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大先生(元院長)のブログ

NHKドキュメンタリー「ふたり・宮崎駿X宮崎吾朗」と映画「コクリコ坂から」

 8月9日夕食を食べながらたまたまドキュメンタリーを観た。内容は父である宮崎駿と息子の宮崎吾朗が新作「コクリコ坂から」の製作に関しての父と子の300日戦争を描いたものである。
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 「コクリコ坂から」は息子の吾朗が監督で、脚本が父・駿である。宮崎駿は日本におけるアニメーション界の第一人者、息子吾朗は建設コンサルタントや環境デザイナーというまったく別の仕事をしていたが、「アニメーションを作ってみたい」と言う気持ちで6年前、吾朗は父の反対を押し切って『ゲド戦記』で監督になった。
しかし、そんな息子を父は認めていなかった。
 吾朗にとって2作目となる「コクリコ坂から」では、ヒロイン・海のキャラクターが暗いイメージでしか表現できない。キャラクターの設定を巡って駿は一歩も譲らない、壮絶なバトル、幾度となく衝突する父と子の葛藤を描いていた。危機的状況の中、父から息子に一枚の絵が届けられる。その絵によって一気にヒロインのイメージが出来上がった。さらに父・駿は水面下でこっそり鈴木プロデューサーに映画の最初の場面にヒロイン・海が布団をたたむシーンを入れたほうが良いことを話す。そして鈴木はそれを息子吾朗にそれとなく伝える。がけっぷちの状況の中、追い込み作業をし、からくも7月公開に間に合った。
息子吾朗にとって既に伝説となった父と常に比較されながら挑戦し続けていく、父と子・ふたりの関係を余すところなく映像化していた。
映像のそこかしこに父・駿が心の中で息子・吾朗が自分を超えることを願っているように思えた。
私にも同じ歯科医師の息子2人がいるが、早く私を追い越して欲しいと願っている。

 このドキュメンタリーを観て急に「コクリコ坂から」が観たくなりインターネットで調べたら21:50のレイトショウーに間に合うことが判り、直ぐに出かけた。 
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 ドキュメンタリーにあった様にヒロイン・海ちゃんの布団を上げるシーンから始まった。また父が届けた絵の場面も出てきた。
物語の内容も良いのだが、それよりも映画の中の風景や時代設定に凄く懐かしさを感じた。ヒロイン・海ちゃんは高校2年生。
映画のパンフレットの裏に、企画のための覚書「コクリコ坂から」について『港の見える丘』 企画 宮崎 駿とあった。
それを読むと「舞台は横浜、時代は東京オリンピックの前年とあった。」
まさに私も高校2年生、ヒロイン・海ちゃんと一緒。
 「首都高速はまだないが、交通地獄が叫ばれ、道も電車もひしめき、公害で海や川は汚れた。1963年は東京からカワセミが消え学級の中で共通するアダ名が消えて時期でもある。貧乏だが希望だけがあった。新しい時代の幕開けであり、何かが失われようとしている時代でもある」と書いてあった。
 映画を観ながら自分の青春時代を思い出し、背景に懐かしさを覚えながら、微笑みながら観た。ヒロインの「海ちゃん」と彼氏の「俊」がお互いに好きと告白しあうが、そこは都会の子、尾道ではまだ高校2年生で告白する勇気をもった同級生はいなかったように思う。
子供向けのアニメかと思っていたが、団塊の世代にとっては懐かしくほろ苦さを感じる映画ではないかと思う。

