月別アーカイブ
2025年10月(1)
2025年09月(2)
2025年08月(3)
2025年07月(7)
2025年06月(1)
2025年05月(2)
2025年04月(1)
2025年03月(2)
2025年02月(1)
2025年01月(3)
2024年12月(1)
2024年11月(2)
2024年10月(2)
2024年09月(2)
2024年08月(2)
2024年07月(3)
2024年06月(5)
2024年05月(2)
2024年04月(1)
2024年03月(2)
2024年02月(3)
2024年01月(2)
2023年12月(1)
2023年11月(6)
2023年10月(3)
2023年09月(2)
2023年08月(2)
2023年07月(3)
2023年06月(2)
2023年05月(2)
2023年04月(2)
2023年03月(2)
2023年02月(8)
2023年01月(2)
2022年12月(1)
2022年11月(2)
2022年10月(1)
2022年09月(2)
2022年08月(2)
2022年07月(1)
2022年06月(2)
2022年05月(3)
2022年04月(3)
2022年03月(2)
2022年02月(2)
2022年01月(3)
2021年12月(1)
2021年11月(2)
2021年10月(3)
2021年09月(3)
2021年08月(2)
2021年07月(3)
2021年06月(2)
2021年05月(1)
2021年04月(2)
2021年03月(2)
2021年02月(2)
2021年01月(4)
2020年12月(2)
2020年11月(2)
2020年10月(2)
2020年09月(2)
2020年08月(2)
2020年07月(2)
2020年06月(1)
2020年05月(2)
2020年04月(1)
2020年03月(2)
2020年02月(7)
2020年01月(2)
2019年12月(2)
2019年11月(6)
2019年10月(3)
2019年09月(3)
2019年08月(7)
2019年07月(2)
2019年06月(3)
2019年05月(3)
2019年04月(4)
2019年03月(2)
2019年02月(3)
2019年01月(6)
2018年12月(2)
2018年11月(3)
2018年10月(2)
2018年09月(2)
2018年08月(2)
2018年07月(2)
2018年06月(2)
2018年05月(2)
2018年04月(4)
2018年03月(4)
2018年02月(2)
2018年01月(2)
2017年12月(3)
2017年11月(2)
2017年10月(3)
2017年09月(3)
2017年08月(4)
2017年07月(4)
2017年06月(5)
2017年05月(3)
2017年04月(2)
2017年03月(4)
2017年02月(3)
2017年01月(6)
2016年12月(3)
2016年11月(2)
2016年10月(2)
2016年09月(3)
2016年08月(11)
2016年07月(1)
2016年06月(3)
2016年05月(2)
2016年04月(2)
2016年03月(2)
2016年02月(2)
2016年01月(2)
2015年12月(3)
2015年11月(4)
2015年10月(5)
2015年09月(2)
2015年08月(5)
2015年07月(2)
2015年06月(5)
2015年05月(3)
2015年04月(2)
2015年03月(4)
2015年02月(1)
2015年01月(3)
2014年12月(2)
2014年11月(4)
2014年10月(4)
2014年09月(5)
2014年08月(3)
2014年07月(4)
2014年06月(2)
2014年05月(4)
2014年04月(5)
2014年03月(4)
2014年02月(3)
2014年01月(3)
2013年12月(5)
2013年11月(4)
2013年10月(5)
2013年09月(3)
2013年08月(7)
2013年07月(4)
2013年06月(4)
2013年05月(4)
2013年04月(4)
2013年03月(5)
2013年02月(4)
2013年01月(10)
2012年12月(3)
2012年11月(5)
2012年10月(4)
2012年09月(4)
2012年08月(7)
2012年07月(6)
2012年06月(4)
2012年05月(4)
2012年04月(3)
2012年03月(4)
2012年02月(3)
2012年01月(4)
2011年12月(4)
2011年11月(7)
2011年10月(4)
2011年09月(5)
2011年08月(8)
2011年07月(3)
2011年06月(4)
2011年05月(5)
2011年04月(4)
2011年03月(4)
2011年02月(5)
最近の記事
10/13 令和t7年度北部圏域ネットワーク(医療・連携連携)会議
09/21 腎癌切除の道のり PART 2
09/21 腎癌切除の道のり PART 1
08/11 初めてのドイツ旅行 PART 10
08/11 初めてのドイツ旅行 PART 9
外部グログ

