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大先生(元院長)のブログ

「リーダーの器量」

私が愛読している月刊雑誌「致知」8月号の特集記事は「リーダーの器量」である。その中で各界の人達がリーダーとして相応しい人を挙げていた。
 それを書き出してみると、江戸時代初期の会津藩主・保科正之、三代将軍・徳川家光、幕末から明治維新にかけては吉田松陰、大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛、幕府老中・堀田正睦、阿部正弘、大老・井伊直弼
明治時代では陸奥宗光、小村寿太郎、大正時代の後藤新平、昭和では、吉田茂、岸信介、佐藤栄作、賀屋興宣、などの名が挙がっていた。
いずれも国難の時、力を発揮し日本の国を正しい方向に導いた人物である。
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 このうち、今回のような大災害や大火災が起きたときにリーダーシップを発揮したものとして高野山真言宗伝燈大阿闍梨大僧正 池口恵観氏の「真のリーダーよ出でよ」の記事で、会津藩主保科正之のリーダーシップを挙げておられた。
 別名振袖火事ともいわれた明暦の大火は(1657年)江戸の町が焼き尽くされ、江戸城の天守閣も焼け落ちるほどの大火であった。当時幼くして四代将軍となった家綱の補佐役をしていた会津藩主保科正之は江戸城に火が迫る中、江戸城から離れることなく非常事態対応の陣頭指揮を執った。
 部下が芝の屋敷に住む正之の家族の身を案じると正之は「この非常時に臨んで私邸や妻子を顧みている暇はない」と断言したと伝えられている。結局そのとき火事で自分の倅を亡くすが、その後の江戸の復興にもリーダーシップを発揮し、連日大規模な粥の炊き出し、家を失った町人に対して16万両の御金蔵金を拠出した。
 また江戸城天守閣の再建話が持ち上がったときも、この国家非常時に莫大な費用を使って再建するなど「もつてのほか」と言い放ちその後江戸城の天守閣は再び姿を見せることはなかったとの事。
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 また東京大学教授山内昌之と作家中村彰彦氏の対談「歴史に学ぶ国を導くリーダー」では、幕府老中堀田正睦、阿部正弘のリーダーシップが記されていた。
 幕末ペリーが来航し開港を迫る中、安政の大地震、インフルエンザの流行、台風による利根川・荒川の堤防決壊、コレラや麻疹の大流行などが相次いで起きたが、それらをものすごいスピード感で決断処理した。
 これは列強の手が直ぐに迫っていて植民地化されるかもしれない、国内で悠長なことなどしていられないという危機感からとも書いてあった。
 また元外務事務次官の谷内正太郎氏は関東大震災の時の復興を担当した後藤新平を挙げておられた。
 ところで7月7日は休診日だったので予算委員会のTV中継を朝から見ていたが、一体この国はなんなのだと思った。この非常時に政府側とりわけ菅総理大臣の答弁でまともなものが無い。のらりくらりとしている。
 私のブログでは政治は書かないつもりであったが、あまりにも酷くて呆れた。皆が首相に辞任を迫っている、恐らく「致知」8月号の特集「リーダーの器量」が無いのだろうと思った。それにつけても東日本大震災から4ヶ月にもなるがあまり復旧・復興されてきていると言うイメージが無い。原発事故も解決に向けて努力はしているのかもしれないが一向に目途が立たない。そこへ持ってきて九州電力の「やらせメール事件」うんざりである。
 先に書いた池口氏の「真のリーダーよ出でよ」の中に東電を導いてきた先人という項目がありその中で「電力の鬼」松永安左ヱ門、「財界の良心」木川田一隆、「共生の哲学」平岩外四の3氏が上げられていた。この東電の先人達のことをお手本にして原発事故も乗り切ってほしいとも書いてあった。また同じ電力を扱う九電でもこの3人のことをよく学んでいれば今回の「やらせメール事件」も起こらなかったのでは無いだろうか。
早くこの閉塞感を打破してトンネルの向こうの明かりが見たいものだ。

2011年07月09日

映画「星守る犬」と「もしドラ」を観て

 先日映画「星守る犬」と「もしドラ」を観に行った。「星守る犬」は「泣けた本ランキング1位」に輝いただけあって、なんとなく物悲しい物語であった。その物悲しさや共感性が何に由来するのかしばらく理解できなかった。
ストーリーの一部をパンフレットや公式サイトから引用すれば

