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大先生(元院長)のブログ

正月休み

 ここ2年間ほどは、正月を海外(ミャンマー、カンボジア)で過ごしていたので久しぶりの日本でのお正月となった。
 昨年12月31日に、かって我が家にホームステイしたニュージーランドのJ娘がやって来た。この娘は以前私のブログでも紹介したがニュージーランドのオークランド大学に文学部と工学部の同時入学を果たしており、現在工学部は3年生、文学部は卒業して修士課程に在籍している。
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            奮発したおせち料理
 昨年3月から6月までは京都大学工学部でコンピューターのプログラム研究のため来日し、1週間ほど我が家に滞在、又帰国前に3日間ほど寄ってくれた。今回は文学部の修士論文の研究のための来日との事。
 J娘の文学部での専攻は日本文学だという。J娘は日本語検定1級合格者で会話や読書はほとんど日本人と同じである。ひょっとしたら普通の日本人よりも日本語を正しく使うかもしれない。
 彼女に日本文学の何を研究しているのか聞いてみた。
驚いたことに「為永春水」だと言う。私自身この名前は聞いたことが有るような、無いようなである。インターネットのウィキペディアで検索をした。それによると
「為永春水(ためなが しゅんすい、1790(寛政2年)―1844年2月11日(天保14年12月23日)江戸時代後期の戯作者。『春色梅児誉美』など人情本の代表作家。本名は佐々木貞高、通称は長次郎」とある。
外国人のしかも22歳の女性が「春色もの」を研究するのに驚いた。しかも人情本である。現在の日本人には人情など、どこかに消えうせ合理主義がまかり通っている。古きよき日本を彼女は再発見するのかな?
修士論文を書き上げたら読んでみたい。指導教官(アメリカ人)の影響も多分にあるのでは?
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    西国寺初詣(右J娘、左S娘)                大わらじ前
今現在12月よりオーストラリアのS娘がホームステイしているが、丁度J娘がホームステイしていた時、その2年前にホームステイしていたマレーシアのA娘が来て、J娘に日本での過ごし方、ホストファミリーとの付き合い方など色々アドバイスをしていた。今回はそのJ娘がS娘にアドバイスをする羽目になって、面白いめぐり合わせだと思った。
 オーストラリアのS娘は日頃英語がしゃべれなくてストレスがあったのかもしれないが、J娘を相手に良くしゃべっていた。
又、我々夫婦は英語の会話がおぼつかない。そこでJ娘がいる間にかっての留学生の所に電話をして、J娘やS娘に私達の日本語を通訳してもらいながら連絡を取った。お陰で他の元留学生の近況が良くわかった。
そのJ娘も先日京都に帰り今月末にはニュージーランドに帰るとの事。
この正月はたまたま南半球の2人と過ごし、思わぬ正月休みとなった。

2012年01月09日

50年目の同窓会

 このお正月休みに昭和34年栗原小学校、昭和37年栗原中学校卒業の同窓会があり出席した。今年が中学を卒業して丁度50年の節目に当たる。前回は5年前、還暦同窓会であった。
 私達の中学校は小学校より校区が少し大きくなり他の小学校卒業生も入学してくるので何時も小・中同時に同窓会を開くのが慣わしである。
小学校と中学校の恩師あわせて5名の先生が出席をしてくださいました。
出席の案内状を締め切ったときは50名の参加予定であったが体調不良や身内にご不幸があったりして32名となった。
 我々は丁度団塊の世代の始まりで、小学校は一クラス50人を超え4クラス、中学校は5クラスで1学年総勢260人位だったと記憶している。
しかし32名であったため少なくて寂しい気がした。
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 綾小路きみまろの名セリフに「あれから40年」という言葉があるが、我々は「あれから40年プラス10年」で我が仲間は前期高齢者、恩師の先生方は高期高齢者で正に老人会の集まりという感がしないでもなかった。
そのせいか会場は畳の間の大広間であったが、テーブル席にしてもらって大いに助かった。
 50年目に初めて合う顔もいて、名前を告げられてもしばらく判らない人もいたが暫くするとなんとなく思い出してきて記憶と現在が一致する。
野球部で一緒にプレーしたM君今では尺八のお師匠さんだが彼の尺八による清興で会がスタートした。
 50年前、15歳の我々は全員紅顔の美少年あるいは麗しの美少女であったはずなのだが、50年の月日の流れはいかんともしがたく、顔には皺やたるみ、頭は禿げあるいは白髪となり、お腹はメタボ、足を悪くして引きずる者、目は見えにくいなど言う者、又宴会途中トイレに行ったときなど、連れションをしながら、ション便の切れが悪くなった話になる。それでも今回出席できた幸せに感謝した。
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恩師と3年B組の仲間                       宴たけなわ
 
