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外部グログ

大先生(元院長)のブログ

名古屋観光

 昨夜寝たのが遅かったのだが、せっかく初めて名古屋に来たのだからどこか観光しなくてはと思う。11時過ぎの新幹線を予約してあったので、観光する時間はわずかしかない。何しろ初めての名古屋である。どこを見るか考えあぐねた結果、「尾張名古屋は城で持つ」の言葉を思い出し、名古屋城は見たいと思う。そして尾張といえば織田信長、桶狭間の戦い、熱田神宮と連想ゲームよろしく熱田神宮を思い出し参拝することにした。ホテルのチェックアウト時に場所を聞くとそれぞれホテルを中心にタクシーで20分以内だという。
通りに出てタクシーを拾う。まず熱田神宮へ参拝し家内安全と旅の無事を祈願することにした。たまたま拾ったタクシーは個人タクシーで、年配の人の良さそうな運転手さんだった。途中いろいろ会話しながらいく。初めて名古屋に来たこと、熱田神宮と名古屋城を見たいが両方まわることができるか聞く。また予算的にはどれくらいかと聞くとおよそ5000円くらいだろうと言うのでお願いした。
 熱田神宮に着きタクシーには待っていてもらい、参拝する。さすが立派な神社である。
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 入口の鳥居の横の高い木に大きな鳥がとまっていてビデオカメラを回している人が多くいた。聞くと鶏(名古屋コーチン?)なのだそうだ、放し飼いにしているせいか、高い木にまで飛べるらしい。驚いた。
比較的朝が早かったせいか、巫女さんたちが本殿の柱などの拭き掃除をしていた。またボランッティアの人たちが竹ぼうきで玉砂利を掃き清めていた。
 お日柄が良いのか神宮内の結婚式場に向かう新郎新婦の姿や、七五三が近いせいか参拝され記念写真を撮っている子供連れのお父さん・お母さん・おじいさん・おばあさんたちの姿もあった。
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 割合ゆっくり参拝したので、名古屋城は中まで入ってみていると時間がなくなるということで、お城の周りを一周しながら、お城がよく見えるところで停車してもらって観ることにした。タクシーのメーターは動いていたのだが途中5000円になったところでメーターを切ってさらに廻ってくれた。運転手さんいわく、「最初に5000円だと言ったのでそうさせてもらう」とのこと。気の毒な事をしたなと思ったが有難かった。
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 名古屋城、さすが御三家のお城だけあって大きい、空襲で焼けて再建した天守閣だが金の鯱鉾は輝いていた。タクシーの運転手さんが話していたのだが、「名古屋は観光化していない。そのため神社や仏閣が京都のように解放されていないので中々見学できない。もう少し観光に力を入れてくれれば、わし等の商売も少しは潤うのだが」と言っていた。
途中いろいろ解説をしてもらいながら最後名古屋駅まで送ってくれて無事新幹線に十分間に合う。次回名古屋に来た時のお土産を決めるため、駅のキオスクでいろいろ試しに買った。えびせんの「ゆかり」、「外郎」、クッキーの「なごや嬢」、お漬物の「守口漬」、「手羽先の空揚げ」、そして「赤福饅頭」を買って帰る。まだ全部食べてないので優劣つけがたい。

2012年10月16日

初めての名古屋で同期会

 先日13日に、歯科大学の同期会が名古屋で行われ参加した。名古屋は39年前、広島で結婚式を挙げ、勤務していた茨城県の日立市まで帰る途中、紀伊白浜・那智勝浦・伊勢志摩を新婚旅行し、近鉄から新幹線に乗り換えるため1度だけ名古屋駅のホームに降り立ったことがある。後はいつも素通りで新幹線の車窓から見るだけの街であった。
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 われわれの同期は歯学部1期生ということもあり、卒業時でなく入学時の仲間で同期会を組織している。149名が入学した同期生だがすでに5人が他界している。
最初のころは5年に1度くらいのペースであったが、前回は同期生のうち私を含めて4名が還暦を迎えたということで、特別に4年前に開催された。今回、北は北海道から南は沖縄まで34名が集まった。
 私は13日の当日に出かけたが、中には前の日から名古屋入りして盛り上がっていた連中もいた。愛知県在住の3名が幹事をしてくれて楽しい会であった。
私が一番長老で、入学した時13才年下の同級生からはずいぶん老けた同級生だと思われ、「おじさん」と呼ばれたり、「日本兵」と呼ばれたりしていた。今回皆と会ってみて、彼らもそれなりに年をとって来たのでその差があまりなくなってきている。
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 一次会は名鉄グランドホテルで行われ、恩師のE先生(私より1歳若い)も駆け付けて話に花が咲く。同級生の多くは息子や、娘たちが大学に在学しているとか、受験期だとの話が多く、子育ての最終コーナーにかかっているようだ。まだ親の介護の話は出てこなかった。
 また昨年の3・11の津波で診療室が流され、現在借り診療所で診療している石巻市のT夫妻(二人とも同級生)も来て、われわれが以前カンパしたことにお礼を述べた。
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 母校の教授になっているK君やO君の話によると今の学生は教授が黒板に板書してもノートは取らず、デジカメやiPadで写真に収めているとのこと。我々の頃と大いに違ってきている。しかし本当は板書をノートに書くことで記憶も深まっていくのに、此の横着さが学生の留年や国試合格率に関係しているのではないだろうかと思った。
2次会は名古屋の繁華街、錦のクラブに出かけ、さらに学生時代のエピソードなどに話がはずむ。その後は三々五々別れた。
 私は沖縄のT君とショットバーに入って三次会さらに語り合う。彼とは学生時代、同じボート部で私はバウ、彼はコックスとしてチームを組んで石狩川の茨戸で漕いだ。当時の話や、同窓会の在り方、また歯科医師会の在り方など色々話す。また沖縄に移住した私の長男とは前日の12日の夜一緒に飲んだと話をしてくれた。日ごろ息子は何も知らせてくれないのでT君から息子の様子を聞けてよかった。ホテルに帰ったら午前1時半を過ぎていた。
 次回は同窓会が創立されて30周年になる2年後札幌でと決まった。

