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大先生(元院長)のブログ

特許

 今年ノーベル物理学賞を3人の日本人が青色LEDの発明開発で受賞した。非常に喜ばしいことである。3人の受賞者の内、現在アメリカ国籍を取得している中村修二氏がかって自分の発明の特許に対する会社の評価が少ないとして会社と係争したことは有名で、そのせいもあってか昨日(10日)の日本経済新聞に「従業員発明者の地位向上」と題した一文が掲載され、本日の一面には「社員の発明に報奨義務・特許は会社に帰属・競争力底上げ  法改正へ」と記事が掲載されていた。
 中村氏の係争は2001年に元勤めていた会社を訴えた。彼の重要な特許に対し会社は2万円の対価しか払わなかった。しかしその特許を基に会社は1000億円以上の利益を上げた。そこで不条理を感じて提訴につながったと日経新聞に書いてあった。
 東京地裁では特許の価値を604億円と認定した上で中村氏へ200億円の支払いを命じたが、東京高裁が和解勧告をし2005年1月に延滞金などを含めて8億4000万円で和解した。このニュースを聞いた時は本当に衝撃的であった。
 というのも私は1971年〜1978年まで日立製作所に勤務し、日夜研究に励んでいた経験が有る。当時の事は可成り忘れたが日立では特許を書くと1000円か1500円位の報奨金が出ていた。その時、特許の権利を会社に渡す旨の誓約書に判を押していた。そして正式に特許となればその特許のコピーに贈呈と赤判が押され金一封で5000円程度のお金が貰えた様に記憶している。さらにその特許を使用して会社が製品を作り利益が上がると、毎年、年末に特許賞が発表され、特等から5等までの6段階位で表彰され幾ばくかのお金がもらえた。その後もその特許で利益が上がっている間はお金が振り込まれていた。
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 私が会社に勤務していた頃は、お給料を貰い会社のお金で研究しているのだから当然特許の権利は会社のものと理解して何も疑う事は無かった。
 何回か引っ越しをしたりして手元に僅かばかりの資料しかないが特許のコピーが6件くらいに、5等の特許賞が3枚とお金の金額を書いた用紙が4枚ほどある。特に会社を辞めてもその特許を使って利益が出れば幾ばくかのお金を振り込んでくれた。開業した2年目の昭和62年に4000円を貰ったがそれが最後であった。
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 特許の有効期間は特許申請をしてから15年だったと思う。私が書いたものは全て特許切れになっている。
 会社で研究していた頃は半期に何件特許を書くか、しかも特許の種類としては優特許・良特許・防衛特許と別れており、最低でも優特許1件、良特許2件くらいは書くと自己申告させられ、提出時に書いた特許を上司と話し合いランク付けをされて申請した。また期末には上司との面談で特許の件数や内容で勤務評定をされていた。
 当時、私は書いた特許が製品化され、人様のお役に立つことに無上の喜びを感じ、またそれがひいては自分の出世につながるのだと思っていた。中村氏の裁判のニュースが流れた時は本当に驚いた。新聞記事によればその後日立製作所でも光ディスク関連で1億6300万円の支払いが命じられたとか。もっとも私の特許は会社と係争する程のものでは無くささやかなものだったと自覚している。中村氏の裁判が発明者の権利意識に一石を投じた事は間違いない。