 恩師の先生方のお話を伺った中で、英語のY先生の話しに感動した。現在81歳だが、当時はいつも根ぶち(竹の根っこで出来たむち)を持って英語の授業をされていて怖い存在であった。その先生が今ではダンスをされたり、合唱をされたり、近くのデイサービスに出向いて100歳の方の囲碁の手ほどきをされているとかですこぶるお元気で人生に前向きなので有る。
 小説でも物語でもスポーツでもそうだが、なんでも後半が面白い。私もすでに人生後半に突入している。しかし彫刻家・平櫛田中の言葉を借りれば「60,70は洟垂れ小僧。男盛りは百から、百から」というのがあるが、洟垂れ小僧のまっただ中である。これから人生大いに楽しみたいと思っていた矢先、Y先生の前向きに、大いに楽しんでおられる生き方をお聞きして勇気百倍である。私もこれからの人生設計を引きなおし、自分自身を実現し人生の勝者にならなくてはと思う。
2次会はカラオケで楽しんだ。
次は5年後と幹事の方が言っていたが是非とも又出席しよう。

2012年01月04日

映画「聨合艦隊司令長官 山本五十六」を観て

 12月23日の封切り当日に「聨合艦隊 山本五十六」を観に行った。昔、20代の頃、作家 阿川弘之氏の書いた「山本五十六」を読んだ事がある。その時、何か心に引っかかるものがあった。
 映画のパンフレットには「誰よりも開戦に反対した男、太平洋戦争70年目の真実」と副題がある。
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 そのパンフレットのイントロダクションを引用させてもらえば、
『1941年(昭和16年)12月8日。その日、日本海軍による歴史に残る一大奇襲作戦、ハワイ真珠湾攻撃は決行された。作戦を立案し、指揮を執った男・・聯合艦隊司令長官山本五十六。日本が国を挙げてアメリカとの戦争に舵を切る中、命を賭して開戦に反対し続けた彼が、何故自ら真珠湾奇襲作戦により、日米開戦の火ぶたを切らねばならなかったのか? 確固たる信念でこの国の未来を見据え、家族を愛し、故郷長岡を愛し、日本を愛した山本五十六。その知られざる「真実」を半藤一利監修のもと、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、ブーゲンビル島上空での非業の死まで、新たなる歴史観でダイナミックに描く超大作。日本が最大の危機に瀕した時代に、真のリーダーとして、山本五十六は如何なる戦いを続けたのか。開戦70年、今再び襲う未曾有の危機に、その思いを辿ることで、我々の未来を見つめ直す旅、それが「聨合艦隊司令長官 山本五十六」である。』
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 昭和の初期から太平洋戦争にいたるまでの世相を見ると、人びとは不況に喘ぎ、雇用の不安を抱え、大学を卒業しても就職も出来ない、所得格差が拡大し、そして総理大臣は短期間で次々に交代し、世の中は閉塞感で溢れていた。正に現代と同じ構図である。そんな中、閉塞感を打破するため、世論だといって三国同盟などの締結を煽り、戦争に向けて煽っていったのは他でもない、マスコミ・新聞である。
戦争はするべきでない。しかし歴史的事実を語らないで一方的に先の大戦が悪かったと判断するのは片手落ちかもしれない。私は決して戦争を賛美するものではないが、当時の世界情勢をも考えなくてはならないとも思った。そしてNHKが3年に渡って放送した司馬遼太郎の「坂の上の雲」でもそうだが、何故日本が戦わなければならなかったのか、当時の国際情勢なども考えることが大事な気がする。
 映画の中で「100年兵を養うのはなんと為か、ただ国を守らんが為」と五十六のセリフがある。正に国を守る、国民を守るという大儀が有ったような気がする。
また戦争を煽ることを至上命令とされている若い新聞記者に「目と耳と心を大きく開いて真実を見ろ」諭すセリフにも感じた。
 今のマスコミは何か情報を取捨選択しすぎているのでは無いだろうか?ネット上の情報と余りにも違っている感じがする。例えば福島原発事故の放送に関してはかなり情報操作されていたことが今頃明らかになってきた。何かにつけてこのように偏向した報道ばかり接していると70年前と同じ轍を踏むのではないかと危惧する。
 又現代は、国民の中に国を守るという意識が希薄になって来ている。平和を希求することを考えさせられる映画であった。