2012年10月15日

花崗岩とむし歯の関係

 私が)毎月購読している歯科の雑誌に「歯界展望」があるが、その9月号に面白い記事が掲載されていた。題は「地図を見れば、病気が防げる!?  西日本の子供にむし歯が少ないワケ」 福山市で開業されている歯科医の大石憲一・大石恵美子先生が執筆されていた。
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 記事によるとお二人の先生は岡山市、滋賀県北部(現、長浜町余呉町)、福山市で幼児・学校検診に携われた。その時“むし歯のない子・少ない子”と“むし歯がいっぱいの子”という二極化、いわゆる「健康格差」に気づかれた。特に福山では“むし歯のない子・少ない子”の割合が多いと実感された。たまたま福山市内のスーパー銭湯で温泉の水質検査項目にフッ素イオンが水質基準の6倍が含まれていることを目にされた。それなら水道水にもフッ素イオンがあると考え、福山市の水道の水質検査表を調べると基準値内ではあるがフッ素が含まれていた。このことが福山においてむし歯の予防に関係しているのではと仮説をたてられた。ところでむし歯予防に有用なフッ素であるが、飲み水にある一定量以上のフッ素が含まれると歯のフッ素症(斑状歯)が発生することは良く知られている。それではなぜ福山の水道水にフッ素が含まれているのか疑問を呈された。たまたま東北大学の相田潤先生の論文を目にされた。それは3歳児の市町村ごとのむし歯の割合を疾病地図にしたものである。
 それによると北海道や東北、南九州などではむし歯が多い地域があるが、東京・名古屋・大阪等の大都市や西日本・北四国・九州北部にむし歯の少ない市町村が集中していた。さらによく見ると同じ県内でもむし歯の多い地域と少ない地域の境界線があるのに気付かれた。図書館で地質学に関する文献を見ると「花崗岩」の分布とむし歯の少ない地域の分布がよく似ていたことを発見される。さらに調べると花崗岩はほかの岩石に比べてフッ化物が高濃度に含まれていることを知った。「むし歯予防」と「花崗岩」がつながったと瞬間と書かれていた。面白い発見をされたものだと感心した。
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青い部分が花崗岩の分布で、黒点が水道水に0.3ppm以上フッ素が含まれる地域
つまりドリップコーヒーを入れるのと同じイメージで、雨水が地中の花崗岩層を通過するときにフッ化物が溶出し、フッ化物を含んだ地下水や、湧水、伏流水が我々の飲み水になるとのこと。
 福山がそうなら尾道も子どものむし歯が少ないのではないかと思う。しかし残念ながら3歳児で見る限り、「1本もむし歯のない子供」の割合は広島県の平均値や全国平均値より少し低い。そこで水道水に含まれるフッ素の量をインターネットで調べたが尾道市の水道水の水質検査データーは公開されていないようである。
 ところで尾道の場合、水道事業が大正14年に始まったが、私が住んでいるところから少し奥の地域では、つい数年前に水道が通った。その地域から来院されるある程度、年齢が経られた患者様の中には軽度のフッ素症と思われる歯をした方もいらっしゃる。この方たちは長年井戸水を飲んでこられたので軽度のフッ素症になったのかもしれない。 今では尾道には石切り場などが無くなったが、私が小さい頃には、千光寺山の栗原側や、門田水源地のところには石切り場があり、花崗岩が多く産出されていた。また昔から尾道には石工が多く住んでいて神社仏閣にその名残をとどめている。大石先生が考察されるように尾道でも飲み水に含まれるフッ素の影響はあると思われるが、尾道市の3歳児の「むし歯を持つ子供」の割合が平均よりも多いのは何か他の要因があるのかもしれない。それにしても面白い記事を目にした。