大先生(元院長)のブログ

台北旅行 PART 5

 三日目、何も観光旅行をしていない。そこで昨年秋に行った故宮博物院を見学することにした。昨年行った時、ガイドが早く行かないと見れなくなると言っていたのを思い出し、開館前に行く。入場券を買い、日本語案内の音声ガイドを借りて見学。10人目くらいで入場した。直ぐに3階の301陳列室行き、翠玉白菜と豚の角煮に似た肉形石をゆっくり見て、1時間半ほどをかけて3階全部を観た。入場してから30分くらいで多くの見学者が来てうるさく、ごった返す。その後2階に行き磁器などの展示物を観た。家内は途中で足が痛くなったと言うことで、展示室にあった椅子に座って待つ。私は何とか駆け足で2階の展示物もほとんど見ることが出来た。まだまだ観たり無いが3時間ほどで切り上げ博物院を後にする。タクシーで中心街に向かい、昼ご飯は、再度日本料理の「大和」にした。肉うどんを食べる。結構いける味であった。その後昨夜行ったマッサージ屋に行く。故宮博物院の見学でかなり足が疲れていたので70分をしてもらう。その後街中を散策しながらホテルまで帰る。
 P8130112-1.jpg   P8130107-1.jpg 
 P8120067-1.jpg   P8130114-1.jpg
                          街中点描 
 両替したお金が少なくなったので再度両替しようと思ってある銀行によったところ、「300元の手数料が必要だが、もう少し先にある「台湾銀行」なら手数料が掛からない」と銀行員が親切に教えてくれた。歩きながら通行の人に台湾銀行の場所を聞いたが解らない。そこへ通りかかった日本人の女性が我々のやり取りを聞いていて日本語で教えてくれた。行ってみたが着いたのが15:37で銀行は15:30で終わっていた。残念。
 ホテルに帰り夕方の魏さんとの夕食に備え少し休んだ後、地下鉄で南天書局に向かう。今回はスムーズに行けた。魏さんと色々話す中で、彼は非常に地図に興味をもっており、特に鳥瞰図に特別の想いがあるようだ。その中で「大正の広重鳥瞰図絵師」と言われる吉田初三郎に興味を持たれていた。私はその人物を知らないと話した所、2004年9月に「台北建城120周年記念展覧会」が有り、その時、魏さんが主編となり作成した図録(台北市政府文化局出版)を持ってこられ、その134ページに初三郎が描いた台北市鳥瞰図が掲載されていた。その図は台北の南から見た図で絵の上方、北にあたるところには、門司、神戸、大阪の文字そして富士山までが描かれていた。
P8300227-1.jpg   P8300229-1.jpg
       台北建城120周年図録表紙           台北鳥瞰図(初三郎)
 私たちが広島から来ているということで、広島の「広島印刷(後の広島図書)」が1949年に発行したグラフ誌「HIROSHIMA」に初三郎が描いた、原爆投下前後の鳥瞰図が載っていると思われるので、もしも手に入るのならそのグラフ誌を探してほしいとお願いされた。2002年・平凡社発行の「太陽」にそれらしきものがあるとのこと。そこで捜せるかどうか解らないが、古本屋をあたってみると答える。
 日本と違って食事の時間が遅いのか、レストランの都合なのか、南天書局でゆっくりした後、まず台湾大学近くの喫茶店(?)でパパイヤジュースとマンゴーが一杯載ったカキ氷をご馳走になる。どちらも美味しかった。
P8140135-1.jpg   P8140138-1.jpg
       かき氷カフェー                樟山寺
 それからやっと車で市街地とは反対側に向かって出かける。多分南東の方角ではなかったかと思う。台北市立動物園の横を通り、国立政治大学の横から山に登って行く。くねくねした道をかなり走る。そして着いたのが樟山寺と言うお寺である。そこからは台北の中心部の夜景が綺麗で台北101のタワーも良く見える。どうやら私たちにこの夜景を見せるために出発時間を調整していたらしい。この山には猫空というロープウエイの駅もある。魏さんの話ではこの山一帯はお茶畑のようである。
P8140144-1.jpg   P8140151-1.jpg
       台北101を望む夜景                茶房
樟山寺からまた暫く走って、ようやく山水客という茶房(ティーハウス)につく。9時を廻っていた。この山一帯に150軒ほどの茶房があるとか、来る途中ちょうちんを飾ったり、電飾をした茶房がたくさんあった。
 魏さんが言うには台北の人たちは涼を求め昔からここに来て食事をするのだと言う。メニューの内容は台湾の田舎料理との事、先ほど「マンゴー盛りカキ氷」を食べたばかりなのでそんなに食べられないことを告げて、後は魏さんにお任せした。
素麺のようなヌードルを茶油で炒めたものや、鶏1羽を茶油で揚げてぶつ切りにしたもの、当然お頭つきである。海老とマンゴーの入った野菜サラダ、あげ豆腐のようなものが出てきた。また魏さんが家で漬けたオリーブのお酒を持ってきてくれて飲ませてくれた。少し甘みがあり、日本の梅酒の感覚である。4年物だと言っていた。この茶房からも台北の夜景が良く見えた。
 食事後、魏さんの家がこの近くなので、ぜひ寄ってお茶を一杯飲んでいってくれと言われ、家にまで上がりこむ。
 コンドミニアムのようであったが、ものすごく広い大きな家であった。たまたま奥様は孫と一緒に里帰りをしていて自分ひとりだという。玄関を入ると直ぐ応接間のようで床から天井まで作りつけの本棚があり、びっしりと本がある。
聞けば全部台湾関係の本だと言う。また地図なども多く保管されていて、さながら図書館に来たのかとおもうほどであった。中国式のお茶の入れ方で歓待してもらった。お茶を飲みながら話す中で、現在広島に在住するMさんが、かって商社マンとして台湾在中のとき友人となったが、今は疎遠となっている。そこでMさんへのお土産を持って帰って欲しい。そしてMさんに連絡を取って「魏からの土産だと言って送って欲しい」と頼まれ、メールアドレス、住所、電話番号などのメモをお預かりする。結局二つ宿題を頼まれた。それからホテルまで送ってもらった。日本時間の深夜2時近かった。
続きはPART 6へ