2011年08月11日

8月という月

 明日8月9日は「長崎の原爆の日」である。6日は「広島原爆の日(慰霊の日)」であった。そして15日は終戦記念日、いずれも今年で66年が経過する。
私のように戦後生まれにはあまりピンと来ないが、それでも進駐軍は見たような記憶がある。
 8月6日、たまたま歯科医師会関係の会議で広島に出かけた。せっかく6日に来たのだからと、会議までの時間を利用して平和公園に足を伸ばし、慰霊碑に手を合わせた。さらに平和の鐘もひとつきした。その日の朝にはNHK・TVのLIVE中継で記念式典を見、黙祷をしていたのだが、やはり現地で手を合わせたりするとまた違った感じがした。
丁度訪れたのは2時ごろであったが多くの人たちがまだ慰霊碑の前に並んで、お祈りの順番を待っていて、いつもと違う平和公園がそこにあった。
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 慰霊碑前の広場はTVで見た式典のときの椅子やテントなどの片付けがなされており、原爆ドームの見える川辺では恐らく、夕方のニュースの実況中継や夜のトーク番組を行うのであろうか、各TV局が陣取り合戦をして、マイクやスピーカーの調整に余念が無いようであった。
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 原爆供養塔の前では夕方、各宗派によって行われる合同慰霊祭の準備が進められていた。
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 一昨年訪れた時観た「被爆ピアノの平和コンサート」が今年も同じ場所、「被爆あおぎり」の横でなされていた。また「原爆の子の像」のところでは色鮮やかな折鶴が飾ってあり、中学生とおぼしき一段がボランティアの方々から佐々木貞子さんのお話を聞いているようであった。
会議が終わって元安川の川べりを歩くと灯篭流しの灯篭が川面を照らしながら流れていた。66年前は恐らくおびただしい数の遺体が流れていたのであろう、
そんなことをおもった。
 ところで先日ロシア映画「戦火のナージャ」を観た。スターリンの大粛清から独ソ戦争の頃の話であるが、主人公のナージャが戦場の地獄絵図の中でいつも思い出すのは夢のような幸福で満たされていた1936年の夏の美しい情景である。映画の中でさえ、戦場の異常さと平和な世界との対比を観るにつけ、戦争の虚しさを改めて知ることが出来る。
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 恐らく、広島・長崎では一般市民にとって平和な世界から一瞬にして地獄化した光景の対比、私には想像すら出来ない。平和な情景から一変した現実、私がいかに慮っても、慮れるものではない。
しかし戦後66年経ち改めて平和の有りがたさに感謝している。

2011年08月08日

尾道市の高齢化率

 尾道の地方新聞『山陽日々新聞』の7月30日、8月2日、8月3日の三日間にわたり尾道市の地区別高齢化率の記事が掲載されていた。尾道市全体としては6月末日現在で65歳以上のお年よりは30.1%だと報じている。
また高齢化率が50%を超えると限界集落と言われ、町内会活動や消防団などの自治活動が出来なくなると言われている。平成の大合併後の現在の尾道市には8ヶ所の限界集落が存在しているとも報じている。
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 一方、政府の「平成21年版高齢社会白書」によれば2008年の高齢化率は22.1%で2013年には25.2%に達すると予測をしている。いずれにしても日本そのものが少子高齢化に向かっている中で尾道市はかなり高齢化を先取りしているようだ。
ところで旧尾道市(平成の大合併以前)で見た場合、「さいだ歯科医院」は尾道市の歯科医院としては一番北のはずれに位置しておりかなり田舎にある。
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 そこで地域別の高齢化率を眺めてみたところ、「さいだ歯科医院」においでになる大部分の患者様達の住まわれている地域の高齢化率は22.5%〜43.9%であった。まだ限界集落は無いようである。
その中で「さいだ歯科医院」のある美ノ郷町三成は22.5%と書いてあり比較的若い。しかし三成地区を除いた周辺の地域の高齢化率を計算したところ34.5%で、尾道市の平均よりもかなり高齢化率が高い。三成地区も含めて計算すれば28%でかなり尾道市の平均に近い。
これらのデーターから私の医院においでになられる患者様は、これからますます高齢者が増えて、総入れ歯の患者様が多くなるのではと予感がする。そしてまたお年を召され、自力で歯科医院に通えない患者様も増えることが予想される。そうなれば訪問診療などのニーズも今以上に増えるのでは無いだろうか?
その時に備えて「さいだ歯科医院」の診療体勢の構築など経営戦略を見直さなくてはと思った。
中々地域のこういうデーターは目に入らないのだが、さすが「地方の新聞」でありがたかった。

 ところで先日尾道市長の平谷氏のお話をお聴きする機会があった。
その際市長は、尾道市は2012年問題と2022年問題を抱えているとお話された。
何のことかといえば、2012年問題は団塊の世代が年金をもらい始めること、2022年はこの団塊の世代が後期高齢者になりいずれも尾道市の財政を圧迫するようになるとの事。長寿社会はおめでたい事であるが、尾道市を運営する市長にとっては、これらの問題に配慮しながら他の市民サービスを充実させることは頭の痛い問題だと話しておられた。
この話を聴きながら2012年問題は正に私のことであり、来年には高齢化率を上げる要員で申し訳ない気がした。
色々のところに少子高齢化の歪が出てきており年金制度も怪しくなるのではと危惧している。