2012年10月07日

京都観光

17日、朝起きてTVのニュースを見ると台風16号は九州の西側を抜け朝鮮半島に向かっている。幸い京都は晴れて風もそれほどでない。市内観光をすることにしヤサカタクシーに電話、5時間コースをお願いする。運転手さんに有名な所はある程度観光していたので、そのようなところで無い所をお願いした。しばし考えられて、とりあえず北に向かって洛北方面に走った。
最初は岩倉にある東山天皇の中宮・承秋門院ゆかりの実相院門跡を見学。ここでは板の間に移る庭の景色が綺麗である。特に秋の紅葉のころは素晴らしいらしい。なおこの建物は旧御所の客殿との事。
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  実相院門跡の枯山水                  圓通寺の枯山水
次ぎに同じく岩倉にある後水尾天皇が造営された幡枝離宮の跡である、圓通寺に参拝した。現在は妙心寺派大悲山圓通寺。ここの庭園は霊峰比叡山を借景にした枯山水平庭で国の名勝に指定されている。都会の喧騒も無く、静かで心地よい風が吹いていた。縁側から遠く比叡山を眺めながら心静かに庭を鑑賞していると「つくつく法師」のせみの声が良く聞こえ、心を落ち着かせてくれた。
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                      曼殊院門跡の庭 
次ぎに訪れたのは曼殊院門跡ここには国宝の「黄不動尊」が有名である。また襖絵には狩野派の有名な絵師、狩野探幽や狩野永徳たちが名を連ねていた。庭は枯山水で見事な感じがした。ただ残念なことにコケが今年の暑さで至るところ緑を失い茶色に変色しているのが気になった。たまたま庭を手入れしている人に聞くと、秋になれば緑が戻ってくるとの事。この広い庭の手入れをする人が2人だとは驚いた。
これで時計は12時前、どこかで昼食をしなくてはならないが、解らないので運転手さんに任せる。蕎麦料理の「権太呂」に案内された。昼時で次から次へのお客さんにびっくり。そば粉は北海道旭川・幌加内のそば畑で取れた玄そばを石臼びきして作ったものを使用しているとのこと。私は鴨南そばの定食を食べた。お値段もそこそこであった。このような時の表現方法に「高かったが美味しかった」と言う言い方と「美味しかったが高かった」と言う表現があり微妙な差がある。私の場合、今回は後者の表現が当てはまる気がした。
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  権太呂
その後、豊臣秀吉の側室「淀殿」が父・浅井長政の追善の為、建立した養源院に参拝。この寺は一度焼失し、現在の建物は淀殿の妹「おごうの方」の尽力により、徳川秀忠が再建したものである。天井板は伏見城落城のおり、鳥居元忠以下の将士が城を死守し、最後に自刃した廊下の板の間を天井として使用している。今でも血のりの後に人型が見え、「血天井」として名高い。ここでは御住職自ら説明をして下さり、杉戸には中学時代の美術の教科書などのも出ていた、「俵屋宗達」描く象、獅子、麒麟などの絵が描かれていた。また本堂の廊下はすべて左甚五郎の造ったうぐいす張りで歩くと音がした。
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   養源院                       俵屋宗達の絵    
その後、直ぐ近くの方広寺に行く。ここは改修中なのかお寺の屋根しか見えなかったが、梵鐘を見ることが出来た。この梵鐘に刻まれた碑文の中に「国家安康」「君臣豊楽」という文字があり、これに家康が難癖をつけて豊臣家を滅ぼすきっかけとなったものである。より歴史を身近に感じた。
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    方広寺梵鐘
5時間はあっという間に過ぎた。京都駅では帰りの新幹線の発射時刻まで2時間半あり、京都駅の中をうろうろし見て廻った。屋上まで上がってみると、南側の風景が良く見えた。
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  京都駅ステーションビル                屋上からの眺め
喉が乾いてしゃれたお店でコーヒーかジュースでも飲もうと思ったがどこもいっぱい。順番待ちに並んでいる。尾道では考えられない光景である。ステーションビル内はどこも人があふれ、都会は人と人との距離が近すぎて息が詰まる感じがする。結局ミスタードーナツでカフェオレを飲んだ。安上がり。台風の影響も無く無事尾道に帰り着く。

