて今回映画を観ながら感動した。
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 東映オフィシャルサイトのイントロダクションから引用させていただくと
 『日本よりおよそ9000kmも離れた、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる1つの国、トルコ共和国。かつてオスマン帝国として歴史に名を刻んできたその国と日本は、長きに渡り交流を深めてきた。そして2015年、日本トルコ友好 125周年を迎える。遥か海を越えた両国の友好には、歴史の裏に隠された2つの知られざる物語があった―。
 1890年9月、オスマン帝国最初の親善訪日使節団を載せた軍艦「エルトゥールル号」は、その帰路の途中、和歌山県串本町沖で海難事故を起こし座礁、大破。乗組員618人が暴風雨の吹き荒れる大海原に投げ出され、500名以上の犠牲者を出してしまう。しかし、この大惨事の中、地元住民による献身的な救助 活動が行われた。言葉の通じない中、避難した小学校では村中の医師が集まり応急手当を行い、台風の影響で残りわずかな蓄えにもかかわらず、食糧や衣類を提供。そのおかげで69名の命が救われ、無事トルコへ帰還する事が出来たのだ。この出来事によりこの地で結ばれた絆は、トルコの人々の心に深く刻まれていっ た。

 そして、時は流れ1985年、イラン・イラク戦争勃発。サダム・フセインのイラン上空航空機に対する無差別攻撃宣言によって緊張が高まった。この宣言後、 在イランの自国民救出の為、各国は救援機を飛ばし次々とイランを脱出。しかし、日本政府は救援機を飛ばすことが危険と判断し救助要請に応えなかった。テヘランに残された日本人は215人。メヘラバード国際空港で誰も助けの来ない危機的状況に陥り絶望の淵に立たされた。この状況を打開すべく、日本大使館はトルコへ日本人救出を依頼。トルコ首相は、それを快く承諾。まだ500人近くのトルコ人がテヘランに残っていたにも関わらず、日本人に優先的に飛行機の席を譲ったのだった。』

 この映画は実話をもとにして日本・トルコ友好125周年という節目の年に両国の支援のもと遂にビッグプロジェクトとして完成したものであり、映画の最後にエルドアン大統領のコメントが有った。
 この映画には出てこなかったが、エルトゥールル号の乗組員をトルコまで送り届けた軍艦「比叡」の海軍士官にあの「坂の上の雲」に出てくる秋山真之がいた。またテヘラン脱出当時のトルコ大統領オザル氏に救援機を出してもらう様に直接交渉した元伊藤忠商事の森永堯氏の存在を忘れてはならない。
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 昨日、日本経済新聞に1985年のイラン・イラク戦争の際、邦人を救出した当時の塗装を再現したトルコ航空機がイスタンブール〜関西空港線に就航した記事が載っていた。
 この映画を観ていて日本人を救出できない日本国に腹立たしさを感じた。我々が税金を納めている理由は、政府が日本国民の生命財産を守る義務が有るはずなのに、自衛隊機を飛ばして救出するのは憲法9条が有る為、自衛隊機が紛争地域に行くことは海外派兵となり憲法違反となる。それをするには国会の承認がいるとか。またトルコ航空の乗員は救援機に乗務することを全員が志願したのに、日本航空は乗員の安全が保証出来ないと言って断った事など、たまたま和歌山県串本町の人達が昔トルコの人を助けた縁と絆もあり無事救出された。もし何百人もの邦人が死んでいたらどうなっていたのだろうか。マスコミはどのような非難を政府に浴びせたのだろうか?
 今世界は混とんとして、テロ等も頻発しており、国際貢献や仕事などで海外に暮らす在留邦人も多くいる、必ずこの様な場面が出てくるのではないかと心配する。
今年安保関連法案が成立し今後は自衛隊機が救出に行けるのではないだろうか。
もちろんその様なことが起こらない事を願うだけである。
日本人の良い性格等が表現されており本当に良い映画であった。