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『夏・・・・
北海道のとある田舎町。キャンプ場に通じる林道わきの草むらで、ナンバープレートも車体番号も外されて放置されたワゴン車が見つかった。車内には、死後半年も経った中年男性と思われる遺体と死後間もない犬の遺体があった。
市役所福祉課に努める京介はこうした遺体を引き取って弔うのも福祉課の仕事のひとつなのだ。遺体は50代の中年男性であり、放置されたワゴンのなかで発見されたという。だが、男の身元を示すものは何ひとつなかった。ワゴンのそばの盛り土に気づいた京介は、警官からそれが死んだ男性に寄り添っていた秋田犬を弔った墓だと聞かされる。その時、吹き抜けた風が、京介の足下に数枚の紙片を運んできた。それはレシートやリサイクルショップの買取り証であった。おそらく、死んだ男の所持品なのだろう。偶然なのか、運命なのか、わずかな手掛かりが、京介に男と犬の「ものがたり」に興味を持たせるきっかけとなった。京介は有給休暇を使って、偶然出合った少女・有希と共に男と犬の足取りを追う旅に出る。

 男は「おとうさん」、犬は「ハッピー」という。ふたりの旅は、東京から始まり、北海道へ・・・
「おとうさん」と「ハッピー」は、行く先々で出会った人びとの心にしっかりとその姿を焼き付け、忘れられない思い出を残していた。

「おとうさん」と「ハッピー」の旅路を通して、人生の夢と挫折、老いと孤独、不況、リストラ、熟年離婚、無縁死など、現代の孕む問題に鋭く切り込みながら、人と人の絆、人と動物に育まれた愛情を描いた物語とあった。』

 しかもこの映画には3月11日以前の美しい東北地方が映し出されていたが、いわきの海岸にあったコンビニエンスストアーは今どうなっているのだろうと思いをめぐらした。
観終わってこの作品の切り口が、現代の問題をより一層浮き彫りにしており、私の年齢がより共感を覚えさせたのかもしれない。

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 「もしドラ」は正式名称は「もし高校野球部の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」という長い題名の映画である。
ストーリーはパンフレットから引用させていただくと、『永年、予選一回戦負けの都立程久保高校野球に、病気の親友の代わりにマネージャーとして入部した川島みなみ。みなみは、親友を励ますつもりで、「野球部を甲子園に連れて行く」と監督と部員の前で宣言してしまう。マネージャーの仕事の参考にと、勘違いから手にした経営学の父・ドラッカーの名著「マネジメント」に不思議に感動し、そこに書かれている教えを野球部の中で実践していく。次第にやる気のなかった部員や、監督の意識・行動、さらに高校野球において長く常識とされてきた古いセオリーを変革させていく。』

 ドラッカーの理論をどのように応用するのか興味があった。そして私の医院にも応用できるものがあるのでは無いかと思い観賞していた。一部応用しても良いなと思うものがあった。それと主役の「川島みなみ」は、つい先日行われたAKB48総選挙で1位に返り咲いた前田敦子が演じているのも興味があった。
映画はエンタテイメントではあるが心に響く物がやはり良い。

