月別アーカイブ
2025年10月(1)
2025年09月(2)
2025年08月(3)
2025年07月(7)
2025年06月(1)
2025年05月(2)
2025年04月(1)
2025年03月(2)
2025年02月(1)
2025年01月(3)
2024年12月(1)
2024年11月(2)
2024年10月(2)
2024年09月(2)
2024年08月(2)
2024年07月(3)
2024年06月(5)
2024年05月(2)
2024年04月(1)
2024年03月(2)
2024年02月(3)
2024年01月(2)
2023年12月(1)
2023年11月(6)
2023年10月(3)
2023年09月(2)
2023年08月(2)
2023年07月(3)
2023年06月(2)
2023年05月(2)
2023年04月(2)
2023年03月(2)
2023年02月(8)
2023年01月(2)
2022年12月(1)
2022年11月(2)
2022年10月(1)
2022年09月(2)
2022年08月(2)
2022年07月(1)
2022年06月(2)
2022年05月(3)
2022年04月(3)
2022年03月(2)
2022年02月(2)
2022年01月(3)
2021年12月(1)
2021年11月(2)
2021年10月(3)
2021年09月(3)
2021年08月(2)
2021年07月(3)
2021年06月(2)
2021年05月(1)
2021年04月(2)
2021年03月(2)
2021年02月(2)
2021年01月(4)
2020年12月(2)
2020年11月(2)
2020年10月(2)
2020年09月(2)
2020年08月(2)
2020年07月(2)
2020年06月(1)
2020年05月(2)
2020年04月(1)
2020年03月(2)
2020年02月(7)
2020年01月(2)
2019年12月(2)
2019年11月(6)
2019年10月(3)
2019年09月(3)
2019年08月(7)
2019年07月(2)
2019年06月(3)
2019年05月(3)
2019年04月(4)
2019年03月(2)
2019年02月(3)
2019年01月(6)
2018年12月(2)
2018年11月(3)
2018年10月(2)
2018年09月(2)
2018年08月(2)
2018年07月(2)
2018年06月(2)
2018年05月(2)
2018年04月(4)
2018年03月(4)
2018年02月(2)
2018年01月(2)
2017年12月(3)
2017年11月(2)
2017年10月(3)
2017年09月(3)
2017年08月(4)
2017年07月(4)
2017年06月(5)
2017年05月(3)
2017年04月(2)
2017年03月(4)
2017年02月(3)
2017年01月(6)
2016年12月(3)
2016年11月(2)
2016年10月(2)
2016年09月(3)
2016年08月(11)
2016年07月(1)
2016年06月(3)
2016年05月(2)
2016年04月(2)
2016年03月(2)
2016年02月(2)
2016年01月(2)
2015年12月(3)
2015年11月(4)
2015年10月(5)
2015年09月(2)
2015年08月(5)
2015年07月(2)
2015年06月(5)
2015年05月(3)
2015年04月(2)
2015年03月(4)
2015年02月(1)
2015年01月(3)
2014年12月(2)
2014年11月(4)
2014年10月(4)
2014年09月(5)
2014年08月(3)
2014年07月(4)
2014年06月(2)
2014年05月(4)
2014年04月(5)
2014年03月(4)
2014年02月(3)
2014年01月(3)
2013年12月(5)
2013年11月(4)
2013年10月(5)
2013年09月(3)
2013年08月(7)
2013年07月(4)
2013年06月(4)
2013年05月(4)
2013年04月(4)
2013年03月(5)
2013年02月(4)
2013年01月(10)
2012年12月(3)
2012年11月(5)
2012年10月(4)
2012年09月(4)
2012年08月(7)
2012年07月(6)
2012年06月(4)
2012年05月(4)
2012年04月(3)
2012年03月(4)
2012年02月(3)
2012年01月(4)
2011年12月(4)
2011年11月(7)
2011年10月(4)
2011年09月(5)
2011年08月(8)
2011年07月(3)
2011年06月(4)
2011年05月(5)
2011年04月(4)
2011年03月(4)
2011年02月(5)
最近の記事
10/13 令和t7年度北部圏域ネットワーク(医療・連携連携)会議
09/21 腎癌切除の道のり PART 2
09/21 腎癌切除の道のり PART 1
08/11 初めてのドイツ旅行 PART 10
08/11 初めてのドイツ旅行 PART 9
外部グログ