2012年09月23日

母の納骨

 先日の16・17日の連休を利用して京都西本願寺に納骨に行った。母が亡くなって2年半が過ぎ、それまで仏壇においていた喉仏さんを納骨した。納骨後京都観光をしようと思い、一泊2日でパック旅行を旅行会社に申し込んでいのだが、台風16号が近づいてきており、今更変更も出来ずどうなるか心配しながら出かけた。
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 納骨場所は西本願寺と少し離れた清水寺の横の大谷本廟になる。5年前に父の納骨の時は受付けに小一時間掛かったが今回は割合空いていたせいかスムーズに受け付けてもらって、首尾よく納骨できた。西本願寺では納骨の仕方に2種類ある。祖壇納骨では骨の返却は無理だが私は無量寿堂納骨で、檀家のお寺さんの納骨場所に入れさせていただいた。この場合だといつでも返却可能だとの事。お墓にはすでに二人を納骨していたが、西本願寺ではこの度やっと父と母の骨がそろい、寂しい思いをしていた父も喜んでいると思う。
ところで奇しくも父親の納骨日と同じ9月16日であった。これも何かの縁なのか。
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 納骨後は西本願寺に戻り、阿弥陀堂に参拝し、お経を聴いた。また5年前は修復中であった御影堂にも上がり、内陣中央に安置されている、親鸞聖人の御真影(木像)に手を合わさせていただいた。1636年(寛永13年)に再建されたこの御影堂は1999年より10年の歳月をかけ親鸞聖人750回大遠忌法要に合わせ大修復工事が終わり見事なたたずまいを示していた。
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 このたびは少しゆっくりし広い境内を見て廻る。中に本願寺の大銀杏といわれる銀杏の木が有り、その枝の素晴らしさに感心した。
ここに来ると何かしら心の平安が得られるようでほっとする。
 ところで、大谷本廟から帰る途中の階段のところで朝市の露店があってその中に似顔絵を書いている若者がいた。丁度子供さんを画いていたのを観ていると、大人でもよいということで、家内と二人それぞれに書いてもらった。家内の場合は年齢に詐称アリほどの若さに仕上げてもらっていて随分ご満悦であった。私は少し若振りにハンサムに仕上げてもらったようだ。
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 そのほか箒やタワシなどを売っているお店も有り、私は垢すり用に背中をこするタワシを買った。 
 西本願寺の参拝を終え、タクシーで今夜の宿屋「花月」に向かった。
最近はホテルに泊まることが多く、久方ぶりの日本宿と思っていたのだが、最近改装したのか、京都の古風さには似つかわしくないような和式と洋式が折衷したようなつくりであった。それでも露天風呂や、檜の湯船があり落ち着くことが出来た。食事も部屋で食べれたし、料理も美味しかった。
大役を終わらせたせいか、ビール2本で酔っ払い、早めに寝る。ニュースによると台風16号が大分近づいてきているようで、明日の観光が出来るかどうか不安である。

2012年09月20日

雨漏り

 少し前の話になるが、6月の半ば梅雨時、食後、院長室で仕事をしていた時の事、その夜は少し強めの雨が振っていた。突然家内から「おとうさんたいへん上がってきて」と内線電話が入る。
何事かと思って上がってみると、何と、天井から大粒の水滴がぼたぼたと落ちてきている。急いでバケツや洗面器で受ける。雨漏りがしているのである。しかも雨漏りは天井の明り取りの部分からである。夜遅かったが急遽S工務店のNさんに電話し、明日見てくれるように頼む。
 昔、小さい頃、雨漏りのため、親に夜中起こされ、寝る場所を移動し、雨漏りがしている所に、洗面器や鍋などを置いていた光景を急に思い出す。
幸い雨は1時間ほどで小降りになり、雨漏りもしなくなる。
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 翌朝、Nさんが瓦屋さんと一緒に来て、屋根を点検してくれた。私の家の屋根は寄棟型で、東と西の面にドーム型の明り取りがある。ドーム部分は銅版で覆われており、瓦屋根とドーム部分の境目も銅版で処理をしている。
ところで歯科医院を建てた時、屋根だけは瓦で無いといけないと、設計士の方が譲らなかった。ただドーム部分は半円状なので瓦が使えず銅版処理となった経緯がある。しかし屋根に銅版を使うことは日本では神社などの屋根に使われ何百年もの歴史がある。
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 ところがNさん達が調べた所、屋根とドームの間のつなぎ部分の銅版に穴があいていた。そのためそこから雨漏りがしたのだと言う。とりあえず応急処置をしてもらい、修理することにした。そして先日修理が終わった。
こんどは屋根とドームのつなぎ目をステンレスにしてもらう。
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 それにしても築25〜6年で銅版に穴があくなんて信じられない。原因を考えてみたが、一番は酸性雨だと思う。それと国道脇にあるため、自動車の排気ガスも影響しているかもしれない。
 酸性雨の大半は中国大陸からのものだと思う。昔40年以上も前、日本では工場からの煙には公害対策がなされて無かったので、随分と酸性雨があり、山の松などが枯れた時代があった。今ではそのような工場は皆無である。一方、今の中国大陸の工場では脱硫装置などを施して公害対策をした工場は無と聞いている。そのため亜硫酸ガスなどが日本海を渡りやってきて、硫酸の雨となって降ってくる。「そんな、大陸からここまで亜硫酸ガスがやってくるなんて」と思われるかもしれないが、それが証拠に春先、黄河流域で発生した黄砂が日本上空にやってきて車などに降り注いだり、洗濯物を汚したりする。いとも簡単に大陸のものがやってくる。昔なら何百年ももつはずのものが、25年やそこらで駄目になる。由々しきことである。
 今度治したステンレスは硫酸には強いが塩酸には弱いと言う欠点がある。また25年後には修理が必要なのかな?