2015年12月07日

栗原小・中学校古希の同窓会

 先日、小学校、中学校の古希の同窓会が有った。私の卒業した中学には他の校区の小学校を卒業した人達も入学するし、また他の中学に行った人もおり、小学校や、中学だけで単独に開催すると漏れる人が出てくる。少しでも縁の有った人が昔を懐かしむことが出来るようにと40年ほど前からこのスタイルで同窓会が行われている。
 この度、古希の同窓会ということになったが、この様なお祝は「満年齢」でするのか、「数えの年齢」でするのか良く判らない。但しこれからは年齢のことを考えれば段々参加できなくなる人達が増えると思われ「数え年」でするのが良いのであろう。但し私は昭和22年3月生まれであり、今現在、「数え年」でカウントしても69歳、古希には少し足らないのでちょっぴり実感が沸きずらい。
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 当日は小学校時代の恩師2人、中学校時代の恩師3人がご臨席された。いずれも80歳を超えてなお頭脳明晰、足腰もしっかりされておられ大変お元気で有った。羨ましい限りである。
 最近私のまわりでは70歳の壁を越えられない友人たちが多く、私自身はなんとしても80は言うまでもなく、100歳の壁を越えたいと思うのである。
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 我々は団塊の世代であり今では考えられないかもしれないが、1クラス50~55人くらいでその人数を担任一人で切り盛りされていた。当時の先生は体力的にも、精神的にもタフだったのかも知れない。当時は今で言うモンスターペアレントなるものも存在しなった。
 栗原中学を卒業したのが260人ほどで有ったが今回52人の仲間が集まる。中学を卒業して53年を経過しているが、小さい時からほとんど変わらない顔、まったく思い出せない顔。でも名札を見たり自己紹介をされると自然と小学校や中学の頃を思いだしてくるものである。東京や神奈川県とか結構遠くから参加してくれる連中もいてひとしきり話に花が咲く。
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 小学校の頃ほとんど毎日一緒に遊んだH君が出席していた。この様な集まりは初めてとか。毎年、年賀状だけは交換していたのだが20数年ぶりに再会。話し言葉も「おい」とか「お前」とかそんな口調になってしまう。同窓会というのは地位や、職業、男性・女性など何にも関係なく純粋に50数年前に戻れて、あの頃をさらけ出し、ただただ懐かしみ、近況を語り合い、うなずいたり、共感したりととてもよいものである。
 あっと言う間の3時間半が過ぎ、次は「7年後の喜寿の同窓会だ、元気でまた会おう」と言って別れる。
 今回の同窓会のお世話をしてくれた幹事の皆様方に感謝である。

2015年11月29日

マレーシア留学生A子の里帰り

 11月19日に2003年3月から2004年2月まで我が家にホームステイしたマレーシアのA子がやって来た。何回も我が家に里帰りしているが、今回はA子のご両親とボーイフレンドもどきのM君を伴ってやって来た。私と家内はA子が帰国した年のお盆休みにマレーシアに行きご両親とは顔見知りである。また息子夫婦も4年ほど前にマレーシアに行き歓待されていた。やって来た日の夕食を共にしたが、私は歯科医師会の会合や出張でほとんど相手が出来なかった。代わりに家内と息子一家がお相手をしてくれた。そして帰る日の23日に尾道千光寺公園の案内をしただけであった。
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 初めて日本に来た時は17歳の高校生で、尾道東高校に1年弱通っていたが、今や30歳で御両親は早く結婚して欲しいと願っているようだ。家内が「ボーイフレンドもどきのM君」に婚約しているのかと聞くと「not yet まだだ」という。A子の話を聞けば「結婚して欲しいと彼が言わないので私からは結婚して欲しいとは口に出せない」との事。
 マレーシアでは結婚を決めても実際に結婚式が行われるのに1年はかかるのだそうだ。そうなると32歳を超えてしまうので特に母親は気が気で無いらしい。何とか我々に早く婚約する様に勧めて欲しいと懇願される。
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 色々話した所、まだ確実ではないが、少しその気になって来たようでご両親はほっとされていた。結婚式には是非マレーシアに来て欲しいと要請される。再来年くらいには行けるかな?
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 ところで話をしてみるとM君は中々爽やかな好青年で、現在「マレーシアGoogle会社」のNO.2との事。若いのにすごいなと思って履歴を聞くとイギリス、ロンドン大学卒。やはりそれぐらいで無いとその地位は得られないのかもしれない。
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 一方A子は大手企業の弁護士として勤務していたが、毎日12〜16時間位働かされるので辞めたとか。日本流に言えばブラック企業なのかと思ったが、給与はそこそこ良かったようだ。
 いずれにしても美男・美女上手く結婚出来れば良いと祈るだけである。