2011年08月03日

小説「ふがいない僕は空を見た」を読んで

 先日、実に10年以上ぶりに小説を読んだ。このところ読むのは実践本とかハウツウ本あるいは伝記の類などであった。
ひょんなところからこの本に出会った。
この本は 窪 美澄 という女性作家の作品である。
この本の帯には
「本の雑誌が選ぶ2010年度ベスト10 第1位」
「2011年度本屋大賞 第2位」
第8回「女による女のためのR−18文学賞・大賞受賞作」と書いてあった。
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 この本の構成は5つの短編集からなり、それが全部つながり一つの作品となっている。
 第1篇の『みくまり』は第8回「女による女のためのR−18文学賞・大賞受賞作」で主人公は高校1年生の斉藤卓巳で、助産院を営む母親と2人で暮らす普通の少年だが、ひょんなことから人妻のあんずと、コスプレした上でのセックスに興じる毎日。
だが、あるとき同級生の女の子に告白されるがそれでも、関係は続く・・・・
この短編の中で描かれる性描写は64歳の私が読んでもドキッとさせられる。

昔、20歳前後に興味しんしんで読んだ官能小説よりはるかにどぎつくあまりにもリアルである。昔読んだ官能小説は男性の作品であったが女性が描くとこの様になるのかとも思った。さすがR−18(18歳未満お断り)である。
 ところで余談であるが、この題の「みくまり」は「水分り」では無いかと思った。小説の後半に川の流れの様子が表現され「水分り」と表示されていた。想像が当たっていた。
昔、広大生の頃、広島市の隣、府中町の水分り峡に飯盒すいさんにいったり、そこから沢登りをして呉婆々宇山(ござそうやま)に登ったりした事がありそこから想像していた。
 第2編『世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸』は、その卓巳と不倫を繰り返す主婦・あんずが主人公。小さいときからいじめに遭って成長しやっと結婚するが、いつまでも子供ができないことで義母からプレッシャーをかけられる。一方、夫はストーカーで妻の行動に不審をもち、隠しカメラをSET・・・
 第3篇『2035年のオーガズム』は卓巳に告白した同級生の女の子が主人公。
 第4篇『セイタカアワダチソウの空』は卓巳の親友・良太が主人公
 第5編『花粉・受粉』は助産師をしている卓巳の母親がそれぞれ主人公となっている。
 登場する人々はみな、それぞれに悩みを抱えながら人生と向き合い生きている。
ところでこの5つの短編を読みながら出てくる単語を書き出せば
『不倫・いじめ・コスプレ・不妊治療・人工授精・体外受精・代理母・単身赴任・新興宗教集団・児童虐待・貧困・生活保護・アルコール依存症・自己破産・自殺・一家心中・万引き・ネットでの誹謗中傷』等、日常茶飯事にマスコミを賑わす現代社会の言葉が綴られていた。
しかも明るくて楽しくなるような言葉は見あたらない。
日本の国の恥部がえぐりだされ、現代社会の歪や矛盾があたかも当然であるような感覚で表現されている。
 そういう中にあって、卓巳の母親が助産師として産婦から子供をこの世へ導き出すことが唯一の希望の光、生への執着で産婦が生まれたばかりの子どもを胸に抱くことが愛の本質として表現されているとも思った。
 この本は性描写を含め現代社会の歪、世相を垣間見るという意味で私にとっても衝撃な本であった。