2011年12月26日

留学生がやって来た

 12月1日からAFSの留学生としてオーストラリア・タスマニア出身のSが我が家にやって来た。私どもにとっては6人目の留学生である。彼女は今年8月に来日してある家庭でホームステイしていたが、ひょんな事から我が家にファミリーチェンジという形でやって来た。急なことだったのでこちらの受け入れ態勢も中々整わない。
 タスマニアと聞いて私が知っているのは蕎麦がタスマニアで栽培され、日本に大量に輸入されていること、またタスマニア牛として日本の会社が牧畜を行い、これまた日本に輸入されていることぐらいしか知識が無い。
 日本語での会話はかなり出来るので、英語の苦手な私達には助かる。まだ我が家に来て日が浅いのと彼女の高校のクラブ活動の忙しさで余り話すチャンスも無い。朝練だと言って7時には家を出て、帰ってくるのは21時前後、晩ご飯を食べてお風呂に入って寝るというパターンなので、まだ日常生活ではお互いにぎこちなく、遠慮がちになる。
日本に来た目的を聞いた所、
日本語を習得したい。
日本のことを知りたい。
友達を作りたいと言っていた。目的がはっきりしていることは良いことである。
日が浅くて接する時間が短いが非常によい子である。彼女の性格は非常におとなしい。しかし芯の強い娘のようである。今の日本人の若者には無いような感じがする。
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 先日、1週間程度の日程で尾道を訪れた短期留学生を迎えて異文化交流会がAFS備三支部主催で行われた。私も途中少しだけ参加させてもらった。各自、それぞれ出身国の料理などを持ち寄っての交流会で、Sは前日、私の孫達とクッキーを焼いて用意をした様だ。
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 当日は歓迎の言葉を流暢な日本語で話していた。物おじしない堂々としたものであった。またその会場には、AFS備三支部の今までの歩みなどが掲示されていた。かって我が家にホームステイした留学生などの写真も貼ってあり懐かしかった。
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 留学生を引き受けるのは5〜6年振りくらいだが、その間私も家内も歳をとったせいか、お世話をするのにも「よいこらしょ」と声が出る。Sから見ればあまり面白みも無い年寄り夫婦の所に来て少しがっかりしているのでは無かろうかと想像する。
 来年の7月に帰国するまでの長丁場なのでこれから徐々にファミリーになって行かなくてはと思う。せっかくなのだからオーストラリアについて彼女から色々教えてもらい、いつの日にかオーストラリアやタスマニアを訪れたいものである。