大先生(元院長)のブログ

映画「エンディングノート」を観て

 先日映画「エンディングノート」を観に行った。昨年10月に封切られた映画で有るが、ある知り合いの先生から良かったというお話を聞いて、それなら観に行こうと思って出かけた。
TKY201109300719-1.jpg  TKY201109300722-1.jpg
 映画は砂田知昭さんという69歳の元サラリーマンが40年間の会社人生を終え67歳で定年退職をし、これから第二の人生を歩み始めた矢先、毎年欠かさず受けていた健康診断で胃がんが見つかり、しかも4段階で最も重い「ステージ4」まで進行していた。
物語はそこから始まる。この映画の監督は砂田知昭さんの二女砂田麻美氏(33歳)で、ガンが見つかって半年間、2009年12月29日まで、死にいく自分の父親をカメラを通し追っていく。
 主人公とあえて言わせてもらうが、砂田知昭氏は熱血営業マンとして高度成長期に「会社命・段取り命」の完全な会社人間であった。そこでガン宣告をされた後、自らの「死の段取り」をするためにエンディングノートというマニュアルを作成し、エンディングノートを実行しながら死へ向かう準備をすすめていく。
 彼が言うには『「エンディングノート」とは簡単に申しますと遺書なのですが、
遺書よりはフランクで公的な効力を持たない家族への覚書のようなものです。自分の人生をきちんとデッサンしておかないと残された家族は困るでしょうから。』・・・・・オフィシャルサイトより引用
 映画は10章からなり最初が神父を尋ねる場面から入っていく。
これは、葬式費用がリーズナブルという理由でお葬式を教会でしたいと思い、仏教徒である彼が神父に相談するため教会を訪ねる。また孫達と気合を入れて遊ぶことを決意し、ごく普通のお爺さんとしての孫達との暖かい交流があり、かって食べたものの中で、忘れられないと言うアワビのステーキを食べるために伊勢に家族で旅行しに行く。この旅行には最後の親孝行のつもりであろうが90歳を超えた母親までも連れて行く。
               TKY201109300724-1.jpg     
 式場の下見を行い、さらにこのノートには訃報を伝えるべき人や、文言、葬儀の段取りなど詳しく書いてあり、いざと言う時、直ぐに長男に引き継げるようにしてある。
そしてガンが発見されて半年余りが過ぎ、病院の担当医は抗がん剤の効き目が無く、肝臓のほとんどががん細胞に犯されていることを妻と娘に告げる。
 アメリカから長男夫婦が急遽帰ってきて孫達に囲まれたクリスマスイブの翌日病院に入院し、砂田氏自身は死を意識しながら、かっては離婚の危機まであった夫婦ではあるが、初めて奥様に「愛している」と告白、岐阜に住む母親にも携帯で別れを告げ、5日後に息を引き取った。奥様に初めて『ありがとう』を言い、奥様が『私も一緒に行きたい』と返事をするシーンでは観ていて涙が出てきた。感動の場面であった。
 この映画は死を見つめて生きるという重いテーマを描いているが、本人の持ち前の明るさと、次女である監督の感性がうまくマッチしていて、陰鬱さの無い、むしろエンタテイメント的な感じさえ持てた。
 私も来月には65歳である。そのせいか、このごろ年金の案内やら、介護保険の1号被保険者の案内やらと老人に向かって姦しい。まだまだ現役で頑張れると思っているが、少しづつでもエンディングノートの作成が必要になってきたのかもしれない。
 掲載写真は朝日新聞エンタメ欄より