2015年11月26日

周術期口腔機能管理

 先日JA尾道総合病院より毎月送付していただく広報誌、「かけはし Vol 78」が届いた。それと同時に「医療連携ニュース Vol 29」が同封されていた。その中に「充実した周術期の口腔ケアを目指して! 口腔ケア医科歯科連携協議会の発足」と題した記事が掲載されていた。
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 以前から尾道市の開業歯科医院の多くは2次医療機関としてJA尾道総合病院と治療に関して色々連携をしてきた。
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 「周術期口腔機能管理」は平成24年度診療報酬改定で導入されたもので、全身麻酔下で実施される、頭頚部領域、呼吸器領域、消化器領域等の悪性腫瘍の手術、臓器移植手術、心臓血管外科手術、放射線手術、化学療法、などに適用される。
 これは歯科単独で無く、医科歯科連携を主軸にしたチーム医療や病診連携に代表される地域包括医療に基づくものである。
 この度の「周術期口腔機能管理」の連携は私が会長時代から是非とも行いたいとJA尾道総合病院に働きかけていたものであり、会長退任後もこの連携協議会のメンバーとして関わってきた経緯がある。この10月から稼働した事は御同慶の至りである。
 一般の人にとって「周術期口腔ケア」とは何ぞやかもしれないが、周術期とは手術前後を意味しており、全身麻酔下で、特にがん患者の手術に先立ち口腔内をケアすることにより口腔内、特に唾液中の細菌数を減少させ、誤嚥性肺炎を始め術後合併症を減少させることにある。
 治療するという概念からではなく、合併症を予防するという新しい概念による新しい歯科医療である。これにより在院日数の短縮化が可能であり、ベットの回転数を上げるということではJA尾道総合病院にとっても魅力あると考える。
 歯科と言えば一般的にはう蝕、歯周病という2大疾患の治療や予防をしてきたが、手術についても歯科が活躍できる場が現れた事になる。
 特に放射線や抗がん剤治療を行う患者さんの場合、重度の口内炎の発症や、それによる嚥下障害で食事が十分に出来なくなるケースが多発してくる。この為患者さんの口腔衛生状態に合わせ、歯面、舌、口腔粘膜等の専門的口腔清掃や保清・保湿、さらには嚥下機能訓練、経口摂取支援等多彩なケアが必要となってくると同時に、患者さんに出来るだけ苦痛を与えないようにする技術も要求されてくる。
 この「周術期口腔ケア」はまだ始まったばかりであるが、「さいだ歯科医院」では従業員共々一緒に研鑚を積みながら患者さんがより快適に生活できるように支援していく所存です。