2014年10月11日

40数年ぶりの呉線

 10月4日に呉歯科医師会が創立100周年を迎え記念式典が挙行されたが、尾道市歯科医師会を代表して出席をした。尾道から呉に行くには三原から呉線に乗って行く手もあるが、時間が莫大かかるとのことで、広島まで新幹線で行きそれから呉線に乗り換えて行く事にした。
 私にとって呉市は少なからず縁がある。私の父親が生まれ育った街であり、母もその父親が海軍工廠の技師であったため、一時住んでいたことがある。そのため本籍は両親が亡くなるまで呉市溝路町に置いていた。もっともその家は昭和20年7月の空襲で焼失してしまい、小学3年生の時に父親にその場所に連れて行ってもらったが今ではどこだったか分からない。
 また私の父は公務員をしており呉勤務の時、官舎が両城中学のグランドの横にあったことから、私が広大4年生の12月から卒業まで4カ月間を呉線で大学まで通った。当時はまだ電化されておらず、ディーゼルカーか蒸気機関車であった。その頃は国道のすぐ横まで海岸線が迫っていて、風光明媚な趣であったと記憶していた。ところが今回40数年ぶりに乗ってみて驚いた事がある。
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 まず広島・向洋駅間に「天神川駅」、坂駅と小屋浦駅の間に「水尻駅」、小屋浦駅と天応駅の間に「呉ポートピア駅」そして狩留家駅が「かるが浜駅」になっており私の知らない駅が3っも出来ていた。
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 そしてあれほど楽しみにしていた海岸の風景は国道の海側が多くの場所で埋め立てられ、さっぱり見えない。少し悲しい気分になる。良く利用した川原石駅はフェンスで取り囲まれ、呉港が良く見えない状態であった。まさに浦島太郎状態であった。
 そんな感傷に浸りながら50分ほどの旅を楽しんだ後、呉阪急ホテルでの式典と祝賀会に出席した。
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 式典は厳かに行われた。大正3年10人の会員で創立されて100年、今では会員数130数名になっているとのこと。100年という時の重みを感じた。尾道市歯科医師会も後6年で100周年を迎えるが、今回の呉を参考にさせていただこうと思う。
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 祝賀会は一転華やかで、とりわけ呉歯会の会員の先生方の嬉しそうなお顔が印象的であった。また途中余興で琴庄神楽団の神楽の舞もあり賑やかで楽しく、美味しい料理とお酒をいただいた。
 帰りはタクシーで広島駅まで帰ったが、呉道路という有料道路を利用したせいか35分ほどで着いた。

2014年10月05日

神戸旅行

 27日・28日と広島県歯科医師会の先生方と神戸に出かけた。日頃お付き合いしている他地区の先生方との懇親がメインである。但し、27日には県歯会長が公務で出席出来ないので正式な懇親会は28日の昼食という計画であった。
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 宿泊は新神戸駅横のANAクラウンプラザホテルで、夜はプレ懇親会という事で「ホテルオークラ神戸」の中にある日本料理の店「山里」で食事をした。食事は飲み放題の松茸づくしで美味しかった。参加した先生方と日頃の会務の話等で大いに盛り上がる。
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 私はビールと日本酒を随分飲んだ気がする。その後同じホテルのラウンジで二次会が行われたが、すでにアルコールの量は満杯で、ウイスキーの水割りを1口飲んだだけで、ギブアップ。因島のM先生とホテルに帰り、そのままバタンキュウであった。
 次の日、昼食までには時間が有るし、昨夜のアルコールも体から抜いておかなくてはと思い、北野の異人館あたりを何人かの先生たちと散策する。2003年にマレーシアのA子がホームステイしていた時に歩いた事があり11年振りである。それぞれの異人館には入場しないで外から建物を見るだけにした。素晴らしい秋晴れでかなり暑かった。
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 うろこの家・北野天満宮・風見鶏の館・と見て歩きその前の北野町広場では大道芸人が芸を披露していた。そして多くの異人館では結婚披露宴会場として場所を提供しているようであった。またクローズされている異人館も結構あった。アップ・ダウンの道にかなり疲れ、北野物語館にあるスタバに入る。これも異人館で風情ある建物であった。
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 一休み後、異人館通りを歩いて懇親会場の「東天閣」という中華料理店にいく。ここは明治27年に建設されたドイツ人F・ビショップ家住宅を改装したもので、道路をはさんだ向かいは神戸北野ホテルであった。お値段がいくらのコースか知らないが、料理の味は中々のもので非常に美味しかった。また甕に入った10年物の紹興酒もまろやかで美味しいく昨夜の飲み過ぎも忘れて3杯も飲んでしまう。2時間ほど楽しく過ごした。その後帰りの新幹線の時間までかなりあったので歩いて駅まで行く途中有名な「にしむらコーヒー」に立ち寄る。お土産を買い16:12新神戸発のさくら565号で帰途に着く。
 それにしても今月は博多、札幌、神戸と良く出かけたものだ。