2011年06月27日

老後のキャッシュフローと相続対策

 先日尾道歯科医師会の6月例会があった。毎回例会時には例会行事と称して外部から講師をお招きして1時間ほどお話を聞くことになっている。
今回はプルデンシャル生命保険(株)福山支社のライフプランナーのN氏による「老後のキャッシュフローと相続対策」と題してお話をいただいた。
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 私も来年3月には前期高齢者になる身で、そろそろ老後のことや、医院継承の問題を考えなくてはと思っていたので時期を得た講演であった。
 ところで講演中に老後の生活資金がどれくらい必要かを考えるための計算式が出された。そこには現在の生活資金を記入する欄があるが、我が家では現在いくら生活資金がかかっているのか全く判らない。
昔から給料袋そのままを家内に渡してそれで終わりだったので、その場で数字を入れて計算しろといわれても全く駄目であった。
最も家内自身も1ヶ月の生活費がいくらか正確には分からないのではないかと思う。というのも家内が家計簿を付けているのを見たのは結婚して3ヶ月くらいで後は見たことがない。家内の性格はいたって大らかと言うか大雑把というか、とても家計簿なんかに縛られる性分ではない。
それでも何とか結婚38年あまり困らないでやって来れたのだから良しとしよう。
 計算式では老後は現在の生活費の7割程度が必要で、男の平均寿命の79歳までは夫婦で生活、その後は女の平均寿命から79歳を引くと6〜7年間は家内だけの生活費になるが、概ね現在の生活費の5割程度が必要なのだそうだ。
ただ老後は公的年金である国民年金だけで夫婦2人の生活がまかなえないことがはっきりした。
 この式を見ながらふと考えたのは、俺の人生は平均値でいけば後15年、もうそこではないかと気が付き情けなくなってしまった。
今までの人生で何を達成し何に満足したのか直ぐに答えられない。
残り15年でやりたい事ってなんだろう。
おいしいものを食べることなのか? 海外旅行をすることなのか? 何か人様にお役に立てるような事をすることなのか? 読書三昧をする事なのか?
全くもって分からない。早急に捜さなくてはならない。猶予時間は無いのである。
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 ところで相続の話になった時、講師の先生が仰った事は、自分の思いをいかに伝え継承させるかが大事だといわれた。私にとって、私が初代で始めたこの歯科医院に対する思い入れには相当なものがある。これをいかに継承させ継がさせていくかに尽きるような気がした。
それこそ銭金の問題ではない。単に建物や設備のことではなく、歯科医院の経営理念、患者様に対する私の立ち位置、心、総てが相続になると思う。それこそが私の遺言状なのかもしれない。

正に「命短し恋せよ乙女・・・・」
これからは1分1秒が大事な時の流れであり、無駄にしてはならないと改めて気付かされた。

2011年06月21日

甥っ子の結婚式

 先日、家内の妹の長男が結婚しその式と披露宴に出席した。当日は朝方雨であったが、式開始ごろには薄日が差し、披露宴が終わった頃にはすっかり晴れた。正に「雨降って地固まる」のたとえが相応しい門出であったのかも知れない。披露宴は招待客も多くて立派なものであった。
妻は4人兄妹で、私の息子たちを含めて7人の甥っ子・姪っ子がいる。最初の甥っ子が結婚したのは今から19年前で今回が甥っ子・姪っ子の最後の結婚式となった。最初の甥っ子の結婚式の時は他の甥っ子や姪っ子は高校生、中学生、小学生であった。それが次第に結婚し子供たちが生まれて家族が増えて行った。
そのため今回の結婚式には甥っ子・姪っ子とその伴侶に子供たちが加わりとても賑やかな結婚式になった。
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既に他界した妻の両親からみれば、2人から出発して子供・孫とそれぞれの伴侶にひ孫と総勢32人もの親族に恵まれたことになる。
命の繋がりを強く感じた。
当日は何しろ0歳から5歳までの子供たちが多く、泣いたり、途中で歩き回ったり、疲れて寝たりと甥っ子・姪っ子は落ち着いて食事が出来なかったらしい。これだけ一族が集まるのは恐らく今回が最初で、最後かもしれない。
ところで結婚式に出席するとついつい自分たちの結婚式の時はどうであったかと思い出す。
私達の結婚式は今で言う「地味婚」であった。最近は媒酌人を立てずに結婚式をするケースが多いいようであるが、私は大学時代の研究室の教授に媒酌人をお願いした。招待客も上司・恩師・友達・先輩と親戚、家族、総勢39人のごく小規模であった。
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しかも結婚式の披露宴は総て手作りで、私が進行のタイムスケジュールを書き、挿入すべき音楽を指定し、司会は同級生(現在、義妹の夫でこのたびの結婚式の花婿の父親)にお願いした。当然招待状も私と家内の連名で出し、費用も二人で工面し、親を招待する形であった。更に二人のプロフィールも義妹に手伝ってもらい、ガリ版刷りで写真を貼って作った。
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極めつけは、披露宴が終わり招待客や親戚・家族全員を送り出し、家内と二人で式場・披露宴の会計を済ませてから会場を後にした。
私もそうだったが、とりわけ家内は披露宴ではあまり食べれなかったので、その足で当時広島駅の前にあった広島百貨店の食堂に行き、焼肉定食を二人して食べたことを覚えている。その後満開の桜咲く平和公園を散歩したことを思い出した。
今にして思えばなんとも侘しい感じがするが、当時は「今日から新しい人生の門出だ」と思って気持ちは高揚していたように思う。
結婚したその年にオイルショックが起こり、暖房の石油が無いとか、トイレットペーパーが無いとか、甘い新婚生活などは吹っ飛んだようであった。
あれから38年経過した。でも何とか今日まで夫婦二人で協力してやって来れたことに感謝である。