2011年07月20日

早めの暑気払い

 今年は5月に梅雨に入ったかと思えば、2週間以上も早く7月8日には梅雨明けをした。何だか段々、日本列島が温帯から亜熱帯になってきたのでは無いかと思う。この連日の暑さにはほどほど参ってしまう。
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そこで例年なら土用の丑の頃にする暑気払いを早くした。女性スタッフは若いし、夏と言えばやはり肉かなと思う。場所の選定をしていたら尾道のGホテルが「カナダビーフ90分食べ放題」のキャンペーンをしているのを見つけた。そういえば昨年も同じだった。
パンフレットにも「期間限定特別企画大好評につき復活」とある。早速予約を入れ、先日皆で暑気払を兼ねて食事会をした。
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女性スタッフでも2枚は食べたし、技工士のT君は4枚ほど食べた。私といえば何とか2.5枚を食べたがお腹はパンパンである。
 食べながら小さいときの記憶が戻ってきた。私が小学生や、中学生のころ牛肉などはめったに口に入らなかった。それでも時折、母親から牛肉を買いに行くお手伝いを頼まれ、栗原から、長江口辺りまで何度か自転車で買いに行ったことがある。最も今で言う「並のばら肉」で当時は家族4人で50匁(187.5グラム)買っていた。
 ステーキなど食べたことが無いしそんなもの見たことがなかった。時折、父親が戦前、誰かに招待されて厚さ1センチ以上で草鞋のような大きさのものを食べたことがあると言っていた。子供心にステーキはどんなものかあれこれ想像し一度食べてみたいと思っていた。
実際ステーキと言われるものを口にしたのは大学生になってからである。
 ところで今回の食事会のステーキは正に親父が言っていた「厚さ1センチ以上で、草鞋の大きさ」があり、食べながらこれだこれだと思った。
 それにしても昭和33年頃に比べ本当に日本の国は豊かになった。当時はほとんど毎日お魚が食卓に上っていたし、今では珍しい鯨肉も良く食べた。時折、かしわ(鶏肉)や豚肉があり牛肉はめったになかったように記憶している。
 そういえば、鶏肉は現在のようなブロイラーではなく、年老いた鶏をつぶした「かしわ」で、肉質は固く、噛み応えがあった。
しかも食卓に上るおかずの品数も随分少なかった様に思う。
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 今回の食事会には副院長である次男の娘(7ヶ月)まで参加した。女性スタッフにかわるがわる抱かれたりして御満悦であった。お陰で会が予想以上に盛り上がり、90分があっという間であった。明日からの仕事にスタッフ一同と共に頑張ってこの夏を乗り切りたいものである。

2011年07月15日

「リーダーの器量」

私が愛読している月刊雑誌「致知」8月号の特集記事は「リーダーの器量」である。その中で各界の人達がリーダーとして相応しい人を挙げていた。
 それを書き出してみると、江戸時代初期の会津藩主・保科正之、三代将軍・徳川家光、幕末から明治維新にかけては吉田松陰、大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛、幕府老中・堀田正睦、阿部正弘、大老・井伊直弼
明治時代では陸奥宗光、小村寿太郎、大正時代の後藤新平、昭和では、吉田茂、岸信介、佐藤栄作、賀屋興宣、などの名が挙がっていた。
いずれも国難の時、力を発揮し日本の国を正しい方向に導いた人物である。
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 このうち、今回のような大災害や大火災が起きたときにリーダーシップを発揮したものとして高野山真言宗伝燈大阿闍梨大僧正 池口恵観氏の「真のリーダーよ出でよ」の記事で、会津藩主保科正之のリーダーシップを挙げておられた。
 別名振袖火事ともいわれた明暦の大火は(1657年)江戸の町が焼き尽くされ、江戸城の天守閣も焼け落ちるほどの大火であった。当時幼くして四代将軍となった家綱の補佐役をしていた会津藩主保科正之は江戸城に火が迫る中、江戸城から離れることなく非常事態対応の陣頭指揮を執った。
 部下が芝の屋敷に住む正之の家族の身を案じると正之は「この非常時に臨んで私邸や妻子を顧みている暇はない」と断言したと伝えられている。結局そのとき火事で自分の倅を亡くすが、その後の江戸の復興にもリーダーシップを発揮し、連日大規模な粥の炊き出し、家を失った町人に対して16万両の御金蔵金を拠出した。
 また江戸城天守閣の再建話が持ち上がったときも、この国家非常時に莫大な費用を使って再建するなど「もつてのほか」と言い放ちその後江戸城の天守閣は再び姿を見せることはなかったとの事。
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 また東京大学教授山内昌之と作家中村彰彦氏の対談「歴史に学ぶ国を導くリーダー」では、幕府老中堀田正睦、阿部正弘のリーダーシップが記されていた。
 幕末ペリーが来航し開港を迫る中、安政の大地震、インフルエンザの流行、台風による利根川・荒川の堤防決壊、コレラや麻疹の大流行などが相次いで起きたが、それらをものすごいスピード感で決断処理した。
 これは列強の手が直ぐに迫っていて植民地化されるかもしれない、国内で悠長なことなどしていられないという危機感からとも書いてあった。
 また元外務事務次官の谷内正太郎氏は関東大震災の時の復興を担当した後藤新平を挙げておられた。
 ところで7月7日は休診日だったので予算委員会のTV中継を朝から見ていたが、一体この国はなんなのだと思った。この非常時に政府側とりわけ菅総理大臣の答弁でまともなものが無い。のらりくらりとしている。
 私のブログでは政治は書かないつもりであったが、あまりにも酷くて呆れた。皆が首相に辞任を迫っている、恐らく「致知」8月号の特集「リーダーの器量」が無いのだろうと思った。それにつけても東日本大震災から4ヶ月にもなるがあまり復旧・復興されてきていると言うイメージが無い。原発事故も解決に向けて努力はしているのかもしれないが一向に目途が立たない。そこへ持ってきて九州電力の「やらせメール事件」うんざりである。
 先に書いた池口氏の「真のリーダーよ出でよ」の中に東電を導いてきた先人という項目がありその中で「電力の鬼」松永安左ヱ門、「財界の良心」木川田一隆、「共生の哲学」平岩外四の3氏が上げられていた。この東電の先人達のことをお手本にして原発事故も乗り切ってほしいとも書いてあった。また同じ電力を扱う九電でもこの3人のことをよく学んでいれば今回の「やらせメール事件」も起こらなかったのでは無いだろうか。
早くこの閉塞感を打破してトンネルの向こうの明かりが見たいものだ。