2012年02月05日

駅伝観戦

 先日、1月22日に広島で「全国都道府県対抗男子駅伝競走大会」があった。今まで駅伝やマラソンの実際の観戦はほとんど無く、僅かな記憶として昔、小学校の1~3年生の頃、当時福山から広島までの中国駅伝があったが、三原に住んでいたころ、家の前を通過するので見た記憶が有る。
 後はもっぱらTV観戦で楽しんでいる。ところがこの度、たまたま21日は会務で広島に出張中であった。時折TV中継でどこを走っているか確認しそろそろ来るなと思う頃、会務を一時中断して通りに出た。鯉城通りから中広通りに曲がった付近で観戦。最終区7区13キロの内の10キロ付近である。
 沿道にはかなりの人たちが来ていた。小旗は配られなかったが、代わりに7区を走る選手の名前とユニホームの絵が印刷された紙を、中国新聞の人が配ってくれた。
P1260069-1.jpg  P1220056-1.jpg
 まず白バイが1台やってきて、その後パトカーが道路の確認をしながら通り過ぎた。空にはTV中継のヘリコプターと思われるヘリコプターがホバリングをしながら空中に止まっている。その後暫くして選手がまもなくやってくると言う広報車が来て、その後又パトカー、TV中継の車が来てやっと白バイ2台に先導されたトップランナーがやって来た。
 応援に出かける前は愛知が1番だったのだが私の前を通過したのは兵庫だった。名簿を見ると竹澤健介と書いてあった。それにしてもランナーのスピードが凄く早い。
P1220057-1.jpg P1220060-1.jpg
 デジタルカメラのバカチョンカメラだとシャッターを切って、次又写すのに少し時間が掛かる。そのため2回目を写すチャンスがなくなって、シャッターを押すともうそこには選手が居ない。
 地元広島、かって住んでいた北海道、そして今回一番注目されている福島の選手などを見て頑張れと声掛けをした。所々ランナーの脇をTV中継するオートバイまで伴走していて賑やかである。
P1220062-1.jpg P1220067-1.jpg
 46位新潟に続き、47位鳥取が来てその後白バイが伴走してきて終わった。ところが帰ってTVを観ると鳥取が頑張って新潟を追い越し46位になっていた。
 ところで駅伝やマラソンは「ただ走っている」のを見るだけなのに何故か惹かれて最後までTV観戦をしてしまう。その理由が良くわからない。しかし実際に応援に出かけるとよりリアルで一体感が持てる気がした。多分TVなどで観戦する時、自分が選手になった気がしているのかもしれない。

2012年01月26日

最近観た映画

 年末から昨日までに4本の映画を観た。まず年末に「源氏物語」を観たが、高校時代の古文の授業で「桐壺の巻」の最初のさわりだけを習った私としては、展開される話に全く付いていけず、日本の映画でありながら外国映画を観ている感じがした。
               P1190048-1.jpg
 家内はこの何年か源氏物語同好会のようなもので最初から少しずつ読んで行っているのでかなり理解できたと言っていた。しかもこの映画にホームステイしているオーストラリアのS娘を連れて行ったが、彼女にとって内容はさっぱりだった様だ。ただ昔の日本の着物姿などは良かったらしい。
   P1190050-1.jpg   P1190044-1.jpg
 次ぎに「ミッション:インポッシブル」を観た。話の展開が面白くてはらはらドッキリしながら観た。見応えがあって面白かった。先日広島刑務所から脱獄した受刑者がいたが、民家に入って衣服やスキー帽を盗んで逃走を図ったようだが、ミッション:インポシブルのトムクルーズのようには行かなかったようで、54時間で逮捕された。映画と現実はやはり違うなと思った。
 続いて14日に封切られた「ロボジー」。この映画は笑えて面白かった。
公式サイトのストーリーから引用させていただくと、『家電メーカー、木村電器の窓際社員、小林・太田・長井の3人組は、ワンマン社長から流行の二足歩行ロボットの開発を命じられていた。近く行われるロボット博での企業広告が目的だ。しかし、ロボット博まであと1週間というところで、制作途中のロボット“ニュー潮風”が木っ端微塵に大破!窮地に追い込まれた3人は、ロボットの中に人間を入れて誤魔化す計画を立てる。ロボットの外装にぴったり収まる人間を探すため、架空のオーディションが開かれ、仕事をリタイアして久しい独り暮らしの老人・鈴木重光(73歳)が選ばれる。
しかし、この鈴木がとんでもないジジイで…。さらには、“ニュー潮風”に恋をしたロボットオタクの女子学生・葉子も巻き込み、事態は思わぬ方向へ転がり出す―。 』とある。
            P1190039-1.jpg
 鈴木重光を演じるのはミッキーカーチスで実に頑固な老人役を演じており、観ながらこのような老人に成ってはなら無いなと自戒した。
    P1190052-1.jpg   P1190047-1.jpg
 4本目が「マイウエイ・・12000キロの真実」韓国映画である。カン・ジェギョ監督がアメリカ国立公文書館に保管されていた、連合軍に捉えられたドイツ軍捕虜の中にいた東洋人を写した1枚の写真を手にしたことから生み出された物語である。その彼が語ったのは、日本、ソ連、ドイツの3つの軍服を着て戦いながら、国境を越えてフランスのノルマンディーにたどり着いたという信じがたいエピソードだった。この実話を基にした映画であるとパンフレットに書かれていた。
予告編を観たときに何とか観たいと思っていた映画である。家内を誘ったところ、戦争映画はどうもと言っていたがついて来た。しかし観終わった後でなかなか良い映画だったと感想を漏らした。ただウイークデーのレイトショウということもあったが、公開5日目なのにエーガル8の一番大きな劇場に観客6名にはすこし驚いた。
 映画は韓国映画であるために、ある程度日本軍の極悪非道ぶりや、朝鮮人差別といった恥部が大きくさらけ出されていたが致し方ないであろう。
ただこの映画は1993年の小林源文作、日本漫画「ハッピータイガー」のぱくりだというネット上の書き込みもあるが、私はこのマンガを読んでないので確認は出来ていない。
しかし大作であることには間違いないと思った。