2011年06月13日

金子みすゞ「こだまでしょうか」

東日本大震災直後TVのコマーシャルには企業広告が無く、総て公共広告機構の広告であった。その中で

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「もう遊ばない」っていう。
そして、あとで
さみしくなって、
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。

という金子みすゞの詩がバックの映像と共に放送されると心を揺さぶられ、なんともいえない優しさに包まれ強く心に響いた。
 何か懐かしく、優しく心が落ち着くのだが、しかしそれが何故なのか深く考えることも無く日々の生活に追われていた。
ところが今月発売された月間誌「致知」7月号に矢崎節夫氏(金子みすゞ記念館館長)が「金子みすゞの詩を読む」と題して4ページに渡る一文を執筆されておりそれを読んで胸のつかえが取れた。

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 記事から抜き出させていただくと

『 五百十二篇ある金子みすゞの詩を俯瞰(ふかん)した時、全篇を優しく包み込むような作品がこの『こだまでしょうか』ですと、私はずっと言い続けてきました。
それだけに今回の東日本大震災を受けて、CMでこの詩が流れたと聞いた時は本当に驚きました。
この詩で私が注目したいのは、「こだまでしょうか」という呼び掛けに「いいえ、誰でも」と答えている末尾の一文です。
よいことも悪いことも、投げ掛けられた言葉や思いに反応するのは「こだま」だけではなく、万人の心がそうだとみすゞは言っているのです。
 この詩を耳にした日本人は、被災された多くの方々が味わった悲しみや辛い思いに対して、こだまする自分でいられるかどうかと考えたのではないでしょうか。
一人ひとりがこの震災がもたらした被害を、自分のこととして感じる一つのきっかけを与えたのが『こだまでしょうか』の詩だと思います。
こだまというのは、山から投げ掛けた言葉がそのまま返ってくるわけですから、大自然の懐に包まれたような安心感を生み出し、私たちの心を優しくしてくれるのです。
この詩に触れ、心の内で何度もこだましているうちに、どこか優しくなれた自分を見つけることができたのでしょう。
 募金活動がこれほどの大きなうねりとなり、また多くの日本人がボランティアとして被災地へと向かう後押しをしてくれたのが、「こだまでしょうか」という言葉だったのだと思います。
言葉にはこれほどの力があるということを、私は改めて教えられた気がしました。』
とあった。
 本当に心の中でこだまが跳ね返りながら増幅して行き心の中で自問自答していく過程で消化しきれずに私の心に引っかかっていたのだと気付いた。
今ほど日本人の中に「絆」という言葉が当てはまるのも、この詩の影響かもしれない。 致知7月号に感謝である。