 ところで世の中では原発反対、原発をやめて自然エネルギー(再生可能エネルギー)をと言っている人たちが多い。その中には太陽光発電を推奨する人も多くいらっしゃる。しかし今回、我が家の屋根で起こったことを考えると、大丈夫なのかと少し心配になる。
 と言うのも太陽光パネルは常に表面がクリーンで無いと発電効率は落ちる。
春先の黄砂や日頃の埃でパネルが汚れれば所期の発電量が確保出来ない。そうかと言って毎日屋根の上に上がってパネル表面を掃除することも難しい気がする。まして掃除中に誤って屋根から落ちたら死ぬかも知れない。それに酸性雨などのため、太陽光パネルの部品などがさびて寿命が短くなる恐れもある。発電した電気を電力会社に売ることでパネル代金をチャラに出来るなどとPRされているが、そのような事も考慮して説明されているのだろうか?
もう少し我が家では太陽光パネルの導入は様子見である。

2012年09月12日

台北旅行 PART 6

 最終日、飛行機の出発時間は16:55である。午前中は少し自由時間が有る。そこで、家内の旅行目的「マッサージ」を完璧に達成するために、もう一度マッサージをして帰国することにした。昨日行ったマッサージ屋に電話した所、11時から開店であったが、帰国する事情を話すと10:20に来て下さいと言われ、10時にホテルをチェック・アウト。荷物はホテルに預かってもらい、マッサージ屋に直行。
 私は若い男性であった。力だけが強くあまり気持ちよくはなかった。やはりある程度年齢のいったベテランで無いと駄目だな。家内は女性にしてもらい、今回の旅行の中で一番良かったとか。膝や足のほうもかなり良くなったようだ。終わりよければすべてよしである。
 昼食はマッサージ屋に近いこともあり、また「大和」に行き「焼き鯖定食」と「納豆巻」を食べる。ちゃんと味噌汁や大根おろしなどがあり美味しかった。納豆巻は納豆がきざんでなく、そのままだったので興ざめである。
 タクシーでホテルに帰るが道路の関係で簡単に左折や右折が出来ない。あちこち曲がりながらホテルに着いたら結構予定していた金額よりも高くなる。小銭で払った。これが後で失敗だと解る。
 飛行場行きの乗り合いバスは隣のリーゼントホテルの前から出る。30分に1本くらいらしい。バスの時刻表は無い。
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バス停から見たリーゼントホテル、        私が泊まった部屋からのリーゼントホテル
 発車した後なら30分、外で待つ覚悟でとりあえずホテルを後にしてバス停に行く。幸い15分ほど待ってバスが来る。空港までは90元、先ほどのタクシーで小銭を使っていたので100元の札を料金箱に入れたがお釣りはくれない。仮に500元札を入れても同じ扱いだ。タクシーでお札を出しておつりをもらっておけばよかった。日本では考えられないシステムである。
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 空港には出発3時間前に到着。従業員へのお土産などを買い搭乗。今までこの飛行機には2回ほど搭乗したが時間通りに搭乗したことが無い。今回は何故か定刻どおりに搭乗できた。ところが待てど出発しない。乗り継ぎ便が遅れているとか。結局40分遅れでテイクオフ。途中四国松山付近?で花火が上がっているのが見えた。かなり下の方に見え、直径3センチくらいで可愛かった。花火を飛行機から見たのは初めて。飛行機から初めて花火を見た。何とか無事に広島空港に到着
今回の旅行の目的を、私も家内も達成できて大満足である。

 次の日16日から私は仕事が始まる。そこで家内に「魏さん」との約束の一つ、広島市にお住まいのMさんへ、お土産を預かっている旨メールで問い合わせをしてもらう。私が台北に大叔父・東方孝義が編纂した「台日新辞書」買いに行って魏さんとの出会いがあった事など経緯を書いてもらった。Mさんのお返事では、彼が独力で台湾語を勉強し、今も勉強し続けていること、そして大叔父の「台日新辞書」を座右にし、今なお使用していると書かれていた。また台湾で復刻した「台湾習俗」もお持ちとのこと。
改めて大叔父の偉業が時空を超えて今なお生き続け、しかもこの広島で活躍していることに大いに驚いた。
M様には無事魏さんのお土産をお届けすることができた。
後はグラフ誌「HIROSIMA」を探すことだがかなり難しいかも知れない。時間を見つけて古本屋を当って見ようと思う。

