大先生(元院長)のブログ
「リーダーの器量」 |
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2011年07月09日
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映画「星守る犬」と「もしドラ」を観て |
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| | 先日映画「星守る犬」と「もしドラ」を観に行った。「星守る犬」は「泣けた本ランキング1位」に輝いただけあって、なんとなく物悲しい物語であった。その物悲しさや共感性が何に由来するのかしばらく理解できなかった。
ストーリーの一部をパンフレットや公式サイトから引用すれば

『夏・・・・
北海道のとある田舎町。キャンプ場に通じる林道わきの草むらで、ナンバープレートも車体番号も外されて放置されたワゴン車が見つかった。車内には、死後半年も経った中年男性と思われる遺体と死後間もない犬の遺体があった。
市役所福祉課に努める京介はこうした遺体を引き取って弔うのも福祉課の仕事のひとつなのだ。遺体は50代の中年男性であり、放置されたワゴンのなかで発見されたという。だが、男の身元を示すものは何ひとつなかった。ワゴンのそばの盛り土に気づいた京介は、警官からそれが死んだ男性に寄り添っていた秋田犬を弔った墓だと聞かされる。その時、吹き抜けた風が、京介の足下に数枚の紙片を運んできた。それはレシートやリサイクルショップの買取り証であった。おそらく、死んだ男の所持品なのだろう。偶然なのか、運命なのか、わずかな手掛かりが、京介に男と犬の「ものがたり」に興味を持たせるきっかけとなった。京介は有給休暇を使って、偶然出合った少女・有希と共に男と犬の足取りを追う旅に出る。
男は「おとうさん」、犬は「ハッピー」という。ふたりの旅は、東京から始まり、北海道へ・・・
「おとうさん」と「ハッピー」は、行く先々で出会った人びとの心にしっかりとその姿を焼き付け、忘れられない思い出を残していた。
「おとうさん」と「ハッピー」の旅路を通して、人生の夢と挫折、老いと孤独、不況、リストラ、熟年離婚、無縁死など、現代の孕む問題に鋭く切り込みながら、人と人の絆、人と動物に育まれた愛情を描いた物語とあった。』
しかもこの映画には3月11日以前の美しい東北地方が映し出されていたが、いわきの海岸にあったコンビニエンスストアーは今どうなっているのだろうと思いをめぐらした。
観終わってこの作品の切り口が、現代の問題をより一層浮き彫りにしており、私の年齢がより共感を覚えさせたのかもしれない。

「もしドラ」は正式名称は「もし高校野球部の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」という長い題名の映画である。
ストーリーはパンフレットから引用させていただくと、『永年、予選一回戦負けの都立程久保高校野球に、病気の親友の代わりにマネージャーとして入部した川島みなみ。みなみは、親友を励ますつもりで、「野球部を甲子園に連れて行く」と監督と部員の前で宣言してしまう。マネージャーの仕事の参考にと、勘違いから手にした経営学の父・ドラッカーの名著「マネジメント」に不思議に感動し、そこに書かれている教えを野球部の中で実践していく。次第にやる気のなかった部員や、監督の意識・行動、さらに高校野球において長く常識とされてきた古いセオリーを変革させていく。』
ドラッカーの理論をどのように応用するのか興味があった。そして私の医院にも応用できるものがあるのでは無いかと思い観賞していた。一部応用しても良いなと思うものがあった。それと主役の「川島みなみ」は、つい先日行われたAKB48総選挙で1位に返り咲いた前田敦子が演じているのも興味があった。
映画はエンタテイメントではあるが心に響く物がやはり良い。
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2011年06月27日
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老後のキャッシュフローと相続対策 |
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2011年06月21日
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甥っ子の結婚式 |
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2011年06月13日
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金子みすゞ「こだまでしょうか」 |
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| | 東日本大震災直後TVのコマーシャルには企業広告が無く、総て公共広告機構の広告であった。その中で
「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「もう遊ばない」っていう。
そして、あとで
さみしくなって、
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。
という金子みすゞの詩がバックの映像と共に放送されると心を揺さぶられ、なんともいえない優しさに包まれ強く心に響いた。
何か懐かしく、優しく心が落ち着くのだが、しかしそれが何故なのか深く考えることも無く日々の生活に追われていた。
ところが今月発売された月間誌「致知」7月号に矢崎節夫氏(金子みすゞ記念館館長)が「金子みすゞの詩を読む」と題して4ページに渡る一文を執筆されておりそれを読んで胸のつかえが取れた。