2011年07月09日

映画「星守る犬」と「もしドラ」を観て

 先日映画「星守る犬」と「もしドラ」を観に行った。「星守る犬」は「泣けた本ランキング1位」に輝いただけあって、なんとなく物悲しい物語であった。その物悲しさや共感性が何に由来するのかしばらく理解できなかった。
ストーリーの一部をパンフレットや公式サイトから引用すれば

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『夏・・・・
北海道のとある田舎町。キャンプ場に通じる林道わきの草むらで、ナンバープレートも車体番号も外されて放置されたワゴン車が見つかった。車内には、死後半年も経った中年男性と思われる遺体と死後間もない犬の遺体があった。
市役所福祉課に努める京介はこうした遺体を引き取って弔うのも福祉課の仕事のひとつなのだ。遺体は50代の中年男性であり、放置されたワゴンのなかで発見されたという。だが、男の身元を示すものは何ひとつなかった。ワゴンのそばの盛り土に気づいた京介は、警官からそれが死んだ男性に寄り添っていた秋田犬を弔った墓だと聞かされる。その時、吹き抜けた風が、京介の足下に数枚の紙片を運んできた。それはレシートやリサイクルショップの買取り証であった。おそらく、死んだ男の所持品なのだろう。偶然なのか、運命なのか、わずかな手掛かりが、京介に男と犬の「ものがたり」に興味を持たせるきっかけとなった。京介は有給休暇を使って、偶然出合った少女・有希と共に男と犬の足取りを追う旅に出る。

 男は「おとうさん」、犬は「ハッピー」という。ふたりの旅は、東京から始まり、北海道へ・・・
「おとうさん」と「ハッピー」は、行く先々で出会った人びとの心にしっかりとその姿を焼き付け、忘れられない思い出を残していた。

「おとうさん」と「ハッピー」の旅路を通して、人生の夢と挫折、老いと孤独、不況、リストラ、熟年離婚、無縁死など、現代の孕む問題に鋭く切り込みながら、人と人の絆、人と動物に育まれた愛情を描いた物語とあった。』

 しかもこの映画には3月11日以前の美しい東北地方が映し出されていたが、いわきの海岸にあったコンビニエンスストアーは今どうなっているのだろうと思いをめぐらした。
観終わってこの作品の切り口が、現代の問題をより一層浮き彫りにしており、私の年齢がより共感を覚えさせたのかもしれない。

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 「もしドラ」は正式名称は「もし高校野球部の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」という長い題名の映画である。
ストーリーはパンフレットから引用させていただくと、『永年、予選一回戦負けの都立程久保高校野球に、病気の親友の代わりにマネージャーとして入部した川島みなみ。みなみは、親友を励ますつもりで、「野球部を甲子園に連れて行く」と監督と部員の前で宣言してしまう。マネージャーの仕事の参考にと、勘違いから手にした経営学の父・ドラッカーの名著「マネジメント」に不思議に感動し、そこに書かれている教えを野球部の中で実践していく。次第にやる気のなかった部員や、監督の意識・行動、さらに高校野球において長く常識とされてきた古いセオリーを変革させていく。』