2012年08月30日

台北旅行 PART 4

 昼食はホテル近くの名前が「芝田」と言うカレーの店に入った。日本人が経営しているわけではない。ビーフカレーを頼んだが180元でサラダが付いており、しかも大きなビーフの塊が5~6個入っていて味も中々のものだった。
  P8130098-1.jpg   P8140130-1.jpg
 大きなビーフの入ったカレー                日本料理店「大和」
1 4時に昨日のマッサージ屋に予約を入れていたので、買った本や、もらった本と地図をホテルに置いて、こんどは歩いて行った。2時間マッサージをしてもらった。家内が昨日したカップリングもためしたみたが私には普通のマッサージのほうが良いと思った。
マッサージ終了後近くを散策しながら晩飯を何処で食べるか見てまわった。
ツアーで無いのに、何も下調べをして来なかったので常に食事のことが気になる。「大和・日本料理」の店が目に付く窓から覗き良さそうなので今夜の夕食はそこにしようと決めた。さらに散策。近くのカフェーショップにはいる。お客は台湾人のようであったが、日本語で注文していると、お客の人が手助けをしてくれる。親切である。
そのカフェーの横のビルに京劇のようなポスターが貼ってあり目に付く。
台北アイ(台北戯棚)という劇場であった。
 パンフレットから要約引用すれば、『1915年に出来た「台湾新舞台」が第2次世界大戦時空襲で焼けた。1989年に「台北新劇団」結成され中華文化芸術の賞賛を高めた。そして2004年に伝統舞台芸術の新劇場として「タイペイ・アイ」が建設され、ここでは60~90分の舞台で、京劇、雑技、管弦楽器(南管、北管、八音など)による演奏、台湾原住民歌と舞、曲芸、戯曲が披露され、海外からの観光客必見コーストなっている』との事。
 月曜日は演劇があると言うので行って、日本語の出来る人を呼んでもらう。話を聞くと今夜の出し物は京劇「金銭豹」で西遊記から抜粋した一節だとの事。340席ほどで全部自由席、しかし前もって予約をして切符購入が必要だとの事。20:30開演とのこと。せっかく来たので鑑賞する事として切符を買う550元。
  P8140133-1.jpg   P8140132-1.jpg
  タイペイ・アイ正面               新しく見つけたマッサージ屋
 開演までに間があり、さらに散策をすると、マッサージ屋の看板が目に付く、70分800元で昨日・今日してもらった所より安い。中も綺麗そうである。
そこでまず夕食を食べ、その後マッサージをしてもらってから劇を鑑賞する事にした。
夕食は「大和」にはいる。ほぼ満席に近い。にぎり寿司や定食などある。メニューを見ながら、そういえば今年は土用の丑の日にうなぎを食べてなかったので「うな重」にする。大きなうなぎが一切れのっていた。味は悪くない。デザートまで付いて280元である。客は日本人も少しはいたようだがお店の人に聞くとほとんどが台湾の人だという。もちろんここでも日本語OKである。
 食後、先ほど見つけた「得力」というマッサージ屋に行く。マッサージ師の方はほとんどが、目が不自由な方のようである。女性の方で日本語が達者な方がいて安心。70分してもらった。中々上手だと思った。結局今日は190分マッサージをしたことになる。その後タイペイ・アイに駆けつけるが5分ほど開演時間に遅れて一番後ろの席に案内された。
 DSC00610-1.jpg   P8130126-1.jpg
 「金銭豹」の一場面 三蔵法師一行            俳優さんとのショット
 飽きさせない内容であった。終わってホールで記念に出演者と一緒の写真を撮ってもらった。今日も充実した一日であった。 続きは PART 5へ