2012年01月19日

正月休み

 ここ2年間ほどは、正月を海外(ミャンマー、カンボジア)で過ごしていたので久しぶりの日本でのお正月となった。
 昨年12月31日に、かって我が家にホームステイしたニュージーランドのJ娘がやって来た。この娘は以前私のブログでも紹介したがニュージーランドのオークランド大学に文学部と工学部の同時入学を果たしており、現在工学部は3年生、文学部は卒業して修士課程に在籍している。
    PC310006-1.jpg
            奮発したおせち料理
 昨年3月から6月までは京都大学工学部でコンピューターのプログラム研究のため来日し、1週間ほど我が家に滞在、又帰国前に3日間ほど寄ってくれた。今回は文学部の修士論文の研究のための来日との事。
 J娘の文学部での専攻は日本文学だという。J娘は日本語検定1級合格者で会話や読書はほとんど日本人と同じである。ひょっとしたら普通の日本人よりも日本語を正しく使うかもしれない。
 彼女に日本文学の何を研究しているのか聞いてみた。
驚いたことに「為永春水」だと言う。私自身この名前は聞いたことが有るような、無いようなである。インターネットのウィキペディアで検索をした。それによると
「為永春水(ためなが しゅんすい、1790(寛政2年)―1844年2月11日(天保14年12月23日)江戸時代後期の戯作者。『春色梅児誉美』など人情本の代表作家。本名は佐々木貞高、通称は長次郎」とある。
外国人のしかも22歳の女性が「春色もの」を研究するのに驚いた。しかも人情本である。現在の日本人には人情など、どこかに消えうせ合理主義がまかり通っている。古きよき日本を彼女は再発見するのかな?
修士論文を書き上げたら読んでみたい。指導教官(アメリカ人)の影響も多分にあるのでは?
  DSC00593-1.jpg   DSC00594-1.jpg
    西国寺初詣(右J娘、左S娘)                大わらじ前
今現在12月よりオーストラリアのS娘がホームステイしているが、丁度J娘がホームステイしていた時、その2年前にホームステイしていたマレーシアのA娘が来て、J娘に日本での過ごし方、ホストファミリーとの付き合い方など色々アドバイスをしていた。今回はそのJ娘がS娘にアドバイスをする羽目になって、面白いめぐり合わせだと思った。
 オーストラリアのS娘は日頃英語がしゃべれなくてストレスがあったのかもしれないが、J娘を相手に良くしゃべっていた。
又、我々夫婦は英語の会話がおぼつかない。そこでJ娘がいる間にかっての留学生の所に電話をして、J娘やS娘に私達の日本語を通訳してもらいながら連絡を取った。お陰で他の元留学生の近況が良くわかった。
そのJ娘も先日京都に帰り今月末にはニュージーランドに帰るとの事。
この正月はたまたま南半球の2人と過ごし、思わぬ正月休みとなった。

2012年01月09日

50年目の同窓会

 このお正月休みに昭和34年栗原小学校、昭和37年栗原中学校卒業の同窓会があり出席した。今年が中学を卒業して丁度50年の節目に当たる。前回は5年前、還暦同窓会であった。
 私達の中学校は小学校より校区が少し大きくなり他の小学校卒業生も入学してくるので何時も小・中同時に同窓会を開くのが慣わしである。
小学校と中学校の恩師あわせて5名の先生が出席をしてくださいました。
出席の案内状を締め切ったときは50名の参加予定であったが体調不良や身内にご不幸があったりして32名となった。
 我々は丁度団塊の世代の始まりで、小学校は一クラス50人を超え4クラス、中学校は5クラスで1学年総勢260人位だったと記憶している。
しかし32名であったため少なくて寂しい気がした。
P1040030-1.jpg   P1030009-1.jpg 
  