余話
 ところで日本で復刻した「台湾習俗」と南天書局の復刻した「台湾習俗」を帰国して改めて対比したところ、本の大きさだけでなく、中身に少し違いがあった。
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日本で復刻したP165                    台湾で復刻したP165
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日本で復刻したP173                    台湾で復刻したP173
 日本で復刻したものは途中の文章に墨が入れられていたり、あるページの一部が白紙のままだったりしていた。多分、戦後大叔父たちが台湾から引き上げる時に検閲を受けてそのように成ったのではなかろうかと思う?
そういう意味で南天書局の復刻本がよりオリジナルに近いのではなかろうか。

今回の台北旅行なかなか有意義な旅であった。また行きたいと思う。

2012年09月02日

台北旅行 PART 5

 三日目、何も観光旅行をしていない。そこで昨年秋に行った故宮博物院を見学することにした。昨年行った時、ガイドが早く行かないと見れなくなると言っていたのを思い出し、開館前に行く。入場券を買い、日本語案内の音声ガイドを借りて見学。10人目くらいで入場した。直ぐに3階の301陳列室行き、翠玉白菜と豚の角煮に似た肉形石をゆっくり見て、1時間半ほどをかけて3階全部を観た。入場してから30分くらいで多くの見学者が来てうるさく、ごった返す。その後2階に行き磁器などの展示物を観た。家内は途中で足が痛くなったと言うことで、展示室にあった椅子に座って待つ。私は何とか駆け足で2階の展示物もほとんど見ることが出来た。まだまだ観たり無いが3時間ほどで切り上げ博物院を後にする。タクシーで中心街に向かい、昼ご飯は、再度日本料理の「大和」にした。肉うどんを食べる。結構いける味であった。その後昨夜行ったマッサージ屋に行く。故宮博物院の見学でかなり足が疲れていたので70分をしてもらう。その後街中を散策しながらホテルまで帰る。
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                          街中点描 
 両替したお金が少なくなったので再度両替しようと思ってある銀行によったところ、「300元の手数料が必要だが、もう少し先にある「台湾銀行」なら手数料が掛からない」と銀行員が親切に教えてくれた。歩きながら通行の人に台湾銀行の場所を聞いたが解らない。そこへ通りかかった日本人の女性が我々のやり取りを聞いていて日本語で教えてくれた。行ってみたが着いたのが15:37で銀行は15:30で終わっていた。残念。
 ホテルに帰り夕方の魏さんとの夕食に備え少し休んだ後、地下鉄で南天書局に向かう。今回はスムーズに行けた。魏さんと色々話す中で、彼は非常に地図に興味をもっており、特に鳥瞰図に特別の想いがあるようだ。その中で「大正の広重鳥瞰図絵師」と言われる吉田初三郎に興味を持たれていた。私はその人物を知らないと話した所、2004年9月に「台北建城120周年記念展覧会」が有り、その時、魏さんが主編となり作成した図録(台北市政府文化局出版)を持ってこられ、その134ページに初三郎が描いた台北市鳥瞰図が掲載されていた。その図は台北の南から見た図で絵の上方、北にあたるところには、門司、神戸、大阪の文字そして富士山までが描かれていた。
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       台北建城120周年図録表紙           台北鳥瞰図(初三郎)
 私たちが広島から来ているということで、広島の「広島印刷(後の広島図書)」が1949年に発行したグラフ誌「HIROSHIMA」に初三郎が描いた、原爆投下前後の鳥瞰図が載っていると思われるので、もしも手に入るのならそのグラフ誌を探してほしいとお願いされた。2002年・平凡社発行の「太陽」にそれらしきものがあるとのこと。そこで捜せるかどうか解らないが、古本屋をあたってみると答える。
 日本と違って食事の時間が遅いのか、レストランの都合なのか、南天書局でゆっくりした後、まず台湾大学近くの喫茶店(?)でパパイヤジュースとマンゴーが一杯載ったカキ氷をご馳走になる。どちらも美味しかった。
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       かき氷カフェー                樟山寺
 それからやっと車で市街地とは反対側に向かって出かける。多分南東の方角ではなかったかと思う。台北市立動物園の横を通り、国立政治大学の横から山に登って行く。くねくねした道をかなり走る。そして着いたのが樟山寺と言うお寺である。そこからは台北の中心部の夜景が綺麗で台北101のタワーも良く見える。どうやら私たちにこの夜景を見せるために出発時間を調整していたらしい。この山には猫空というロープウエイの駅もある。魏さんの話ではこの山一帯はお茶畑のようである。
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       台北101を望む夜景                茶房
樟山寺からまた暫く走って、ようやく山水客という茶房(ティーハウス)につく。9時を廻っていた。この山一帯に150軒ほどの茶房があるとか、来る途中ちょうちんを飾ったり、電飾をした茶房がたくさんあった。
 魏さんが言うには台北の人たちは涼を求め昔からここに来て食事をするのだと言う。メニューの内容は台湾の田舎料理との事、先ほど「マンゴー盛りカキ氷」を食べたばかりなのでそんなに食べられないことを告げて、後は魏さんにお任せした。
素麺のようなヌードルを茶油で炒めたものや、鶏1羽を茶油で揚げてぶつ切りにしたもの、当然お頭つきである。海老とマンゴーの入った野菜サラダ、あげ豆腐のようなものが出てきた。また魏さんが家で漬けたオリーブのお酒を持ってきてくれて飲ませてくれた。少し甘みがあり、日本の梅酒の感覚である。4年物だと言っていた。この茶房からも台北の夜景が良く見えた。
 食事後、魏さんの家がこの近くなので、ぜひ寄ってお茶を一杯飲んでいってくれと言われ、家にまで上がりこむ。
 コンドミニアムのようであったが、ものすごく広い大きな家であった。たまたま奥様は孫と一緒に里帰りをしていて自分ひとりだという。玄関を入ると直ぐ応接間のようで床から天井まで作りつけの本棚があり、びっしりと本がある。
聞けば全部台湾関係の本だと言う。また地図なども多く保管されていて、さながら図書館に来たのかとおもうほどであった。中国式のお茶の入れ方で歓待してもらった。お茶を飲みながら話す中で、現在広島に在住するMさんが、かって商社マンとして台湾在中のとき友人となったが、今は疎遠となっている。そこでMさんへのお土産を持って帰って欲しい。そしてMさんに連絡を取って「魏からの土産だと言って送って欲しい」と頼まれ、メールアドレス、住所、電話番号などのメモをお預かりする。結局二つ宿題を頼まれた。それからホテルまで送ってもらった。日本時間の深夜2時近かった。
続きはPART 6へ