2012年08月29日

台北旅行 PART 3

 PART 2で書いたように我が家に有った「台湾習俗」の本は、大叔父の娘さん達、三人が日本で復刻して、二女の米様から私の母親に贈呈してもらったものである。その時、お手紙(平成8年12月26日付)を添えていただいていたのが、たまたま本の中にはせて込んであり残っていた。それによると本の復刻に合わせて(おそらく平成8年頃)、三姉妹で台湾を訪れかって住んでいた所を訪問した記述があった。
  P8230212-1.jpg   P8230211-1.jpg
日本で復刻した本           奥付に書かれた住所
 手紙の記述を引用させていただくと「表紙の絵は私が当時小学校6年生の時、画いたのですが、あれは私の家の前の景色でしたが、今ではぜんぜん変わりました。中国の大陸からどんどん人口が増えて、今ではあの川は土の下のほうを流れ、もう川は見た所ではありません。私の家は、いまだに残って居り、日本の瓦屋根がみすぼらしく見え、平屋でしたので、小さく見えました。私の家の敷地内の前と後ろはよその家になっており隣は8階建てで、通りをへだてた前の家には12階建て、本当に驚くばかり、浦島太郎のようです。もうあれから50年が経っているのですものね。・・・中略・・12階建ての所はあの本の絵の中では草原の所です。本当にうそのようですね。」
正に浦島太郎状態で、自分が描いた表紙の絵の時代と現在との変わりように驚かれたようだ。
私は大叔父たちが何処に住んでいたかは知らなかったが、本の奥付に、執筆者東方孝義の名前の横に「台北市川端町296番地」と記されていたためにそこが大叔父の住所だと思った。
それで魏さんに尋ねたところ、1932年発行で1997年に復刻された台北市の古地図を持ってきてくれて説明をしてくれた。しかもその近所で彼の兄は育ち、今も住んでいるとのこと。
  P8230216-1.jpg   P8230204-1.jpg
 1997年復刻地図             川端町の地図
 地図によると290番地と301番地が読み取れるのでその近辺だと判断した。
その地図の番地が書いてあるところに小さな小川があり、多分手紙に書いてあった川では無いかと思った。魏さんによると、川端町には日治時代大きな料亭があって賑わっていたのだそうだ。
また地図を見ながらその川に平行して当時あった鉄道線路は、今はなくなり道路になっていることも説明してくれた。またこの地図も魏さんからいただいた。
 魏さんの車で付近まで行ったが場所を特定することは出来なかった。
 P8130090-1.jpg   P8130092-1.jpg
 紀州庵の写真を印刷したカバー           紀州庵の庭の一部
 また日治時代の料亭「紀州庵」が崩れかけながらまだ残っていた。再建保存するために家屋がカバーで覆われていた。そこから歩いて「新店渓」の川近くまで行くがどこを見ても田んぼや草原などは無い。絵の中に書かれていたお寺がどれか解らないが、紀州庵近くにもお寺がありそれがそうなのかとも想像してみた。
P8130097-1.jpg   P8130095-1.jpg
 トタン屋根でカバーされた紀州庵            新店渓(川)
 ところで川近くの道路上に行き先案内の文字が書かれていたが、そこに馬場町の文字がある。当時の地図によれば川端町の隣が馬場町であり、ここは今でも日治時代の町名が使用されているようだ。
 P8130088-1.jpg   P8130096-1.jpg
紀州庵近くのお寺                 馬場町名のある道路案内文字
 色々、魏さんにしていただいたのでお昼でもご馳走しようとお話をしたところ、13時から会議があるのでと断られる。逆に明日の夜ご一緒しましょうと誘われる。そして地下鉄の古亭駅まで送ってもらう。
そこからもと来た中山駅までもどる。
 台湾の地下鉄は紙の切符の変わり、プラスチックのコインのようなものが出てくる。この中にICチップが埋め込まれているようだ。自動改札機にそのコインをかざすと扉が開く。降りるときはコイン回収口があり、そこに投入すると扉が開く。何回もコインは使用可能なので紙の様に資源の無駄使いをしなくて済むので合理的では無いだろうか?
これでとりあえず私の目的は達した。続きはPART 4へ

2012年08月23日

台北旅行 PART 2

 二日目、今日は「南天書局」に大叔父・東方孝義が1931年に編纂した「台日新辞書」の復刻版を買いに行く。丁度2ヶ月ほど前、たまたまインターネットで復刻版が台湾の出版社から1997年に出版されていることを知った。出発前に日本から出版社に電話しまだ在庫があることを確認していた。
ホテルのフロントで調べた住所を示し、行き方を教えてもらった。近くの中山駅から会館駅まで地下鉄で行くことを勧められる。外国で地下鉄に乗るのは初めて。何とかなるだろうと出かけ、駅の係員に住所を示し教えてもらう。ここでも台湾語はわからないが、漢字で書いてあるので何とか理解できた。台湾では現在北京語が公用語であるが、中国本土と違って略した漢字ではなく、かって日本が統治していた時代の古い漢字が使用されている。当用漢字に慣れている私だが何とか判読できる。淡水線の公館駅で降りる。ここには国立台湾大学がある。かっての台北帝国大学である。
大学近くに出版社があるはずなのに道に迷い、何人もの住民の方に聞きやっと探し当てた、コンドミニアムの1階が出版社である。
 P8140134-1.jpg   P8130084-1.jpg
国立台湾大学                         南天書局

 女子社員が対応してくれたが、日本語がわかる方と言ったら、社長兼、編集局長の「魏 徳文」氏が出てこられた。電話の人であった。すぐさま書棚から「台日新辞書」持ってきてくれた。
                P8210174-1.jpg
 この辞書をめくってみると大叔父がこの辞書を編纂するに至った経緯が書いてあり、1ページから967ページまでが台湾語→日本語で966ページから1320ページまでが日本語→台湾語になっていた。奥付には当時の定価金4円50銭が書いてあった。
これほどの大著を学者でもない一介の警察官であった大叔父がよくも1人で編纂したものだと思い感激した。ちなみに編纂経緯の文章中に12年の歳月が掛かったと書いてあった。
この出版社「南天書局」の販売コーナーの書棚はすべて台湾関係の本や古地図で埋め尽くされていた。
魏社長は我々がわざわざ日本から辞書を求めて来店したことに凄く感激され、定価1400元のところ2割引の1120元で分けてくださった。
 P8130086-1.jpg  P8130087-1.jpg
南天書局                           魏 徳文氏