2011年06月06日

映画「ブラック・スワン」、「アメイジング・グレイス」、「SOMEWHERE」を観て

 最近中々映画に行けなかったのだが、この1週間に3本の映画を観た。
アカデミー賞最優秀主演女優賞に輝いたナタリー・ポートマン演じる「ブラック・スワン」。そのストリーをパンフレットから引用すれば「ニューヨークのバレエ・カンパニーに所属するニナ(ナタリー・ポートマン)は、元ダンサーの母親・エリカ(バーバラ・ハーシー)の寵愛のもと、人生の全てをバレエに捧げていた。そんな彼女に新作「白鳥の湖」のプリマを演じるチャンスが訪れる。だが純真な白鳥の女王だけでなく、邪悪で官能的な黒鳥も演じねばならないこの難役は、優等生タイプのニナにとってハードルの高すぎる挑戦であった。さらに黒鳥役が似合う奔放な新人ダンサー、リリー(ミラ・クニス)の出現も、ニナを精神的に追いつめていく。やがて役作りに没頭するあまり極度の混乱に陥ったニナは、現実と悪夢の狭間をさまよい、自らの心の闇に囚われていくのだった……。」
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パンフレットにあるように試練と孤独、ライバルへの嫉妬、人間に秘められた二面性や変身願望が現実と妄想の映像として見事出されていた。総ては自分の心の持ちようということかも知れない。
アメイジング・グレイス」は、イギリスで「奴隷貿易廃止法」成立200周年を記念して製作された映画で実在の政治家ウィリアム・ウィルバーフォースの、奴隷貿易廃止のための戦いの模様を描いた物語である。
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 この映画の中で歌われる『アメイジング・グレイス』は彼の師ジョン・ニュートンが書いた詩である。ニュートンはもともと奴隷貿易船の船長をしており、彼の航海の最中、2万人の奴隷が命を落としたという。彼の悔恨と神への感謝から生まれた詩である。この曲に支えられながら奴隷貿易廃止のために活動した政治家ウィリアム・ウィルバーフォースの不屈の精神には感服した。そして美しい旋律の「アメイジング・グレイス」に心が安らいだ。
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「SOMEWHERE」のあらすじはパンフレットから引用すれば「退廃的なライフスタイルを送る映画スター 、ジョニー・マルコの暮らしは、表向きの華やかさとは裏腹に、じつは孤独で空虚だ。ある日、彼のもとに前妻と同居する11歳の娘クレオをしばらくの間、預かることになる。騒々しい日常は一転、クレオとの楽しく穏やかな日々が過ぎていく。そして、再び離れ離れになる日が訪れるが…クレオと過ごした何気ない日々の時間の中に、ジョニーはやがて自堕落な生き方が置き去りにしてきた、大切な何かに気く。」
家族の絆や日常の何気ないものの中に本当の幸せがあり、一日一日の大切さを感じさせられた映画であった。

2011年05月26日

「ホーム・アジア広島」設立50周年記念パーティに参加して

 5月15日に「ホーム・アジア広島」設立50周年記念パーティが広島市留学生会館で有った。
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     広島市留学生会館           K君が持ってきた資料
 ホーム・アジアと言っても御存じないと思うが、同期のK君が当時の新聞などの切抜きをコピーして持ってきてくれた。その資料の中の1961年7月10日の朝日新聞の記事によれば『1960年に国立教育研究所の矢口新氏のきもいりで「アジア諸国からの在日留学生と真のまじわりを結び、手をたずさえて諸国民の相互理解をはかり、アジアを一つのホームにする」ことを目的として「ホーム・アジア」が発足した。』とある。
 そして1961年4月には「ホーム・アジア広島」が設立された。山陽新聞1962.5.22の記事によると『広島で学ぶ東南アジアの留学生に暖かい家庭的な雰囲気を与え、励ましていこうという第1回ホーム・アジア広島の会の集いが、21日午後2時から広島市平和公園記念館前の南国をしのばせるフェニックスの葉影で開かれた。』とある。また当時『広大にはインドネシア・香港・タイ・シンガポール・パキスタン・マラヤから7人の留学生がおり、工学部と医学部で勉強している』と書いてあった。このような行事に広大生が参加していたようで、そこから1962年に広島大学の中に「広島大学ホーム・アジア同好会」が旗揚げされたようだ。
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          当日のパーティ風景
 私が広大に入学した1965年(昭和40年)にはかなり活発な活動をしており、記憶をたどると、三永の水源地に藤の花を観に行ったり、夏休みに可部の奥の柳瀬でのキャンプ、大学祭のときの「Asian Food For You 」というネーミングで留学生の出身国の料理の作り方を習い留学生たちと共に販売したこと、クリスマス会なども行った記憶がある。
 1966年には中国地方や九州地区にいる留学生を広島に招待して「アジア留学生交歓会」を行った。ダンスパーティーをして資金を稼いだり企業訪問をして寄付を募ったりした。また九州大学や九州工業大学学生課に行き留学生が出席できるようにお願いしたりした。この交歓会は広島市長にも出席いただいた。K君の資料によると東南アジアからの留学生31名を含む総勢150人が参加したとある。そして日本とアジアの国の今後の有り方や交流の仕方について活発な議論が行われたと記憶している。
 その後1960年代終わりの大学紛争(闘争)の最中、「どうべきあるか」と議論が高まり、結果として広島大学ユネスコ研究会と発展的に解消され、それも長続きはしないで自然消滅したとのこと。但し広島支部はその後も続き市民やボランティアに支えられて50周年を迎えることが出来た。本当に素晴らしいことである。
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 パキスタンのダラ・カビール君と           40数年後の仲間
 私は大学卒業と共にホーム・アジアからは手を引いていたので、このたびの会合に出席して40数年ぶりに当時の仲間と再会をした。皆当時の面影を残しながら年を重ね、顔にはしわ、頭は薄く白い、この40数年の話に花が咲いたがそれなりに皆苦労をしてきて今日を迎えたようだった。
K君が持参した当時の写真を見ながら若かった時の勇姿をみて苦笑することひとしきり。
 今にして思えば、ホーム・アジア運動に参加したことが、後年にAFS留学生のホームステイ先を引き受けることになったのだと思った。