2012年08月30日

台北旅行 PART 4

 昼食はホテル近くの名前が「芝田」と言うカレーの店に入った。日本人が経営しているわけではない。ビーフカレーを頼んだが180元でサラダが付いており、しかも大きなビーフの塊が5~6個入っていて味も中々のものだった。
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 大きなビーフの入ったカレー                日本料理店「大和」
1 4時に昨日のマッサージ屋に予約を入れていたので、買った本や、もらった本と地図をホテルに置いて、こんどは歩いて行った。2時間マッサージをしてもらった。家内が昨日したカップリングもためしたみたが私には普通のマッサージのほうが良いと思った。
マッサージ終了後近くを散策しながら晩飯を何処で食べるか見てまわった。
ツアーで無いのに、何も下調べをして来なかったので常に食事のことが気になる。「大和・日本料理」の店が目に付く窓から覗き良さそうなので今夜の夕食はそこにしようと決めた。さらに散策。近くのカフェーショップにはいる。お客は台湾人のようであったが、日本語で注文していると、お客の人が手助けをしてくれる。親切である。
そのカフェーの横のビルに京劇のようなポスターが貼ってあり目に付く。
台北アイ(台北戯棚)という劇場であった。
 パンフレットから要約引用すれば、『1915年に出来た「台湾新舞台」が第2次世界大戦時空襲で焼けた。1989年に「台北新劇団」結成され中華文化芸術の賞賛を高めた。そして2004年に伝統舞台芸術の新劇場として「タイペイ・アイ」が建設され、ここでは60~90分の舞台で、京劇、雑技、管弦楽器(南管、北管、八音など)による演奏、台湾原住民歌と舞、曲芸、戯曲が披露され、海外からの観光客必見コーストなっている』との事。
 月曜日は演劇があると言うので行って、日本語の出来る人を呼んでもらう。話を聞くと今夜の出し物は京劇「金銭豹」で西遊記から抜粋した一節だとの事。340席ほどで全部自由席、しかし前もって予約をして切符購入が必要だとの事。20:30開演とのこと。せっかく来たので鑑賞する事として切符を買う550元。
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  タイペイ・アイ正面               新しく見つけたマッサージ屋
 開演までに間があり、さらに散策をすると、マッサージ屋の看板が目に付く、70分800元で昨日・今日してもらった所より安い。中も綺麗そうである。
そこでまず夕食を食べ、その後マッサージをしてもらってから劇を鑑賞する事にした。
夕食は「大和」にはいる。ほぼ満席に近い。にぎり寿司や定食などある。メニューを見ながら、そういえば今年は土用の丑の日にうなぎを食べてなかったので「うな重」にする。大きなうなぎが一切れのっていた。味は悪くない。デザートまで付いて280元である。客は日本人も少しはいたようだがお店の人に聞くとほとんどが台湾の人だという。もちろんここでも日本語OKである。
 食後、先ほど見つけた「得力」というマッサージ屋に行く。マッサージ師の方はほとんどが、目が不自由な方のようである。女性の方で日本語が達者な方がいて安心。70分してもらった。中々上手だと思った。結局今日は190分マッサージをしたことになる。その後タイペイ・アイに駆けつけるが5分ほど開演時間に遅れて一番後ろの席に案内された。
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 「金銭豹」の一場面 三蔵法師一行            俳優さんとのショット
 飽きさせない内容であった。終わってホールで記念に出演者と一緒の写真を撮ってもらった。今日も充実した一日であった。 続きは PART 5へ