 そして大叔父が昭和17年に書いた「台湾習俗」と言う本も復刻していると言って見せてくれた。この本は大叔父の娘さん達が平成7年(1995年)に日本で復刻し私のところにも1冊ある。それで見せていただくと南天書局で復刻されたものは1997年であった。魏さんも私たちに興味がわいたのか、魏さんの部屋に通されお茶をよばれる。
P8210175-1.jpg P8210182-1.jpg P8210181-1.jpg
  左が日本で復刻した本               各本の奥付 
色々話しているうちに急に何故、魏さんが余りお金にならないような台湾に関する本ばかりを復刻されたり出版されるのか興味がわいてきた。
そこで質問をしたところ、政府があまり文化遺産に興味を示さない。
このままにしていると100年後200年後には今ある資料も無くなってしまい、台湾が台湾でなくなる。それが怖いし、忍びないとのこと。100年後を見据えて、儲けにもならない、赤字すれすれでひたすら台湾のことを思って経営されている魏さんに感服した。日本に帰ってインターネットで魏さんを検索するとその分野では知る人ぞ知るのすごい大家で、日本の文化勲章に相当する賞なども受賞されており改めて驚いた。
その後大叔父たちが多分昔住んでいたと思われる川端町に魏さんが連れて行ってくれた。そして先ほどの復刻した「台湾習俗」の本をどうぞお持ち帰りくださいと言われただで頂いた。
続きはPART 3へ

2012年08月21日

台北旅行 PART 1

 お盆休みに台北に出かけた。今回はツアーではなくプライベイト旅行で、飛行機の切符やホテルをインターネットで予約購入して出かけた。昨年11月に院内旅行で台湾に行った経験があったので少しは気が楽である。それでも、空港からホテルまでの行き方を心配しながら前もってネットで調べたりしたが、結局現地であれこれ聞くことになる。以外と英語よりも日本語が通じる感じがした。 
 P8120048-1.jpg   P8120053-1.jpg
 今回の目的は、家内はメインがマッサージ、私は大叔父・東方孝義が書いた「台日新辞書」の復刻版を買いに行くことで、観光は考えなかった。
 家内は昨年夏、中国旅行中に現地の子供が後ろからぶつかり、転倒して膝を悪くし、この1年整形外科や、街の按摩屋さん、膝サポーターの購入などあらゆる努力をしてかなり良くなってきている。そんな折、因島のM先生が以前、「五十肩」で手が全く挙がらなかった時、台北の「春鶴堂足體養身会館」というマッサージ屋でマッサージをしてもらったら、一発で治ったと教えてくれたのでそこをめがけていくことにした。
「ホテル・ロイヤル・台北」に着くや受付けでそのマッサージ屋に電話をしてもらい予約を取る。チェックイン後、休む暇なくタクシーでマッサージ屋に向かう。
  P8120059-1.jpg   P8120058-1.jpg
 携帯のカメラにM先生の顔写真を撮っていたのでそれを見せるとマッサージ屋のご主人と、女将さんがにっこり笑ってくれて安心。お1人60分1000元で家内と共に私もしてもらった。家内はカッピングも頼んでいてコースの中でしてもらったようだが私は普通のマッサージをしてもらう。 
 マッサージ屋についた頃から雷と土砂降りの雨、60分経ってマッサージが終わっても雨はやみそうでないし、他にお客もほとんどいないのでさらに40分足ツボマッサージをしてもらう。
 今回の旅行は食事が全く付いていないので、何処で食べたらよいか解らず、マッサージ屋さんに教えてもらう。雨も上がり少し涼しくなったが湿度が凄い。とりあえずホテルまで歩いて帰る。途中セブンイレブンがあり、そこで缶ビールと明日の朝食のためのクリームパンと牛乳、野菜ジュースを買って返る。結局3日間朝メシアは同じスタイルで通した。
 夕方タクシーで教えられた所に行く。現地の人だと違和感は無いのかも知れないが、私にはちょっと入る気にはなれない雰囲気のお店で早々にその場を離れた。
歩きながら戻っていると旅行案内の本にも出てくるお店「京鼎樓」が目に留まり行くと丁度開店したばかりで直ぐ入れる。メニューの絵を見ながら注文した。何を注文したかあまり覚えていない。食べれる量を考えながらしたつもりだったが少し多く残ってしまう。後は歩いて帰りながらホテルの近くを散策する。
P8120068-1.jpg   P8120072-1.jpg
 東南アジアのどの国でもそうなのだか、昼間暑いため夜になると人々が街の通りにあふれてくる。その多さに圧倒される。三越デパートがありそこにも寄ってみるがいまいちと言う感じがした。後はホテルに帰って缶ビールを飲んで早めに寝る。家内はまず目的をゲットした。明日は私の目的をゲットしよう。
続きはPART 2へ