記事から抜き出させていただくと
『 五百十二篇ある金子みすゞの詩を俯瞰(ふかん)した時、全篇を優しく包み込むような作品がこの『こだまでしょうか』ですと、私はずっと言い続けてきました。
それだけに今回の東日本大震災を受けて、CMでこの詩が流れたと聞いた時は本当に驚きました。
この詩で私が注目したいのは、「こだまでしょうか」という呼び掛けに「いいえ、誰でも」と答えている末尾の一文です。
よいことも悪いことも、投げ掛けられた言葉や思いに反応するのは「こだま」だけではなく、万人の心がそうだとみすゞは言っているのです。
この詩を耳にした日本人は、被災された多くの方々が味わった悲しみや辛い思いに対して、こだまする自分でいられるかどうかと考えたのではないでしょうか。
一人ひとりがこの震災がもたらした被害を、自分のこととして感じる一つのきっかけを与えたのが『こだまでしょうか』の詩だと思います。
こだまというのは、山から投げ掛けた言葉がそのまま返ってくるわけですから、大自然の懐に包まれたような安心感を生み出し、私たちの心を優しくしてくれるのです。
この詩に触れ、心の内で何度もこだましているうちに、どこか優しくなれた自分を見つけることができたのでしょう。
募金活動がこれほどの大きなうねりとなり、また多くの日本人がボランティアとして被災地へと向かう後押しをしてくれたのが、「こだまでしょうか」という言葉だったのだと思います。
言葉にはこれほどの力があるということを、私は改めて教えられた気がしました。』
とあった。
本当に心の中でこだまが跳ね返りながら増幅して行き心の中で自問自答していく過程で消化しきれずに私の心に引っかかっていたのだと気付いた。
今ほど日本人の中に「絆」という言葉が当てはまるのも、この詩の影響かもしれない。 致知7月号に感謝である。
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2011年06月06日
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映画「ブラック・スワン」、「アメイジング・グレイス」、「SOMEWHERE」を観て |
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2011年05月26日
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「ホーム・アジア広島」設立50周年記念パーティに参加して |
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2011年05月16日
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初めてのテレビ出演 |
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| | 5月12日尾道ケーブルTVの18:30からのOCTVニュースに生出演をした。テレビ出演は生まれてこのかた初めてである。
この4月から尾道市歯科医師会の新会長になったために新会長紹介だとのこと。10日に打診があり、歯科医師会の活動などを話して欲しいということであった。
私は人前で話すのに少し緊張するタイプなのだが、尾道市歯科医師会の為になると思い引き受けた。さっそく原稿を書いたり、その原稿がすらすら読めるように練習したが、いったい何分間の出演枠があるのかも知らされていない。
当日40分前にスタジオ入りをする。
「しまなみ交流館」の中にあるスタジオにはカメラが3台が備え付けて有り、カメラマンとアナウンサー、プロデューサーいた。音楽係りやミキサーはガラス張りの別の部屋に居た。
打ち合わせに入り、そこで始めてCUE―SHEETを渡され持ち時間2分30秒を知った。リハーサルでは書いた原稿が長すぎるとばっさばっさと削られ何とか2分30秒の枠に入るようになった。ニュース4本の後に出番であったが、その待っている間、少々落ち着かない。
それでも始まると何とか無事にこなせてホッとする。
尾道ケーブルTVのニュースは夕方18:30に1回だけ生放送されるが、後は録画を次の日の18:30の生放送まで同じものを5回ほど再放送している。
出来映えが気になり、帰って20:30と23:00の2回再放送を観た。
話の内容などは、そこそこの出来であった。それでも少し表現を変えたほうが良かった部分もあり、自分的には90点くらいかなと思う。
ところが一緒に観ていた家内の批評は「怖い顔で映っている。もう少しリラックスして穏やかな顔で無いと駄目だ」と手厳しい。
ところでそこに映っている己が姿を見て愕然とした。蝦蟇ガエルではないが己が姿の醜さに驚いたのである。
日頃、全くといっていいほど気付いていなかったが、正面から見ると、右肩が下がり、口角は逆に左側の方が上がり、両眉毛のラインは左に下がっていた。
この姿勢の悪さは一種の職業病であるが、あまりにもよく目立つ。
これからは診療時の姿勢に気をつけなくてはと思う。
更に決定打として、 最後にお礼で頭を下げたところ、頭のてっぺんの髪が薄く、あまりにも老人くさくなっており、歳は隠せないと愕然とする。
それでも、ともかく終わってほっとした。
何でも初めての事は緊張が付き物である。
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2011年05月13日
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福島第一原発事故に想う |
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| | さる3月11日の東日本大震災で福島第一原発が事故を起こしてまもなく2ヶ月となる。しかし未だに終息の見通しさえ立たない状況下にある。その中で昼夜を問わず復旧活動に従事されている、東電、下請け企業や、原発を製造したメーカーの人たちが過酷な環境下、死に物狂いで活動されていることに頭が下がる。