2012年08月29日

台北旅行 PART 3

 PART 2で書いたように我が家に有った「台湾習俗」の本は、大叔父の娘さん達、三人が日本で復刻して、二女の米様から私の母親に贈呈してもらったものである。その時、お手紙(平成8年12月26日付)を添えていただいていたのが、たまたま本の中にはせて込んであり残っていた。それによると本の復刻に合わせて(おそらく平成8年頃)、三姉妹で台湾を訪れかって住んでいた所を訪問した記述があった。
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日本で復刻した本           奥付に書かれた住所
 手紙の記述を引用させていただくと「表紙の絵は私が当時小学校6年生の時、画いたのですが、あれは私の家の前の景色でしたが、今ではぜんぜん変わりました。中国の大陸からどんどん人口が増えて、今ではあの川は土の下のほうを流れ、もう川は見た所ではありません。私の家は、いまだに残って居り、日本の瓦屋根がみすぼらしく見え、平屋でしたので、小さく見えました。私の家の敷地内の前と後ろはよその家になっており隣は8階建てで、通りをへだてた前の家には12階建て、本当に驚くばかり、浦島太郎のようです。もうあれから50年が経っているのですものね。・・・中略・・12階建ての所はあの本の絵の中では草原の所です。本当にうそのようですね。」
正に浦島太郎状態で、自分が描いた表紙の絵の時代と現在との変わりように驚かれたようだ。
私は大叔父たちが何処に住んでいたかは知らなかったが、本の奥付に、執筆者東方孝義の名前の横に「台北市川端町296番地」と記されていたためにそこが大叔父の住所だと思った。
それで魏さんに尋ねたところ、1932年発行で1997年に復刻された台北市の古地図を持ってきてくれて説明をしてくれた。しかもその近所で彼の兄は育ち、今も住んでいるとのこと。
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 1997年復刻地図             川端町の地図
 地図によると290番地と301番地が読み取れるのでその近辺だと判断した。
その地図の番地が書いてあるところに小さな小川があり、多分手紙に書いてあった川では無いかと思った。魏さんによると、川端町には日治時代大きな料亭があって賑わっていたのだそうだ。
また地図を見ながらその川に平行して当時あった鉄道線路は、今はなくなり道路になっていることも説明してくれた。またこの地図も魏さんからいただいた。
 魏さんの車で付近まで行ったが場所を特定することは出来なかった。
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 紀州庵の写真を印刷したカバー           紀州庵の庭の一部
 また日治時代の料亭「紀州庵」が崩れかけながらまだ残っていた。再建保存するために家屋がカバーで覆われていた。そこから歩いて「新店渓」の川近くまで行くがどこを見ても田んぼや草原などは無い。絵の中に書かれていたお寺がどれか解らないが、紀州庵近くにもお寺がありそれがそうなのかとも想像してみた。
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 トタン屋根でカバーされた紀州庵            新店渓(川)
 ところで川近くの道路上に行き先案内の文字が書かれていたが、そこに馬場町の文字がある。当時の地図によれば川端町の隣が馬場町であり、ここは今でも日治時代の町名が使用されているようだ。
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紀州庵近くのお寺                 馬場町名のある道路案内文字
 色々、魏さんにしていただいたのでお昼でもご馳走しようとお話をしたところ、13時から会議があるのでと断られる。逆に明日の夜ご一緒しましょうと誘われる。そして地下鉄の古亭駅まで送ってもらう。
そこからもと来た中山駅までもどる。
 台湾の地下鉄は紙の切符の変わり、プラスチックのコインのようなものが出てくる。この中にICチップが埋め込まれているようだ。自動改札機にそのコインをかざすと扉が開く。降りるときはコイン回収口があり、そこに投入すると扉が開く。何回もコインは使用可能なので紙の様に資源の無駄使いをしなくて済むので合理的では無いだろうか?
これでとりあえず私の目的は達した。続きはPART 4へ

2012年08月23日

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