 綾小路きみまろの名セリフに「あれから40年」という言葉があるが、我々は「あれから40年プラス10年」で我が仲間は前期高齢者、恩師の先生方は高期高齢者で正に老人会の集まりという感がしないでもなかった。
そのせいか会場は畳の間の大広間であったが、テーブル席にしてもらって大いに助かった。
 50年目に初めて合う顔もいて、名前を告げられてもしばらく判らない人もいたが暫くするとなんとなく思い出してきて記憶と現在が一致する。
野球部で一緒にプレーしたM君今では尺八のお師匠さんだが彼の尺八による清興で会がスタートした。
 50年前、15歳の我々は全員紅顔の美少年あるいは麗しの美少女であったはずなのだが、50年の月日の流れはいかんともしがたく、顔には皺やたるみ、頭は禿げあるいは白髪となり、お腹はメタボ、足を悪くして引きずる者、目は見えにくいなど言う者、又宴会途中トイレに行ったときなど、連れションをしながら、ション便の切れが悪くなった話になる。それでも今回出席できた幸せに感謝した。
 P1030018-1.jpg   P1030015-1.jpg
恩師と3年B組の仲間                       宴たけなわ
 
 恩師の先生方のお話を伺った中で、英語のY先生の話しに感動した。現在81歳だが、当時はいつも根ぶち(竹の根っこで出来たむち)を持って英語の授業をされていて怖い存在であった。その先生が今ではダンスをされたり、合唱をされたり、近くのデイサービスに出向いて100歳の方の囲碁の手ほどきをされているとかですこぶるお元気で人生に前向きなので有る。
 小説でも物語でもスポーツでもそうだが、なんでも後半が面白い。私もすでに人生後半に突入している。しかし彫刻家・平櫛田中の言葉を借りれば「60,70は洟垂れ小僧。男盛りは百から、百から」というのがあるが、洟垂れ小僧のまっただ中である。これから人生大いに楽しみたいと思っていた矢先、Y先生の前向きに、大いに楽しんでおられる生き方をお聞きして勇気百倍である。私もこれからの人生設計を引きなおし、自分自身を実現し人生の勝者にならなくてはと思う。
2次会はカラオケで楽しんだ。
次は5年後と幹事の方が言っていたが是非とも又出席しよう。

2012年01月04日

映画「聨合艦隊司令長官 山本五十六」を観て

 12月23日の封切り当日に「聨合艦隊 山本五十六」を観に行った。昔、20代の頃、作家 阿川弘之氏の書いた「山本五十六」を読んだ事がある。その時、何か心に引っかかるものがあった。
 映画のパンフレットには「誰よりも開戦に反対した男、太平洋戦争70年目の真実」と副題がある。
PC250019-1.jpg   PC250020-1.jpg
 
 そのパンフレットのイントロダクションを引用させてもらえば、
『1941年(昭和16年)12月8日。その日、日本海軍による歴史に残る一大奇襲作戦、ハワイ真珠湾攻撃は決行された。作戦を立案し、指揮を執った男・・聯合艦隊司令長官山本五十六。日本が国を挙げてアメリカとの戦争に舵を切る中、命を賭して開戦に反対し続けた彼が、何故自ら真珠湾奇襲作戦により、日米開戦の火ぶたを切らねばならなかったのか? 確固たる信念でこの国の未来を見据え、家族を愛し、故郷長岡を愛し、日本を愛した山本五十六。その知られざる「真実」を半藤一利監修のもと、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、ブーゲンビル島上空での非業の死まで、新たなる歴史観でダイナミックに描く超大作。日本が最大の危機に瀕した時代に、真のリーダーとして、山本五十六は如何なる戦いを続けたのか。開戦70年、今再び襲う未曾有の危機に、その思いを辿ることで、我々の未来を見つめ直す旅、それが「聨合艦隊司令長官 山本五十六」である。』
 PC250016-1.jpg   PC250017-1.jpg