2011年12月20日

大恩人『O』先生の想いで

 11月末に尾道市歯科医師会の重鎮であられた『O』先生が突然にお亡くなりになられた。私としては少し心にぽっかり穴が空いたようで、さびしい感じがしている。
 『O』先生は私が歯科医になるきっかけをアドバイスしていただいた、ある意味私にとっては大恩人である。30歳の時会社勤めをしていた私は、風邪を引いたが重要会議や研究やらで会社を休むことが出来ずついにダウンしてしまう。その時初めてこのままサラリーマンをしていて良いのだろうかと悩み、なんとなく医者になりたいと思った。 そう言う時、たまたま『O』先生とお知り合いになり、自分の考えを言ったら「医者になるより歯医者になったほうが良い、6年間勉強して更に研修をしていたりすると開業までに長時間を要する。君の年齢ではリスクがある」と仰られた。即座に歯科医になる決意をしたのである。
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 その後歯科医になり、尾道市歯科医師会の会員となって現在地に開業した。
当時は開業するに当たって必ず開業披露宴があり、口上を述べたりするのが常であった。暴力団の襲名披露に近いところがあった。私のように医科や歯科とは全く関係の無い家に育った門外漢にとっては、視るもの聞くものが初めてで緊張の連続であった。だからこそ『O』先生は色々と私を気遣って教えて下ったようである。
 例えば宴会でお酒を注ぎに行くのも礼儀がある。今でこそエイズなどが感染するといって勧杯をする習慣は廃れたが、私が入会した頃はまだまだ勧杯が主流であった。今頃の若い人は目上の人にどうぞといって直ぐお酒を注ぐが、本当は若い人が目上の人にまず「お流れ頂戴します」といってお酒を注いでもらい、それから返杯するのが儀礼である。こういうことも初めて『O』先生に教わった。
 また宴会の後など2階から階段を降りて帰るときでも目上の人より先に下りると『えらくなったのー』といわれたり、後から降りると『俺を見下ろすのか』といわれたりした。こうなるとどちらが良いのかわからないが、要するに相手を気遣い声がけをしながらその場の雰囲気で判断せよと教えていただいたのだと思った。
 色々の場面で私が恥をかかないようにそれとなく教えていただいた気がする。『O』先生にとって私は目の離せない乳幼児の様な存在だったのではなかろうか?
そんな私が今年、尾道市歯科医師会の会長に就任した時、『O』先生は自分のことのように喜んで下さり、会長としての心構えまで伝授していただいた。
 そんな私が『O』先生の葬儀に当たり、尾道市歯科医師会を代表して弔辞を読むことになろうとは思いもよりませんでした。今にして思えば先生が私に歯科医師になるようにアドバイスしてくれた時から、弔辞を読むことは宿命で決まっていたのかもしれない。そういう縁が有ったのだと思えてならない。『O』先生の御霊が安らかなれと御冥福をお祈り申し上げ、御遺族の上に御加護を賜らんことを念じております。                  合掌

2011年12月11日

論語を習う

 先日とは言っても、もう3週間ほど前になるが、岡山県備前の旧閑谷学校の「櫂の木」の紅葉を見に行った。孔子廟の前に2本あり、向かって右が黄色、左が赤に色づく。例年なら一番綺麗な頃のはずなのだが、今年は異常気象なのか余り紅葉せずにすでにかなり散っていた。事務所の方にお聞きしたところ今年のような事はめったに無いことだ。
せっかく楽しみにしていたのに残念至極である。
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  櫂の木            閑谷学校講堂
 ところがたまたまその事務所の前に、閑谷学校の講堂で論語の講義が受講できる、時間などについてはご相談くださいとの張り紙が目に入った。
せっかく来たのだし、その講義を受けるのも面白いと思いお願いしてみた所、OKとの事。
 閑谷学校の講堂は国宝に指定されている。現在の講堂は元禄14年に出来たもので300年以上が経過している。その国宝の講堂に上がれるだけでもワクワクしてくる。最初、生徒は私と家内だけだったが、講師の先生がおいでになって、門から講堂まで歩いていく間に見物客等を誘って8人ほどになった。
講堂では、用意された靴下を今自分がはいてる靴下の上にさらに履き、わらで作られた丸い座布団の上に座る。床が黒漆で磨いてあるため、決して床に手を突いたりしてはいけないのだそうだ。
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講師の先生が私達の前に向き合って座り、講義が始まる。よくTVや映画の時代劇の中の寺子屋のワンシーンとして出てくるあのスタイルである。
いただいたテキストを見ながら、先生の後について「子曰く、学びて時にこれを習う 亦た喜ばしからずや・・・・・」と大きな声で先生の後に続いて読んでいく。
恐らく300年前にも私が今座っている正にその場所で、誰かが同じようにやっていたと思うと自分自身が急にタイムスリップした感じになった。ひょっとしたら300年前にも私はここで論語を読んでいたのではないか?
デジャビュを感じる。
小学校以来、大声で本など読んだりしないので、最初少し気恥ずかしかったが、慣れるに従い気分が爽快となる。
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 毎月私が読んでいる月刊誌「致知」の12月号の特集がたまたま「孔子の人間学」で、朝も一部記事を読んでいた。このタイミングのよさも、ある意味「縁」なのかも知れない。
論語に書いてあることを、政治家を始め今の日本人全員が実践したら本当に素晴らしい国に成るのではないかとおもう。
櫂の木には少しがっかりしたがそれ以上に良い思い出を貰った。