2014年09月30日

同窓会設立30周年記念式典 PART U

 翌朝携帯電話に千歳で開業しているU君より連絡が入る。帰りの飛行機は千歳発18:55であり時間が有るので私に付き合うからどこか行きたいところが無いかという。
彼とは学生時代、すぐ近所にあった彼のアパートで遅くまで一緒に補綴技工をしたり一緒に勉強していた仲である。
 ホテルまで迎えに来てくれ出かける。そうは言ってもどこに行くか迷う。昨日大学を20分ほどしか見学出来なかったのでもう一度しっかり見たいと思い連れて行ってもらう。途中、4日に降った大雨で石狩川が茶色に濁っていた。当別町では昔住んでいたところに立ち寄る。私の借家は当別川の土手の下にあり、その一角に7〜8軒くらいの家が有ったが今では3軒しか残っていなかった。しかし裏の家は残っていて住んでおられたので御挨拶をした。昭和56年に石狩川が氾濫した時は家に水が入るのではないかと思い、夏休みで中であったがU君のアパートに避難したことがある。
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 当別大橋が掛け替えられ、立派な道路が一直線に駅まで繋がっていたのには驚く。U君の住んでいた「幸コーポ」はまだ健在で彼も随分懐かしんでいた。
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 道路が新しくなったため多くの家が立ち退きをしたのか、街中を車で色々廻ったがクラスメートの住んでいたアパートなどが無くなっていた。息子2人が通った当別小学校にも寄ってみた。壁は塗り替えられていたが外観は30年前の通りであった。
 その後大学に行き今日は時間が有るので、守衛さんにお願いして中を見学させてもらった。歯学部の中は昔のままの所もあり懐かしかった。期末試験が近いのか、それとも国試対策なのか、日曜日だと言うのに学生が登校して勉強をしているのには驚いた。
 また歯学部6年生(32期生)は大講義室に国試必勝を期して達磨を講義室に掲げて自分達で模擬試験をしているようであり、31年前の私たちを思い出しU君と苦笑い。
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 昨年出来た中央講義塔は10階建で当別町で一番高い建物である。エレベーターで10階まで上がると展望室になっていて当別の街や周りの畑などが一望に出来る。少しかすんでいて夕張の山は良く見えなかったが素晴らしい眺望に尽きる。
 図書館にも寄ってみたが学部が増えたせいで、色々の分野の本が取り揃えてあった。
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 見学を終わり、やはり千歳で開業しているボート部のキャプテンをしていたS君の所に立ち寄る。やはり20数年ぶりの再会である。たまたま彼の家に昨日式典来ていた秋田県角館で開業している私より1歳若いI君と、今日やって来たという福島県二本松で開業しているW君とに会う。早速放射能の事をW君に聞くと一時よりは下がっているとのこと、そして二本松市がどのような位置にあるのかと聞けば、飯館村と接しているとか。また2020年の東京オリンピックの為、復興事業の作業員が確保できにくくなり、かなり復興が遅れそうだとのこと。これも困った問題だな。広島地区でも岩国の基地拡張とこの前の広島市での大規模土砂災害の復興に当たり作業員の方の確保が難しいと聞こえてくる。それにしても今回本当に多くの同級生に会え、それぞれがこの30年頑張ってきている証が判って良かったと思う。