 
 昭和の初期から太平洋戦争にいたるまでの世相を見ると、人びとは不況に喘ぎ、雇用の不安を抱え、大学を卒業しても就職も出来ない、所得格差が拡大し、そして総理大臣は短期間で次々に交代し、世の中は閉塞感で溢れていた。正に現代と同じ構図である。そんな中、閉塞感を打破するため、世論だといって三国同盟などの締結を煽り、戦争に向けて煽っていったのは他でもない、マスコミ・新聞である。
戦争はするべきでない。しかし歴史的事実を語らないで一方的に先の大戦が悪かったと判断するのは片手落ちかもしれない。私は決して戦争を賛美するものではないが、当時の世界情勢をも考えなくてはならないとも思った。そしてNHKが3年に渡って放送した司馬遼太郎の「坂の上の雲」でもそうだが、何故日本が戦わなければならなかったのか、当時の国際情勢なども考えることが大事な気がする。
 映画の中で「100年兵を養うのはなんと為か、ただ国を守らんが為」と五十六のセリフがある。正に国を守る、国民を守るという大儀が有ったような気がする。
また戦争を煽ることを至上命令とされている若い新聞記者に「目と耳と心を大きく開いて真実を見ろ」諭すセリフにも感じた。
 今のマスコミは何か情報を取捨選択しすぎているのでは無いだろうか?ネット上の情報と余りにも違っている感じがする。例えば福島原発事故の放送に関してはかなり情報操作されていたことが今頃明らかになってきた。何かにつけてこのように偏向した報道ばかり接していると70年前と同じ轍を踏むのではないかと危惧する。
 又現代は、国民の中に国を守るという意識が希薄になって来ている。平和を希求することを考えさせられる映画であった。

2011年12月26日

留学生がやって来た

 12月1日からAFSの留学生としてオーストラリア・タスマニア出身のSが我が家にやって来た。私どもにとっては6人目の留学生である。彼女は今年8月に来日してある家庭でホームステイしていたが、ひょんな事から我が家にファミリーチェンジという形でやって来た。急なことだったのでこちらの受け入れ態勢も中々整わない。
 タスマニアと聞いて私が知っているのは蕎麦がタスマニアで栽培され、日本に大量に輸入されていること、またタスマニア牛として日本の会社が牧畜を行い、これまた日本に輸入されていることぐらいしか知識が無い。
 日本語での会話はかなり出来るので、英語の苦手な私達には助かる。まだ我が家に来て日が浅いのと彼女の高校のクラブ活動の忙しさで余り話すチャンスも無い。朝練だと言って7時には家を出て、帰ってくるのは21時前後、晩ご飯を食べてお風呂に入って寝るというパターンなので、まだ日常生活ではお互いにぎこちなく、遠慮がちになる。
日本に来た目的を聞いた所、
日本語を習得したい。
日本のことを知りたい。
友達を作りたいと言っていた。目的がはっきりしていることは良いことである。
日が浅くて接する時間が短いが非常によい子である。彼女の性格は非常におとなしい。しかし芯の強い娘のようである。今の日本人の若者には無いような感じがする。
 PC110210-1.jpg   PC110218-1.jpg
 先日、1週間程度の日程で尾道を訪れた短期留学生を迎えて異文化交流会がAFS備三支部主催で行われた。私も途中少しだけ参加させてもらった。各自、それぞれ出身国の料理などを持ち寄っての交流会で、Sは前日、私の孫達とクッキーを焼いて用意をした様だ。
                PC110211-1.jpg
 当日は歓迎の言葉を流暢な日本語で話していた。物おじしない堂々としたものであった。またその会場には、AFS備三支部の今までの歩みなどが掲示されていた。かって我が家にホームステイした留学生などの写真も貼ってあり懐かしかった。
 PC110220-1.jpg   PC110222-1.jpg
 留学生を引き受けるのは5〜6年振りくらいだが、その間私も家内も歳をとったせいか、お世話をするのにも「よいこらしょ」と声が出る。Sから見ればあまり面白みも無い年寄り夫婦の所に来て少しがっかりしているのでは無かろうかと想像する。
 来年の7月に帰国するまでの長丁場なのでこれから徐々にファミリーになって行かなくてはと思う。せっかくなのだからオーストラリアについて彼女から色々教えてもらい、いつの日にかオーストラリアやタスマニアを訪れたいものである。