2015年11月14日

再会

 先日、安芸灘諸島の大崎下島まで出かける。この島は、家内が大学を出て初めて赴任した「大崎高校下島分校」が有ったところで、家内が下宿していた家のおばさんが今年90歳を迎えたという事で会いに行った。もっとも先方には驚かすつもりで連絡もせずに出かける。私も3回ほど過去にお邪魔したことが有る。
 なおこの大崎下島は2012年にアニメ映画「ももへの手紙」の舞台となったところである。
 初めて山陽自動車道の西高屋から「東広島・呉道路」を通った。道は立派に整備されており、驚くほど便利で我が家から、呉の阿賀までがなんと1時間ちょっとである。昔、呉と言えば陸の孤島ぐらい尾道から見れば遠いい場所であった。
 島のおばさんの情報は家内が赴任していた当時、高校生であった中台さんから教えてもらった。もっとも家内は家庭科の先生だったので男子生徒を教えた事は無いのだが、若い女の先生が来たという事で男子生徒に人気が有ったのだろう。
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 中台さんは現在大崎下島で「なかだい農園」を経営し「レッドキウイ」を生産販売されている。先日レッドキウイを送って頂いたのだが、初めて聞く名で、ネットで調べると種のまわりが赤く、糖度が高くて(18度以上)高級果物として人気が出てきているようだ。
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 有料の安芸灘大橋から下蒲刈町そして蒲刈大橋を渡った所に土産物などを販売している「であいの館」でトイレ休憩。中台さんが迎えに来てくれて途中「花美月」で昼食。その後、豊島大橋を渡り豊浜町を抜けさらにもう1本橋を渡ってやっと大崎下島に着く。
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 久比の篠原八幡宮近くのおばさんの家に行くが留守、近くにおばさんの甥こさんがいて、家に上がり込み話を聞く。その甥こさん既に80歳は超えているが、家内が昔お世話になって今治まで船でパチンコにつれて行って貰った事が有るとか。彼は「北村工業」という会社を経営されており、東京や北海道旭川に支社も有り、根菜類・果菜・柑橘オートメーション設備一式、を始め色々な機械の製造販売を手広くされている現役バリバリの社長さんである。失礼な言い方かもしれないが、私自身はこの田舎の島にこの様な会社が有る事に驚く。
 おばさんの居所を調べてもらうとデイサービスに行っているとのこと、そこまで会いに行く。途中、甥こさんから下島の話を色々教えていただいた。この下島には現在小学校が一校有るだけで中学校も統廃合されて無いとの事、家内が赴任した昭和44年には分校と言えども高校が有り小学校も何校かあり中学も有ったことから思えば、少子高齢化の波がひしひしと押し寄せている事を肌で感じた。
 また途中「大長みかん」で有名な地区を通ったが全山ミカン畑では無くなっていた。若い人がいなく後継者もいないためミカン農家を廃業される人も多いい様である。また最近はみかんの代わりにレモンなどに移行しているようである。
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 デイサービスのある「ゆたか高齢者福祉センター」で家内はおばさんと無時再会、しばらく話に花が咲いたようで、家内も本当に来て良かったと喜んでいた。
 帰りに甥こさんからミカンとレモン、中台さんからは例のレッドキウイと柿をお土産にいただいた。
 ところで安芸灘大橋は通行料700円だが「であいの館」で買い物をし、そのレシートと、来た時の通行料の領収書を見せると、帰りの橋代が只になる切符が貰えた。少し得をした気分である。天候にも恵まれ良い一日であった。
 なお頂いたレッドキウイは完熟で、ものすごく甘くおいしかった。恐らく糖度も20度以上あったのではなかろうか。