2014年09月16日

同窓会30周年記念式典 PARTT

 13日・14日に出身母校の北海道医療大学歯学部同窓会設立30周年記念式典及び祝賀会に出かけた。同窓会は私たち1期生が卒業してすぐに設立された。私が卒業した当時は東日本学園大学歯学部という名称であったが途中名前が変更された。同窓会の30年は私の歯科医人生と同じである。
 ところで札幌に行くには中々不便で直行便はANAとJALそれぞれ1便である。ANAしかとれず朝8:00広島空港発で出かけ、10:00前には新千歳に着く。記念式典は15:00からであり5時間をどう費やすか考えた末に母校を見に行くことにした。
 札幌駅からJR学園都市線で終点の北海道医療大学駅までおよそ45分掛かかった。私たちが学生の頃は手前の当別駅で降りて大学のスクールバスに乗り換えていたが、今では大学の前に駅が出来しかも電化されている。変われば変わったものだ。但し私が乗って来た電車はそこで折り返し運転となるため、20分弱しか時間が無い。1本遅らすと1時間後になり、式典に間に合わない恐れがある。それで構内をちょっと見て歩く。当時薬学部と歯学部しかなかった大学が今では看護福祉学部・心理科学部・リハビリテーション科学部の5学部と歯学部付属歯科衛生士専門学校を併設する総合大学になっており、その分校舎も随分と増えていて驚く。土曜日であったが学生がクラブ活動に精を出していた。あたふたと札幌に引き返し、ホテルのチェックインをして会場に向かう。
 IMG_2082-1.jpg   IMG_2098-1.jpg   
 会場にはかなりの同級生も来ており「やーやー御無沙汰」と握手である。会場では日本アンチエイジング歯科学会理事の宝田恭子先生による「ねこ背を直せば、顔が若返る〜顔と体幹はつながっている〜」と題して講演が始まっていた。少し興味があり途中からだったが拝聴した。意外と面白く、自分も猫背気味なので気をつけようと思った。
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 15時から記念式典、祝賀会と続く。1期生は入学時149名であったが今回参加したのは35名ほどであった。また式典などの次第が印刷されているリーフレットに各期の物故者名が印刷されていたが、1期生は最多の9名の名が在った。祝賀会は御来賓の方々を除き我々は立食形式であったため同級生が一か所に集まり花を咲かせながら近況を話し合う。
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IMG_2138-1.jpg   IMG_2147-1.jpg   
 中には卒業以来もしくは20数年ぶりという同級生もいたが、顔を見ればほぼ名前が出て来た。当時現役学生とは13歳も離れていたのでかなりおじさんだったが、今では全員54歳以上になっており段々顔のしわも近づいてきている感じがした。但し女性たちはまだまだ若々しい感じがした。これからは年月が過ぎるごとに会えない同級生も出てくるので、同期会には休まず出席したいものである。二次会も和気あいあいで結構お酒がすすんだ。その後、せっかくの札幌なのでボート部仲間の東区で開業しているN君に案内してもらいラーメン横丁で味噌ラーメンを食べてホテルに帰る。
 またマッサージを頼み体をほぐして寝る。

2014年09月15日

尾歯会旅行in博多 PART U

 翌朝目覚めるが昨日のお酒は残ってなくて頭すっきりである。マッサージが効いて良く寝れたせいかもしれない。バイキング形式の朝食を取り9時丁度に出発。
 パンフレットによれば今日の予定は福岡城エリア〜福岡市博物館〜崇福寺〜昼食〜キャッ鑑賞〜帰尾である。しかし時間的余裕を考えれば福岡城エリアで時間を取られるのはまずいと言う事で、マイクロバスの車窓から福岡城の石垣を観るだけにし、福岡市博物館に行く。途中ヤフオクドームあり。これも車窓から。
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 そして博物館では「軍師官兵衛」特別展が有り、1時間ほど観た。管内の展示物には音声ガイドが付いており案内役はNHK大河ドラマで官兵衛の女房「光」を演じる中谷美紀であった。黒田官兵衛については少しの知識はあったが多くの事は知らなかった。この特別展で彼の生涯を理解出来た。これから年末までのNHK大河ドラマを観るのが楽しみになって来た。
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 時間が無く常設で展示してあるものは全く見なかった。志賀島で江戸時代発見された国宝、金印「漢倭奴国王」はぜひ観たかったが残念。またいつかそれを観に来よう。
 その後黒田家の菩提寺である崇福寺に行き、代々のお殿さまのお墓を観たが、とりわけ官兵衛の墓は赤褐色で際立っていた。それにしてもあまりにも大きな墓石にビックリ。
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 それからキャナルシティー横のホテル「グランド・ハイアット・福岡」内にある日本料理「なだ万」で昼食を食べる。綺麗に盛り付けて有り、目を楽しませてもらう。昼食と一緒に生ビールを1杯飲んだがこれが後程影響するとは知る由もない。
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 昼食後、隣のキャナルシティーに移動、13:00からの「キャッ」を鑑賞。席は2階席で少し舞台まで遠い感じがした。私の日記によると2003年11月20日に広島で「キャッ」を観たことが有る。その時席は1階の前の方で少しお値段の高い席だったように記憶している。なお「キャッ」は広島公演中の2003年11月11日に日本初演から20周年を迎えたとかで、中国新聞に記事が出ていたような気がする。そして舞台装置のごみの中に広島カープの帽子が置いて有った記憶が有る。また広島公演は人気が有り3月まで公演が延長されたと思った。私にとってはその時が初めてのミュージカル鑑賞だった。
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 今回2回目の鑑賞だがあまり内容は思い出せなかった。それでも途中の歌でこれは聞いた事が有ると言うのもあり、また最後の場面は確かに記憶が有った。それにしても昼食後のせいか、1杯飲んだ生ビールのせいか前半眠たくて鑑賞しながらうとうとしていたようだ。
 15:30頃終わり、駅に行く。お土産を買ったりしたが予定の列車まで1時間以上余裕がある。博多は始発電車なので必ず座れると見越して1時間早い新幹線自由席に乗り込んで帰宅。指定席券は無駄になったが少しでも早く帰る方が体の為と思った。
 全員が無事に帰れたので会の責任者としてはほっとした。