 ドラッカーの理論をどのように応用するのか興味があった。そして私の医院にも応用できるものがあるのでは無いかと思い観賞していた。一部応用しても良いなと思うものがあった。それと主役の「川島みなみ」は、つい先日行われたAKB48総選挙で1位に返り咲いた前田敦子が演じているのも興味があった。
映画はエンタテイメントではあるが心に響く物がやはり良い。

2011年06月27日

老後のキャッシュフローと相続対策

 先日尾道歯科医師会の6月例会があった。毎回例会時には例会行事と称して外部から講師をお招きして1時間ほどお話を聞くことになっている。
今回はプルデンシャル生命保険(株)福山支社のライフプランナーのN氏による「老後のキャッシュフローと相続対策」と題してお話をいただいた。
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 私も来年3月には前期高齢者になる身で、そろそろ老後のことや、医院継承の問題を考えなくてはと思っていたので時期を得た講演であった。
 ところで講演中に老後の生活資金がどれくらい必要かを考えるための計算式が出された。そこには現在の生活資金を記入する欄があるが、我が家では現在いくら生活資金がかかっているのか全く判らない。
昔から給料袋そのままを家内に渡してそれで終わりだったので、その場で数字を入れて計算しろといわれても全く駄目であった。
最も家内自身も1ヶ月の生活費がいくらか正確には分からないのではないかと思う。というのも家内が家計簿を付けているのを見たのは結婚して3ヶ月くらいで後は見たことがない。家内の性格はいたって大らかと言うか大雑把というか、とても家計簿なんかに縛られる性分ではない。
それでも何とか結婚38年あまり困らないでやって来れたのだから良しとしよう。
 計算式では老後は現在の生活費の7割程度が必要で、男の平均寿命の79歳までは夫婦で生活、その後は女の平均寿命から79歳を引くと6〜7年間は家内だけの生活費になるが、概ね現在の生活費の5割程度が必要なのだそうだ。
ただ老後は公的年金である国民年金だけで夫婦2人の生活がまかなえないことがはっきりした。
 この式を見ながらふと考えたのは、俺の人生は平均値でいけば後15年、もうそこではないかと気が付き情けなくなってしまった。
今までの人生で何を達成し何に満足したのか直ぐに答えられない。
残り15年でやりたい事ってなんだろう。
おいしいものを食べることなのか? 海外旅行をすることなのか? 何か人様にお役に立てるような事をすることなのか? 読書三昧をする事なのか?
全くもって分からない。早急に捜さなくてはならない。猶予時間は無いのである。
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 ところで相続の話になった時、講師の先生が仰った事は、自分の思いをいかに伝え継承させるかが大事だといわれた。私にとって、私が初代で始めたこの歯科医院に対する思い入れには相当なものがある。これをいかに継承させ継がさせていくかに尽きるような気がした。
それこそ銭金の問題ではない。単に建物や設備のことではなく、歯科医院の経営理念、患者様に対する私の立ち位置、心、総てが相続になると思う。それこそが私の遺言状なのかもしれない。