2011年12月20日

大恩人『O』先生の想いで

 11月末に尾道市歯科医師会の重鎮であられた『O』先生が突然にお亡くなりになられた。私としては少し心にぽっかり穴が空いたようで、さびしい感じがしている。
 『O』先生は私が歯科医になるきっかけをアドバイスしていただいた、ある意味私にとっては大恩人である。30歳の時会社勤めをしていた私は、風邪を引いたが重要会議や研究やらで会社を休むことが出来ずついにダウンしてしまう。その時初めてこのままサラリーマンをしていて良いのだろうかと悩み、なんとなく医者になりたいと思った。 そう言う時、たまたま『O』先生とお知り合いになり、自分の考えを言ったら「医者になるより歯医者になったほうが良い、6年間勉強して更に研修をしていたりすると開業までに長時間を要する。君の年齢ではリスクがある」と仰られた。即座に歯科医になる決意をしたのである。
             P3070542-1.jpg
 その後歯科医になり、尾道市歯科医師会の会員となって現在地に開業した。
当時は開業するに当たって必ず開業披露宴があり、口上を述べたりするのが常であった。暴力団の襲名披露に近いところがあった。私のように医科や歯科とは全く関係の無い家に育った門外漢にとっては、視るもの聞くものが初めてで緊張の連続であった。だからこそ『O』先生は色々と私を気遣って教えて下ったようである。
 例えば宴会でお酒を注ぎに行くのも礼儀がある。今でこそエイズなどが感染するといって勧杯をする習慣は廃れたが、私が入会した頃はまだまだ勧杯が主流であった。今頃の若い人は目上の人にどうぞといって直ぐお酒を注ぐが、本当は若い人が目上の人にまず「お流れ頂戴します」といってお酒を注いでもらい、それから返杯するのが儀礼である。こういうことも初めて『O』先生に教わった。
 また宴会の後など2階から階段を降りて帰るときでも目上の人より先に下りると『えらくなったのー』といわれたり、後から降りると『俺を見下ろすのか』といわれたりした。こうなるとどちらが良いのかわからないが、要するに相手を気遣い声がけをしながらその場の雰囲気で判断せよと教えていただいたのだと思った。
 色々の場面で私が恥をかかないようにそれとなく教えていただいた気がする。『O』先生にとって私は目の離せない乳幼児の様な存在だったのではなかろうか?
そんな私が今年、尾道市歯科医師会の会長に就任した時、『O』先生は自分のことのように喜んで下さり、会長としての心構えまで伝授していただいた。
 そんな私が『O』先生の葬儀に当たり、尾道市歯科医師会を代表して弔辞を読むことになろうとは思いもよりませんでした。今にして思えば先生が私に歯科医師になるようにアドバイスしてくれた時から、弔辞を読むことは宿命で決まっていたのかもしれない。そういう縁が有ったのだと思えてならない。『O』先生の御霊が安らかなれと御冥福をお祈り申し上げ、御遺族の上に御加護を賜らんことを念じております。                  合掌

2011年12月11日

論語を習う

 先日とは言っても、もう3週間ほど前になるが、岡山県備前の旧閑谷学校の「櫂の木」の紅葉を見に行った。孔子廟の前に2本あり、向かって右が黄色、左が赤に色づく。例年なら一番綺麗な頃のはずなのだが、今年は異常気象なのか余り紅葉せずにすでにかなり散っていた。事務所の方にお聞きしたところ今年のような事はめったに無いことだ。
せっかく楽しみにしていたのに残念至極である。
 PB170196-1.jpg   PB170199-1.jpg
  櫂の木            閑谷学校講堂
 ところがたまたまその事務所の前に、閑谷学校の講堂で論語の講義が受講できる、時間などについてはご相談くださいとの張り紙が目に入った。
せっかく来たのだし、その講義を受けるのも面白いと思いお願いしてみた所、OKとの事。
 閑谷学校の講堂は国宝に指定されている。現在の講堂は元禄14年に出来たもので300年以上が経過している。その国宝の講堂に上がれるだけでもワクワクしてくる。最初、生徒は私と家内だけだったが、講師の先生がおいでになって、門から講堂まで歩いていく間に見物客等を誘って8人ほどになった。
講堂では、用意された靴下を今自分がはいてる靴下の上にさらに履き、わらで作られた丸い座布団の上に座る。床が黒漆で磨いてあるため、決して床に手を突いたりしてはいけないのだそうだ。
        PC060205-1.jpg          PC060207-1.jpg
講師の先生が私達の前に向き合って座り、講義が始まる。よくTVや映画の時代劇の中の寺子屋のワンシーンとして出てくるあのスタイルである。
いただいたテキストを見ながら、先生の後について「子曰く、学びて時にこれを習う 亦た喜ばしからずや・・・・・」と大きな声で先生の後に続いて読んでいく。
恐らく300年前にも私が今座っている正にその場所で、誰かが同じようにやっていたと思うと自分自身が急にタイムスリップした感じになった。ひょっとしたら300年前にも私はここで論語を読んでいたのではないか?
デジャビュを感じる。
小学校以来、大声で本など読んだりしないので、最初少し気恥ずかしかったが、慣れるに従い気分が爽快となる。
 PC060208-1.jpg   PC060206-1.jpg
 毎月私が読んでいる月刊誌「致知」の12月号の特集がたまたま「孔子の人間学」で、朝も一部記事を読んでいた。このタイミングのよさも、ある意味「縁」なのかも知れない。
論語に書いてあることを、政治家を始め今の日本人全員が実践したら本当に素晴らしい国に成るのではないかとおもう。
櫂の木には少しがっかりしたがそれ以上に良い思い出を貰った。