2014年09月09日

尾歯会旅行in博多 PART T

 この6日・7日に尾歯会恒例の親睦旅行に参加した。今年は「黒田官兵衛の足跡をめぐる旅」と劇団四季の「キャッ」鑑賞で博多方面に出かけた。土曜日の午後尾道を出発、博多到着後駅近くの「八尾治博多ホテル」にチェックインし小休息。良い部屋であった。
 そういえば博多駅には海外旅行の時新幹線で来るが、すぐ地下鉄に乗って福岡空港に行くため、駅の外に出たのは10年以上昔の事、駅がすっかり変り街中が一変しているようであった。
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 その後市内の日本料亭「表邸」で飲み放題7500円のコース料理を食べに出かける。
 ところが宴会が始まって30分ほど経過し、料理も3品目が出たところで突然の停電、どうやらテンパールスイッチが落ちたようである。10回ぐらいスイッチを入れてもすぐ落ちると言う事で店員さんが懐中電灯を持って走り回っていた。私たちの宴会場は1階で、そこには厨房もある。
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 20分位経過したところで、3階にお部屋をご用意したのでそちらに移動してくださいとのこと、この料亭はビルの中にあったが、それでも1階は中庭があり、それらしい風情を演出していた。ところが案内された部屋は窓もないコンクリートむき出しの部屋で情緒は無い。
 お詫びに飲み放題のメニューの中でプラス500円出せば飲めるドリンクメニューを新たに持参されサービスですからどれでも良いといわれる。今度のお酒メニューにはワインや、完熟マンゴジュース等が載っていた。
 しかし待てど暮らせどその後の料理が出てこない。それでも気分的には座敷が変わったので2次会気分、しかも飲むしか他にすることがないのでおおいに飲んで皆でワイワイガヤガヤ。その後また店員さんが、鹿児島の焼酎を1升瓶で持って来て差し入れてくれ、お詫びですと言う。私はビール・日本酒・ワイン赤・白・焼酎さらに完熟マンゴジュースを酒の肴なしで飲んで盛り上がる。結局1時間以上待ってやっと4品目の茶わん蒸しが出て来た。終わってみれば予定を1時間30分オーバーして9時半近い。
 宴会後の予定を組んでいた若い先生方は予定が狂ったと言いながら中洲方面にいかれたが、首・肩の痛い私はホテルに直行。
 ホテル内の天然温泉に入り部屋で45分と60分コースのマッサージ両方をしてもらい寝た。ただお酒に酔っていたのでマッサージされながらうとうとしていて、どの程度のマッサージだったのか記憶が定かでない。