2015年11月03日

赤ちゃん

 先日、7月に出産退職をしたM子さんが生後1カ月の息子のA君を連れて「さいだ歯科医院」にお披露目に来てくれた。生まれた時が2370グラムぐらいだったらしく1カ月で漸く3040グラムになったとか。
 早速、私を含めてスタッフ皆が赤ちゃんを抱かせてもらう。あまりにも小さいのでスタッフたちも恐る恐る抱っこしながら赤ん坊の可愛さを口々に話している。
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 ところでM子さん少しお疲れ気味だったので訳を聞くと「3時間ごとの授乳のために十分に寝させてもらえないのだ」とか?
 「皆、親御さんは同じ思いをしながら子育てをしていたのだ。お母さんに感謝しなくてはいけないよ」と話しながら、「それで子供は嫌なのか」と意地悪な質問をしてみた。すると「とんでもない宝物だ」という。そうだろなと思いながら、毎月私が読んでいる月刊「致知」11月号の記事を思い出した。
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それは熊本市にある「慈恵病院理事長兼院長の蓮田太二氏」の「子供たちの命と未来を守れ」という記事であった。
蓮田氏は8年前に日本で初めての試みとなった「こうのとりのゆりかご」(通称・赤ちゃんポスト)の取組を始められた。これまで預けられた子供の数は120人に上るそうです。
蓮田氏の取組の原点はある時から子供の虐待を報じるニュースがよく目につくようになり、命を救えなかった報道を何度も目にし、「なぜ親は子を殺したのか」という強い憤りを感じるようになっていったのだそうです。
始めるにあたりドイツに視察に行ったりされたが、日本では前例がないとか、法律専門家の方からは、匿名で赤ちゃんを預かるのは捨てる事を助ける「遺棄幇助罪」に当たる可能性が有るという意見等が出たとの事。中々前に進まなかったが、その間に熊本で立て続けに3人の赤ちゃんが遺棄され、その内2人が亡くなるという痛ましい事件が起こり決意を固め障害を乗り越えついに平成19年5月に日本初となる「こうのとりのゆりかご」の運用が始まったと記事に書いてあった。
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M子さんの場合、実家のご両親も一緒に子育てを手伝ってくれているようで幸せ者だなと思いながら、元気で頑張るようにエールを送り、息子のA君がすくすく育つ様にと願う。また働く気になったら我が職場に復帰してくる様にも話した。

2015年10月31日

院内旅行・鹿児島 PARTV

 3日目。今日も良い天気で暑くなりそうな予感のもと8:30にホテルを出発。ここ霧島は道路脇などいたるところで湯けむりが登るのを見ながら仙厳園に向かう。海岸沿いに桜島を見ながらマイクロバスは軽快に走る。途中運転手さんが、「今日は噴煙が上がる様に私がスイッチを押します」と冗談話しをしながら仙厳園に着いた。
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 まず隣の「尚古集成館」を見学する。幕末時代、藩主島津斉彬がこの地に東洋最大の工場群「集成館」を築き、そこで製鉄、大砲、造船、紡績、薩摩切子等のガラス、薩摩焼の研究・製造を行っていた。
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 これらの遺品等が展示されていてどれを見ても感心するばかりで薩摩藩の先見性に驚く。ところでこの「尚古集成館」の建物は29代忠義により機械工場として建設されたものだが、今年「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録されたものである。その後、薩摩切子工場を見学しギャラリーショップで薩摩切子のすばらしい細工を見た。
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 仙厳園は通称磯公園と呼ばれており、島津家の別邸として築造された。桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた雄大な庭園である。やはり53年前に修学旅行で訪れたところである。当時家内も同じクラスメートで有ったが、クラス写真を撮った場所は記憶していなかった。
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 園内の「展望レストラン松風軒」で昼食をとっていたが、ふと窓越しに桜島を見ると噴煙が上がっており、急いで写真に収める。ビックリ、運転手さんがスイッチを押したのかな?後で聞いたら笑いながら「そうだ」と言っていた。本当にびっくりである。
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 その後鹿児島市内に行き西南戦争時の弾痕が残る鶴丸城の石垣を見ながら城山に登る。途中西郷隆盛が潜んでいた洞窟や彼の終焉の地をバスの中から見る。城山から見た桜島はすでに噴煙はおさまっていた。ここ城山ではセミの声がうるさく「つくつくぼうし、つくつくぼうし」と大合唱でまだまだ夏の様である。
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 その後、西郷隆盛や大久保利通の生誕地「鍛冶屋町」にある「維新ふるさと館」に行き幕末から明治の時代への展示物や、映像を見たりした。特に「維新体感ホール」で上映される偉人たちの等身大ロボットやマルチスクリーンを使ったドラマは面白かった。
 ところで今年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」は長州を舞台にした幕末から明治へのドラマであるが維新を成し遂げた薩摩・長州の事を少し知りえた事は何かの縁かもしれない。ただスケジュールの関係で見学時間が少なく消化不良の感はあった。
 全ての日程を終え鹿児島発16:07の「さくら564号」にて帰途につく。新尾道駅に無事19:51に到着。3日間良い天候に恵まれ、全員怪我・病気も無く帰れたことに安堵した。