2012年08月19日

孫との再会

 先日、父親の7回忌を執り行った。速いものであれから6年である。
今年は春先母親の三回忌もあり、珍しく重なった。次はいつ重なるのか解らないし、いつまで法事が出来るのかこれからは年齢との勝負かも知れない。
 お寺さんのお経を聴きながら、父親のことを思い出すが、私の記憶は父親の心臓が停止した瞬間で止まっている。「危篤」と言われ病院に駆けつけた時、心臓はすでに心室細動状態で電気ショックを3回したが戻らなかった。薄目を開けていた父親のまぶたを私が指で閉じた瞬間、心電図は一直線になった。その場面で父親の思い出は止まっているが当時1人しかいなかった父親の「ひ孫」も今では4人になり周りはどんどん時間が進んでいる感じがする。
 P8050031-1.jpg   P8050019-1.jpg

 7回忌にあわせ、3月に沖縄に移住した長男一家を呼び寄せた。姦しい3人の孫がやって来た。次男の孫とあわせ4人である。沖縄の3人の孫の内、長女が小学校1年生の7歳、次女が5歳、三女があと10日ほどで3歳になる。4ヶ月間会わなかった間に、長女は随分大人びてお姉さんらしくなり、妹達のために色々の場面でポジションを譲っているのに驚いた。三女は口が達者になり良くしゃべるし、はっきり自分の意志を表現している。一番成長進歩したのではないかと思う。
次女は真ん中なのでどうなのかと心配していたが萎縮もしないで結構わがままを通している。三人ともいい関係で姉妹をしているようだ。
 尾道の次男の長女が一番下でこの11月に2歳になるが、沖縄の従姉妹たちに負けじと動き回り、愛嬌を振りまいていた。爺・婆としてはどの光景もほほえましく思えた。
ひ孫4人を含め家族全員で墓参りも出来てよかった。これからは中々こういう場面はめぐってこないであろう。
P8050038-1.jpg   P8050042-1.jpg

 昔、患者様がお盆明けに診療に来た時、孫の面倒を見てお盆は疲れたと言いながら『待って嬉』、『来て嬉』、『帰って嬉』だと笑いながら仰っていた言葉がふと思い出され、正にその通りだと思った。
 
 台風一過といった感じでまだ孫達の余韻が残る。次、沖縄から孫達がやって来るまでは当分の間次男の娘相手に爺・婆をしよう。

2012年08月07日

2年ぶりの札幌

 先週土曜日、2年ぶりに札幌に出かけた。気温が31度を超えて暑く、涼しいだろうと期待していたのが裏切られた感じがした。札幌駅近くのホテルで大学の父兄後援会の全国支部長会議が有った。メンバーは卒業生もしくは現役学生のご父兄である。思い出してみると、この会に出席するようになって17年の歳月が流れていた。大学の現状や、現役学生への支援のあり方など活発に議論をしてそれなりに成果はあったのでは無いかと思っている。
 広島空港から札幌への飛行機はANAが撤退してJAL1便だけのため早い時刻での出発となり少し不便になった。
会議の開かれる同じホテルに宿を取っていたが3時前に到着。前もって仲の良かったU君に連絡をしていたので、会議が始まる前1時間ほどホテルロビーで現況を語り合えた。U君は丁度私と一回り若く元気にあふれ、学生時代よりも遥かに逞しくなっている感じがした。
  P7280002-1.jpg  P7280013-1.jpg 
 その後、会議に出席した所、やはり同級生が私を含め4人出席していた。会議後の懇親会ではミニクラス会の感あり。頭の髪の毛の色や薄さに卒後28年の時を感じながら昔の思い出話に花が咲いた。
 K君が2次会を設定しているというので、すすき野に繰り出す。若い人であふれていたが、景気が悪く昔ほどでは無いと言う。でも広島の流川あたりよりは遥かに賑やかで驚く。
 ワインクラブに行くと、そこに同級生で岩見沢市長のW君が来ていた。彼に会うのも久しぶり。話を聞くと7月31日に市長を勇退し、なんとしてもこの国を変えたいと言う想いが強くなり、今度の衆議院選挙に出るのだという。彼の父親も自民党の代議士であったが、我々が3年生の時急死された。そういう意味で彼自身は自民党だと思っているのだが、自民党と公明党の選挙協力のため、自民党の公認にはなれず、無所属で立候補するとか。
 P7290030-1.jpg   P7290024-1.jpg
 少し無謀とも思えたが、彼が10年市長としてやってきたことで、国の予算配分などなんとも理不尽なことが多く市民のためにならないことがわかったからだという。その他教育や、生活保護の問題や、医療の問題、過疎化の問題、夕張市の財政破綻など、我々一般市民では理解し得ないことなど熱く語ってくれた。聴きながら、大阪の橋下市長の考え方に似ていると感じた。
 彼には是非当選して欲しいと思うのだが、無所属立候補だと党からの選挙資金も無く、我々一般庶民から見ると莫大な資金を全部自前調達しなければならない。またTVやラジオでの政見放送のチャンスもなく、かなり不利な感じがする。
北海道の選挙区に対して広島にいる私ではほとんど何も応援してやれないのが、残念である。
願わくは、彼が当選して、私に熱く語ってくれたことを実現してくれることをただ祈るばかりである。
 P7290064-1.jpg   P7290094-1.jpg
 翌日大通り公園と赤レンガの道庁を観て廻り、従業員さんへのお土産を買って帰ってきた。