2014年09月08日

孫とのお盆休み

 沖縄の小学生の孫娘2人が夏休みなので尾道に遊びに行きたいと言う。お盆休みなら私も体が空くし、色々遊べて良いからという事でスケジュールを立てた。台風12号と11号が幸い抜けてくれて良い選択だったと思った。
 14日の午後3時過ぎに広島空港に到着。小学3年生と1年生の孫二人が「ANAキッズらくのり」サービスでやって来た。受書にサインをして無事引き取る。良く日に焼けて元気いっぱいである。空港から我が家に連れて帰る途中、お盆ということで墓参りをする。こういう事は今のうちから習慣づけておけば尾道に来る度に墓参りをし、御先祖様ひいては私が墓に入った時も会いに来てくれると思う。
 丁度二男一家と、二男の嫁の御両親が尾道に来られていたので、夜は一緒に食事会をする。
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 その後家に帰っても孫達は大はしゃぎである。翌日は昨夜からの雨が少し止んでいたが、あまり天候が持ちそうにないので戸外は駄目と判断し、神辺のフジグラン内にある映画館に映画を観に行くことに。お盆で観客が多いと思い電話にて予約をする。映画は「ポケモン・ザ・ムービーXY」と「スタンド・バイ・ミイ ドラえもん」の2本を見る事にした。こんな時でないと「ドラえもん」の映画など私は観る事もない。
 出かけてもうすぐ到着という所で下の孫娘が車の中で嘔吐、頭に手をやると少し熱が有るようだ。匂いが充満するので車を止めてシートを拭いたり、孫娘の洋服を脱がせたりして、とにかくフジグランにつく。急いで洋服を買い求める。「映画はどうする」と聞くが上の孫娘は絶対に観ると言うし、下は中々判断できないようだった。映画館前まで行くと観ると言うのでそのまま観る。最初「ポケモン」を観た。3つの話が有ったように思うが最後の「破壊の繭とディアンシ―」はある程度筋が理解できたがセリフには中々ついて行けない。
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 終わって「次はどうする」言うと下の孫は、はっきりしない。とりあえず予約をキャンセルしたが、上は絶対に観ると言い張る。その内、下も観ると言うので入館する。結構おもしろかったのか、下の孫娘も笑ったりして楽しんでくれてほっとする。
 家に帰った頃から熱が出て耳が痛いと言い始める。計ると37.5℃、この程度で小児救急に行っても良いのか迷う。とりあえず解熱鎮痛薬を飲ませ家内は氷枕をしてやる。朝からほとんど何も食べていない。夕飯は手巻き寿司をしたが、1本食べただけであまり食欲が無い。
 飛行機に乗ると子供の場合中耳炎を起こす可能性が有り、過去にもなったことが有るので、抗生剤を飲ませ解熱鎮痛剤を飲ませて寝かせる。明日もしもひどくなれば救急に連れて行こうと話しながら寝さす。私も家内も子育てから遠ざかって30年以上経ち、しかも自分の子供では無いのでどうしたものかと迷う。沖縄の息子に電話したり、向こうからも心配でかけてきたりする。夜中、家内は何回か氷枕を替えたりしたようだ。朝起きて熱を計る。だいぶ下がっていたがまだ微熱がある様だ。
 新聞で今日の救急当番医を探すが尾道は16日には当番医が無い。また市の広報を見たがやはり書いてない。どこかがやっていると言う事かも知れないが、探すに探せない。孫娘の状態は快報に向かっていたので良かったが、この辺りを考えなくてはならない。
 雨も降るし、病気にもなった事で結局どこにも行かず、孫達はTVと子供の患者様のために用意しているアニメのDVD三昧であった。それにしても大事に至らずほっとする。
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 翌17日の11時45分発の沖縄行きに乗せてやっと肩の荷が降りる。ある意味とんでもないお盆休みであったかもしれない。孫達も映画を観るためだけに尾道に来たと言う思い出しか残らなかったかもしれないな。
 世間では「待って良し、来て良し、帰って良し」であるが、家内が「待って良し、来て良し、帰って良し、当分来なくて良し」という。親が付いて来て居れば問題ないのだが、子供たちだけだと、気を使いおろおろするばかりであった。でも孫の顔が見れて良かった。