2011年12月07日

「台湾」旅行 PART 5

 最終日である。今日は故宮博物院の見学である。観光客が多くて中々観れなくなるということで、ホテルのチェックアウトの時間が早い。雨の中急いでいくが、もうすでにかなりの観光客が来ている。案内人の「朱」さんが、少しでも良く見えるようにとまず3階の展示室に案内してくれた。
PB100163-1.jpg   PB100162-1.jpg
  故宮博物院                       故宮博物院
 最初に有名な「翠玉白菜」を観るが、これは翡翠で作られた白菜の彫刻で歯の表面にキリギリスとイナゴまでもが彫刻されている名品である。実に良くできている。「肉形石」を見たが豚の角煮そっくりの天然石にびっくりした。館内撮影禁止のため残念ながら写真が無い。
 二部屋ほど見たところで中国本土からの観光客と思しき一団がやって来て大声でわめき散らしている。説明が聞き取りにくい。館内がごった返してくる。他の部屋なども見たがあまり記憶に残っていない。2時間しか時間が無く本来ならもう少し事前に学習をしてきて、1日かけてゆっくり見るといいのだろうと思う。売店で収蔵品のレプリカなどを観た。
PB100173-1.jpg   PB100167-1.jpg
レストラン鼎秦豊                        並んだ行列

DSC_2171-1.jpg   PB100172-1.jpg
店内                          昼食後もまだ並んでいた
 その後、昼食はニューヨークタイムズで世界の十大レストランに選ばれたこともある「鼎泰豊」にて小籠包を含む点心料理を楽しんだ。さすが有名店で、予約時間に行っても予約が予約ではなく、しばらく路上に並ばされた。食べ終わってお店から出ても通りには多くのお客様が並んでいた。尾道のラーメン店「朱華園」のような賑わいである。
ただ味についてはごく普通で世界十大レストランの一つとは思えなかったし、レストランの中の内装もごく普通で十大レストランとは思えなかった。
 その後免税店でショッピングをしたが、買ったのは孫達へのお土産だけであった。
PB100178-1.jpg   PB100180-1.jpg
空港ロビー                        搭乗ゲイトの案内板
 空港に行き出国手続きをして搭乗口で待った。
 我々が乗る中華航空のこの便は昨年フィリピンからの帰りと同じ便だが、その時は1時間遅れた。またこの3月に台湾経由でやってきたニュージーランドからの学生を迎えに行った時もやはり1時間ほど遅れた。それで今回も多分遅れると思っていたら、搭乗が20分位遅れ、飛行機に乗ってからも40分以上待たされる、案の定およそ1時間以上出発が遅れたので、常習的な運行スケジュールなのかも知れない。
            PB100187-1.jpg
             機内で40分以上待たされる。 
この便に乗るときは要注意である。とにかく無事尾道に帰りついた。
 雨でたたられたが、途中サプライズもあり大変楽しい研修旅行であった。従業員の皆様ともより絆を深めることが出来た。
 次の旅行は30周年だな。

2011年11月26日

HOME院長ブログ治療の流れ院内案内診療案内予防歯科3DS母子感染ホワイトニングインプラントスポーツマウスガード
患者様の声料金表院内販売グッズ スタッフ紹介スタッフ募集アクセス院長紹介お問い合わせ治療写真集取り組み