2011年12月07日

「台湾」旅行 PART 5

 最終日である。今日は故宮博物院の見学である。観光客が多くて中々観れなくなるということで、ホテルのチェックアウトの時間が早い。雨の中急いでいくが、もうすでにかなりの観光客が来ている。案内人の「朱」さんが、少しでも良く見えるようにとまず3階の展示室に案内してくれた。
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  故宮博物院                       故宮博物院
 最初に有名な「翠玉白菜」を観るが、これは翡翠で作られた白菜の彫刻で歯の表面にキリギリスとイナゴまでもが彫刻されている名品である。実に良くできている。「肉形石」を見たが豚の角煮そっくりの天然石にびっくりした。館内撮影禁止のため残念ながら写真が無い。
 二部屋ほど見たところで中国本土からの観光客と思しき一団がやって来て大声でわめき散らしている。説明が聞き取りにくい。館内がごった返してくる。他の部屋なども見たがあまり記憶に残っていない。2時間しか時間が無く本来ならもう少し事前に学習をしてきて、1日かけてゆっくり見るといいのだろうと思う。売店で収蔵品のレプリカなどを観た。
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レストラン鼎秦豊                        並んだ行列

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店内                          昼食後もまだ並んでいた
 その後、昼食はニューヨークタイムズで世界の十大レストランに選ばれたこともある「鼎泰豊」にて小籠包を含む点心料理を楽しんだ。さすが有名店で、予約時間に行っても予約が予約ではなく、しばらく路上に並ばされた。食べ終わってお店から出ても通りには多くのお客様が並んでいた。尾道のラーメン店「朱華園」のような賑わいである。
ただ味についてはごく普通で世界十大レストランの一つとは思えなかったし、レストランの中の内装もごく普通で十大レストランとは思えなかった。
 その後免税店でショッピングをしたが、買ったのは孫達へのお土産だけであった。
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空港ロビー                        搭乗ゲイトの案内板
 空港に行き出国手続きをして搭乗口で待った。
 我々が乗る中華航空のこの便は昨年フィリピンからの帰りと同じ便だが、その時は1時間遅れた。またこの3月に台湾経由でやってきたニュージーランドからの学生を迎えに行った時もやはり1時間ほど遅れた。それで今回も多分遅れると思っていたら、搭乗が20分位遅れ、飛行機に乗ってからも40分以上待たされる、案の定およそ1時間以上出発が遅れたので、常習的な運行スケジュールなのかも知れない。
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             機内で40分以上待たされる。 
この便に乗るときは要注意である。とにかく無事尾道に帰りついた。
 雨でたたられたが、途中サプライズもあり大変楽しい研修旅行であった。従業員の皆様ともより絆を深めることが出来た。
 次の旅行は30周年だな。