2015年10月13日

院内旅行・鹿児島 PARTU

 2日目は朝8:30にホテル出発。今日も天候は晴れ、開聞岳を見ながら本州最南端長崎鼻灯台へ行く。実は鹿児島は53年前、高校2年生の修学旅行(1967年11月6日〜11日)で訪れて以来である。但し、開聞岳・長崎鼻は初めてである。また女性従業員は誰も鹿児島に来たことが無いので楽しく旅を満喫しているようだ。
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 さすが薩摩富士と呼ばれるだけあって開聞岳の姿は実に綺麗である。その後、大ウナギや謎の生物「イッシー」が棲むと言われる池田湖を見ながら鹿児島港に向かう。途中「かるかん・さつま揚げ工場」見学をした。まるで修学旅行で、従業員はお土産を買い求めていた。
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 鹿児島港からフェリーで桜島に渡る。7月終わりに旅行を計画した後、桜島が9月8日には爆発し、また28日にも噴火しどうなるかと思ったが、今日は全く静かで噴煙も見えない。有村溶岩展望所から中岳を見る。53年前に来た時は噴煙が有ったのだが残念。また当時はごつごつした溶岩台地だったが今は松が自生しており荒々しさが無い。展望所や遊歩道なども整備され時代の流れを感じた。
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 その後大正3年の大爆発で大隅半島と陸続きになった牛根に行く。ここからは昭和火口からの噴煙がわずかに見られた。海岸線を桜島を左手に観ながら一路霧島神宮へ向かう。
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 この霧島神宮も修学旅行で来たがあまり記憶が無い。霧島神宮は6世紀の創建で天照大神の孫のニニギノミコトが祭られている。ニニギノミコトは天照大神から「三種の神器」を授かり高千穂の峰に天孫降臨された神様でその曾孫が神武天皇と言われている。まさに皇室の御先祖様を祀る由緒正しき神宮なのだろう。それにしても古くからある伊勢神宮・出雲大社・霧島神宮などはその佇まいが荘厳で何かしら霊的な感じがする。従業員達と全員で「おみくじ」を引いてみた。全員が吉や末吉で凶が無く旅行が無事に終えられると思った。
 それにしても私には「おみくじ」で思い出されることが有る。昔、家内と結婚する前に安芸の宮島で「おみくじ」を引いたら凶が出て引き直したがまたも凶、さらに引き直しても凶が出たことが有った。3回も凶が出たということは宮島の神様が女神様なので私達の結婚にやきもちを妬かれたのだと今でも思っている。
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 参拝の後、霧島硫黄谷温泉にある霧島ホテルに宿泊する。この硫黄谷温泉には、幕末の時代、寺田屋事件で負傷した坂本竜馬がおりょうと共に霧島へ療養の旅に来たが、これが日本で最初の新婚旅行だと言われている。このホテル〈当時は宿屋〉もゆかりの宿屋らしい。お風呂での写真撮影は出来ないので、ロビーにあったお風呂の写真を撮影。泉質は硫黄なので少し乳白色で硫黄のにおいがする。深い所では私の胸まであり立位で風呂に入れて珍しく、しかも広くてプールの様だったので少し平泳ぎをしてみた。
 今日も無事に旅が出来楽しい一日であった。

2015年10月12日

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