2011年05月16日

初めてのテレビ出演

 5月12日尾道ケーブルTVの18:30からのOCTVニュースに生出演をした。テレビ出演は生まれてこのかた初めてである。
 この4月から尾道市歯科医師会の新会長になったために新会長紹介だとのこと。10日に打診があり、歯科医師会の活動などを話して欲しいということであった。
 私は人前で話すのに少し緊張するタイプなのだが、尾道市歯科医師会の為になると思い引き受けた。さっそく原稿を書いたり、その原稿がすらすら読めるように練習したが、いったい何分間の出演枠があるのかも知らされていない。
 当日40分前にスタジオ入りをする。
「しまなみ交流館」の中にあるスタジオにはカメラが3台が備え付けて有り、カメラマンとアナウンサー、プロデューサーいた。音楽係りやミキサーはガラス張りの別の部屋に居た。

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 打ち合わせに入り、そこで始めてCUE―SHEETを渡され持ち時間2分30秒を知った。リハーサルでは書いた原稿が長すぎるとばっさばっさと削られ何とか2分30秒の枠に入るようになった。ニュース4本の後に出番であったが、その待っている間、少々落ち着かない。
それでも始まると何とか無事にこなせてホッとする。

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尾道ケーブルTVのニュースは夕方18:30に1回だけ生放送されるが、後は録画を次の日の18:30の生放送まで同じものを5回ほど再放送している。
出来映えが気になり、帰って20:30と23:00の2回再放送を観た。
話の内容などは、そこそこの出来であった。それでも少し表現を変えたほうが良かった部分もあり、自分的には90点くらいかなと思う。
ところが一緒に観ていた家内の批評は「怖い顔で映っている。もう少しリラックスして穏やかな顔で無いと駄目だ」と手厳しい。
ところでそこに映っている己が姿を見て愕然とした。蝦蟇ガエルではないが己が姿の醜さに驚いたのである。
日頃、全くといっていいほど気付いていなかったが、正面から見ると、右肩が下がり、口角は逆に左側の方が上がり、両眉毛のラインは左に下がっていた。
この姿勢の悪さは一種の職業病であるが、あまりにもよく目立つ。
これからは診療時の姿勢に気をつけなくてはと思う。
 更に決定打として、 最後にお礼で頭を下げたところ、頭のてっぺんの髪が薄く、あまりにも老人くさくなっており、歳は隠せないと愕然とする。
それでも、ともかく終わってほっとした。
何でも初めての事は緊張が付き物である。