2012年08月02日

映画「鬼に訊け・・・宮大工 西岡常一の遺言」

 先日、宮大工・西岡常一のドキュメンタリー映画「鬼に訊け」を観た。凄い映画であった。プロとは、ここまでこだわるのか、自分も歯科医療に対してはプロのはずだが、ここまでのこだわりはなく、大いに反省させられた。
 西岡常一の名前は過去に何かの本で読んで、最後の宮大工といわれていたのも知っていた。特にこのとき記憶に残っていたのが「木の用い方。北に生えていた木は北側に、南に生えていた木は南側に使う」という言葉だ。
 この映画は山崎佑次監督の手によるが、実は6月10日に母校の尾道北高等学校の同窓会総会があり、その席に監督の奥様が先輩同窓生として出席されていて、この映画のことについて少しお話をされた。それを聞いていたのでなんとしても観たいと思っていた。
     P7230173-1.jpg      P7230175-1.jpg
 映画は法隆寺棟梁の座を辞し、薬師寺白鳳伽藍復興工事を引き受けたのは彼が62歳の時、宮大工の夢は伽藍の造営である。薬師寺でこの夢をかなえていった。20年が経過して、金堂、西塔、中門が復元され、回廊第一期工事の真っ最中の1990年5月からカメラを回し1993年3月、第一期工事の回廊木組みが終わり、左官職人が入って壁工事が始まった頃、ガンに冒された西岡にこれ以上カメラを回すには忍びないと監督・山崎氏が判断し撮影は終了する。

 内容について私がコメントできるほど安易なものではなく、ただ、ただ驚きと感動としか表現できない。
パンフレットに書いてある言葉を記させてもらう。
『棟梁として法輪寺三重塔、薬師寺金堂、西塔を再建し、飛鳥時代から続く寺院建築技術を伝えていったことから、最後の宮大工とよばれていた、故・西岡常一をめぐるドキュメンタリー。「堂塔の建立は木を買わず山を買え」「千年生きる建物、千年生きる檜、木は鉄を凌駕する」作業をする生前の彼の姿をとらえた貴重な映像と証言を通して、利便性や効率だけを追求するためだけに技術を発展させる現代の風潮への警鐘、自然と人間の共存の在り方などを訴えていく。」
また別のパンフレットでは
『千年の檜には千年のいのちがあります。建てるからには建物のいのちを第一に考えなければならんわけです。風雪に耐えて立つ・・・それが建築本来の姿やないですか。木は大自然が育てたいのちです。千年も千五百年も山で生き続けてきた、そのいのちを建物に生かす。それがわたしら宮大工のつとめです。』
 凄い言葉だと思うし、飛鳥時代から一本DNAが繋がっている感じがした。
作業する大工のノミの音を聞いただけで、誰の音か分かる。それだけ西岡氏の耳は研ぎ澄まされている。また木を撫でるだけで樹齢はもちろん産地やどんな癖をその木がもっているのか、内部にどんな節があるのか見抜いてしまう。プロ中のプロというよりは神様に近いのではなかろうか。
 映画では途中法隆寺の大修理などの回想や薬師寺西塔の再建時の苦労話を語ってもらいながら、西岡常一の思想を通し、「日本人の心」を我々に知らせてくれていると思った。
 1991年1月回廊工事の第一期工事の立柱式が執り行われる。この時期83歳かなりガンが進行していたが、西岡は作業を見ながら合掌し祈りを捧げていた。この姿に彼の生き様すべてが凝縮しているように思えた。

シネマ尾道で8月17日まで上映されていますので是非観て頂きたいと思います。

2012年07月23日

我が診療室の梅雨明け

 今日17日、列島各地は梅雨明け宣言をした。それに伴い各地では軒並み気温が上がり、群馬県館林市では39度を超えたとTVニュースで伝えていた。
 ところでこの15日・16日の2日間で診療室の天井を塗装してもらった。
5月のゴールデンウイークに床と壁のリニューアルをしたが、時間的に間に合わなくて、天井はそのままになっていた。25年を経過すると天井の白い石膏ボードも黒ずんで、灰色に近くなっていた。とりわけリニューアル以降、他が綺麗になった分、よりみすぼらしく見えていた。そこでこの連休に塗装をしてもらったのだが、ただ白く塗り替えてもらったのでは、芸が無いと思い、少し遊び心を出して、空色に塗装してもらい、さらに雲を描いてもらった。しかも空の色も南から北に向かって少し濃くなるようにグラデーションで塗装してもらった。
 最初塗装屋さんは天井を空色に塗った経験もなく、ましてや雲など画いた事が無いと、しり込みをされたが、私の気迫に押されて挑戦してみてくれた。ありがたい。
  P7160153-1.jpg   P7160163-1.jpg
 塗装が始まって途中部屋を覗くと、窓や床に養生のためビニールシートを張っているため、光の差込量が少なく、随分青色が濃く、まるで海の底にもぐったみたいに感じてこれは失敗したかなと不安になった。それでも、雲をあちこちに画いてもらうと少し違った感じになる。塗装屋さんは窓から見える空の雲を参考にしながら描いていた。
 いよいよビニールシートを外すと、思い描いていたものに近く安心した。
天井一面に青空が広がり、雲が流れて、まるでお外で空を見ている感じになって気分爽快である。
 我が診療室の天井が明るい空になって梅雨明けしたため、全国のお天気も梅雨明け宣言をせざるを得なかったのではと悦に思っている。
  P7170167-1.jpg   P7160159-1.jpg
 今日朝から患者様の反応がどうなのか期待をもっていたのだが、気が付いてくれる人は少なく、がっかり。気が付いても口に出さなかったのかとも思って見たりした。
 多分歯医者さんに来る人は、天井を見る余裕もなく、早く終わればよいと願っているし、治療台に横になってもほとんどの人が目をつぶっているので気が付かないのであろう。
しかし子供達は何にでも興味があるせいか、直ぐ気が付いておしゃべりしてくれた。すこしほっとした。
 ところで私は、冬のどんよりとした空が嫌いで、その空を眺めていると気がめいって「裏日本症候群」に陥りそうになる。しかしこれで、今年の冬からは毎日気分良く仕事が出来そうである。