2014年08月18日

「日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと」を読んで

 まもなく69回目の終戦記念日がやってくる。このところ新聞やTVで色々特集を組んだりしているがその扱いに少し疑問が湧く。戦争は自分から絶対にしてはならないと思うが、仕掛けられたらどうするのか?69年前になぜ戦争をしたのかその戦争の本質は何だったのか、あるいは敗戦によって日本はどのように変化して行ったのか色々考える事が有る。あまりにも一方的な報道の仕方には、ほんまかいなと思ったりする。
 ところでこの本は今年1月致知出版社から発行され、著者は高橋史郎氏である。
この本のカバーには「戦後思想とか戦後教育の問題は、すべて占領軍の目を気にしたおびえのような自虐意識からうまれています。その原点をきちんと実証的に解明して「それは誤解である」ということを世界に向かっても日本人に向かっても明らかにして「日本を取り戻し」たいというのが、私が本書を書いた一つの目的ですとある。
 著者は占領文書250万ページを読破して明らかになった占領政策を色々の観点から検討している。それにより我々が如何に義眼でものを見ているのか理解できた。
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 この本の14ページから16ページに次のようなことが書いてあり、いみじくもこの本の内容を簡潔に表している。引用してみる。
「尾崎一雄という小説家の『虫のいろいろ』という作品の中に「蚤(のみ)の曲芸」という話が出てきます。
ノミは小さな虫ですが、自分の背丈に比べると ケタ外れに長い距離を飛ぶことができます。 だからノミに曲芸を仕込むのは至難の業です。
そこで曲芸師はどうするか。 最初はノミを小さな丸いガラス玉の中に入れるのです。
ノミはガラス玉の中で得意の足で跳ね回ります。 しかし、周囲は固いガラスの壁ですから、いくら頑張ってもそれ以上高くは飛べません。そのうちノミは跳ねることに絶望し、やがてガラス玉の中だけが自分の世界だと勘違いして飛ぶのをやめてしまいます。
そうなったところで、曲芸師はノミをガラス玉から取り出します。しかし、自由な世界を与えられても、ノミはもう飛ぼうとしません。飛ぶことを忘れてしまっているのです。
曲芸師は飛ばなくなったノミに芸を仕込んで、ようやく舞台に出すのです。
この話を読んだとき、私は同じことが戦後の日本に、そして今の子供たちに起きているのではないかと思いました。
 たとえば、今は「引きこもり」や「うつ」など、生きる力を失っている子供が増えています。 少年非行にしても、昔はエネルギーがありあまってそれを外に向けて発散するような形のものが多かったのですが、最近は「本当にこの子が事件を起こしたの?」と思うような子供が事件を起こしています。
 私はこうした子供たちを「心のコップが下を向いている」といっています。内側にこもって、自分の小さな世界から外に出ることができないのです。
 なぜそういうことになるのでしょうか。原因はいろいろ考えられますが、親子関係でいうならば、親が子供に否定的な言葉を投げかけ続けることによって、こういう子が増えています。
 これを「やっつけメッセージ」といいます。「お兄ちゃんはいい子なのに、あなたは何をしているの。「早く、早く、早く」という否定的な言葉のメッセージです。毎日こうした言葉を投げかけられた子供は心にフタをしてしまいます。
その結果、本来備わっているはずの「発達力」や「生きる力」を引き出せないまま成長してしまうことになります。

 これを日本の国で考えるならば、フタをしたのは占領軍の「ウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム」でした。
「日本人に戦争犯罪の意識を刷り込む情報宣伝計画」のことです。
 このウォー・ギルド・インフォメーション・プログラムを日本人に対して行う源流となったのは、ルース・ベネディクトの著した『菊と刀』に代表される「日本人の国民性」論、日本文化論でした。 それがそのまま占領軍の目になったのです。」 参照ここまで。
 この本は資料をもとに真実が書かれており、そこにはアメリカによる日本人の「精神的武装解除」が徹底的になさ、弱体化した現在の日本人の精神構造が有ると思いました。
 先日TVで日本、・韓国・中国の若者たちが討論している番組が放送されていましたが、韓国や中国の若者たちはそれなりに愛国心や韓国人や中国人としての誇りを持っているようでしたが、日本の若者は「自分はたまたま日本という土地に生まれただけで、日本国にも日本人たる自覚も無い」というような発言をしていました。まさにアメリカによる「ウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム」の結果だと痛感しました。