2011年05月13日

福島第一原発事故に想う

 さる3月11日の東日本大震災で福島第一原発が事故を起こしてまもなく2ヶ月となる。しかし未だに終息の見通しさえ立たない状況下にある。その中で昼夜を問わず復旧活動に従事されている、東電、下請け企業や、原発を製造したメーカーの人たちが過酷な環境下、死に物狂いで活動されていることに頭が下がる。
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 (写真は東京電力のHPより転載)
この福島第一原発1号機が営業運転を始めたのは1971年3月のことである。私は同じ年の4月に日立製作所に入社をした。当時社内ではこれからは原子力産業の時代だと言われ、日立市にある日立工場(海岸工場)は活気に溢れていた。
夢のエネルギーといわれ、事故の事など少しも疑うことは無かった様に思う。
私は日立研究所に配属された。
原子力発電では原子炉や隔壁などはGE社から技術導入をしてある程度作られていたが、核燃料はアメリカからの輸入に頼っていた。そこで何とか燃料を国産化する必要があった。
ところで天然ウランの中には放射能を持つウラン235が0.7%しか含まずほとんどが無害のウラン238である。
当時国内では0.7%のウラン235を分離する技術開発が急ピッチで進んでいた。最終的に日本は遠心分離法を採用し、ガス状の六フッ化ウランから235を取り出すための遠心分離機の開発の真っ只中であった。ガス状の六フッ化ウランを遠心分離すると重い238が外側に軽い235が内側に集まってくる原理である。
配属された研究所での最初のテーマは高速で回転する遠心分離機の軸受けに注油するオイルの研究であった。通常の鉱物系のオイルだと放射線によりオイルが劣化し固形物が析出して回転が止まったり、場合によっては偏心回転になり、破損事故を起こすことが懸念された。そこで東海村の「動燃」(現在の核燃料サイクル開発機構)の実験炉で既存のオイルの暴露実験を行い暴露時間と析出物の量との関係を調べていた。更に文献調査を行ったりして、F素系のオイルがかなり良い結果を出したことを覚えている。しかし3ヶ月ほどで、新たな部門に配置換えになりその研究は途中やめとなったが、現在は何が使われているか興味はある。
私のオイルの研究と同時に隣の課では遠心分離機の胴体の開発をしていた。
遠心分離機は高速で回転させるため軽くて丈夫な胴を作る必要があった。
その材料としてカーボンファイバーを使用したFRPが特に研究されていたようだ。
今でこそ炭素繊維は釣竿や、ゴルフクラブのシャフトに使用されているが当時は非常に高価な材料であった。
これらの研究が成果を出したのか岡山県の人形峠で試験運転がされ、現在は青森県の六ヶ所村で大々的に燃料が生産されている。

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 (写真は広島県福山市鞆の浦、仙水島の9000万年前の断層)

新しい配属先ではガスタービン発電機のコイルの絶縁材料の研究をしたが、これもやはり原発関連の研究でもあった。
とにかく全員が国家プロジェクトの一翼を担っているという意気込みがあった様に思う。

結局日立製作所には7年しか勤めなかったが、少しでも原発関連の仕事に係わっていたことを思うと、今の福島の事故がとても他人事だとは思えない。
速く事故が収束し、避難されている人が1日でも早く自分のお家に帰れることを願うばかりである。
 

2011年05月07日

孫の「尾道港祭り」

 GWの5月1日、昨夜来の雨が心配されたが、孫が尾道港祭りの『ええじゃんSANSA・がり踊り』にでた。
幼稚園なので10時スタートだという。踊りながら道路をパレードして、途中三箇所の審査場所がありその都度元気一杯に踊るとのこと。

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 私と家内も例年昼ごろから出かけるのに今までになく早く、「港祭り」に出かけた。孫が出るというだけでこれだけ気持ちが高ぶるのに驚く。
東日本大震災を応援するために「尾道から元気を!!」というスローガンのもと、いたるところに義援金箱が設置されていた。
さすが祭り、出店や屋台も多くあったがその中でも、3月末まで放送のあったNHK朝の連続TV小説「てっぱん」で尾道のお好み焼きが有名になったせいか、例年になくお好み焼きの出店が多くあったような気がした。
 こちら尾道では祭り一色であるが、一方東北地方では、新聞やTVなどの報道によれば未だに多くの人びとが避難生活を余儀なくされており、毎日命がけの生活をされている。日本中が自粛ムードでは駄目だという論調が新聞などに掲載されているが、やはり少し申しわけない気がした。

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 それでも孫の踊りをビデオに収めようと必死で追いかける。近くにやって来ると声をかけるが孫は聞こえても聞こえぬ振りで知らん顔をしている。
パレードが終わり最後に駅前広場のステージの上で踊った。

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 孫を追いかけるだけで結構しんどかったが、5歳の孫は踊って、パレードしてまた踊ったりしたのに、あまり疲れた様子も無く無事親元に帰ってきた。
一段と頼もしくなった孫の顔を見て相好を崩してしまう自分に気が付く。

2011年05月03日

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