正に「命短し恋せよ乙女・・・・」
これからは1分1秒が大事な時の流れであり、無駄にしてはならないと改めて気付かされた。

2011年06月21日

甥っ子の結婚式

 先日、家内の妹の長男が結婚しその式と披露宴に出席した。当日は朝方雨であったが、式開始ごろには薄日が差し、披露宴が終わった頃にはすっかり晴れた。正に「雨降って地固まる」のたとえが相応しい門出であったのかも知れない。披露宴は招待客も多くて立派なものであった。
妻は4人兄妹で、私の息子たちを含めて7人の甥っ子・姪っ子がいる。最初の甥っ子が結婚したのは今から19年前で今回が甥っ子・姪っ子の最後の結婚式となった。最初の甥っ子の結婚式の時は他の甥っ子や姪っ子は高校生、中学生、小学生であった。それが次第に結婚し子供たちが生まれて家族が増えて行った。
そのため今回の結婚式には甥っ子・姪っ子とその伴侶に子供たちが加わりとても賑やかな結婚式になった。
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既に他界した妻の両親からみれば、2人から出発して子供・孫とそれぞれの伴侶にひ孫と総勢32人もの親族に恵まれたことになる。
命の繋がりを強く感じた。
当日は何しろ0歳から5歳までの子供たちが多く、泣いたり、途中で歩き回ったり、疲れて寝たりと甥っ子・姪っ子は落ち着いて食事が出来なかったらしい。これだけ一族が集まるのは恐らく今回が最初で、最後かもしれない。
ところで結婚式に出席するとついつい自分たちの結婚式の時はどうであったかと思い出す。
私達の結婚式は今で言う「地味婚」であった。最近は媒酌人を立てずに結婚式をするケースが多いいようであるが、私は大学時代の研究室の教授に媒酌人をお願いした。招待客も上司・恩師・友達・先輩と親戚、家族、総勢39人のごく小規模であった。
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しかも結婚式の披露宴は総て手作りで、私が進行のタイムスケジュールを書き、挿入すべき音楽を指定し、司会は同級生(現在、義妹の夫でこのたびの結婚式の花婿の父親)にお願いした。当然招待状も私と家内の連名で出し、費用も二人で工面し、親を招待する形であった。更に二人のプロフィールも義妹に手伝ってもらい、ガリ版刷りで写真を貼って作った。
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極めつけは、披露宴が終わり招待客や親戚・家族全員を送り出し、家内と二人で式場・披露宴の会計を済ませてから会場を後にした。
私もそうだったが、とりわけ家内は披露宴ではあまり食べれなかったので、その足で当時広島駅の前にあった広島百貨店の食堂に行き、焼肉定食を二人して食べたことを覚えている。その後満開の桜咲く平和公園を散歩したことを思い出した。
今にして思えばなんとも侘しい感じがするが、当時は「今日から新しい人生の門出だ」と思って気持ちは高揚していたように思う。
結婚したその年にオイルショックが起こり、暖房の石油が無いとか、トイレットペーパーが無いとか、甘い新婚生活などは吹っ飛んだようであった。
あれから38年経過した。でも何とか今日まで夫婦二人で協力してやって来れたことに感謝である。

2011年06月13日

金子みすゞ「こだまでしょうか」

東日本大震災直後TVのコマーシャルには企業広告が無く、総て公共広告機構の広告であった。その中で

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「もう遊ばない」っていう。
そして、あとで
さみしくなって、
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。

という金子みすゞの詩がバックの映像と共に放送されると心を揺さぶられ、なんともいえない優しさに包まれ強く心に響いた。
 何か懐かしく、優しく心が落ち着くのだが、しかしそれが何故なのか深く考えることも無く日々の生活に追われていた。
ところが今月発売された月間誌「致知」7月号に矢崎節夫氏(金子みすゞ記念館館長)が「金子みすゞの詩を読む」と題して4ページに渡る一文を執筆されておりそれを読んで胸のつかえが取れた。

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 記事から抜き出させていただくと

『 五百十二篇ある金子みすゞの詩を俯瞰(ふかん)した時、全篇を優しく包み込むような作品がこの『こだまでしょうか』ですと、私はずっと言い続けてきました。
それだけに今回の東日本大震災を受けて、CMでこの詩が流れたと聞いた時は本当に驚きました。
この詩で私が注目したいのは、「こだまでしょうか」という呼び掛けに「いいえ、誰でも」と答えている末尾の一文です。
よいことも悪いことも、投げ掛けられた言葉や思いに反応するのは「こだま」だけではなく、万人の心がそうだとみすゞは言っているのです。
 この詩を耳にした日本人は、被災された多くの方々が味わった悲しみや辛い思いに対して、こだまする自分でいられるかどうかと考えたのではないでしょうか。
一人ひとりがこの震災がもたらした被害を、自分のこととして感じる一つのきっかけを与えたのが『こだまでしょうか』の詩だと思います。
こだまというのは、山から投げ掛けた言葉がそのまま返ってくるわけですから、大自然の懐に包まれたような安心感を生み出し、私たちの心を優しくしてくれるのです。
この詩に触れ、心の内で何度もこだましているうちに、どこか優しくなれた自分を見つけることができたのでしょう。
 募金活動がこれほどの大きなうねりとなり、また多くの日本人がボランティアとして被災地へと向かう後押しをしてくれたのが、「こだまでしょうか」という言葉だったのだと思います。
言葉にはこれほどの力があるということを、私は改めて教えられた気がしました。』
とあった。
 本当に心の中でこだまが跳ね返りながら増幅して行き心の中で自問自答していく過程で消化しきれずに私の心に引っかかっていたのだと気付いた。
今ほど日本人の中に「絆」という言葉が当てはまるのも、この詩の影響かもしれない。 致知7月号に感謝である。

2011年06月06日

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