2011年11月26日

「台湾」旅行 PART 4

 旅行第3日目、今日も雨が降っている。朝食後、台湾のほぼ中央にある天然湖の「日月潭」へ行く。
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日月潭                        文武廟から日月潭を望む 
 この湖は湖面の半分が太陽の形、半分が月の形をしていることからこの名が付いた。バスで着いたところに「文武廟」がある。この廟は1938年建立で中国宮殿式の廟宇でその名の通り文の神様として孔子を、武の神様として岳飛と関羽が祀られている。1999年9月の大地震で廟は大きく傾いたが、現在は修復されていた。
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孔子像                        文武廟から日月潭を望む 
雨なので湖のクルーズは止めて、時間調整のため湖畔にある向山遊客中心という管理センターに行く。売店でマンゴジュースを飲む美味しかった。
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向山遊客中心                   向山遊客中心から日月潭を望む
 この建物は日本人設計士が設計したもので優美な姿をしていた。少し雨が止んで霧がはれかかったが、太陽を見るところまでは行かない。台中市に戻ってレストラン「大宝」で春雨料理の昼食をとった。これも美味しかった。
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どんな臭いの豆腐?                   左から右へ斜走する地層
 その後バスにて台北に向かう。途中山肌が見えるところがあったが地層が斜めに走り、断層を思わせる地形を窓越しに見る。多分1999年の地震に関係しているのかもしれない。
 台北について「忠烈祠」に行く。ここは豪壮な中国宮殿様式の霊廟で、丁度100年前の1911年の辛亥革命や戦争などで犠牲になった数十万人の将兵が祭られている。そのほかにも自己犠牲を払って保育園児を助けた女性なども祀られているとか。ここの廟も直立不動の衛兵が守っているが、丁度夕方5時の衛兵交代式を見ることが出来た。1時間ごとに交代するのだそうだが白い軍服を身につけており、今月は空軍兵の当番だとのこと。歩き方、手や足の上げ下げ、銃剣の持ち方、構え方キビキビして観ていて気持ちよい。
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忠烈祠入り口                          衛兵交代式
 添乗員の「朱」さんによれば、昔は2時間毎の交代であったし、営舎から持ち場まで今は警備担当者に傘さしてもらって登場するなど随分と甘やかされているとのこと。ちなみに台湾は全員兵役の義務があり、「朱」さんも2年間兵役に付いたが彼は憲兵隊だったとのこと。かなり先輩から虐められたが、今はそんなことをすると、ノイローゼになったり、親が出てきてマスコミを巻き込んで大変なことになるとか。
 その後地元はもちろん海外からの観光客にも人気の「好記担仔麺」レストランで食事をしたが、格安ツアーの我々には豪華メニューは出なかったが味はそこそこよかった。
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夕食                              圓山大飯店 
 夜はオプションとしてランドマークの台北101からの夜景と、夜市散策だったが雨のためこれも無くなった。
 ツアー御一行の今夜の宿泊は二手に分かれる。一人1万円余分に出すと台北のランドマーク的な「圓山大飯店」に宿泊できるが我々は普通の「中源大飯店」に泊まった。その代わり「さいだ歯科医院全員」で台湾式オイルマッサージと足つぼマッサージをすることにした。お1人2500台湾元(およそ¥7500)。実を取ったのかな?今日のバスでの移動距離は300キロを越えていた。
 続きは PART 5へ