(写真は東京電力のHPより転載)
この福島第一原発1号機が営業運転を始めたのは1971年3月のことである。私は同じ年の4月に日立製作所に入社をした。当時社内ではこれからは原子力産業の時代だと言われ、日立市にある日立工場(海岸工場)は活気に溢れていた。
夢のエネルギーといわれ、事故の事など少しも疑うことは無かった様に思う。
私は日立研究所に配属された。
原子力発電では原子炉や隔壁などはGE社から技術導入をしてある程度作られていたが、核燃料はアメリカからの輸入に頼っていた。そこで何とか燃料を国産化する必要があった。
ところで天然ウランの中には放射能を持つウラン235が0.7%しか含まずほとんどが無害のウラン238である。
当時国内では0.7%のウラン235を分離する技術開発が急ピッチで進んでいた。最終的に日本は遠心分離法を採用し、ガス状の六フッ化ウランから235を取り出すための遠心分離機の開発の真っ只中であった。ガス状の六フッ化ウランを遠心分離すると重い238が外側に軽い235が内側に集まってくる原理である。
配属された研究所での最初のテーマは高速で回転する遠心分離機の軸受けに注油するオイルの研究であった。通常の鉱物系のオイルだと放射線によりオイルが劣化し固形物が析出して回転が止まったり、場合によっては偏心回転になり、破損事故を起こすことが懸念された。そこで東海村の「動燃」(現在の核燃料サイクル開発機構)の実験炉で既存のオイルの暴露実験を行い暴露時間と析出物の量との関係を調べていた。更に文献調査を行ったりして、F素系のオイルがかなり良い結果を出したことを覚えている。しかし3ヶ月ほどで、新たな部門に配置換えになりその研究は途中やめとなったが、現在は何が使われているか興味はある。
私のオイルの研究と同時に隣の課では遠心分離機の胴体の開発をしていた。
遠心分離機は高速で回転させるため軽くて丈夫な胴を作る必要があった。
その材料としてカーボンファイバーを使用したFRPが特に研究されていたようだ。
今でこそ炭素繊維は釣竿や、ゴルフクラブのシャフトに使用されているが当時は非常に高価な材料であった。
これらの研究が成果を出したのか岡山県の人形峠で試験運転がされ、現在は青森県の六ヶ所村で大々的に燃料が生産されている。

(写真は広島県福山市鞆の浦、仙水島の9000万年前の断層)
新しい配属先ではガスタービン発電機のコイルの絶縁材料の研究をしたが、これもやはり原発関連の研究でもあった。
とにかく全員が国家プロジェクトの一翼を担っているという意気込みがあった様に思う。
結局日立製作所には7年しか勤めなかったが、少しでも原発関連の仕事に係わっていたことを思うと、今の福島の事故がとても他人事だとは思えない。
速く事故が収束し、避難されている人が1日でも早く自分のお家に帰れることを願うばかりである。
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2011年05月07日
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孫の「尾道港祭り」 |
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2011年05月03日
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