2012年07月17日

51年振りの大阪観光 PART 3

 午後からの観光は劇団四季のミュージカル「夢から醒めた夢」の鑑賞。ミュージカルは12:30分開場、13:00公演開始である。
私は四季のミュージカルを観るのは今回が2度目となる。何年か前に、広島に「キャツ」が来た時初めて観た。その時も中々良いものだと思った。
  P7120138-1.jpg   P7080124-1.jpg
 「大阪四季劇場」は昼食をしたヒルトンホテルプラザWESTの隣。桃谷楼を12:45に出て急いで駆け込む。7階の劇場まで上がると、すでに多くの観客が来場している。衣装を着た出演者と思われる役者さんがちびっ子達や観客のお相手をしてパフォーマンスを披露している。
場内では多分撮影禁止と思い、ロビーでの写真を2枚だけ写した。
  P7080125-1.jpg   P7080126-1.jpg
 席は2階G列20番、入り口まで行くとドアガールの制服姿の女性が、声をかけてくれて席まで案内してくれた。田舎から来た初老の少し場違いな面容に、いたたまれなくて声がけをしてくれたものと思う。それが証拠に若い先生たちには、声がけも無く、彼らは勝手に席を捜して着席していた。
 開演まで5分ほどあったが舞台では小人やピエロなどに扮した人たちが観客を飽きさせないように色々パフォーマンスをしていた。また私の目の前でお化粧をし、衣装を着た女性が1階の舞台まで輪投げをして見事入れ、びっくりした。程なく開演となった。
 私はこのミュージカルについては何も予備知識が無い。パンフレットのよると、『これがミュージカル、これがファンタジー。赤川次郎と劇団四季が織りなす最高傑作。1987年の初演以来、公演回数は1600回を超え、上演のたびに完成度を高めて多くの方々から愛され続ける「これぞミュージカル、これぞファンタジー」の最高傑作です。心にしみる音楽、躍動感あふれるダイナミックなダンス、幻想と美しさに満ちた演出は、観た後に優しい気持ちとこれ以上ない感動で心を満たします。さあ、夢の配達人がときめく夢の世界へご案内します。』とあった。
  P7120140-1.jpg   P7120144-1.jpg
 ストーリーもパンフレットから引用すれば『不思議なこと、この世と違う別の世界に憧れる少女ピコ。彼女は夜の遊園地で寂しげな瞳をした美しい少女マコと出会います。マコはピコに自分の秘密を打ち明けます。実はマコは幽霊だったのです。事故で命を落としたマコは、ひとり残された母が心配で、まだ霊の世界に行けずさまよっていたのです。「母を励ますために、一日だけ自分と入れ代わって」というマコの願いをピコは受け入れます。マコの代わりに霊界に行ったピコは、そこで人間以上に人間らしい霊たちに出会い、愛と生きることの素晴らしさを教えられます。ピコとマコは約束の場所に戻り、ふたりは再び入れ代わることになっていたのですが・・・。』
 観終わって、まさにパンフレットの字句どおり、楽しい気分に浸れた。出演者達の声の張りも素晴らしく、しぐさやダンスもさすがだと感心した。プロとはこうでなければと改めて思った。映画はよく鑑賞するが演劇やミュージカルにはあまり縁が無かった。秋には大阪四季劇場でかの有名な「ライオンキング」が上演されるようだ。出かけてみたいと思う。
その後お土産を買って新新幹線で無事尾道に帰ってきた。
尾道市歯科医師会を預かる私としては、事故なく無事帰れたことで正直ほっとした。51年振りの大阪観光、おおいに楽しめた。

2012年07月12日

HOME院長ブログ治療の流れ院内案内診療案内予防歯科3DS母子感染ホワイトニングインプラントスポーツマウスガード
患者様の声料金表院内販売グッズ スタッフ紹介スタッフ募集アクセス院長紹介お問い合わせ治療写真集取り組み