 感情論に流されやすい日本人にとって本当の日本人としてのアイデンティティーを取り戻すには一度読んでみる価値のある本では無いかと思います。
 マスコミによる一方的な報道を鵜のみにしないで、他にも本当の歴史を知りたなという想いは募る。そして政府広報紙の後ろ向きの女の子に真実を語る事が出来たら良いなと思う。
 先ごろ朝日新聞が従軍慰安婦問題の記事を削除しましたが、やはり確かな資料をもとにした報道がなされるべきだったと思います。

2014年08月13日

新釈古事記伝

 このほど阿部国治著・栗山要編の「新釈古事記伝」第1集から7集が致知出版社から4月に発行され早速取り寄せ今、4集目まで読んだ。
 『古事記』は名前こそ歴史の授業で稗田阿礼の暗誦を太安万侶が漢文字に表したと習ったが、そこに何が書いてあるのか内容は全く知らなかった。大国主命と因幡の白兎の話が『古事記』にあるなんて想像だになく、お伽噺か民話かと思っていた。
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 「新釈古事記伝」は阿部国治氏の「ふくろしよいのこころ」が原典である。
 「ふくろしよいのこころ」の中で、阿部国治氏は「『古事記』は大和心の聖典(ひじりのふみ)であって、また、大和心は人の心の中で最も純(きよらかな)心で、『古事記』はこの大和心の有り様を示しております。人の創る家、村、国の中で、最も純(きよらか)なのは、神の道にしたがって、神の道の現れとして、人の創る家、村、国であります。『古事記』はこの神のあり様と、神の家、村、国の姿と形を示している聖典であります。これほど貴い内容を持つ『古事記』が、現代においては、子供たちが興味を持つに過ぎないお伽噺として留まっているのは、間違いも甚だしいと言わなければなりません。こんな有様ですから『古事記』の正しい姿を明らかにすることは、いつの世においても大切ですが、現代の日本においては、殊のほか大切なことであります。・・(中略)・・・実に『古事記』というのは、汲んでも汲んでも汲みきれない魂の泉と言ってもいいと思います。」 昭和16年6月  阿部国治 と書かれている。
 今から73年も前に著者が日本人の心・魂を嘆いていたことは、今はもっと大きな
嘆きになっていると感じられる。
 これも戦後アメリカに敵対した日本の復活を恐れ、GHQが日本人の歴史や精神的なもの、あるいは剣道や柔道も含めて日本人の魂に関係する様なものを全て禁止し日本人の心のよりどころの抹殺を計った。そのためこの書物も絶版となっていたがこのほど阿部国治門下生の栗山要氏が編纂しなおし世に出た。
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 それぞれの物語は、「原文」、「書き下し文」、「まえがき」、「本文」、「あとがき」という形で構成されているが、私には「原文」の漢文字はほとんど読めない。「本文」は著者の心血を注いだ処でありこの「本分」が圧巻である。また「あとがき」は著者が心の中に浮かぶことをそのまま書いており、参考にして頂きたいとされている。
 第一集では大国主命が荷物を入れた大きな袋を背負っておられるが、なぜ袋を背負う事になったのか、またその意味するところ何なのかをそれこそ本当の親切心、本当の愛の心、思いやりの世界を御示しになっている。「できるだけたくさん、他人の苦労を背負い込むことを喜びとせよ」と教えられている。
 先日大相撲で豪栄道が大関昇進に当たって「これからも大和魂を貫いてまいります」と口上を述べたが、この大和魂こそ「袋背負いの心」だと阿部氏は書いておられる。
 この「袋背負いの心」が今は少なくなり最近色々の事件が発生している。
 本の帯に「私たちの日本は、高度成長期を経て、物質的には有史以来の繁栄を謳歌しておりますが、その反面、精神面が疎かにされ、精神復興の声が野に満ち満ちております。この様な状況下で、原始日本人の叡智と祈りに、心ある人々の目が向けられ始めました。」とある。
 まさにこの精神的荒廃が殺人事件や、おれおれ詐欺等の犯罪をもたらしていると思う。教育現場でぜひ古事記を取り上げ、古来から受け継がれている大和心を未来に繋げて欲しい。

2014年08月03日

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