2011年11月23日

「台湾」旅行 PART 3

 夕食は「重慶」で客家料理であった。ツアー御一行26名中私達は10名の参加者のため常に食事は他のツアーの人たちとは同じテーブルを囲むことが無く、いつも「さいだ歯科ご一行様」という感じである。
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 食事を楽しくいただいて出てくる料理もソロソロ終わりかなという頃、突如我々のテーブルに直径30センチ、高さ10センチ以上もあると思われるケーキが運ばれてきた。私に添乗員の「朱」さんが「おめでとう」と言う。何のことか理解できない私。すると「ご開業おめでとう」という。突然店内にハッピーバースデイの曲が流れ始め、満席の会場からは口ずさむ人もいる。ケーキの上に25の数字がデコレートしてあった。皆が手拍子をしだす。
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 音楽が終わるとケーキの上の蝋燭の火を吹き消してくださいと合図される。どうも間違いではなく私達のために用意されたケーキだと思い火を吹き消す。そしてケーキに入刀した。余りにも大きいケーキで我々10人ではとても食べきれない。そこでお店の人に言って分割してもらい、同じツアーの他のメンバーのテーブルにもおすそ分けをして運んでいただいた。大喜びされる。
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 技工士のT君が「実はね」とそっと耳打ちをしてくれた。彼の話によれば「チーフのMさんあたりが中心となって、旅行に出かける前、旅の途中でサプライズを行うことが出来るかどうか広島の旅行代理店に問い合わせをしたところ、『出来る』ということでお願いをしてあった」とのこと。ただどの時点でサプライズが実行されるのかは知らされてなかったのだそうだ。
 ツアーの他のメンバー達から「従業員さんがそのような企画を考えられるなんて、先生はお優しくて素晴らしいのですねと褒められてしまった。」「それはそうだ俺は優しいのだ」と生意気にも内心は思ってみたが嬉しくなった。従業員の皆様の心遣いに感謝である。本当に有難うございました。思わぬ開業25周年の記念となった。
 旅も丁度半分が過ぎ、あと2日どんな旅になるのか楽しみ。ホテルにチェックインしてまたマッサージ師に来てもらい2時間してもらった。昨日の台湾式のほうが良かったようだ。
 続きはPART 4へ

2011年11月22日

「台湾」旅行 PART 2

 雨が上がっていることを期待しながら起床したがやはり小雨が降っている。高雄は台湾最大の港町でもある。朝食後、港が見える壽山公園に行く。ここには戦前高雄神社が在ったが、戦後愛国の勇士を祀った忠烈祠となりそこから港が良く見えた。港の外は台湾海峡でその向こうに中国大陸があり微妙な関係である。
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 高雄港を見下ろす                    忠烈祠
 その後市内の蓮池潭に行く。ここには七重の塔が対になっている「龍虎塔」が有り、龍の口から入って虎の口から出ると今までの悪行が取り消されると言われ、龍の口から入って塔に昇り高雄の街を眺め、虎の口から出た。一体何が私の悪行かは判らないが、綺麗になって無垢の状態になったと信じたいものである。その横には保生大帝が祀られている慈濟宮がありそれも観た。昼食の飲茶料理はまあまあだった。何しろ格安ツアーなのだから。
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龍虎塔                           慈濟宮
 その後バスにて台南市に移動。台南市は台湾では最も早くに開発され長らく首府が置かれていたとのこと。まず赤嵌樓に行く。ここは1652年オランダによって築かれたプロビンティア城と呼ばれるレンガ造りの要塞跡である。1661年鄭成功がオランダ人を駆逐した後、首府に制定した。清代、日本統治時代を経て長い年月を経過するも当時の様子をそこそこ残しているとか。オランダによる赤レンガの壁など創建当時の様子がわかる。
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赤嵌樓                     オランダ時代のレンガ
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オランダ時代のレンガ           降伏するオランダ人と鄭成功
 次に延平郡王祠に行く。これは台湾をオランダから開放した鄭成功が祀られている。鄭成功は高校の歴史の教科書にまででている人物で母親が日本人(田川姓)であり、明国の役人をしていたが、明国が清国によって滅ぼされる時日本に助けを求めに来たが、家康は動かなかったと伝えられている。近松門左衛門はこの鄭成功の話を元に浄瑠璃「国性爺合戦」を書き上げている。
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延平郡王祠                         園内に居るリス
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鄭成功像                         オランダ時代の大砲
 バスにて台中市に移動する。ここは台湾では第3番目の都市だとのこと。ここで1928年創建の宝覚寺を見学する。現在は当時の建物が傷むのを守るためにコンクリート製の建屋で保護されている。なおここには高さ約30メートルの布袋様の像があり、かって日本統治時代台湾中部で亡くなった日本人14000柱の遺骨が納められている。大きな布袋様より人間くらいの大きさの石の布袋様の顔がなんとも言えない良いお顔であった。
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宝覚寺                           石の布袋様
これで今日の観光は終わり。続きはPART 3へ

2011年11月17日

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